1937年に起きた中国人による日本人 (朝鮮半島出身者を含む) 虐殺事件。
→ 通州虐殺 通州大虐殺
〔略〕一方、〈蘆溝橋事件が起きると〉華北では日本軍は七月三〇日までに北平・天津を占領した。その間の二九日冀東政権の保安隊が反乱を起こし、中国民衆も加わって、日本人居留民二二三名を惨殺する通州事件〈原補足〉が発生した。
〈原補足〉保安隊は関東軍飛行隊に兵舎を誤爆されたことに憤怒して反乱したといわれる。また中国民衆は通州を拠点とする日本のアヘン・麻薬密売の盛行にたいして憤激を爆発させ、報復した〔原注23〕。この事件は日本国民の敵愾心をあおるために利用された。
〔原注23〕信夫清三郎「通州事件」『政治経済史学』二九七号、一九九一年。
以上、出典;江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1991年。125p。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250910091/qid=1099270499/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-9475508-4288344
一九三七年七月八日早朝、北京郊外約三〇キロの豊台に駐屯する日本軍と、マルコ・ポーロ橋(中国名、蘆溝橋)近くに駐屯する国民党軍との間で衝突が起きた。〔略〕
日本軍の総攻撃は、天皇の裁可を受け、中央から出た命令に厳格に従っていた。戦闘のわずか二日後には、日本軍は北京と天津を占領することとなった。そこにはイギリスとフランスの租界が含まれていた〔原注9〕。支那駐屯の任務を在留邦人保護から中国領土への占領へ変更したことで、昭和天皇は事件のエスカレーションに拍車をかけ、華北に新たな事態を招いたのだった。
七月二九日から三〇日にかけて、「暴支膺懲」の名のもとに再編された日本の侵略政策を正当化するのに格好なタイミングで、新たな事件が起きた。北京東部に通州という城壁で囲まれた小さな町がある。そこは対日協力者の殷汝耕(冀東政府の代表)とその中国人保安隊(日本により訓練された)が支配していた。七月二九日から三〇日にかけて、この保安隊が反乱を起こし、日本の駐屯部隊主力が近くの北京、天津に出撃して無防備となった日本人居留地域を攻撃したのである。日本の北京、天津占領に激しい憤怒の雰囲気があり、それが反乱の引き金となった。学生、労働者の支持を得て、中国人の部隊は一八名の日本兵、九名の情報将校、三八五名の日本人ならびに朝鮮人の居留民のうち、女性、子どもを含む二二三名を殺戮した。
日本では、通州大虐殺が激しい怒りと好戦的な雰囲気をつくりだしていた。新聞は「第二の尼港」〔〈原注〉ニコラエフスク事件=一九二〇年二月から五月、シベリア出兵時、黒竜江ニコライエフスク〔尼港〕の日本守備隊・居留民がロシアのパルチザンにより包囲され、全滅した事件〕と報じたが、日本の華北侵略が非武装地帯から行われていること、そこで日本人や朝鮮人が華北の諸省へ密輸するヘロインや阿片を作っていたことに言及することはなかった。中国人による蛮行の真相を正しく伝えることをしなかったのである〔原注10〕。
〔原注9〕藤原彰『昭和天皇の十五年戦争』青木書店、一九九一年、九二ページ。 http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/417833fa4d0270102417?aid=&bibid=02273527&volno=0000
〔原注10〕江口圭一「蘆溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」『季刊 戦争責任研究』第二五号(一九九九年秋季号)、四ページ。http://www.jca.apc.org/JWRC/center/somokuji.htm
以上、出典;ハーバート・ビックス『昭和天皇 上』講談社、2002年、275-279p。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406210590X/qid=1099269175/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-9475508-4288344