『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その17

その16の続き。


陳崇時為大司徒司直、與張敞孫竦相善。竦者博通士、為崇草奏、稱莽功徳。
崇奏之曰、竊見安漢公自初束脩、値世俗隆奢麗之時、蒙両宮厚骨肉之寵、被諸父赫赫之光、財饒勢足、亡所啎意、然而折節行仁、克心履禮、拂世矯俗、確然特立。惡衣惡食、陋車駑馬、妃匹無二、閨門之内、孝友之徳、衆莫不聞。清靜樂道、温良下士、惠于故舊、篤于師友。孔子曰「未若貧而樂、富而好禮」、公之謂矣。
及為侍中、故定陵侯淳于長有大逆罪、公不敢私、建白誅討。周公誅管蔡、季子鴆叔牙、公之謂矣。
是以孝成皇帝命公大司馬、委以國統。孝哀即位、高昌侯董宏希指求美、造作二統、公手劾之、以定大綱。建白定陶太后不宜在乘輿幄坐、以明國體。詩曰「柔亦不茹、剛亦不吐、不侮鰥寡、不畏強圉」、公之謂矣。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

大司徒司直の陳崇は張敞の孫の張竦と仲が良かった。張竦は広く学問に通じており、陳崇のために王莽の功績と人徳を称える上奏文の草稿を作り、陳崇はそれを上奏した。その内容はこうである。



私が見たところ、安漢公(王莽)は学問に打ち込む若い頃から家の勃興の時期と重なり、皇帝・皇太后の血縁という恩寵を受け、伯父たちの赫赫たる威光を浴び、財力は満ち足り、意に逆らうことも起こらないという状況でありながら節制して仁徳ある言行を心がけ、心を抑えて礼を守り、世俗の風潮を矯正しようとし、ひとり際立った存在でした。粗衣粗食に甘んじ、車や馬もみすぼらしく、妻は一人しか持たず、孝行を行う徳行も知らない者はおりませんでした。清らかな生活で正しい道におることを喜び、下の者には優しく、友人には恵みを施し、師匠には手厚くしていました。孔子が「貧しくても楽しみ、富んでいても礼を守る方がよい」と言っていたのは、安漢公のことを言うのでしょう。



侍中になってからは、定陵侯淳于長が大逆罪を犯していると、安漢公は親戚ではあっても私情を優先せず、彼を誅することを建言しました。周公旦が反乱を起こした管叔・蔡叔を滅ぼしたり、魯の荘公の子の季友が兄叔牙を毒殺したというのは、安漢公のことを言うのでしょう。



そうして成帝は安漢公を大司馬に命じて国政を委ねました。哀帝が即位すると高昌侯董宏が指示を受け利を求めて皇太后を二重に立てようとしましたが、安漢公は自ら弾劾して王朝の危機を鎮めました。定陶太后の席を皇太后から遠ざけ、秩序を明らかにしました。『詩経』において「仲山甫は柔らかくても食べず、固くても吐き出さず、やもめや寡婦だからといって侮らず、強い相手でも恐れない」と言っているのは、安漢公のことを言うのでしょう。



先に名前の出てきた南陽の人陳崇。


彼は王莽を称賛する上奏文をたてまつったが、その草案を作ったのは張竦という人物だった。



(張)敞孫竦、王莽時至郡守、封侯、博學文雅過於敞、然政事不及也。竦死、敞無後。
(『漢書』巻七十六、張敞伝)

杜林字伯山、扶風茂陵人也。父鄴、成哀輭為涼州刺史。林少好學沈深、家既多書、又外氏張竦父子喜文采、林從竦受學、博洽多聞、時稱通儒。
(『後漢書』列伝第十七、杜林伝)


張竦は前漢宣帝の頃の有能な京兆尹だった張敞の孫で、後漢初期の功臣の一人杜林の叔父である。張敞は春秋左氏伝や古文の文字の読解に通じた学者*1でもあり、張竦も学問や文章については祖父を超えると評判だったという。



こういった当時の著名人にも積極的に王莽を支持し、協力した人物が少なからず存在したということなのだろう。

*1:漢書』芸文志・儒林伝。