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平和台野球場

(スポーツ)
へいわだいやきゅうじょう

福岡市中央区に存在した野球場。平和台球場とも称される。
プロ野球のホームグラウンドとして使用された。

歴史

1948年、福岡県で国民体育大会が開催された時、
福岡市の中心地・舞鶴公園に陸上競技場、球技場2面などを擁する平和台総合運動公園が建設された。
1950年、球技場の1面(国体でサッカー競技が開かれた場所)を作り変えて完成したのがこの球場である。

同年からパ・リーグの西鉄クリッパーズとセ・リーグの西日本パイレーツのフランチャイズ球場として使用。

1951年、この2チームが合併し西鉄ライオンズとなる。

1952年7月、当時ナイター設備のなかった同球場での西鉄−毎日戦は日没も近いという雨天の中で開催されたが、西鉄の一方的なリードで迎えた試合で毎日・湯浅禎夫監督はわざと試合をノーゲームにしようと選手らに遅延行為をするよう指示し、中止が決定すると西鉄ファンからの猛抗議を受ける羽目になった「平和台事件」が発生したのをきっかけに1954年、ナイター照明設備が設置された。また1953年には中西太が同球場のバックスクリーンをはるかに越える160メートル弾を放ったことで話題になった。

1954年のリーグ初優勝から始まる黄金時代は、豊田泰光中西太大下弘稲尾和久らを擁した超豪華ラインナップで、1956−1958年には巨人を下し日本一3連覇を飾る。特に1958年は3連敗の後の雨による中止が引き金となり奇跡の4連勝を果たした。

1970年代に入ると黒い霧事件の影響を受けて西鉄の経営意欲がなくなると、1973年中村長芳(当時のロッテオーナー)によって買収し太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズとなるが、黄金時代の輝きを取り戻すことが出来ず、観客動員も大幅減少に陥る。

1978年10月、西武グループに買収され西武ライオンズとなった際、平和台から撤退(=埼玉県所沢の西武球場に移転)。福岡からプロ野球の灯が一旦消滅した。
1979年に九州地方初の全面人工芝グラウンドに一新され、各チームが平等に公式戦を開催したが、
1988年9月に南海ホークスがダイエーに譲渡され、福岡ダイエーホークスとなった際、平和台球場を主戦球場にしたチームが10年ぶりに帰ってきた。

1990年、バックスクリーン左に大型映像装置「ホークスビジョン」が設置された。しかし、古代アジアの玄関口とされる鴻臚館(こうろかん)遺跡が発掘されたため、同所を歴史公園として再整備することが計画された。ダイエー主導で百道(ももち)の埋立地に多目的ドーム球場(福岡ドーム)の建設が進んでいたこともあり、プロ野球の公式戦開催球場としてはその完成前年の1992年度を最後に終了し、以降はアマチュアの公式戦を主として開催してきた。

1997年、歴史公園整備の本格着手に伴い球場は完全閉鎖。約半世紀に渡って九州の野球界をリードしてきた球場の歴史に幕が下りた。現在、記念碑が建立されている。なお、舞鶴公園の敷地内には現在軟式野球専用の「舞鶴公園野球場」がある。

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