ボーはおそれている (2023・アメリカ)

監督:アリ・アスター
脚本:アリ・アスター
音楽:ボビー・クルリック
出演:ホアキン・フェニックスネイサン・レイン/スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン/パーカー・ポージー 他
★☆☆☆☆


ここから先は何もない

これは何も観客に与えまいとする映画である。アリ・アスターがこの作品でとっているのは「何も語らない」ということに意味があるとする不可解な姿勢だ。


恐ろしく不穏なオープニングなので、いったいどんなにイヤな映画を観せられるのかと誰もが身構えるだろう。しかし、ここから先は何もないのだ。ひたすらホアキン・フェニックスが不条理な体験を強制され続けるだけ。この物語からは何も読み取れない。


『ヘレディタリー/継承』では少なくとも「母ちゃんがキレたら怖い」という確固たるものがあった。これまで映画の中でたとえ母ちゃんがキレ散らかしても、せいぜい「やれやれ」という感情しか観客に生み出さないと(恐らく)誰もが考えていたところに、突如として「母ちゃんがキレることはホラーになり得る」とアリ・アスターが言い出し、実践してみせたのだ。それがあの映画の最大の発明である。


本作は『ヘレディタリー/継承』を100倍薄めて、さらに3時間に引き延ばした代物である。そして登場人物はボーとその母親以外は全員ゾンビみたいなものだ。いわば内面のない操り人形。本作の世界を支配しているかに見える母親さえ、単なる異常者以上のものではない。『ヘレディタリー/継承』は突然「良き母」だった女の仮面が剝ぎ取られ、どす黒い情念が噴出するところに恐怖の源があった。本作におけるボーの母親は最初から異常な人間でしかない。最初から異常だとわかっている人間からは脅威は感じても恐怖は生じない。


ボーは母親およびゾンビたちに不条理な目に遭わされ続けて、徹底的に被害者のまま終わる。ただそれだけ。ここにはどんな教訓もテーマもない。ただ、ここには何もない、何も与えませんよと語られるのみだ。そんな映画にどんな意味があるのかというと、世の中にはそんな映画をわざわざ作る人間もいるのだと実感できるのがせいぜいだ。そして、それがこの監督のどうやら望むところなのだ。何もないということを語る。観客は虚しさだけを得る。それこそが、どうやら。

2024年4月の鑑賞記録

『荒野の用心棒 4K復元版』(ドル三部作 4K)グランドシネマサンシャイン池袋 '24・4・6
続・夕陽のガンマン/地獄の決斗 4K』(ドル三部作 4K)グランドシネマサンシャイン池袋 '24・4・7
『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』(4K)(午前十時の映画祭14)グランドシネマサンシャイン池袋 '24・4・7
オッペンハイマー』(IMAXレーザーGT字幕)グランドシネマサンシャイン池袋 '24・4・10
『インフィニティ・プール』ヒューマントラストシネマ渋谷 '24・4・16
インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(4K)(午前十時の映画祭14)グランドシネマサンシャイン池袋 '24・4・17
ゴジラ×コング 新たなる帝国』TOHOシネマズ新宿 '24・4・28
『天使の復讐(1981)』(「ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト」出版記念上映)下高井戸シネマ '24・4・29

ゴジラという怪獣のことを考える時、走っている姿はどうにも想像できない。というかそんな挙動をとらせるのは冒涜だとさえ思う。ゴジラはただの怪獣ではなく、いわば神のようなものなので、走るなどというのは似つかわしくない。ひたすら重々しく歩みを進めるのがゴジラのスタンダード・スタイルであると思うのだ。
かつてニューヨークの街中をピョンピョンという軽々しい擬態語を付けたくなる感じで走り回った「ゴジラ」も存在したが、あれは今風に言えばマルチバースの「ゴジラ」なのであって、僕が思うところのゴジラでは決してない。まあ、あれも「ゴジラ」ではなく他の怪獣であったなら、そう悪い映画でもなかったとは思うが。
さて今回の『ゴジラ×コング 新たなる帝国』において、またもやゴジラを走らせる(それどころか縦横無尽に空中を舞わせたりもする)監督が現れたわけだが、彼は別に何も考えずにそんなことをしたのではなく、大胆なことにゴジラをはじめ登場する怪獣たちにある種の擬人化をほどこすことにより、彼らに走り、飛ぶ自由を与えているのである。
その「ある種の擬人化」とは、たとえるなら日本の漫画で描かれるヤンキーだというのが最も適切だと僕には思える。なんでよりによってそうしたのかはわからないが。そしてヤンキー漫画は星の数ほどあるが、僕は、これは『ビー・バップ・ハイスクール』だなあと思った。なぜかといって『ビー・バップ~』の主人公であるヒロシとトオルは決して劇中最強の存在ではなく、割とボコボコにされたりしており、その在り方が本作のゴジラとコングに重なる部分があると思うのである。
だって本作のゴジラもコングもこれまでの作品は何だったんだ?と疑問に思うほど「弱い」のだ。今回初登場の、チンピラムーブのクセが凄い敵怪獣にまあまあ押されるくらいには。つまり劇中でのパワーバランスが不確定な感じが『ビー・バップ~』っぽいなと。ヒロシがゴジラで、トオルがコングってところだろうか。神からヤンキーにレベル垂直降下というわけで、僕には楽しめなかったが、従来のゴジラ像から斜め上に一線を越えたことについては、その勇気は買いたい。

2024年3月の鑑賞記録

ハンテッド 狩られる夜』シネマート新宿 '24・3・11
『落下の解剖学』新宿ピカデリー '24・3・20
『夜明けのすべて』テアトル新宿 '24・3・30

ハンテッド 狩られる夜』の主人公アリスは会社の同僚と不倫中。その夜も、同僚と密会した後、彼の車で夫が待つ家に帰ろうとするが、給油のためにとあるガソリンスタンドに立ち寄ることになる。併設された店に入ってみたアリスは、店内に誰もいないので車に戻ろうとした時に腕を狙撃され、落としたスマホも銃弾で破壊される。さらに彼女を心配して店に入ってきた同僚は一撃で射殺されてしまう。
この後、アリスと正体不明のスナイパーとの命賭けの知恵比べが始まるのだが、店がコンビニとホームセンターを合わせたようなつくりになっており、そこにある様々な商品を使って狙撃から逃れつつ脱出の機会をうかがうというスリリングな展開になる。
さて、このスナイパーはいったい何者なのか、否が応でも観客は気になるところだと思うが、これが全くわからない。アリスは店に置いてあったトランシーバーでスナイパーと会話することで、彼の話をヒントに正体をつかもうとするが、はぐらかされるばかりだ。
僕も観ながらスナイパーの正体について、いろいろ考えた。まずは、実はアリスの夫なのでは?という説。妻の不倫に逆上して、不倫相手は即射殺し、憎い妻は腕だけを撃って生かしておいて、さんざん苦しめてから殺そうとしているのではないか。しかし、そうだとすると、このガソスタに立ち寄る何人かの無関係な人々も射殺してしまうのはなぜか。警察への通報や彼女の逃亡を防ぐためだとしても、それだけのために無差別殺人を犯せるものだろうか?
店の中に従業員の女性の死体があり、彼女の夫がいなくなっているので、そいつなのでは?という説も浮かぶが、それなら、なぜ道路を挟んで向かい側のどこかから狙撃するなどという面倒なことをするのか。店に隠れていて入ってきた奴を撃てばいいじゃないか。それにアリスだけを生かしておく動機がない。
アリスは製薬会社の社員であり、トランシーバーでのスナイパーの発言によると、彼は反ワク陰謀論者らしいので、始めから彼女と不倫相手を狙っていたという説も思いついたが、では、なぜわざわざこのド田舎にあるガソスタを襲撃の舞台に選んだのか、その理由がどうにもわからない。
というわけで、考えられるどの説を選んでも疑問に突き当たり、正体には至れないシナリオになっていて実に巧妙だなと思った。僕はこういう小粒ではあるがピリッと辛い、例えば、最近リバイバル公開された『真夜中の処刑ゲーム』のような、ワン・シチュエーションでいかに面白くするかについて知恵を絞りました!という作品が大好物である。もっとこういう作品が国内外で作られてほしい。

王国(あるいはその家について) (2018・日本)

監督:草野なつか
脚本:高橋知由
出演:澁谷麻美/笠島智/足立智充/龍健太
★★★★★


ある女優が「人殺しの顔」を獲得するまで

部屋の中で、一人の女が事務机を前にして座っている。男が入ってきて机を挟んで座り、続く二人の対話によって、女は、ある殺人事件の容疑者として逮捕された亜希(澁谷麻美)であり、男は刑事であることが判明する。亜希は幼馴染の野土香(笠島智)の娘を川に突き落として殺したのだった……。
というオープニングなので、通常の劇映画なら、この後は亜希の犯行の動機を解明していくドラマが始まるというところだろうが、次に観客が観ることになるのは、シナリオの読み合わせをする澁谷麻美と笠島智である。以降、俳優たちによって幾度となく繰り返される読み合わせやリハーサルや、ロケハンで撮影した(ように見せるために撮った?)家の外観や川などの映像が、一見ランダムに、しかし実は、観客が本作のストーリーを思い描けるように注意深く編集されて提示される。先日、購入した本作のシナリオの序文で監督が書いているように、この作品は「本番が存在しない劇映画」なのだ。
このドキュメンタリーとフィクションの混合とでもいうべき特異なスタイルをとることによって、俳優たちがいかにして自分が演じる人物になってゆくのか、その変遷がはっきりとわかるのが本作の最大の面白さである。同じ場面のリハーサルを何回も繰り返すことによって表情や声が変わっていく。亜希、野土香、そして野土香の夫・直人(足立智充)が、それぞれ、その人物でしかあり得ない顔つきや声音を持って、画面に徐々に表れてくるのを観客は観る。
三人の中でも、澁谷麻美が亜希になっていく過程には、ちょっと空恐ろしささえ覚えた。特に、野土香の娘を殺害してしまうシーン(のリハーサル)における彼女の表情は――もちろん実際に見たことはないが――殺人を犯す時、人はこんな顔をするに違いないと思わせる、凄みのあるものだった。これは是非、多くの人に観てほしい。

2024年2月の鑑賞記録

悪魔のシスター デジタルリマスター版』シネマート新宿 '24・2・4
『真夜中の処刑ゲーム』(未体験ゾーンの映画たち2024)ヒューマントラストシネマ渋谷 '24・2・4
バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』シネマート新宿 '24・2・9
『ボーはおそれている』TOHOシネマズ新宿 '24・2・27
ストップ・メイキング・センス 4Kレストア』グランドシネマサンシャイン池袋 '24・2・28

バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』におけるハーヴェイ・カイテルは、この男こそマジで「あぶない刑事」だと叫びたくなる、とんでもない悪徳刑事である。このハーヴェイ・カイテルに比べたら、舘ひろし柴田恭兵なんて、せいぜいイキッてる中学生レベルだ。具体的にどのようにあぶないのかは、是非各自確認してもらいたい。
本作はまた、二つの意味で「男泣き」の映画でもある。一つ目は、通常この言葉が使われるような、男性が思わずもらい泣きしてしまうような内容だという意味である。特に今までの人生に激しく後悔の念を抱いているような(僕を含む)中年男性だったら、少なくとも(僕のように)涙目くらいは不可避だ。
二つ目は、文字通りハーヴェイ・カイテルが泣きまくる映画であるという意味。麻薬でラリッては泣き、野球賭博で負けては泣き、キリスト(!)を相手に「今までどこにいたんだ!」と文句をつけながら泣きわめく。主人公が悪徳刑事の映画は結構あるだろうが、その主人公が終始泣いてばかりいる映画なんて本作だけではないだろうか。最初のうちは「よく泣くおっさんだな~」と呆れもするだろうが、映画が終盤に差し掛かると、その涙が本当に尊いものに見える瞬間が訪れるのだ。とにかく中年男性諸氏に激推しの作品である。

2024年1月の鑑賞記録

劇場

『ファースト・カウ』ヒューマントラストシネマ渋谷 '24・1・2
『ショーイング・アップ』(A24の知られざる映画たち presented by U-NEXT)ヒューマントラストシネマ渋谷 '24・1・2
『PERFECT DAYS』TOHOシネマズ新宿 '24・1・3
『浮き雲』(愛すべきアキ・カウリスマキユーロスペース '24・1・4
『狂った触覚 デジタルリマスター版』(佐藤寿保監督特集上映〈第二弾〉【血だるまヒサヤス もしくは美の男Ⅱ】)K's cinema '24・1・5
『マッチ工場の少女』(愛すべきアキ・カウリスマキユーロスペース '24・1・7
『吸血鬼(1932)』(カール・テオドア・ドライヤー セレクション vol.2)シアター・イメージフォーラム '24・1・8
TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』シネクイント '24・1・17
『哀れなるものたち』TOHOシネマズ新宿 '24・1・31

配信

『Q2:6隠しリンク - Hidden link』フェイクドキュメンタリー「Q』(YouTube)'24・1・26

「トー横キッズ」と呼ばれる人々のことは、TOHOシネマズ新宿に行くためにシネシティ広場を横切った時に見かけたことがあるくらいで直接的には知らない。しかし彼・彼女らが睡眠薬や風邪薬をオーバードーズして、意識不明になったり前後不覚になったりしているというのはニュースなどで知っている。
なんでまた急に「トー横キッズ」について書き出したかといえば、『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』を観て、「この連中はトー横キッズみたいだなー」と思ったからだ。本作の登場人物たちは、霊に一時的に体を乗っ取らせる遊びに夢中になってしまう。歌舞伎町の路上でウロウロしているキッズたちと比べると、みんな良い家に住んでるし、恵まれた生活を送っているように見えるが、どうも両者には共通しているものがあると思うのである。
で、それは「自分の体のコントロールを手放すことへの執着」ということではないだろうか。自分の意思で体を動かすのをやめたい、つまり生きるのを一時的にやめたい、という気分がオーバードーズや、霊にあえて憑依させるという行為の背景にあって、その気分がどこから立ち上がっているのかといえば、それは結局のところ現実のツラさというやつからであろう。
決して過ごしやすいとは思えない路上で群れを作ってクスリを飲んでしまったりするのも、得体のしれない霊に自分の体をあけ渡す行為に病みつきになってしまうのも、これ全てツラい現実を忘れるため、という何のひねりもない話に落ち着いたが、本作の主人公がたどる運命は現実よりもはるかにツラい。「トー横キッズ」の皆さんには是非本作を観てもらって、わが身を大事にしてほしいものである(何のひねりもない締め方)。

2023年12月の鑑賞記録+α

大変遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。


『ザ・バニシング-消失-』シネマート新宿 '23・12・2
『コーポ・ア・コーポ』シネマート新宿 '23・12・4
『首(2023)』TOHOシネマズ池袋 '23・12・5
『メンゲレと私』東京都写真美術館ホール '23・12・10
『枯れ葉』ユーロスペース '23・12・17
『真夜中の虹』(愛すべきアキ・カウリスマキユーロスペース '23・12・17
ビデオドローム 4Kディレクターズカット版』新文芸坐 '23・12・18
過去のない男』(愛すべきアキ・カウリスマキユーロスペース '23・12・19
『王国(あるいはその家について)』ポレポレ東中野 '23・12・22
『ゲット・クレイジーストレンジャー '23・12・24
『パラダイスの夕暮れ』(愛すべきアキ・カウリスマキユーロスペース '23・12・30

昨年から始めた「鑑賞記録」ですが、その月に観た作品の中から、特に何か書きたいと思ったものを選んで、コメントのような文章を添えています。
で、そう言えば、これについてもちょっと書きたかったなという作品が、実は何本かあるので、以下にまとめました。


『ケイコ 目を澄ませて』テアトル新宿 '23・1・4
かつて在籍していた会社に、耳が聞こえない若い女性がいた。ゆっくり話せば、唇を読んで、僕や他の社員が話すことも理解できるので、仕事には支障がなかった。それどころか優秀な人だった。いつもニコニコしながら働いていて、皆から可愛がられていた。本作の大半で他人を拒否するかのように頑なな表情の、主人公ケイコとは、同じハンデを持っていても対照的ではある。
たぶん、僕の元同僚の彼女は、僕たちと仕事をすることを通じて、大げさに言えば世界とのつながりを得ていたので、あんなに楽しそうに振る舞うことができたのではないかと思う(本当は何を思っていたかはわからない)。一方、ケイコはずっと世界から拒絶されているように感じてしまっていて、恐らくはそんな世界と戦うためにボクシングを始めたのだ。ところが彼女は思いがけず戦う手段のはずだったボクシングを通じて、世界を理解し、和解し、つながりを持つに至るのである。本作はその軌跡をじっくりと描く傑作である。


『イニシェリン島の精霊』TOHOシネマズ新宿 '23・2・1
「お前の話はつまらないし、お前と話す時間は人生の無駄」ということを相手にわからせるために自分の指を切断するクレイジーなおっさんと、そこまで完全に拒否されているのに「いや、ホントは俺のこと好きでしょ?」とつきまとい続けるキモいおっさんの確執という、あまりにもセールスポイントに乏しい内容の作品だが、すこぶる面白い。そして本作は、いわゆる「紛争」が起こり、エスカレートするメカニズムをあからさまにし、また、それは、この二人のクソくだらない対立同様にくだらないのだということを示す寓話なのだと僕は理解した。


『対峙』シネマート新宿 '23・2・23
乱射事件を起こした少年Aの両親と、少年Aの被害者の両親との対話という、日本ではまず成立しないであろうセッションの一部始終。言葉による命がけの格闘という感があり、大変にスリリングで面白く観たが、最後の最後に放たれる少年Aの母親の「本当は息子に殺されるんじゃないかと思った時があって怖かったの~」というセリフでぎゃふんとなった。結局、人を殺すかもとは思ってたんかい!でも、それと息子を止められるかどうかは別だからなあ。そういうどうしようもない割り切れなさを最後に突きつけてくるところに「そうそうきれいな話にはまとめねえよ?お前らも、全く乱射事件が止まらない、この絶望的な現実を見て考えろよ!」という監督の意思を感じた。


『ザ・ホエール』グランドシネマサンシャイン池袋 '23・4・12
キリスト教の神は、聖書で定義された正しい者しか救わないが、人間は、それがたとえ悪意から発したものであっても、その言動によって、人間を救うことがあり得る。その一点で神よりもやっぱ人間だよなあ、と思わせる作品。
同性愛者である主人公の恋人は、彼の親が信じるキリスト教系の宗教に苦しめられて死んだ。恋人の妹はいまだに苦しめられている。人を救うはずの神が確実に人を苦しめている様が本作では描かれる。一方、思春期を盛大にこじらせた主人公の娘の無軌道な行動(問題の宗教の信者である若者が教会から金を盗んだことを告白する音声をひそかに録音して当の教会に送り付ける)によって結果オーライ的に若者は教会への帰還を許される。人間というものが神と違ってバグることを避けられない以上、こういうエラーが常に起こり、当事者は救われたり救われなかったりする。しかし、この方が人間の現実には合っているのだと思う。


『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』ヒューマントラストシネマ渋谷 '23・8・20
同じクローネンバーグ監督作の『クラッシュ』は「自動車事故」に欲情してしまう人々を描いた作品だった。対して本作は「外科手術」に快楽を求めてしまうカップルの物語である。自分の体内に変な臓器がポコポコできてしまうという、よく考えたら医学的に前代未聞の事態をくい止めようとするどころか、その臓器を切除する手術をアート・パフォーマンスと称して他人に公開している主人公とそのパートナー。それを受け入れている周辺の人々を含めて全員頭がおかしいとしか言いようがなく、彼・彼女らの紡ぐドラマもまた非常に「変態的」である。
まあ、よく考えてみるとクローネンバーグの代表作は、みな「変態的」といえばそうである。しかし彼の、登場人物の体温を感じさせない独自の作風により、一見そうは見えないだけなのだ。


君たちはどう生きるか』TOHOシネマズ新宿 '23・8・23
この映画、フィル・ティペットの『マッドゴッド』との共通点が多い。まず主人公が「下の世界」へ降りていくこと。全体を通して「物語」を形成しないこと。監督が(恐らくは)やりたいことだけやっていること。でも、自分の恥ずかしい(であろう)部分をもさらけ出している『マッドゴッド』の方が潔かったよなあと思う。


『ザ・キラー』シネマート新宿 '23・11・3
本作の感想ポストで「2020年代の『アメリカン・サイコ』」などと書いたのだが、この二作には通じるものがあると思うからで、常にエリートたる自分を意識し、かくあらねばならないという強迫観念を抱き続ける「意識高い系連続殺人鬼」が『アメリカン・サイコ』の主人公ベイトマンだとするならば、いわば「意識高い系殺し屋」といえるのが本作の主人公。常に「できるビジネスマンの成功の秘訣」みたいな言葉を脳内で呟きながら仕事してるくせにアホみたいな失敗をやらかした瞬間から、完璧なプロであるべき自己イメージがバグってしまい、どんどん暴走し始める。その目的は自分が如何に有能な人間であるかを自分に証明することであって、そのための行動が本来する必要があるか否か、あるいは合理的か否かは一切無視しており、しかもそのことを全然自覚していない(できない)異様さをファスベンダーの不気味な無表情がよく表している。


ところで、昨年12月に観た新作映画の中で、僕がお勧めしたいのは『枯れ葉』。問答無用の堂々たる名作。今すぐ観に行きましょう。