1990年代の、めったにしらふにならない時期があった義理の父と共に過ごした日々を思い出す。あの頃のことを忘れてはならないと思っている。会社を立ち上げた苦労人で、しらふの時は誰が見ても優しい人格者だった。しかし、しらふでない時は正反対の父に変質する。人格は変わってはならないのに、家族は突然人格が変わる恐れに翻弄されて生きていくのである。普通のクリスチャンはこの状況についていけないのが当たり前。キリスト教の普通の倫理観ではこの状況についていけないのは当たり前。直してあげる、癒してあげる、というふうにして近づいて来てもそうはいかない。普通の人は、酔って玄関で倒れている父を孫が跨いで家に入ることを決し…