正徳4年2月2日。この日の頃だろうか、萱屋町作左衛門という日雇取の娘と同じような娘の2人のあわせて3人が、各長刀を持たせた多くの供とともに江戸へ下る。御下屋敷におられた時に盆の踊りで見初めたと云々。
正徳2年5月10日。昨日、大曽根下屋敷奉行は無用とのことで梶川市大夫は馬廻りとなる。御下屋敷は小路奉行の支配となる。
元禄15年閏8月28日。丑刻(午前1時)萱屋町町屋、書物奉行鈴木権左衛門座敷から火が燃え上がる。座敷半分を焼く。南隣の但馬様(松平友著)目付役朝比奈林蔵のところへも燃え移り、1軒が焼失する。この朝、風があり下屋敷へも火の粉が飛ぶ。
元禄10年4月30日。仲間相原久兵宅へ行き、冨永彦兵が言ったことを聞く。その内容は、今後御本丸・御深井丸の番所では番人は袴を着て勤めるように。そして夕暮れには解く(脱ぐ)ように。これは最近の六郎左組の者の悪行によるもの。六郎左組へは厳しく言い渡したと。公の御下屋敷が大きくなり、手代・足軽が多く広井村へと移る。本田(検地帳に記された田)であったので町人または諸士がこれを買い、代わりの新田を百姓に下される。14日に御国奉行宅で申し渡される。