「人為」――パラダイムを巡って。(それと池田清彦さんのスタンス)

バス問題を語りうる学問はなんでしょうか。

現状においては、生物学のスペシャリスト・生物学者が、自然科学の立場から、「生物多様性保全」を前提に語ることが多いように思います。
その中でも、釣り人との妥協点を模索する人、「生物多様性保全」以外にも、社会的な他の要素も多く考慮に入れる人、実効性を考える人、過去の経過(?)・釣り業界(?)への怒りからくるのでしょうか、強硬派の人、リリース禁止に実効性は無いけれども仕方がないという人、右から左まで、おられます。

中には、「構造主義的生物学」を提唱する生物学者池田清彦さんのように、「生物多様性保全は底が抜けている」と、生物学の現在の潮流とは離れたところから――もっといえば、生物学のパラダイム(思考の大枠)外から――ラディカルな主張をされている生物学者もおられます。


また、水産学も、漁業と遊漁――水環境や魚に関わる学問ですから、例えば、

魔魚狩り―ブラックバスはなぜ殺されるのか

魔魚狩り―ブラックバスはなぜ殺されるのか

水口憲哉さんのような人もこの問題に積極的に発言されています。

法学者も、法的な観点から色々と語りうる余地があるでしょう。
政治学者(政治家ではなく)も、民主主義の意思決定のプロセスや、地方行政の在り方の観点から、この問題にむしろ首を突っ込んでいただきたいという思いもあるのですが、経済学者にそう求めると同様、「またバス釣り人の功利主義か……」と批判を免れ得ないでしょうね。

他には、社会学者は、あらゆるものが研究対象になりますから、声を聞く余地はあるでしょう。

僕としては、社会科学の分野、倫理学者や哲学者の声をもっと聞いてみたいとも思っています。

というのは、池田清彦さんの論は、「生物多様性保全」を重視する保全生態学者から、「なんにもわかってない、やれやれ」的な反応をされているのですが、パラダイム外からの発言をパラダイム内で情報処理されても、理解されがたいのは自明なことだからで、池田清彦さんが、どうしてああした考え方をされるようになったかと言えば、倫理学や哲学的な素養があってのことだと思うのです。

倫理学の中に、「生命倫理学」や「環境倫理学」といった分野があるのですが、7人もの倫理学者が関わって編集された本岩波書店)の「1 生命」

岩波 応用倫理学講義〈1〉生命

岩波 応用倫理学講義〈1〉生命

の巻においては、例えば、P10 で、大阪大学大学院文学研究科教授・臨床哲学倫理学が専攻の中岡成文さんが、

(前略)たとえば、在来種の保護という観点からは、和歌山で繁殖しつつある外来種のタイワンザルがニホンザルと混交することは由々しき事態で、混交を食い止めるためには前者を排除することも必要とされます。しかし、そもそもなぜタイワンザルは排除されなければならないのか。それは彼らが人間の手で日本に連れてこられ、動物園から逃げ出すなどした結果、繁殖し始め、生態系を攪乱しているからです。悪いのは、人為(生態系への人間の干渉)です。だから、「かりにタイワンザルが流木に乗って、自然に和歌山にたどり着いたのなら、それを排除はしない」と関係者は考えているようです。その場合にも早晩起こるであろうニホンザルとの混交は、人間は関与していないから、自然現象だということなのでしょう。
 しかし、この「自然」と「人為」の区別の仕方、あなたは納得するでしょうか。タイワンザルが流木に乗って来るのは自然で、動物園は人為? 人間が生態系や在来種を守ろうという姿勢自体、どう考えても人為であり、どう転んでも自然への干渉になると私は思います。アメリカのイエローストーン自然公園では、ときおり落雷などにより山火事が発生しますが、ある時期から山火事の鎮火をしなくなったそうです。それは、「山火事という出来事も自然のプロセスに含まれ、生態系の更新に一役買っているのだ」という発想が登場したからです。(後略)

といったことを書かれています。

アメリカのイエローストーンの事実関係がどうなっているのか、僕はわかりませんが、上記に対する賛否はともかく、自然科学と社会科学では、考える出発点や、優先される価値観、思考回路・経路が異なっている示唆だと僕は思いました。

そして、この生命倫理を扱った本に、池田清彦さんは寄稿されているのです。だからこそ、と他の生物学者の方とは異なる発想をすることが得心できた次第です。

様々な分野の専門家が、それぞれのパラダイムから、こうした知見を持ち寄れば、非常にバランスのとれた結論らしきものが出るように思ったのです。

それは、生物学者の論を無視すればいいとか、そういうことではありません。

私が、上のような文章を引用したのは、こうした発想は、基本的には、畑の異なる生物学者からは出にくい発言であり、それが、僕のようなバスアングラーからすれば、非常におもしろい指摘だったからなので、上に述べたように「また、自分に有利な文章ばっかり見つけて引っ張ってきて……」との批判をされることは、もうわかりすぎるくらいにわかっているのですが、それにしても、やはり、ある専門分野の人が専門分野から踏み出て発言する内容は、すでにして専門家の知識とは言えないのであってみれば、専門分野の知見を社会的常識とイコールで結ぼうとするに際しては、やはり餅は餅屋、それぞれの専門分野のスペシャリストの知見を参照し、相関的に眺める視座が必要だと、これは、本質論としても、そう思うのです。


「生物多様性の保全」――更に時間のものさしを長くしていくと???

現在の「生物多様性保全」まわりで、数少ないながらも異議を申し立てている人にも、そのアプローチは様々です。

魔魚狩り―ブラックバスはなぜ殺されるのか

魔魚狩り―ブラックバスはなぜ殺されるのか

水口憲哉さんのように、現在の議論や風潮のおかしさ、「生態系」「生物多様性保全」を基準にして考えても、やっぱりおかしい、問題だ、これが知られていないのは! というスタンスの方もおられれば、更にラディカルに、「生物多様性保全」という思潮そのものに「おかしい」という池田清彦さんのような人もおられます。

どちらの人の論も、それぞれにそれぞれの層において、傾聴すべきところ、説得力を含んでいるので、「おまえはどちらか?」と言われれば、池田清彦さんが水口憲哉さんの論を評価しているのと同様に、水口憲哉さんが池田清彦さんの論を評価しているのと同様に、と。

「侵入種」「侵略的移入種」「侵略的外来種」「外来侵入種」といった言葉があります。すべて同じ意味です。

ついこの間、「生物多様性保全」の重要性が言われるようになるちょっと前までは、生物学の世界でも、持ち込まれたり、自然環境に逸出して、野生化、そして定着にまで至った種には、「帰化種」(naturalized species)という言葉が使われていました。

冒頭の、「侵入種」などの言葉は、(invasive speacies)(invasive alien speacies)(alien invasive speacies)といった英語の訳語として、近年あてられたものです。

そして、この頃、相前後して、日本においては、生物学者の間でも、これからは、「帰化種」ではなく、「侵入種」(invasive speacies)といった言葉を使っていこうとの「言い換えのすすめ」が推進されることになります。

ここにおいては、帰化種」(naturalized species)=「侵入種」(invasive speacies)だったわけです。

現在は、「外来種=移入種」とされる「移入種」ですが、

厳密な意味における
「移入種」という言葉は、「まだ『侵入』まで至っていない種」というものであり、

その「侵入種」は? といえば「その自然分布に人為的に持ち込まれ、野生化して、定着した種」を指すとされていました。

(野生化したけれども定着に至っていない種については、「野生化移入種」)
(その自然分布にはまだ持ち込まれていないけれどもその可能性があるものについては「潜在的移入種」)

「定着」とは、「自然状態で繁殖して個体群を維持していること」です。何世代もその自然で繁殖していれば「定着した」と言う、ということですね。

しかし、そうなると、最初の「帰化種」というのは、どこに行ってしまったのでしょうか?

侵入種という言葉となると、「帰化種」とイコールであったはずですが、同じ言葉(invasive speacies)が、「侵略的移入種」と訳されています。IUCN(国際自然保護連合)まわりをみてみると、訳語のあて方が??なのです。どなたか教えてください<(_ _)>。

帰化種」には、単に「帰化した種」ということで、そこには、良いも悪いも、言葉自体には評価・価値判断は含まれていませんでしたが、「侵入種」「侵略的……」には、あきらかに「負」、マイナスの価値観が含まれています。これは、そのまま、現在の生物学の潮流を反映したものと言えるでしょう。

基本的には、「否」なのです。

予防原則」というのも、入れたらどうなるか予想がつかないからやめておこう、というもので、僕個人は、基本的には、これを支持するものです。

しかし、現在、「帰化種」と「侵略的移入種」という言葉がイコールで結べるかというと、これが、結べないのです。

意味するところ、指し示すところが違ってしまったのですね。

現在、言葉として残っているのは、「史前帰化種」というものです。

これは、江戸時代に線を引いて、それ以前に定着した種については、侵入種として扱わない宣言です。

実は、我々の見慣れた、あるいは、郷愁の中にある里山の自然というのは、帰化種で成り立っていると言っても過言でないため、これをたとえ言葉の問題に限ったとしても「侵入種」と言い換えたら、違和感ありますよね。僕は、率直に言ってあります。

なので、「史前帰化種」はいいのか? といえば、「いいのだ」と僕は思うのですが、「では史後は?」となると、なぜ、江戸時代に線を引けるのか? といった自然科学における科学的根拠も、上の中岡さんの文章を含めて考えても、僕の脳内は混乱の極み、となります。

「生態系の変容」というものを、長いスパンで捉えれば捉えるほど、「史前」と「史後」の線引きどころか、「外来」と「在来」の線引き、「外来種」と「侵略的外来種」の線引きまで、薄くなっていくように感じられ、そうなると、俄然、池田清彦さんの「生物多様性保全という考え方は底が抜けている」という言葉に、拒絶よりは説得力を感じてきてしまうのです。

生物多様性保全」の重要性は、時間的に長く捉えれば捉えるほど、その重要性が増すものですが、さらにさらに時間のものさしを長くしていくと……???
??? で終わって、あとは、ここを読んだ方(い、いるのか?(汗))の判断に、お鉢を預けるのが正解でしょうね(笑)。


で、また「国境」?――なんだか腑に落ちないこと

いわゆる特定外来生物被害防止法」(「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」)のことです。
はてなマークが、そろそろと頭をもたげてくるんです。

先に書いたように、外来種」というのは、国境に関係が無いので、「国外外来種」「国内……」という分類もあるわけですが、この法律は、「国外……」を念頭に置いたものなので、「国内……」については関係ありませんよ〜。そっちは別口で……」という環境省の(最初の)パブコメへの回答がありました。
それならそれでいいんですけれども。

外来種」一般がそうとされているのですが、「侵略的移入種」といったときには、「別の生態系から持ち込まれた――自然に入り込んでも一緒なのでここを生物学者ならぬ環境倫理学者はおかしいと言っているのですが――元々の生態系には存在しなかった種が、その生態系に入り込むと『既存生態系の攪乱』『在来種の大幅な減少・絶滅』その他『想定外のこと』を引き起こす『可能性が高い』」ということなんですよね。その可能性が高いとされる種を指して「侵略的移入種」と呼んでいるわけです。

そして、実際に、その「侵略的移入種」が、実際にその生態系で「侵略的」に振る舞うかどうかは、振る舞うかもしれないし、そうでないかもしれない。国外での事例などについても、この法律の「基本方針」で言われているように、参考にする必要があるが、国内の生態系とは異なるから、そこは配慮しなければならない、というような断り書きがあるのですが――。

――でも。

「国内……」まで含めると収集がつかなくなるから、とか、水際作戦で国境で……というのはわかるのですが、しかし、「侵略的移入種」の定義と、「帰化種は国境を連想させるからやめよう。これからはそれぞれの生態系(自然分布)単位で」というのを考え合わせると、何故に、ここに来てまた「国境」? と思ってしまうわけです。

水口憲哉さんなどは、はしょっていえば、浅瀬や水生植物群が保全され、水質汚濁が進んでいない、在来魚が健全に生息しているところにおいては、外来種が入り込んでも、増えっぱなしということはあり得ず、馴染むものだ、、むしろ在来魚も生息しにくい状況にしてしまった環境破壊の後に、外来種が一定数入る隙間が出来ただけ、といった主張をされていて、古くは、故開高健さんも、ブラックバスにしても、アメリカの研究では、増えると産卵を抑制するメカニズムがあることがわかっている……という言葉を遺しておられるのですが、それはともかくとしても、「国境」を抜きに「生物学的に正しく考えるなら」(?)、国内の生態系においても、移入された種が、そこで「侵略的に振る舞うか否かは異なるはずで、それは、本当に様々なレベルの状況が考え得るわけです。

とくに、ブラックバスのような場合、その生態系に定着して久しいものがあります。

とどのつまり、焦点は、あくまで「拡散」にあるのであって、それを「国」一律で「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」で「指定」して……ということを考えると、冒頭のはてなマークが脳内に湧いて出てくる(笑)のです。果たして?????という。