CPA - 共和党バグダッド支部

ワシントン・ポストの記者が書いた本はだいたい本紙に編集した抜粋が載る。上のリストで言うと、Shadid、Ricks、Chandrasekaranの本だ。とりわけ、Thomas Ricksの"Fiasco"の抜粋前後編は相当の衝撃をもって迎えられた。

だが、個人的にはるかに驚いたのはChandrasekaranの"Imperial Life in the Emerald City"の抜粋だった。どのぐらい驚くべき内容か、はじめの3分の1ぐらいを訳してみよう。


 2003年4月のサダム・フセイン政権の崩壊後、イラク再建に向けたアメリカ主導の活動に参加する機会を求めて、変化を求めるプロフェッショナル、アラビア語を話せる学者、開発専門家、戦場冒険家など、あらゆる種類のアメリカ人が引き寄せられてきた。だが、バグダッドに行き着く前に、彼らはペンタゴンのジム・オーバーンのオフィスをくぐり抜けなければならなかった。

 オーバーンは、国防総省のポストを望む政治任用者たちをふるいにかける政治任用者である。オーバーンに合格をもらうには、志願者は中東や紛争後復興の専門家である必要はない。どうやらもっとも重要であるらしいのは、ブッシュ政権への忠誠のようだ。

 オーバーンのスタッフは候補者の何人かに対し、アメリカ国内政治について無遠慮な質問をした。2000年はジョージ・W・ブッシュに投票したか? 対テロ戦争を戦う大統領のやりかたを支持するか? アメリカ占領当局の職に応募した人間のうち2人は、ローvsウェイドについての見解まで尋ねられた。

 オーバーンのオフィスに選ばれて連合国暫定当局(以下CPA)で勤務することになった者の多くが、不可欠な技能と経験を欠いていた。財務関連の実務経験のない24歳の人間──だが、かつてホワイトハウスの仕事に申し込んだことはあった──が、バグダッド証券取引所の再開させるために送り込まれた。著名なネオコン・コメンテーターの娘と、ホームスクールで育った子どものための福音派大学を最近卒業した者が、どちらも会計処理の経験はないにも関わらず、イラクの130億の会計管理に選ばれた。*1

 能力と知性ではなく、忠誠心と意欲を基準として人間を送り込むという決定こそ、ブッシュ政権最大の誤りの1つであると、イラク安定化と再建のため3.5年間の努力に身を投じた人々の多くが今では考えている。復興努力に携わった多くの人々によれば、政治的忠節が理由で選ばれた者の多数が、保守派のアジェンダを戦後占領に押しつけようと時間を費やし、より重要な復興努力を棚上げし、イラク人にあった善意を浪費した。

 CPAは法律を制定し、紙幣を印刷し、徴税し、警察を配備し、イラクの石油歳入を支出する権限があった。最盛期にはバグダッドに1500名以上の就業者がおり、アメリカのイラク総督L・ポール・ブレマーのもとで働いていた。だが、その全スタッフの公開名簿は発表されていない。

 CPAの前職員多数に対し2年間にわたってインタビューした結果描き出されたのは、行政府のイデオローグに左右された──そして、ついには身動きがとれなくなった──組織だった。

 「われわれは、そう、これはホワイトハウスから始まって下まで来たにちがいないが、この仕事に適任の人間を選ばなかったんだ」CPAワシントン局の副局長を務めたフレデリック・スミスは述べる。「どうにも不愉快な仕事だったな。代わりに採ったのは政治的傾向が理由で前に出てきた連中だ」

 合衆国から再建基金として180億ドルを与えられ、アメリカの侵攻直後の比較的静かな環境を得て、CPAイラク復興を達成する合衆国政府の最初で最大の希望だった。秩序を確立し、再建を促進し、自立可能な政府を組織する──専門家の見解では、このどれもが反乱を抑制し、内戦の可能性を減じるはずだった。今日イラクアメリカ人が達成しようと奮闘している基本的課題の多く──軍の訓練、警察の審査、発電量の増大──は、2003年にCPAの手によってはるかに効果的に実行できたはずだ。

 だが、CPAスタッフの多くは別のことにずっと関心があった──一定税率の採用、政府資産の売却、食糧配給の廃止、その他新国家をもっと合衆国らしくみえるように変化させる仕事に。多くはグリーンゾーンに引きこもってすごした。そびえるヤシ、しゃれた別荘、ストックたっぷりのバー、リゾートサイズのスイミングプールがあるバグダッド中心部の壁に囲まれた飛び地、グリーンゾーンに。

 ブレマーが去る2004年7月までには、イラクは危険な状態にあった。CPAによって一度解体され、再編成されたイラク軍は、ブレマーの公約の3分の1の人数しかいなかった。警察官の70%はふるい分けも訓練も終えていなかった。発電量はブレマーが達成すると約束した量をずっと下回っていた。そしてイラクの暫定政府は選挙ではなく、アメリカ人によって選ばれていた。分裂のもととなる争点はあとでの解決にまわされ、それらをめぐっての対立が国内の不和を煽る確率を増大させた。

 彼が望む人間を雇うために、共和党の議員、保守系シンクタンク、GOPの活動家からオーバーンは履歴書を要求した。彼のスタッフがイデオロギー的に疑わしいとみなした人物の願書は捨てられた。たとえ志願者がアラビア語の技能や戦後再建の経験があってもである。

 スミスが語るところによると、一度オーバーンが若者の履歴書を指さして、彼こそ「理想の候補者だ」と断言したという。その若者の主な資格といえば、2000年の大統領選中のフロリダで票の再集計があったとき、共和党のために働いていたということだった。

 著名な保守派コメンテーターであるケイト・オーバーンと結婚した、元陸軍将校のオーバーンにコメントを求めたが、回答はなかった。

 オーバーンと彼のスタッフは連邦法の目立たない条項を利用し、多数のCPA職員を一時的政治任用者として雇用した。これによって、個人的な政治信条についての質問を禁じる雇用規定を面接者は免除される。

 CPAで職を得るに至った民主党員も少数存在するが、そのほとんど全員が現役兵士か、国務省の外務職員局局員だった。彼らは一時雇いではなく本職の政府職員なので、オーバーンのオフィスは政治的傾向について直接質問するわけにはいかなかった。

 オーバーンの近くにオフィスを持っていたCPAの元職員の1人は、友人へのEメールで採用過程をこんなふうに描いている。「あの国を支援したいからとCPA入りを望んだ、すこぶる有能な人間の履歴書がゴミ箱に投げ捨てられるのを見たことがある。『大統領がイラクについて抱くヴィジョン』(このフレーズはCPAで頻繁に耳にする)への信奉が『不確か』だからだと。財務省、エネルギー省……商務省のような部局の上級公務員がバグダッドでの顧問職を拒否されるのも見た。その職は代わりにRNC共和党全国委員会)の有力貢献者に渡ったよ」

 オーバーンの雇い人がグリーンゾーンに続々と到着するにつれ、フセインの大理石で築いたかつての共和国宮殿内にあるCPA本部は、選挙戦の作戦会議室の様相を呈してきた。ブッシュ大統領を讃えるバンパー・ステッカーやマウス・パッドが標準的なデスクの装飾品だった。軍服や「イラクの自由作戦」の衣装*2に加えて、「ブッシュ-チェイニー2004」Tシャツが最も標準的な衣服だった。

 「私はイラク国民のためにここへ来たんじゃない」スタッフの1人が昼食のさいレポーターに伝えた。「ジョージ・ブッシュのために来たんだ」

 戦略コミュニケーション局(Strategic Communications office)で働いていたゴードン・ロビンソンが母親から届いた仕送りの小包を開け、ポール・クルーグマンニューヨーク・タイムズのコラムニスト、リベラル)の本を見つけると、周りにいた人々は目を丸くした。「まるで自分が放射性物質の包みを開いたみたいだった」と彼は回想している。

そしてこれCPAのブレイントラスト。
追記。CPAがテーマのドキュメンタリー、"The Lost Year in Iraq"も良かった。オンラインで全部見られる。

*1:記事に追記されていた訂正によると、ネオコンのコメンテーターの娘は会計の経験はあったが、大組織の財務処理経験は無かったということだ。

*2:意味取れず。"Operation Iraqi Freedom" garb。