1533年〜1587年 戦国時代のキリシタン大名である。父は有馬晴純で有馬義貞の弟。洗礼名はバルトロメオ。 1538年に肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となった。1563年にキリスト教の宣教師から洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となった。領民に信仰を強制させたり寺社を破壊したりと過激な信仰を行っていた。
『麒麟がくる』で見た本能寺の変。 その本能寺の変の数か月前、天正(1582)年2月20日(旧暦1月28日)、天正遣欧使節の一行は長崎を出港しました。 440年前の今日です。 九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団です。 4名の少年たち、派遣当時の年齢は13~14歳だったといわれています。 伊東マンショ(主席正使) - 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。 千々石ミゲル(正使) - 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。 中浦ジュリアン…
当時、ヨーロッパではルターやカルバンによる宗教改革で、プロテスタントが勃興しており、カトリック国はプロテスタントに対抗するため、東南アジアや新大陸で、カトリックの布教を始めていた。 1540年にイグナティウス・デ・ロヨラ(なおスペイン人)が創設した、イエズス会(耶蘇会)もその一環であった。ローマ教皇の認可を得、ポルトガルの保護下で、カトリック擁護と東洋方面への布教を目的としており、世界的に布教を行っていた。 宣教師とは、キリスト教会が外国伝道に派遣する伝道師、司祭のことである。16世紀ごろ以降に来日した宣教師たちは、ポルトガル語のpadre〈神父〉から伴天連と呼ばれるようになっている。 日本の…
#今日は何の日 1/28 1582九州のキリシタン大名・大友宗麟・有馬晴信・大村純忠のローマへの使節派遣(天正遣欧使節)が長崎港を出港。 1687犬だけだった「生類憐愍令」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大。 1871普仏戦争・パリ包囲戦が終結。プロイセンがパリを占領 1902アンドリュー・カーネギーが1億ドルを投じてカーネギー研究所を設立。 1905竹島の島根県への編入を閣議決定。 1914シーメンス事件を受けて海軍に査問委員会を設置。英ヴィッカース社への戦艦「金剛」発注にからむ収賄が発覚。 1932上海事変。日本人僧侶殺害を契起に日本海軍陸戦隊と中国19路軍が上海で衝突。 1942日本海軍の伊7…
水軍で知られる北九州の武士団 九州は肥前国松浦地方(長崎県松浦市など)は複雑な海岸と多数の島によって構成され、また水深の深い良港を持つ地域であった。この地に勢力を誇った松浦氏の出自については、いくつかの説が語られている。例えば、平戸藩が編纂した『家世伝』は嵯峨源氏の子孫である源久という人物が下向し、土着したことを始まりとした。一方、数ある『平家物語』写本の一つ、長門本の記述から、前九年の役で敗れた安倍宗任が九州へ流されて松浦氏の先祖となった、とする説もある。このどちらが正しいのか、あるいはほかに真実があるか、明らかにはなっていない。 どのような出自であるにせよ、松浦氏を中心とした武士団の松浦党…
世界布教のために日本に目をつけたザビエル 日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエル。さらにザビエルの後を受けて日本での布教に励んだルイス・フロイス。この二人の目を通して戦国時代の日本を紹介する。 ザビエルは1506年にイベリア半島北東部のナバラ王国の貴族の子として生まれた。しかしフランスとの戦争に巻き込まれて家が没落して聖職者を目指すことになったという。そして28才の時に6人の同志とイエズス会を創設。6年後には教皇パウルス3世に正式な修道会として認められたという。イエズス会は世界布教を創設の目的として掲げていた。 お馴染みのフランシスコ・ザビエル そこでザビエルはインドのゴアを拠点に…
BS-TBS毎週月曜夜の「にっぽん!歴史鑑定」。番組の紹介と、昨日のテーマだった「ザビエル」と「フロイスの日本史」を学んでいきます。 1.きっかけ・情報源 今日の写真と地図 2.学んだこと ①にっぽん!歴史鑑定(BS-TBS) ②ザビエル ③ルイス・フロイス 3.コメント 4.その他(通訳ガイド試験問題) 1.きっかけ・情報源 昨日の「にっぽん!歴史鑑定」のテーマは、「外国人が見た戦国時代~ザビエルとフロイス」でした。クリスマスの時に取り上げたザビエルとフロイス『日本史』の復習です! insearchofjapan.hatenablog.com 今日の写真と地図 ↓「長崎」の夜景。なぜ長崎?か…
苦難の有馬臣従 肥前の彼杵郡(長崎市ほか)に勢力を持った大村氏は、その血を平安時代の藤原純友に遡るとしていた(『大村家譜』ほか)。だがこれは同じく純友の子孫を名乗る有馬氏と同じく、信憑性に欠ける。大村氏は彼杵郡においては群を抜いて強い力を持ったが、しかしそれは天下に覇を唱えるどころか、肥前という狭い地域でさえ確固たる力を持つほどではなかった。そのため、戦国時代には長く近隣の有馬氏に頭を押さえられ続けた。 例えば大村純伊(1459―1537?)は有馬貴純によって領国から追われ、貴純の娘を妻に迎えることを条件にようやく戻ることができた。また、その純伊の子の大村純前(?―1551)は実子を差し置いて…
自称「海賊の末裔」 肥前国(長崎県ほか)は島原半島に有馬という地がある。ここから現れた有馬氏は、自らの祖を平安時代に平将門と同時期に朝廷に反逆を起こした海賊大将・藤原純友としていた(『藤原有馬世譜』ほか)。ただ、これは信憑性が低い。この類の家祖の伝承は後世に騙ったものと考えられていて、決して珍しい話ではない。 では実際は、というと肥前藤津荘荘司の平直澄の血筋、つまり平氏の末裔であったようだ。直澄の子孫が肥前の高来郡有馬荘の地頭に任命されたことが有馬氏の名乗りの始まりとされる。なお、有馬氏はほかに摂津(大阪府)に別系譜の氏族があり、これが豊臣秀吉に仕えて出世し、筑後国(福岡県)久留米藩をはじめと…
こんにちは のろしもく ヽ(^ε^) のろしのTwitterではすでに新年のごあいさつをしましたが 2021年最初のブログ更新なので あらためまして 新年あけましておめでとうございますもく(*ゝε・*)ノ◆◇◆◇ 謹 賀 新 年 ◇◆◇◆ 2021年もよろしくおねがいしますもくヨロシクモク (o´_ _)o)ペコッ 今年ものろしのブログでは 戦国IXAやのろしのことをゆる~くお届けするもくよっ それではさっそく 2021年最初のブログをどうぞもくーぅぅ (ノ≧з≦)ノ ソレーッ 1 月 の 追加武将 が 公開 されましたもく 追加されるのは 【 極 】 山本勘助さん 豊臣秀次さん 渡辺了さん…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 1580年にスペインがポルトガルを併合した事が、日本の運命を大きく暗転させたのは。 ・ ・ ・ 日本におけるキリスト教禁教、キリシタン弾圧、キリスト教排除の鎖国の原因は、西洋の対日政策がポルトガルの宗教対立回避の宥和的消極的浸透政策からスペインの宗教優先の攻撃的積極的浸入政策に変わったからである。 スペインとキリスト教会が、日本でやろうとしたのは破壊と創造であった。 邪悪な異教徒・異端者を聖なる火で焼き滅ぼし、焦土の上に神聖な神の王国を新しく築く、それが絶対神の御心に適う唯一の方法…
僕は今まで、帚木さんの故郷・福岡県久留米市を舞台にした歴史小説は、新田次郎文学賞を受賞した『 水神 』と、『 天に星 地に花 』を読んだことがある。 『 水神 』は、江戸初期にに有馬藩の五庄屋と百姓たちが、筑後川の苦難の灌漑工事で、豊かな耕作地へと変えた物語だったし、『 天に星 地に花 』は、江戸中期の久留米藩内の圧政に苦しむ百姓たちが起こした2つの一揆と、百姓たちの生活や季節季節の行事を丹念に描きながら、民百姓に心を寄せて「赤ひげ」的医療を施し続ける医師を主人公にした作品だった。 今回読んだ『 守教 』も、この2つの作品同様、帚木さんの故郷・福岡県久留米市を舞台にしている。 物語は1569年…
お世話になっている 佐賀戦国研究会の深川直也会長がご寄稿なさっている twitter.com『忘却の日本史』が着陣しました( /^ω^)/♪♪ワーイ 深川会長の記事 大村純忠や有馬氏との関係をわかりやすく説明してくれています 「ポトラッチ的消費」という言葉を初めて知りました 深川会長の『肥前の歴史』、どこか出版社さん、ぜひ出してください 🍓ポッチイ💞🍡ポッチイ💞
一条真也です。5日、京都で、冠婚葬祭互助会業界の仲間の葬儀に参列しました。故人はわたしよりも年少の方でしたが、遺されたご家族の深い悲しみに接して、わたしも涙が止まりませんでした。そして、生前に縁のあった方々とのお別れの儀式としての葬儀の必要性を改めて痛感しました。故人の御冥福を心よりお祈りいたします。さて、現在わたしは『鬼滅の刃』についての本を書いていますが、物語の奥に潜んでいる日本人の精神性を探るために、神道・儒教・仏教の影響を考察しています。そこで、『神・儒・仏の時代』島薗進・高埜利彦・林淳・若尾政希編(春秋社)を再読しました。本書の帯 帯には「日本人の精神性を問い直す、注目のシリーズ第2…
先日、次のような記述を目にして驚いた。 《キリスト教を日本に初めて布教したザビエルは、まづ京都に行って皇室の諒解(りょうかい)をもとめたいと思った。だが戦国乱世のころで、ザビエルは日本の最高文化センターとしての皇室に連絡もできずに西国へ帰った。切支丹(きりしたん)は皇室の諒解もなく、皇室に直属する幕府(斜陽没落の時代の幕府ではあったが)も問題にしないで、九州の地方権力と結んだ。 それは精神的文化的には、日本で三流級の辺境地区の権力なので、切支丹と対等の文化交流などできる連中ではなかった。たゞ無条件的に隷属して日本を外国教会の植民地とすることも意としないやうな自主性のない不見識な権力だった。当時…
【時期】1607年(慶長12年)【舞台】大村藩【藩主】大村喜前【主要人物】大村純頼 バテレン追放令によって財政難に この「御一門払い」は、1607年(慶長12年)に肥前大村藩で起きた事件だ。読んで字の如く、藩主である大村家が庶家一門(=御一門)の領地を強制的に取り上げて、追放したのである。大村氏は、藩が成立する以前からこの地の在地領主であった。1587年(天正15年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐ののち本領を与えられ、藩が成立する。初代藩主は大村喜前だ。 ところが、それから間もなくして発せられたバテレン追放令と、秀吉によって長崎を没収されたことが、大村氏に大きな壁として立ちはだかった。長崎は日本…