アンドレ・ブルトン

日本に帰る飛行機の中で週間文春を読んでいたら、思いがけずアンドレ・ブルトンの名を見つけた。

  • 週間文春 4月19日号 鹿島茂「私の読書日記 パリ、ブラッサイ、エッツェル」よりの引用

X月X日
 今日のフランス行きの目的のひとつはナントを訪れてみること。ナントはアンドレ・ブルトンが『ナジャ』の中で「起こるに値する何かが私の身に起こりそうだという印象のもてる、フランスでただひとつの町」と書いた都市で、事実、シュールレアリストのマンディアルグはそこにパサージュ・ド・ポムレーというこの世のものとは思えないような不思議なスポットを発見して驚喜することになるが、私がナントで見いだしたのは、意外や理想的な町おこしで活気を取り戻し、町一番の繁華街として賑わいを見せているパサージュ・ド・ポムレーであった。

高校、大学のころ、私はわけもわからずにブルトンシュルレアリスムに夢中でした。この文章は思いがけず、何十年も前の自分に自分を連れていってくれました。

馬賊

これも古い本です。初版が昭和39年で、私が買ったのが昭和51年(1976年)です。馬賊というのは清朝末期から第二次世界大戦までの間、主に中国東北部(いわゆる満蒙)で活躍した前近代的武装集団のことです。筆者は、この本の中で自らのことをほとんど述べてはいませんが、その少ない自分への言及からは、筆者がこのような著作を書く適任者であることをうかがわせます。

 中国近代政治史の私のささやかな研究は、まだ依然として清末・民初(CUSCUS注:清朝末期・中華民国初期のこと)に低迷している。それは、私の父が袁世凱直隷総督の学事顧問として赴任したさいに、父に伴われて渡華した幼時からの思い出が、その時代に郷愁のようなものを与えているためであろうか。

と筆者はその前書きで書いています。そしてその袁世凱について

 太祖以来一二代、二九五年間にわたって中国全土に君臨していた清朝は、ついに倒壊した。翌一九一二年(民国元、明治四五)年一月、中華民国が成立して、孫文が臨時大総統に就任した。が、まもなく、野心家袁世凱ユアンシーカイ)がその地位にとってかわる。
 かれは、野心の塊りとでもいうべきタフな男で、身長は高いほうではなかったが、体躯は堂々としていて、腹がでっぱり、健啖家の中国人が「無類の健啖家」と称賛するにふさわしく、毎回の食事には、一定の料理以外に、煮卵10個と大盛うどん一杯を欠かしたことがなかったという。毎朝六時に起床して、夕刻まで邸内の事務室で公務をみ、外出のさいは礼砲を放って威容をととのえるとという形式が大好きであった。ただ、ひとに接するときは、巨体をますます丸くしてほほえみ、その狸芸はみごとなものがあった。

と微に入った描写をしていますが、その次に

筆者は、五歳のとき袁に抱かれてあやされ、肩骨を脱臼した。いまでもそこがうずく。

と続けています。なんと、この筆者は袁世凱に直接会っている(抱っこされている)のでした。
 内容は当時の日中関係の裏面史の1つといった趣です。さまざまな逸話が書かれていて面白く、長年手放すことが出来ない本です。特徴的なのは、私が買った当時(1976年)の本では珍しいのですが、中国の人名になるべく原音に近いふりがなをしているところです。上の引用で挙げた袁世凱ユアンシーカイ)もその一例です。思えばこの本の内容がラストエンペラー溥儀への私の関心の原点になっているようです。