五月二十七日、三井寺攻略の軍が起された。 奈良興福寺と三井寺互に呼応して謀叛の宮を受け入れ、 あるいは武装して出迎えるなど、 これは朝敵の行為であると平家は断じ、 共に討つべしとの声が高まったが、 まず三井寺からと軍が編成された。 大将軍は頭中将重衡、副将軍に薩摩守忠度、 その勢合せて一万余騎、三井寺向って進発した。 寺の衆徒一千余人、死を決してこれを迎えた。 逆木《さかもぎ》を設け、関所を数多くつくった。 戦は朝六時から矢合せで始められ、 十分の一の小勢ながら死物狂いで防戦する三井寺の衆徒に 平家も手をやいた。 日が暮れ夜に入っても戦は激しくなるばかり、 すでに三百余人が討死した寺側の 防備…