統計的に評価すること

今回の原発事故に関して、命を落とされた方の犠牲者数を基にして原発は安全だという議論を展開されている方が結構いるように思う。
数字によって事態を評価するのは基本ではあるけど、そもそも犠牲者数が事の重大さを代表する指標なのだろうか・・・とも思う。
まあ、それも事態を評価するには大事な数字の一つであろうとは思うから、その数字を正確に把握すること自体は大切なことには違いない。

ただ、その場合でも放射線の人体への影響を数字にするのは様々な物質的・社会的要因・個人差があってそう簡単ではないのではないかと思う。
なんといっても放射線はある単位の放射線量を浴びれば何かが必ず発症するというものではないので、確率的にしか評価できない。
さらに、その確率にしても実験室的に他の要因を排除することができれば(あるいは他の要因があっても、その他の要因の種類や数、そしてその量が既知であれば)、放射線の影響も特定しやすいだろうが現実には非常に多様な他の要因を排除することは容易ではない。


ある原因があり、その結果と思われるものがあるときに、統計的手法を用いて有意差があるかないかという判定が行われたりする。
このとき「有意差なし」は「因果関係がない」ということを意味するわけではない。
因果関係があったとしても、その評価に使われる値に影響を及ぼす(既知、未知問わず)外部要因が作用してバラツキを大きくしてしまえば「有意差」は出てこない。
有意差のでない犠牲者は数字にはならない。


だからこそ、公害訴訟などでも「因果関係があるとは言えない」(これはけして因果関係がないと言っているのではないのだが)として認定されないことも多くなる。
仮に幸運にもその分野の協力的な専門家がいて、その専門家に依頼するなどして多大な労力とコストをかけ他の要因を特定して調べ上げれば、因果関係を証明することができるかもしれないが、時間もかかるし、なによりもその多大な労力とコストをかけることができるケースは限られる。
それ以前に、多大な労力とコストをかけても技術的に他の要因を特定し定量化することさえ不可能なケースの方が多いのではなかろうか。
原理的、実験室的にできることが、そのままいつも現実に適用できるほど私たちが生きている世界は単純ではなく複雑なのだ。


放射性物質半減期が長く、その影響も持続的であるということも事態を難しくする大きな要因だ。
プルトニウムのように物質によってはタイムスパンが一人の人生のスパンとは比べようもないほど長いものもある。
つまり、その影響を知るには長い期間変化を追い続けなければならない。
そして、期間が長くなればなるほど様々な外部要因が無数に作用し続けることになる。(データのノイズが大きくなるし、傾向の影響も受けることになろう)(ノイズが一様であればいいがそう都合よくはいかない)
根気があれば、ある個体にどんな影響が出るかそのライフスパンにわたってを追うのは不可能とは言わないが、それでさえ現実的とも思えない。
まして、種(何代にもわたって)や生態系に与える影響を追い続け、その影響をデータにより有意差とともに提出することはまず不可能だろう。(もちろん強烈な放射線を一気に浴びる場合はその影響はすぐにわかるが、ここで言っているのは「直ちに人体に影響がない」に相当する類の話)
放射性物質の問題はそれだけロングスパンの問題で、しかもけして全くの「想定外」の問題でもなく、その大小はともかく影響が出るだろうことは既知なのだ。


放射線が遺伝子に影響を与えることは分かっている。
放射線の積算量とその影響(ダメージ)に相関がありそうなことも分かっている。
化学物質とは違い分子レベルではなく原子レベルで作用することによる違いがどう出るか分からないが・・・それも気にはなる。
しかし、科学が人類の表舞台に現れてから今までのスパンに比べても、プルトニウムのように放射性物質のスパンは充分長いのでそのスパンで実際になにが起きるかを実証できる人はまずいない。(仮説しか立てられない)


ついでなので、もうひとつ言えば社会の在り方がデータに影響を与えてしまうこともある。
原爆にしても、原発事故にしても被害者はそれを表に出したくはない。(いらぬ差別を受けたくない)
国も軍も事業者も何らかの必要性に迫られてそれを開発したり、推進しようとしているときなどはデータは隠ぺいしようとする。
隠ぺいの意図はなくても、積極的に表に出そうとはしないし、不都合なデータをあえて追い続けようともしない。
実験室のように恣意性のない純粋なデータが手に入らない。



数字というのは確かに数字になって以降は裏切らない。
しかし、
何を数字にするか、
その数字が何を意味するか
どのように数字になったのか、
これらを十分吟味しないと「単純化され、ゆえに分かりやすい数字」だけにとんでもない間違いも犯しやすくなる。


放射線放射性物質)はその様々なスケールが人のそれと違うこと、未知な部分も多く数字に現わすことができないあるいは難しい要因が無視できないこと、そして放射能自体を容易にコントロールできない等々、人がそれを恐怖に思うに充分な要素を持っていると思う。
それを不安に思うことはむしろ健全なのではなかろうか。

どうしたらいいんだろう

近くの海沿いに退避用の鉄塔の高台を見たことがある。
高さは10mかそこいらだったかな。
鉄骨造りの塔の上部が平坦になっていて人がそこに避難できるようになっている。


今回の圧倒的な津波の映像を見ながらその退避用の鉄塔のことをずっと考えていた。
高さは足りないだろうなとか、鉄塔の強度は持つかなとか
やっぱり今回の津波は巨大すぎて耐えられそうにない。


今回の地震でも、津波が襲ってそれが収まるまでのその間だけ、その津波から身を守ることさえできれば命だけは助かるのにそれができなかった。
くやしいよなぁ。


巨費を投じた堤防で街全体を守るという試みも今回の津波では全く無力であったし、それほど人口のない地域にそのためだけに大きなビルをいくつも建てても維持できるかどうかも分からない。


町や村は救えなくても命だけは救うという退避用鉄塔というアイディア自体はいいと思うのだけど。


その後、避難生活を余儀なくされた人たちが水、電気、燃料、食料の不足で過酷状況におかれている状況を知った。
ライフラインが断たれた地方の村や町の人々が、それでも生き残る事ができるようにするにはどうしたらいいのだろう。


風力発電なんて今どうなっているのだろうと思った。
国全体の電力供給には不向きかもしれないけど、ちいさな町村には向いているかもしれない。


大きめの発電用風車ならばそれ自体高さを必要とするので支柱の強度もそれなりにあるだろうから一定の高さに退避所を設け、平時は発電しつつ自治体の消費電力を補い、緊急時には蓄電池を介してそこから電源を採ったり、通信装置を設けたり、備蓄所を付加したり、緊急時に自然エネルギー(電気)が使えるというのはいろいろなことを可能にできる。


風力発電にも、落雷や、低周波健康被害や、立地条件の問題、おきまりの補助金利権や乱開発の問題等があり(津波を想定すればブレードの高さも今より高くせざろうないし)けしてバラ色ではないかもしれないけど、個々の問題は解決手段が実用化されているものもある。


稚拙な思い付きだとは思いつつも、あの悲惨な津波の映像を見ていると「どうしたらいいんだろう」とあれこれ思わずにはいられない。

実際に起こったということ

起こってしまった今は巨大津波原発の電源バックアップも使用済み核燃料の屋内保管プールも既に「想定内の事実」となっている。
だから、現在以降行われる原発事故に関する議論や対策は「想定内」のものとなる。
しかし、これが起こる前、(一部の人たちはこれを想定内としていたかもしれないが)社会全体としては「そのようなことが起こること自体」が想定外で「起きないだろう」と思っていた。
あるいは、無関心でいられた。


このことの意味は思っている以上に大きいのではないだろうか?


というのも、地震の規模の想定を高くすべきだという声はあったはずなのだが、それらは当たり前のように、ごく自然に社会は「合理的」に無視して来たのだと思うからだ。


原発の電源バックアップのシステムも、コストや建設のしやすさ等のバランスの中で、
使用済み核燃料の屋内保管プール設置も放射性物質の拡散防止や管理を考慮したうえで、
いずれも合理的に妥当だと結論づけてきたのである。


ある意味、想定外の事態が発生しなければ「正解」であり続けていたはずなのだ。


「想定外」のものは(それが本当に想定外ならば)「科学技術」の範疇ではないのだと思う。
事実の裏付けのない、確率的に無視できるとした「想定外」は、「科学技術」の範疇には存在しにくい。
敢えて言うならばむしろ「疑似科学」の範疇に仕分けされてしまうのでは。(もちろん事後はそうでない)


あくまでこれは社会の認識の話で、個々には「私は想定内だと思っていた」という人も当然いるだろうし、事後に発生メカニズムを解析すれば科学的なものになるが、事前にそれがけして「客観的な共通認識」にはなりえなかったという話だ。
これは人が特段「愚か」だったからではなく、むしろ合理的で「賢かった」からで、それが人の限界。


確率というのは不思議なもので様々なことをこれにより知ることができるのだけれど、全体を左右する一番肝心な核心の部分はどこまでいっても運任せなんだよな。(ミクロな個々にとってはなおさら)


いずれにしても「人智を尽くす」ことには変わりは無いのだけど、「天命」は「想定外」「未知」としてその後ろに控えている。
これを宗教的な「畏れ」であっても、科学者が持つ理性的な「限界の認識」「謙虚さ」でもよいのだが、「それが控えている」という観念は安易に捨て去るべきではないと思う。(大抵は科学者よりも実務者がこれを軽んじるのだろうけど)


リスクを可視化しようとする試みは賢明だが、本質的には根本リスクは顕在化しない。(顕在化しないからリスク)


自然が隠し持つ「未知」や「想定外」の「発生」に無力であることは人の宿命だとしても、その影響で起きる人災は多少なりとも人が選択できるだけに「はたして人類にとって許容できるのか否か」は重要な意味を持つ。


それが「リスクを恐れていたら何もできない」という「正しい一般論」が、(個別の現実のケースについて考えるとき)それを妥当とするかどうかを分けるわかれ道なのだろうと思う。


この一般論の範疇で言うなら、少しずつでも便利を切り捨てるリスクを採ってもいいんじゃない?
「絶対」それが良いとは言わないけど。

退避勧告

さっき、文化放送を聞いていたら、評論家の方が、外国は日本在留の自国民に対し80km圏内から退避勧告を出したのに対して政府は依然として30km圏内にとどまっている事への矛盾を指摘していた。


「どちらが正しいのか」というのだが


その方の主旨は政府の情報開示の仕方や遅さに対しての批判なので分からなくもないけれど、日本と諸外国と「どちらが正しいのか」という問題提起の仕方は少し前のめりすぎに感じた。


退避といっても、その地に生活の基盤のある人の退避とそうでない人の退避では「退避によるダメージ」は比較にならない。


10%と20%のリスクの差があれば10%を望むのが人だ。
たとえ10%でも大丈夫だという環境でも、0.1%と0.2%といったリスクの違いがあれば0.1%の方が良い。
それが確率に対する人の基本的なスタンスだ。(どんなに確率が低くても、嫌なものは嫌なのだ。)


それ以外のリスクを考慮する必要がなければ誰だって確率の低いほうがいいに決まっている。
諸外国は、「それ以外」を考慮する必要は少ないのだから80kmと言わず国外退避でも基本的にかまわないが日本政府はそうはいかない。
そこに、差ができてしまうこと自体は自然なことで、致し方ない。
それに加えて遠い異国で自国の政府の権限の及ばない地でのことならばなおさらだ。
放射能のレベルに対してここからが安全、ここからが危険というものがあるならば(基準値が本来それなのだろうけど)簡単なのだけどそうではないから難しく、だからこそ原発事故は(システムとしての)社会を容易に不安に陥れて機能不全に陥れるという意味で怖いのだと思うけど・・・


不確定要素を確率で割り切るという自然に対して不遜な方法でしか対応できないのが社会というシステムなのかもしれないが、どこに割り切り点を設定してもその結果は非情だなとは思う。
ただ、同じ確率による割り切りでも「〜圏外はむやみに避難してはいけない」とはなっていないのが僅かながら救い。


諸外国も(人口密度の違いもあるだろうが)自国で災害が起きた時には同様の考慮をすると思う。
他国で災害や治安悪化が起こった時の日本の外務省の退避勧告など見ていればそのような推測が立つ。


もちろん、諸外国が80km圏内としているのに対し、生活の基盤であることを考慮したうえで30km圏内となっている事が妥当かという問題は別の問題としてある。
つまり40kmの方がいいのではないかとか、いや60kmの方がいいだろうとか、移動にリスクのない人は自発的に移動したほうがいいとか・・・
これは情報開示とともに最悪のシナリオを考慮して個々の事情に照らし合わせて今よりももっと突っ込んでした方がいいと思う。
でも、諸外国と政府の勧告が同じでないことを指して「どちらかが間違っている」とするのはピント外れに感じてしまう。


原発で事故など起こることは無いと強弁していたにもかかわらず起こってしまったことへの潜在的な怒りや、悪化していく事態に対して手が出せないという放射線事故特有のイライラや不安がある中で、政府の対応の鈍さはどうしても目立ってしまうし、実際そうだと思うから、改善を願ってその点を指摘するのはいいけれど、それを強調しようとするあまりこのような問題提起の仕方をしてしまうと却って議論を空論化して、本来の必要な議論を難しくしてしまうように思ってしまう。


この方は番組の中で貴重な情報も発信してくださったのでそれに比べれば小さいことかもしれないけど、やはり気になることは気になる。

勇敢な人たちへ

東電や関連会社の作業員の方、自衛隊自衛官の方、消防庁の隊員の方
命の危険を掛けてくれているすべての関係者の方


一人の人間として、皆さんの献身的な行動に感謝する気持ちを抑えることはできない。


それを警戒する人も多いが、私はそれを抑えたいとは思わない。


この気持ちそのものは「精神論」だとも「精神主義」だとも思わない。


でも、これは一般化しないほうがいい。
概念化して固定もしない方がいい。


ただただ素直に
「ありがとう」
「私はあなたに感謝します。」
と・・・


「私もそうありたい」
と・・・


「あなたもそうあるべきだ」
とはしたくない。


社会が社会の責任を忘れて個人の犠牲を「あて」にしないように。


私はそう思う。


ありがとう、勇敢な人たち。



雑多メモ

絶対安全は無い
(だからと言って「絶対安全」は「より安全」を維持するのに有用なことには変わりない)
科学者や技術者ならだれでも知っている。
そうでない人も知っている。
でも、多くの人が、それが今、ここで、こんな形で起こるとは思わない。



万が一を想定できるか?
できるかもしれない。
100万が一は想定できるか?
かろうじてできるかもしれない。
一億分が一は想定できるか?


べき乗則のような世界で生きているということは、永遠にその問いからは逃れられないということ。


どこで線を引くか(何を「それ」として切り取り、それ以外を誤差、バラツキ、例外として捨象するか)
それが、科学者や技術者、そして理性に突き付けてくるものだ。



自動車も、仮に6シグマですべての部品が管理できたとしても、やはり不具合は起こる。
絶対不具合を起こさない自動車などない。
まして、運転者に運転が任されている以上想定外の使われ方は無数にあるので絶対に安全な自動車などない。
そして間違いなくその犠牲者は存在する。
でも、社会はその存在を許容する。(犠牲者がこれを許容するかは分からないが社会は許容する)


電車も同じだろう。
でも、自動車に比べより公共性、被害規模の違いから求められる「何か」によって線引きの位置は違う。(使われ方の制限が厳しい)
その違う線引きの位置によって社会はその存在を許容する。


飛行機なども「絶対安全」を口にすることで「より安全」が維持されているということはあっても、「絶対安全」が維持されているのではない。
より安全が維持されている事で社会はその存在を許容している。


原発も確率に関する限り、これに変わりは無い。
しかし、(社会にとって)その損害の規模はやはり違う。
(もちろん、自動車事故の犠牲者や原発事故の犠牲者にとっては悲劇であることに違いは無い)


一般論として「すべての物事にはリスクがある」(私はこれを真実だとは思っている)とすればいずれも同じ地平におかれるが、実際はリスクの評価によって違って来るのはもちろんのこと、その扱われ方もまるで違ってくる。


「リスクを恐れては何もできない」という個々レベルの実感は、一般化されたとたんにそれは薄められ、現実とかい離し始める。




想定外は起こる。
今回はたまたま「津波想定」が(社会にとって)想定外だったかもしれない。
でも、それを再度想定したから「想定外はおこる」を阻止できるかといえばそうではなく、「それにもかかわらず起きる」というところにBlackSwan的なできごと、べき乗則が示すところの本質があるように思う。(そして、「これがそうであった」と事後に判明するのもその特徴だ。)

計画停電

需要は危機意識の度合いによって変わってくるーーー流動的
この我々自身の流動性のために、判断は非常に困難なると想像できる。
事態が混乱しているのだから、情報もやはり混乱せざろう得ないだろう。
生命にかかわることもあるので、できるだけ通電させようとして起きている混乱なのだろうと好意的に受け取りたい。
我々のスタンスとしては、計画停電が実施されることを前提として暮らすしかない。
計画停電が結果的に実施されなくて、準備かけた貴重な労力が無駄になることによる不満も出てくるとは思うけど、実施されなくて少しでも致命的なリスクを避けることができればそちらの方がいい。
これは精神衛生上の個人的な考え方の問題だけれども計画停電が実施されるのがスタンダードで、実施されなければ幸運と考えた方が落ち着いていられる。
不要な電気使用を控えれば計画停電が行われなくて済む可能性があり、計画停電がされなかったからといって電気消費を増やせば計画停電に踏み切りざるを得ないという条件の中で、できるだけ電気消費を減らして計画停電にならないように、生命にかかわる方々にできるだけリスクをかけないように協力していくのが好ましいのではないだろうか?

供給できる電力に限りがあるという現実を踏まえて、混乱を避けるためにも、計画停電の実施状況が流動的であったとしても、それに左右されることなく、できる限り便利レベルを下げて電力消費節約に協力した方が良い結果を生みそうな気がする。