戦中期の初等教育機関の名称。現在の小学校・中学校の一部にあたる。 昭和16年の国民学校令により、尋常小学校(修業年限6年)を国民学校初等科、高等小学校(修業年限2年)を国民学校高等科に改称して成立。昭和22年の学校教育法により、国民学校初等科は現在の小学校、国民学校高等科は現在の中学校(の一部)となる。
石本理彩さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。論文は、査読ありで、掲載ページは3~24です。 論文は、広島市の被爆に関する基礎的資料集に収められなかった記録のうち、爆心地から5km以上離れたところに建つ国民学校3校の「学校日誌」へ新たに光を当てるものです。こうして、原爆被災の実像をさらに少しでも補っていく道筋をつけようとしました。学校資料は文書館への移管義務が無いため時が経てば失われていくものだけに、現存する「学校日誌」に注目することの重要性を提起しています。 ひととおり拝読し印象に残った点のうち主なものは次の4つです。 1つは、取りあげた国民学校3校…
私は (父) 昭和13年、山王小学校に入学した。 昭和16年 (1941) 国民学校と名称が変わり、 この年の12月8日 太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入した。 しかし優勢だったのは緒戦だけで、 圧倒的な敵の物量の前に 日本は劣勢となり、 1943年 学徒出陣 殆どの大学生が戦場へ送りだされた。 ますます戦況は不利となった翌年、 学徒動員と言って 女子高生までも 戦時工場へ。 17才以上の男は 障害のある人を除き 全て兵役に編入され 町からは、若い男や壮年の男性は姿を消 した。 当時、私はかなり身体が大きい小学生で、 大人と一緒に 防空壕堀り、畑仕事をやった。 さらに戦況が不利となるにつれて…
6月23日に豊橋に行く前に、豊川海軍工廠公園に久ぶりに寄った。資料館には写真のポスター(撮影不可たったのでホームページから)があった。 豊川海軍工廠で12歳の多くの子供たちが兵器づくりに参加していた。結果昭和20年8月7日の大空襲で約2500名もの死者が、多くは20歳未満の若者・子供たちだった。軍需工場でなぜ若い子たちがこんなにもたくさん被害にあったのか。 瀬戸市の小学校の記念誌に戦前の教育の様子がわかる文章があった。 小学生たちは、少国民としての自覚を強化し小さいながらも戦争への協力を日夜心に誓う国 民となるよう、あらゆる角度から訓練された。 神社参拝、閲兵分列、増産への勤労奉仕、モー ルス…