文政5年9月。高須賀村仙助が菊を作り、芸妓を呼んで大賑わいとなる。上畠裏加島忠左衛門側の辻番が塩町裏北の突き当りに引っ越し、南向きとなる。
文政5年9月。この節、瀧川豊後守(忠暁)殿隣の下条庄右衛門(正香)殿屋敷を召し上げる。下条には東大手内(御金場前東)のところで屋敷を拝領する。
文政5年9月。上旬、東懸所本堂破風に獏の大彫物が上がる。11月1日、上棟の札を西矢来門へ出し、上棟の図(高力氏の画、本屋九兵衛板刷り)近頃から売り出す。広小路久屋町辻番所を西に移し、東向きに建てる。これまでは広小路の突き当り、西向きであった。
文政5年9月。橋の寮下屋敷が貸し座敷になる。魚之棚の料理屋が仲間で持ち合うとのこと。中西甚五兵衛殿の別荘であったのが売りに出されたと。泉水、築山、茶席などはそのままにし、本宅だけを改めて大きな座敷に造り替える。観音堂があったのを弁天祠に変える。京都丸山を真似たのでこの名を付けたと。