いつの頃だったのかは思い出せませんが、心に一つの疑問が宿りました。私が牧会した教会では、礼拝の司会を長老(役員)がしていました。礼拝の中で司会者が祈ります。その祈りを聞いていると、キリスト者は罪の奴隷ではないかと思わされたのです。 つまり礼拝の中で、一週の歩みを振り返り罪を犯しましたが、罪赦され、今神の御前に出ることができ感謝しますという祈りを繰り返し聞きました。私が牧会した別の教会でも同様でした。つまり、キリスト者の歩みが、罪を犯す、そして赦される、また罪を犯す、そして赦されるという循環の中にある、それは罪の奴隷ではないか、という思いを深くしました。 キリスト者の歩みには成長があり、出発点は…