「私考 知的障害者にとって自立とは」  第5章 生き方を教えて!

 この記事は2006年1月14日のものです。

 前回までの話は理想論。今回から、現実に目を向けて話を進めて行きたいと思います。といっても「理想を捨てろ!」という話ではありません。むしろ、理想を捨てると大変なことになるといった忠告と思って頂きたい。非常にショッキングな話が出てきますが、真剣にお受け取り下さい。

  第5章 生き方を教えて!

第1節 自殺の理由。或いは、人は簡単に人を殺す。

 物質というものには不可逆な性質があり、一度、壊れると、決して元には戻りません。しかも、これは、ほっておくと必ず壊れるのです。壊れて壊れて壊れてしまい、最後にはガスとなって飛び散ってしまいます。それが、今度は、少しずつ集まってきて、ダマとなり固まってくる。固まって固まって固まって、再び物質となります。宇宙のあらゆるものがこのようなサイクルを繰り返しているわけですが、この中で、生命というものだけが、壊れようとすれば即座に固まり、固まろうすれば即座に壊れるという振動を繰り返しているのです。このような状態になるのは何百兆の1の確立でしかありえないというのですから、何百億年もこの生命活動を繰り返している地球という生命体は宇宙の奇跡としか思えません。

 ところが、この奇跡の生命活動にピリオドを打とうするものがいます。それは、何を隠そう生命の進化の最上位にいる人間そのものなのです。(このことについては、詳しくは述べません。興味ある人は、アーサー・ケストラー著『ホロン革命』をお読みください。ここでは、人間は非常に危険な進化を遂げた生物であるという説だけを持ち出します。)
 人間は、他の生物とは決定的に違う進化を遂げました。それは、生命を司る脳そのものが環境に応じて発達するという能力です。しかし、それと引き換えに、とんでもないものを失ってしまったのです。他の生物なら当然のようにもっている、生きるための本能というものです。(この、一つ覚えの本能というものを捨てることにより、臨機応変に環境に適応できる能力を持つことができたのですが・・・)
 人は産まれ出たときには、歩くことはおろか、寝返りをすることも、ものを掴むことも、食べることも、見ることも、聞くことも、何もできません。かろうじて息をすることと、泣くことができるだけです。そのありったけの力を借りて、育ててもらおうとするわけですが、その間に物凄い勢いで脳を発達させるのです。

 しかし、決して忘れてはならないことは。この脳の発育は、決して本人の意思で行っているものでは無いということです。つまり、この間、間違った養育を受けると、脳は間違った発達を遂げるのです。しかも、この脳の発達はそれからも続いていき、更正するのがますます難しくなる、ということも忘れてはなりません。間違った教育、間違った思想は、その人を必ず間違った人間にしてしまいます。どんな人も、「人を殺せ!」と教えられれば、確実に殺人鬼になるのです。
 環境にそぐわない生き方を教えられた人は絶望的です。そんな環境の中では、その人は周りを抹殺するか、生きることを止めるしかありません。ここで、周りを抹殺することを選んだ人間が現れたとしてみましょう。そこでは、新たな思想が彼を支配し、それに応じて周囲も洗脳されていきます。憎しみは増殖し集団殺戮へと変貌していくのです。
 人は独りでは生きていけません。独りでは生きていけないから集団を作ろうとするのです。一旦、集団ができてしまえば、個人よりも集団が優先されます。ところが、そんな集団というものはどんな非常なことも成し遂げられてしまうのです。個人に責任が及ばないからです。差別や迫害というものも、集団では何の罪意識もなく行われてしまうのです。

 しかし、最も不幸な人は、生きることを教えられていない人です。その人は、簡単に集団に操られるか、孤独のままでいるしかありません。孤独でいるといっても、生き方を知らないのですから、生命に欠かせない性欲・食欲・睡眠欲という基本的な欲求も出てこなくなるわけです。不感症・拒食症・不眠症です。そして、生命は、何百兆の1の確立でしか起こらないという活動を停止してしまおうとするわけです。とることのできる唯一の自発的行動は、自殺しかありません。

第2節 福祉という恐ろしき幻想

 理学療法士の方に、お年よりのことをどう思うか聞いたことがあります。
 「一生懸命リハビリしているお年よりは偉い。」というような話をされるのかと思っていましたが、実際は、全く逆で、「充分元気なのに、介護保険を利用して楽しようとしてる。」という答えが返ってきてびっくりしました。つまり、要介護の審定を受けているほうがサービスが受けられるから、いつまでもリハビリを止めたくないのだというのです。リハビリとは社会復帰の為の訓練なのですから、できるだけ早く訓練を終えて、社会に復帰しなければならないのに・・・・・・う〜ん全く、老人ニートだ!
 これでは、全く逆効果で、むしろリハビリが社会復帰を遅らせているのが現状です。そして、いろいろなサービスを受けるものだから、ますます老いが早まるわけです。しかも、「お年寄りを大切に」と周りの人も親切にして、楽させようとして、これが福祉だと勘違いしている人たちが、圧倒的に多いのもいけません。ほんと「福祉ボケもいいかげんにしろ!」と言いたくなります。

 なぜなら、この福祉ボケは、本来最もしっかりとした療育を必要としているはずの発達障害児にまで及んできているのですから。「無理しなくてもいいんだよ。」から「無理しちゃダメよ。」になり「やってあげるから」となり、最後には「しなくていいから」となりかねないのです。第1節で述べましたように、これは大変不幸な結末を迎えかねない、危険な子育てです。
さらに、障害者の親の中には、「ウチの子は障害があるから」とか「ウチの子には無理なので」と社会や周りに執拗に配慮を求めてくる者もいます。逆に、家で大切に育てて立派な施設に入れようと、できるだけ社会とは関らないようにする親もいます。その結果、その子は一生涯、社会に加護されるだけで、自分では何もできず苦しみ続けることになってしまうかも知れないというのに・・・・・・・・・・・。あー、その先には何が待っているか?ああ!恐ろしきは、福祉という幻想!

 まず、3歳までにしっかりとした正しい療育を施さなければ、その子は人格障害をきたします。自律神経失調症に苦しむこともあれば、統合失調症の兆候が現れることもあります。さらに小学校高学年から中学校までに、良質な集団に参加させないでいると、愛も理性も持ち得ない人間になってしまい、人間関係で苦しみ、人間不信に陥ります。
 みなさん!「生まれつき不幸な子」なんていません。不幸なのは、不幸と思われ、甘やかされ、生きることを教えられなかったことなのです。

 本当の福祉とは、その人の可能性を信じ、チャレンジさせ、見守ることです。できるだけ、手を貸さないことです。できたら、思いっきり誉めてやることです。やってはいけないことをやったら叱ることです。(叱ることは重要です!叱られることはその人の人生の道標となります。)
そして、そのような方向性を持った集団に参加できるようにすることです。つまりは、親兄弟が地域が社会がそのような集団になるように施策を立てることです。

第3節 親亡き後の「親の会」の子

 我家も自閉症の子がいるので、この子の将来のことを考え、「親の会」に入会しています。今まで夫婦で思い悩んでいたことも、親の会に入ってからというもの、知り合いができ、互いに情報交換もできて、気持ちも落ち着いてきました。そして、この「親の会」に入っている限り、この子の将来にも希望が持てそうだな!とまで、感じてきていました・・・・・・・・・。しかし、それも、私たち親がこの「親の会」に入っている限りにおいてだけなのです。親亡き後の子は、もはや「親の会」の子ではないのです。
 なのに、「親の会」の会員は、みんな同じ不安を抱いています。それは、ここでも、やっぱり「親亡き後のわが子」のことです。ある親は、「子よりも早くは死ねない!」とまで言っています。いったい、これはどういうことなのでしょうか?何のための親の会なのでしょうか?ただ、同じ不安を抱いているだけの、情けない親達の集団でしかないのでしょうか?

 「障害のある子の親御さんは、大変な御苦労をされている。」それはわかります。
 「だから、みんなで力を出し合って子育てしましょう。」これもわかります。
 でも、「親がいなくなったら後は知らない?」では、薄情過ぎはしませんか?

と、そう感じている方も居られるのでしょうかね?
 でも、それが「親の会」なのです。「親の会」は親亡き後の子の面倒まで見てくれないのです。なぜなら、親の会なのですから。親のための集まりなのですから。
 ここにも、福祉という恐るべき幻想があります。「親の会」が子育てをしてくれるのではありません。子育てをしている人たちが「親の会」を作って活動しているのです。「親の会」の会員である限りは、しっかりとした親でなければなりません。親亡き後も立派に生きていけるように、我が子を育てようとする親でなければ、「親の会」は成り立ちません。それは、慰め合うだけの堕落した集団でしかないのです。
 そんな集団で育った子がどうなるか考えてみてください。我が子の叫びが聞こえませんか?

 「パパ、ママ、生き方を教えて!!!!!!!!!!!!!!!!!

(追記)
 ところが、生き方というのは、人それぞれ育った環境によって異なるものです。本当の生き方は、実は、本人が社会に出て見つけていかなければならないものなのです。しかし、ご存知のように、知的に障害のある人は、それが難しいわけです。
 次回からは、そんな「知的障害者がいかにして自分の生きかたを見つけていくのか?」ということを考えていきたいと思います。そこにこそ、【知的障害者にとっての自立】というものがあるわけです。