人間の脳は自分に都合よく過去の記憶を再構築する。そんな話をどこかで読んだ覚えがある。忘れずにいたのは、自分にも思い当たるフシがあったからだろう。 たとえば、母と昔話をすると子供時代の記憶と一致しないことがよくあった。人は皆それぞれのフィクション(物語)を紡いで生きている。何が事実かは重要ではなく、それぞれが持つ記憶がその人間にとっての「真実」なのだろう。 ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は、この「真実」が脅かされて人生の基盤が揺らぐ男を描いた小説だ。 60代なかばのトニーは穏やかで満ち足りたリタイア生活を送っている。離婚した元妻とは今でも仲がよく、すでに結婚した娘もいる。 知らない弁護士…