今朝、久しぶりに、電車の中で、加藤三代子女史の講義を聞きながら出勤した。聞くのはもう15回目くらいか。 ここのところ、少々非二元寄りな,デイヴィッドの著書や映像に没頭していたので、ここらで再度基本に戻り、忘却のベールの向こう側で起きているからくりを、ちゃんと再認識しておこうと思ったのだ。 で、決断の主体についての部分を聞いていたとき、「もうこれからは、決断の主体そのものの位置から、 直で聖霊に選び変えてゆけばいいんだ。」と納得した。 厳密にいえば、ここで言う決断の主体とは、一なる神の子としての決断の主体のことではなく、各個人に分裂した、砕けた一なる子の断片の一つ、つまり〝決断の主体の断片〟のこ…