中国三国時代、西晋の人物(? - 270年)。字(あざな)は令則。羅蒙の子。羅襲の父。羅尚の叔父。『晋書』に伝がある。
蜀(蜀漢)後期の名将。若くして譙周の門下で学問で名を知られるようになり、呉(孫呉)への使者を命ぜられたときは、呉でもその溢れる才気を高く評価された。
皇帝劉禅の治世の末期になると宦官の黄皓が政治を支配するようになった。羅憲は黄皓に従うことをしなかったため巴東に左遷された。
蜀が魏に降伏した翌年(264年)、呉は蜀を救援するという名目で歩協・陸抗の軍を西方に送った。目的は蜀の旧領の奪取であった。羅憲は呉を痛烈に批判し、荊州の魏の軍勢に援軍を仰いでこれを防いだ。数ヶ月に及ぶ戦いを羅憲は僅かな兵で耐え切り、呉を撤退させた。
後に羅憲は活躍が認められ晋の将軍として盪寇将軍にまで出世した。この後、羅憲は呉討伐の策をいくつも上表した。また陳寿ら、蜀の優秀な人材を何人も推挙した。羅憲の推挙した人物は皆、厚遇されたという。