玉虫左太夫

(社会)
たまむしさだゆう

幕末の武士。政治家、思想家。本名は誼茂(やすしげ)
幼名・勇八、字・子発

出自

1823年(文政6年)、仙台藩士・玉虫伸茂(300石)の七男に生まれた。
玉虫家は代々武芸の家として知られたほか、文官としても藩主・重村が学問を奨励したことがきっかけとして携わるようになり左太夫の祖父・尚茂は『仁政篇』を上梓し藩政改革の優れた理論として重用されることなった。

学問に打ち込む

左太夫は後に荒井東吾の長女と結婚し、荒井家の養子となるが妻が早世すると、妻の妹に家産を継がせるよう置手紙を残し出奔した。
江戸に着いた左太夫は、武士の小姓奉公などをして生計を得ていたが、大学頭林復斎の私塾に入り、働きながら儒学を学んだが頭角を発揮し、ここでは塾長となるまでに至った。その後、仙台藩が江戸に置いた順造館に移り、監学として勤めた。
江戸に出てきて11年後の1857年(安政4年)左太夫は函館奉行・堀織部正利煕に近習として蝦夷地をめぐった。その際『入北記』を記し、各地の記録や当時のアイヌの暮らしを知る上で貴重な資料となっている。

遣米使節団の一員として

1860年(万延元年)1月22日、日米修好通商条約の批准を行うため渡米する遣米派遣団が組織された。正使の新見豊前守の従者として左太夫も派遣団に採用されポーハタン号に乗ってアメリカに向かった。
一行は様々な困難に遭遇しながらアメリカに上陸しジェームズ・ブキャナン大統領に親書を手渡し大々的に歓迎を受けた。
その中で左太夫は「夷語を厭う」と書きながらも英語の単語帳を作りアメリカの工業力や経済力、国民性に驚愕しながらも吸収していった。左太夫は帰国後にアメリカの政治や経済、工業技術などを記した『航米日録』を著した。
帰国後、左太夫は小姓組並の身分で迎えられたが後に大番士となり、1866年(慶応2年)藩校・養賢堂指南統取に任じられた。
左太夫は欧米をめぐった経験から、蒸気機関や人材を海外に派遣すること富国強兵によって列強と対等に渡り合うべきだと主張し幕府だけによる政治を批判した。

戊辰戦争へ

1867年(慶応3年)に徳川慶喜大政奉還を行うと左太夫は藩主・慶邦に意見書を提出し外圧の危機にある時期や、天下の形勢は1日で変えるべきではないと主張している。
1868年(慶応4年)戊辰戦争が発生すると左太夫は藩主の命を受けて会津藩と交渉し、降伏の条件をまとめて戦乱の終結を図ろうとしていたが、新政府軍はこれを受け入れず奥羽越諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍と戦うこととなった。
その際、左太夫は軍務局議事応接頭取に任じられ諸藩の代表者が集まった時の議事の責任者として重きをなした。
しかし、奥羽越列藩同盟は相次ぐ敗戦によって瓦解、仙台藩が降伏を決定すると左太夫は榎本武揚と合流しようとしたが、捕らえられ戊辰戦争での責任を負わされ、切腹を命じられた。1869年5月20日(明治2年4月9日)、死去。享年47歳だった。

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