郷土地名閑話

小学校の同窓会をやるなんて企画が持ち上がり、成り行きと言うか酔った勢いでなんちゃって幹事を引き受ける事になっちゃいました。「で」と言うわけではありませんが、無茶苦茶ローカルですがスノブな郷土歴史ムックをやってみます。かなりローカルで地元の人しかわからない話がたくさんありますが御容赦下さい。まず三木城の推測図です。

注目してもらいたいのは地名です。それも、
    上津橋 - 府内 - 芝町 - 大塚
これが推測図、つまり三木城があった頃の地名なのか、現在の地名なのかです。


上津橋

上津橋がそんな昔からあったのかどうかが実は疑問です。私が調べた範囲では「いつ」架けられたか判明しなかったのですが、傍証により否定できる気がします。つまりは「上津」の地名の由来です。上津とは言葉通り、美嚢川の水運の船着き場から来ています。ちなみに

船着き場 場所 役割
上津 東條町 街道街庶民の集積場
中津 福有橋近辺 奉行所の集積場
下津 下町あたり 宿場町庶民の集積場


当然ですが舟運事業が始まり上津が出来るまでは、上津と言う地名もなく、たとえ橋があっても上津橋とは名づけられない事になります。でもって舟運事業が始まったのは芝町歴史年表解説によると、

1770年 明和七年 三木川通船

 1602年(慶長七年)に芝町へ来た大西貝屋惣右衛門の子孫である貝屋清七が四・五石積み通船三十隻で三木川通船を始めている。ところが開業したものの荷物が集まらず実質二・三隻しか稼動しない状態で冥加金の支払いにさえこと欠き通船業は失敗した。清七は明和九年失意のうちに亡くなっている。

1773年 安永二年 福田与六郎が三木川通船を受け継ぐ

 上五ケ町惣年取芝町の福田代蔵(与六郎)と下五ケ町惣年寄銭屋与七郎の二人が、貝屋清七の始めた三木川通船を受け継ぎ三隻から始めた。近隣の地区とたびたび紛争が起こっていますが、寛政六年には船数が六隻となり五石船から二十石積船と大型化している。文化年間には八隻と船が増加続けています。 三木町が大工道具を中心とした金物などの商工業の発展により三木川通船も発展していった。 福田代蔵(与六郎)はこの頃以降20年以上上五ヶ町の惣年寄を務めています。

ちょっとわかりにくい文章ですが、三木川(現美嚢川)の舟運事業が始まったのが1770年です。三木城が一国一城令により破却されたのが1615年。つまり三木城の絵図に書いてある上津橋は、そこに橋があったかもしれませんが、少なくとも上津橋とは呼ばれていなかったぐらいは言えるかと思います。もう少し考察を加えると、船着き場としての上津は1773年に福田与六郎が引き継いだ後に、かなりの発展を見せたとなっています。その上津への交通の便のために架けられた可能性はあると見ています。


府内

こんだけ上津橋にこだわったのは次の「府内」のためです。府内は地元の人ならご存知ですが、東條町と平山の2つの地区を指します。この府内(ないしは府内町)と言う地名の由来が判らないのです。この地名は1954年に付けられたそうですが、通常「府」がつく地名は古代なりに役所があったところが多いものです。ところがそんな伝承は聞いたこともありません。強いて言えば上津の船着き場を監視するための役所があったと考えられない事もありませんが、私は遺憾ながら存じません。

一方で東條町と平山の地名由来は比較的わかっています。東條町は江戸時代に丹波方面への街道街として発展したようで、それこそ現在の東条町(現在は合併して加東市の一部)に向かう道筋の街だから東條町と名付けられたとなっています。伝承では加東市東条町だけでなく丹波への街道として機能したとなっていますが、地名となるぐらいですから余程加東市東条町との交流が盛んだったんだろうと推測します。小学生の低学年ぐらいまでは東條町内に馬車が来訪しただけでなく、馬のつなぎ場と言うか、蹄鉄を打つところがありました。あの馬車が加東の東条町から来ていたのかどうかは存じませんが、上津の交易はそれぐらいの影響力を持っていたのかもしれません。

もう一つの平山は湯の山街道の街です。街道は平山町内を緩やかに上っており、そのために平山と名付けられた(それだけかどうかは後で考察します)となっています。湯の山街道は別名有馬街道とも呼ばれますが、伝承では秀吉が三木から有馬温泉に通うために整備したとなっています。湯の山街道も有馬に向かう専用街道と考えるよりも、さらにそこから三田、篠山、さらには京都方面に向かう街道になり、織田本国への連絡路として整備したと考える方が妥当と見ます。

現在ではどっちの道も歩く人さえ少なくなっていますが、依存している街道が違う2つの街の合体と考えてよさそうです。でもって、なんで府内なのかは不明です。まあどっちかにしたら住民がもめるから取ってつけたような地名にした可能性はあると推測しています。


芝町

ここは現在、湯の山街道沿いにある街ですが、かつては美嚢川の河川敷の一部の芝原に出来たことから芝町となった言われています。かつての美嚢川をイメージするのが難しいのですが、下津のあたりの川幅は5〜10mぐらいであっとの話もあり、川筋自体は狭い代わりに、広い河川敷があったんじゃないかと推測しています。そうなると東條町自体も含むような広い範囲が昔の芝町だったのかもしれません。あえて言えば、芝町が低地であったのに対し、平山がやや小高い地域であったので、地名として区別されたのかもしれません。

そこからの推測ですが、かつては小高い部分の平山と低地の芝町があり、そこから川沿いの東條町が独立し、芝町自体は湯の山街道沿いの山側(平山の西側)のみ残ったぐらいの推測です。ここで面白いと思ったのは、現在の大手地区の帰属です。芝町歴史年表解説には大手もかつて芝町の一部であったとなっていますが、平山にも大手は平山の一部であり、そこから独立したと伝承されています。これはどっちも真実の気がします。大手の発展は東條町よりさらに遅かったと考えられ、芝町と平山の境界自体も曖昧だった気がします。大手の発展期には芝町も平山も「あそこはうちの一部」ぐらいにみなしていたんだろうぐらいです。


大塚と久留美

ここは芝町坂をあがった小高い丘の上に形成されています。でもって気にしだすと気になるのが「塚」の文字です。これは古墳の存在を意味することが多い地名です。地名の由来にも古墳の存在を示唆するものがあるようで、wikipediaには、

由来は多くの古墳があったことから名付けられたが、「大塚」の「大」は王の変化で王塚だと呼ばれる説があり、「塚」は古墳であるか貝塚であるか墓であるかといわれている説がある。諸説はあるが、結論的な証拠はなく、いつごろから呼ばれているのは分からない

よく読めばかなり曖昧な表現で「王塚」まで持ち出しながら、「結論的な証拠はない」、どうも具体的な古墳が確認されていないようです。私も聞いたことはありません。あんだけ宅地開発されているのですから、「多くの古墳」があればなにか残っていても良さそうなものですが、宅地開発が古すぎて全部忘れ去られてしまったのかもしれません。ただなんですが、

    「塚」は古墳であるか貝塚であるか墓であるかといわれている説がある
貝塚は少々無理がある気はしています。なんと言っても海から少々遠いです。もし貝塚なら海の貝ではなく、陸の貝、つまりシジミやタニシになります。まあ、海から貝塚を形成するほどの大量の貝を取り寄せられる強大な王権があったとも考えられなくはありませんが、それなら王墓である古墳もかなり立派なものである必要がある気がしないでもありません。どちらにしても証拠がないので、わからないです。

それより驚いたのは大塚はもともと久留美庄の一部であった事です。古代は久留美の辺縁部分であった事を意味します。久留美から見ても大塚は小高い丘になり、小高い丘は古代の灌漑技術では水田にならず、高燥地として墓地(古墳)が建設される事はしばしばあります。現在の久留美からかつてを想像するのはこれまた非常に難しいのですが、遥かなる古代は久留美に三木の中心があったとも考えられます。これは別所氏が当初に君が峰に本拠地を築いた理由にもなりそうです。三木盆地の中心は久留美方面にあったので君が峰にまず本拠地を築いたんじゃなかろうかです。

現在の美嚢川沿いの旧市内は、たびたびの氾濫があり、古代的には住むところとして適していなかった可能性です。それこそ芝原であったです。それが治水技術がそれなりに発達し、現在の三木城に本拠地を移動させることができたぐらいの考え方です。言っときますが、ほとんど推測ですから、その辺は御斟酌お願いします。


岩宮

古代の大塚が久留美庄の一部であったのに対し、岩宮の成立は遅かったようです。現在はどこに境目があるのかわからないぐらいですが、かつては違ったと考えるのが妥当のようです。岩宮は文字通り岩壷神社の門前の地域を指す呼称ではありますが、この呼称は戦後に成立したものと知って少々驚きました。江戸期は長屋村であり、久留美村とも別の村となっています。長屋の地名の由来はそこに武家長屋があったためとなっています。この武家長屋ですが、別所時代のものか、秀吉時代のものかの考察が必要です。

どこにも書いてなかったのですが秀吉時代のものと考えるのが妥当と見ます。理由は別所時代の兵制は兵農分離前のものであり、城下町に武家屋敷が並んでいたとは考えにくいからです。別所家滅亡後は織田家兵農分離兵制になり、その時に作られたと考えるのが妥当でしょう。ここももう少し考えると、城下町に住む武士も上級になるほど城の近くに住み、さらに大きな拝領地をもらって屋敷を構えます。逆に下級になるほど城から遠いところになります。長屋の呼称に時代変遷があり、戦国期の位置づけがチト難しいのですが、今でいう棟割り長屋(つまり下級武士用のアパート)が建てられていたんじゃないかと考えています。ちょっと城から遠いと思うからです。

地名として重要と思うのは秀吉時代の武家長屋を取っている点です。つうのも、それ以前から地名としての村が成立していれば「長屋村」にならなかった気がします。芝町の項でも考察しましたが、岩宮近辺もやはり美嚢川の河川敷の一部、つまり芝原じゃなかったろうかです。この芝原は久留美と三木の境界を自然になしており、誰も住んでいなかったから武家長屋が作られ、三木廃城後に治水が整備されて村として成立したんじゃなかろうかです。

そうそう長屋から岩宮への地名変更の理由は「長屋」の語感の変遷として良さそうです。奈良時代ぐらいまで遡ると長屋はお屋敷の美称の一つになります。岩宮が武家長屋の長屋を地名にした当時も長屋はそんなに悪い語感ではなかったとも考えます。これが時代が下るほどイメージが低下し、やがて「長屋 = 裏長屋 = 貧乏臭い」になったぐらいです。長屋から岩宮への変更も伝統と長屋イメージの相克があったようで、

  • 留美村と合併(1889年)して美嚢郡留美村大字岩宮
  • 三木町に編入された時(1951年)に三木町大字長屋
  • 三木市になった時(1954年)に岩宮
1889年に長屋から岩宮に地名変更が行われていますが、私の通った小学校の前身は長屋小学校となっています。この長屋小学校は1903年創立ですが、1889年に岩宮になっていても岩宮小学校にならず長屋小学校になっているのが確認できます。まだ当時は岩宮と言う地名が定着していなかったのかもしれません。でもって現在ですが、私の世代でも何故に前身の小学校が長屋と言う名前が付けられたのかの由来の伝承は怪しくなっており、ましてやかつてこの地区一帯が長屋と呼ばれていた事を知っている人間も少なくなっています。現在なら郷土史研究家レベルにならないと知らないかもしれません。


感想

もう少しやりたかったのですが、案外手間がかかったのでこの辺にさせて頂きます。同窓会関連で調べだしたのですが、関連性があると言うだけで、なんにも同窓会の役に立っていない事を遺憾とさせて頂きます。