文政5年。今年冬から熱田の浜辺に桜を多く植え付ける。
文政5年。老中土居大炊頭殿、水野出羽守は1万石ずつ加増される。青山下野守殿も同様であった。側衆林肥後守殿3千石から少し前に7千石になり、今また1万石になり若年寄を仰せ付けられるとか。
文政5年。下条右衛門殿屋敷普請は作事方では上手くいかないので、願により自分普請となる。このため金900両余を拝借する。
文政5年。堀田十郎兵衛殿の小侍が精進日(忌日)に新川で流されて死ぬ。先手組の倅であった。
文政5年。今年の冬、広小路朝日神明宮の華表(鳥居)建て替わる。
文政5年10月頃からよしこの節という唄が流行り出し、それは二上り(本調子に対して2度高くしたもの)であった。その後文政8酉年に本調子になり、節も少々変わった。いつまでも廃れず、騒ぎ歌となった。都都逸は流行らず、もっぱらこちらであった。しかし、都都逸も廃れはしなかった。文政12丑になり、三下りを受け、本調子に合わせて弾く。
文政5年。この冬から翌春までに榎多門あたりから北に向けての高塀の腰板が取れる。