【書評】「さよならサイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生」(さらに追記)

3月24日の続きで、また長文になってしまった。
さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生
北海道大学大学院・櫻井義秀助教授島田裕巳氏の、この本への評価はどんなモノなんだろうか。


櫻井義秀氏はカルト問題のシンポジウムに一緒に出たりしているし、島田氏も対談しているわけで、当然あれこれ交流はある。 伊東乾氏は現在、東京大学情報学環助教授として専任教員をやっていて、島田氏は特認研究員かぁ。 東大の同僚、というには微妙な関係ではあるな。
「東大」という看板で本を出す伊東氏と、フリーも覚悟してる島田氏(月刊プレーボーイ5月号インタビューより)との差は大きい。


大学は「原則リベラリズム」で、カルト勧誘問題に積極的にかかわりたがらないため、キャンパスには怪しげなのがウヨウヨしているらしいから、問題意識を持った教員としては貴重なんだろう。


本を出して、改めてオウム問題を問い直すことは有意義だ、とは思う。
この時期、とりあえずは、カルト問題を考える入り口はいくつあってもいいだろう。

(私も、なりゆきで「ことのは問題」から、こんな事を書くハメになったのだから)
マインドコントロールの脳性理学的基礎研究も必要だろう。
カルトに対する警戒感を惹起し、オウムへのいくつかの論考や提言は、それなりに評価できるけれど…
それでも、やはりこの本には問題が多く有りすぎる。

あまりに「ギョーカイ」的

麻原判決が出たとき櫻井義秀氏がコメントを発表している。

「麻原判決に欠けていたメディアの調査報道」 http://www.bnn-s.com/news/04/03/H20021021836.html

この中のメディア批判は、そのまま本書に当てはまってしまうように思える。

今でも「理系エリートがなぜ」「日本社会が生み出した矛盾」という単純化された問題と、「心の荒野を見つめよう」といったこれまたアレゴリーに終始する識者のコメントが多い。
(略)

「理系エリート」「優秀な頭脳」と持ち上げ、犯罪の残虐さでその落差をことさらに強調し、そこに洗脳とか、オウムの異常さを指摘するというのが定番であるが、恣意的だ。

(略)

次に、私が大学に勤務しているからいうわけではないが、大学生及び大学人がエリートであったのは1960―70年代の学生運動前夜までである。その頃既に大学は大衆化しており、学生達は、ありふれた学生という社会の待遇と残存するエリート意識とのギャップに感じた戸惑いや怒りを、社会体制に向けていったのではないかと教育社会学者の竹内洋氏は回顧している。

この十数年、どこの大学であろうと、博士課程に在籍していようと、実態として幹部候補生の道も学者の道も保障されてはいない。お受験の類や有名大学合格云々はエントリーを済ませたに過ぎないのである。あとは実力で熾烈な競争に立ち向かうしかない。会社での下積みや研究室での下働きの生活と、時代錯誤的なエリート意識とのギャップに、自己を生かせないという不満から自己実現の場を別のところに求めた人たちも少なくないだろう。


実行犯に指名された信者達は、その心理を見透かされ、ホーリーネームという地位を与えられ、また信者が持ち込んだ財産からふんだんな資金を得て、様々な活動や研究に従事していたのである。そのこと自体、不幸であり、残念なことだった。世俗的で馬鹿げたことと見えることの蓄積なしには、発明発見も、社会的大事業もないことに気づいてもらいたかった。

著者としては、村上春樹などが「エリート」と書くことに対しての批判は、櫻井氏と同趣旨だということかもしれない。
だけど、この本の中での同級生の優秀さ・善良さの強調は、ちょっと「感動的」すぎるのではないか?

マインドコントロール

櫻井義秀氏のサイトや著作でマインドコントロールのことが詳しく論じられている。

櫻井義秀氏HP  http://www.hucc.hokudai.ac.jp/.n16260/
カルト問題・マインドコントロール論 http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/karuto.htm

「カルト」を問い直す―信教の自由というリスク (中公新書ラクレ)

「カルト」を問い直す―信教の自由というリスク (中公新書ラクレ)

しかし本書では、それらをまるで踏まえていないとしか思えない。
誰に、どのように、どんなことをマインドコントロールされて、どんなことをしたのか、それらがほとんど書かれていない。 判決で、どのように認定されたかについての記述もない。
裁判におけるマインドコントロール問題は、統一協会訴訟などでも争われているのだが、それについての言及も無し。


もともとが上申書として書いていたモノをベースにしている為なのか、裁判戦略上の言葉でしかないように感じられる。
マスメディアによって現代社会はマインドコントロールされている、とか、過去もそうだった、というように話は無駄に大きくなっていくばかりだ。

レーニン

第3部冒頭に団藤重光氏との会話が載っている。
なんだがまとまりのない文章の中に、以下の文章が出てきた。

レーニンも、たぶん人間はたいへん立派な人だったんでしょう。クレムリンに行って資料を見て、そう思いました。」
 冷戦後の今日、平泉澄の「純粋な人柄」を伝えられた團藤さんから、レーニンの名と共に改めて社会的連帯の重要性をうかがって、私は自分の中で勝手に作っていた垣根がガラガラとくずれて行くのを感じた。 昭和18年、すでに東大法学部助教授だった團藤さんは、学徒出陣で満州に出征した私の父たちを教官室から見送らざるを得なかった。その團藤さんの口から、大衆操作の一世紀を経て、いま再び社会的連帯への可能性を指摘されて、私は再びある「振り出し」に戻るような感覚をもった。

感動的で、まるでグルに出会ったみたいだな、と皮肉を飛ばしたくなるが…

著者のレーニン観は、これに近いのかな?

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

こういう批判もあったりするわけだが。
岩上安身 :『中沢新一レーニン礼賛」の驚くべき虚構』 http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm


ソルジェニーツィンも、レーニンこそ謀略・テロ・粛正の元兇だと告発していたわけで、像が引き倒されスクラップにされたのには、それなりの理由があるのだがなぁ。


中沢新一氏と同じく、伊東乾氏もレーニンを再評価しているのだろうか。
中沢批判本を出す島田氏との関係はどうなっているんだろうか、と気になる所だ。

村上春樹批判

いろんな箇所で村上春樹批判がでてくる。
だけど「アンダーグラウンド (講談社文庫)」を読んで、罪を実感したとか脱会した信者は多い。


この本のタイトルにある「サイレント・ネイビー」というのは「男らしく黙って責任を取る」という態度を表している。 「沈黙せずに、失敗をもっと語れ」という意味で「さよならサイレント・ネイビー」だそうだ。
この本を獄中や獄外の(元)信者に読ませても、かれらは「自分の失敗」を語るだろうか?
頭のいい喧嘩腰の元信者だったら、牽強付会な部分にツッコミを入れたくなるだろうし、もっと狡猾な人なら「私もマインドコントロールされていました」と弁解するだけじゃないだろうか?



東大大学院のサイトを見ると、やけにカタカナが多い。
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/faculty/profile/ito.html

リベラルア−ツのオーソドクスを押さえた上で、世界に通じる新しい仕事を志向する、腕に覚えのある学生のアクセスを期待する。

牽強付会と評される本を書いた人が、オーソドクスかぁ。 やれやれ と思う。


ちなみに2001年頃、某便所の落書きで大人気だったんだな
http://piza2.2ch.net/classical/kako/999/999614141.html