一九九〇年に発表された大沢在昌の『新宿鮫』(光文社カッパノベルス)と九一年の第二作『毒猿』はいずれも一匹狼の刑事の新宿鮫を主人公とし、その舞台を新宿としていることは変わらないけれど、後者は私のいう混住小説のファクターを導入したことによって、より警察小説の奥行を深化させたといえる。船戸与一の言を借りれば、優れたハードボイルド小説とは民族葛藤を前提とするからだ。
(光文社文庫)
『新宿鮫』においても、その気配は漂い、最近はアジア系外国人の街娼が激増し、それに伴い、新宿における不法労働者も増え、組織化されたものもでき、地元の暴力団との抗争も発生しているとの記述も見られた。だがそれはあくまで物語の背景的状況であって、前面に押し出されてはいなかった。その事実は新宿の同時代のカオス的状況と主人公の新宿鮫のプロフィルの関わりに比して、いささか平板な印象を与え、シリーズ化の行方が気がかりでもあった。『新宿鮫』が大沢の新境地を開いた作品で、日本推理作家協会賞が与えられたことも承知していたけれども。
しかしそれはこちらの杞憂だったことが「新宿鮫Ⅱ」として出された『毒猿』を読んで、ただちに了解された。そればかりか、大沢はこれまで本連載で取り上げてきた『真夜中の遠い彼方』、船戸与一「東京難民戦争・前史」、内山安雄『ナンミン・ロード』などを先行する作品として踏まえ、『毒猿』を送り出したようにも思われた。先の三作はいずれも難民とボランティアに準ずる人々の視点から描かれていたが、大沢の作品においては鮫島という刑事の側から捉えられた難民と流民である。
それは難民と流民が日本の法体系に抵触し、その中にさらに浮かび上がる構造となることは必至だし、それが刑事を主人公とする警察小説のパラダイムに他ならないからだ。だがこの構造は『毒猿』が警察寄りの反動的小説ということを意味しはしない。これも船戸のテーゼをもじれば、優れたハードボイルド小説とは、主人公が難民やボランティアに準ずる人々であれ刑事であれ、混住社会における民族葛藤の断面を不可避的に描いてしまうことになるからだ。
『新宿鮫』と異なり、『毒猿』は始まってまもなく、大久保のマンションの一室にある台湾人相手の常設賭場の監視の場面に至る。つまり早くもこの物語が台湾人絡みであることを告げている。これは警視庁と新宿署の合同によるもので、鮫島も駆り出されていて、その場面に続き、次のような一文がはさまれ、この『毒猿』の背景を示唆している。
新宿に、台湾人が大量に流れこみはじめたのは一九八〇年代の中ころだった。いわゆる出稼ぎのホステスたちがどっと日本を訪れ、台湾バー、台湾クラブが全盛を誇った。一時は、新宿だけで二百軒を越す勢いだった。
こうした台湾クラブの大半は、決して大きな店がまえではなく、ママひとりに、ホステスが数人という規模で、店のあがりは、ホステスらの売春によるものがほとんどだった。
このような説明に加えて、新宿に反映されている台湾の様々な動向が語られていく。台湾本国の景気がよいために出稼ぎが減り始めると同時に、東京都庁の新宿移転に伴い、接待などに使われる高級で大型の韓国クラブが増え、小さな台湾クラブは客足が落ちている。そのために数えきれないほどあった博打好きの台湾人相手の常設賭場も減っている。それらの賭場を開いていたのは台湾出身のやくざたちだった。彼らは八四年から八五年にかけて台湾で起きた「一清(イーチン)運動」=やくざ狩りによって、台湾国内から追われ、新宿や香港に逃れ出た。そして新宿の台湾人ホステスのヒモとなり、賭場を開き、二百人以上の台湾やくざが台湾クラブに寄生し、用心棒代を取り立てるようになっていた。
ところが新宿の特殊性もあって、日本人やくざと台湾人やくざとの間で抗争というほどのトラブルは起きず、むしろ両者の間に交流が生まれた。そのことによって、日本人やくざが台北に進出したり、台湾の組織暴力団である四海幇、竹連幇、牛埔幇などとの関係が成立し、台湾から地下銀行を通じての覚醒剤や銃器の密輸に関与し始めていたのである。これらが『毒猿』における新宿と台湾の関係であり、刑事としての新宿鮫が捉えた光景といえよう。
これは蛇足かもしれないし、ここではいささか場違いであるにしても、ひとつだけ付け加えておきたい。台湾における七〇年代の日本人売春ツアーを描いた黄春明の小説『さよなら・再見』(田中宏、福田桂二訳、めこん)も出され、こちらは『毒猿』とは逆に、台湾から七〇年代の日本が相対化されていることになる。
その一方で、これも大沢の『新宿鮫』シリーズの特色である視点の複合化によって、新宿のキャバレーのメンバーが登場する。店長の亜木、ボーイのナンと楊、ホステスの香月、奈美、郁などだ。ナンはバングラデシュ人、楊は台湾か本土がわからないが、中国人、奈美は母親が中国残留孤児で、黒龍江省に生まれ、十三歳で日本に渡ってきていた。『毒猿』の物語はこの奈美、中国名を清娜(チンナ)とするひとりの女性の視点からも語られ、進行していく。楊は亜木を殺し、中国語が話せ、自分をかばってくれた奈美と行動をともにするに至る。この楊こそが本作の主人公ともいえる「毒猿」に他ならないのだ。日本語が話せない楊にとって、彼女は通訳の役割を果たすことになるのだが、この関係は九〇年代の混住社会の多様性を示している。だがそれはともかく、「毒猿」=ドゥユアンとは何者なのか。
それは来日した台湾人の台北警察局刑事郭栄民の口から語られる。郭は北京語、台湾語、日本語を話す存在として設定されている。それは台湾における日本の植民地、中国との関係などを象徴していることになろう。郭は鮫島にいう。「私がつかまえたいのは、ギャング、人殺し、強盗、もし、そいつらに武器を提供している外国人がいたら、それもつかまえたい。だから、あなたほど、外国人と暴力団、わけられない」と。台湾、日本を問わず、八〇年代を通じて、犯罪の国家や民族も含めたボーダレスなグローバリゼーション化が告げられていることになろう。
その中枢ともいうべきトポスが新宿であり、彼はその目的を果たすために、来日してきたのである。それは本連載22の『MONSTER』のところでもふれた八九年のベルリンの壁崩壊、及びやはり同年の天安門事件の余波でもあろう。
郭は語る。自分は警察に入る前、軍隊にいて、スペシャル・フォースの訓練を受け、金門島守備隊に配属され、「水鬼仔(ツイクイア)」と呼ばれた。「水鬼仔」はエリートで、射撃や格闘に卓越し、結束も固いが、自分は家庭の事情により、それを離れ、警察に入った。そして「一清運動」が始まり、台湾社会からギャングや暴力団が一層されたかのようだったが、八七年に台中交流が始まり、本土から銃器が豊富に流れこみ、それに加えて犯罪も巧妙化し、プロである「職業凶手」=殺し屋も生まれた。その一人が「毒猿」で、彼の正体は「水鬼仔」で一緒だった劉鎮生ではないかと。
「毒猿」は四海幇のボスからの依頼で、殺人を繰り返してきたが、そのボスが敵対するギャンググループに誘拐され、その報復のために「毒猿」を使った。ところがそのボスはまたしも同じギャングに捕われ、「毒猿」の本名をもらしてしまったので、その住居が襲われ、愛人が撲殺されてしまった。それでそのボスは日本に逃げ、日本のやくざにかくまわれているのだが、「毒猿」はギャングたちを処刑した後、彼も追って新宿へとやってきていたのである。それがキャバレーのボーイ楊だったのだ。
ここまでたどれば、もはや『毒猿』の構図は明らかだろうし、その物語構造の混住性も了解頂けると思う。すなわち、日本の一匹狼刑事新宿鮫と同じような台湾の刑事郭、「毒猿」と中国残留孤児の娘奈美、追われる台湾人やくざと日本人やくざの三角形の構図、混住する関係のうちに物語は展開し、それは新宿御苑におけるクライマックスへと突入していくのである。混住アクションドラマの秀作と呼んでいいようにも思われる。
なおもうひとつ台湾絡みのハードボイルドコミックを紹介しておく。それは真刈信二作、赤名治画『勇午』の「台湾編」全4巻で、こちらは一味異なる台湾のドラマを示して、とても興味深い。よろしければ、ぜひご一読あれ。