206年ないし209年、雍州刺史の邯鄲商が殺害された。209年-210年頃にも、酒泉太守の徐揖と、張掖太守(氏名不詳)が殺された。酒泉郡を乱したのは豪族の黃昂だが、酒泉人の楊豊は武威太守の張猛の後ろ盾を得て、郡を鎮定する。しかし「東方」にいた同族の黃華が帰還すると楊豊は敦煌に逃亡する。210年、韓遂が武威太守の張猛を倒す。もしかしたら、この韓遂の張猛討伐と、黃華の酒泉支配は連動していたかも知れない。 211年、韓遂が帰還すると、馬超が曹操に対して反乱しており、韓遂も合流する。秋から冬にかけ曹操は馬超鎮圧に乗り出すが、東方に反乱が起こり(田銀の乱)、中途で帰還していまう。212年、馬超は涼州の冀…