石陽消息

2017-11-25 ネパールと日本の「破戒」仏教

富永仲基の「加上説」ではないが、人はあとから知ったことを先に述べたがる。人の考えや知識は時間とともに深まり広がる。つまり、今現在の考えや知識は、昔のものに上書きに上書きを重ねた結果だ。しかし、時に順序を変えて、時間軸に沿って考え直してみるのは必要であるし、誠実でもあると思う。

石見では浄土真宗門徒が多いので、真宗は空気のようなものである。子供はその環境を当たり前のこととして育つ。寺の住職に妻がいて子がいること、髪を生やしていること、肉や魚を食べ酒を飲むこと、つまりわれわれ一般人とまったく同じであって、ただ袈裟を着ているときだけ僧侶だとわかるのみである。平日には背広を着て学校とか役場で働いているのだ。田舎で成績のいい生徒はだいたい医者の子か先生の子、お寺の子と相場が決まっている。お寺の子やお寺の奥さんはごくふつうの田舎の風景で、そういうものに何の疑問も持たずに育ち、長ずるにおよんで、仏教僧は独身を守るものだと知って驚かされるわけだ。

真宗の坊さんでむしろ目立つのは、髪があることだろう。頭を丸めるのは俗世を離れたしるしであるから、有髪の僧は特異たらざるを得ない。剃髪していると洋服は似合わず、袈裟とか作務衣などを着ないとさまにならない。しかし真宗の坊さんは逆で、洋服を着ればどこからどう見ても一般人、袈裟を着けて初めて僧侶とわかる。兼業に何の差しさわりもない。

僧侶の戒律は250もあり、その中でも沙弥に課される十戒が最低限であるが、不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不食非時食・不蓄金銀宝である。現代日本仏教僧は、さすがに不殺生・不偸盗は守っているにしても(それは僧侶に限らず市民たるもの必ず守らねばならない道徳である)、不淫・不飲酒・不歌舞観聴・不食非時食などは守られてはいない。

日本の僧侶妻帯は、真宗では宗祖親鸞以来の長い伝統なのに対し、他の宗派明治5年の「肉食・妻帯・畜髪勝手たるべき事」という太政官布告から(大っぴらに?)それを始めたので、世俗権力がそれを推し進めたわけである。このときいわば「日本仏教真宗化」が行なわれたとも言え、さしたる抵抗もなくこのような「解放」を受け入れた背後には、真宗がそれを用意していたということもあるのだろう。

現象的に見るならば、真宗はいろいろなものに似ている。長じて、まずこの妻帯という点が、キリスト教の新教プロテスタントに似ていることに気がついた。カトリック司祭結婚しないし、修道士も独身を貫く。

一方で、観光寺院から税金を取り立てようという古都税の騒動のとき、東も西も本願寺は拝観料など取らないということに気づかされた。真宗は信者に支えられているので、信者の自由なアクセスを妨げることはない。この点は神社とも同じだが、カトリックとも共通する。カトリックの教会もお祈りをしたい信者のために開放されている(プロテスタントにとっては教会は集会の場であるから、それがないときには閉められていることがままあり、閉鎖的な印象を受ける)。

本願寺法主には中世カトリックの法王を思わせるところがあるし、異端(異安心)の取り締まりに厳しい点もカトリックの異端審問に似ていなくもない。浅原才市に代表される妙好人カトリックを始めヒンドゥー教イスラム教にも見える民衆聖者の日本版と言ってもいいのではないか。

ほとんど阿弥陀のみを頼む信仰一神教に似たところがある。非寛容な宗派といえば他宗を折伏する日蓮宗が思い浮かぶが、易行と称する真宗はまさにそれゆえ、念仏阿弥陀信仰専一であるゆえに、その結果として門徒もの知らずともなり、神祇不拝ともなる。一神教的な不寛容とも言えよう。

明治廃仏毀釈ショックから立ち直った真宗は、ハワイ本願寺上海本願寺のような海外布教や中央アジアを踏査した大谷探検隊、能海寛を始めとするチベット入りを目指す青年僧の輩出などのように、海外に向けて活発な活動を行なう。これは欧米キリスト教社会の活動に倣ったもので、帝国主義の手先ともなりかねないところまでよく似ているが、欧米のホテルに聖書が置いてあるのを模して「和英対照仏教聖典」を置くように努めたり、スリランカ仏教徒がYMCAに倣ってYMBAを作ったりしたのと軌を一にする。


最も新しく知った知識は、ネワール仏教である。これは、ネワール人と呼ばれる主にネパールカトマンドゥ盆地に住む人々が信仰している仏教の一形態で、亜大陸においては滅んだとされるインド仏教の最後の生き残りであると言える。中国と違い、インドには統一王国が築かれることはなく、文明圏としてのインドに属するさまざまな国が分立していた。いくつか強大な王朝はあったが、インド文明圏を統一する王朝はついになかった。現在のインド共和国は英領インドの後継国家で、そのためネパールはそこに含まれない。ネパール軍隊が強く、イギリスに屈服しなかったため独立を守っていたからだ。しかし、ネパールインド文明圏に属する。辺境ゆえの特殊性はあるけれども。

ネパール国土インドチベットの間で細長い短冊の形をしており、高度に従って三つの文化圏に分けられる。インドと国境を接するタライと呼ばれる低地はまったくインドそのままと言ってよく(ブッダ生誕の地ルンビニーやラーマ王が結婚した場所はネパール領内にある)、標高3000メートル以上の高地はチベット系の民族が住みチベット仏教ラマ教とも言われる)が行われるチベット文明圏である。その中間の山地盆地が特色ある文化を持つネパール本土と見なしうる。ここにネワール人が住んでいる。だが、ネワール人自身はチベットビルマ系の言語を話すなど、独特なところはいくつもあっても、国語であるネパール語インド・アーリア系で、ヒンドゥー教が圧倒的に優勢であり、衣食など生活文化はインドそのものである。この点が同じくインドチベットの間にあるブータンとまったく異なる。ブータンは住民もチベット系で、宗教チベット仏教である地域であって、つまりネパール標高3000メートル以上の地域と同じだ。チベット仏教は生き仏信仰宗教生活の中心にあるなど、インド仏教とはかなり異なる独自の文明圏を成している。

ネパールの人口は約2500万人で、80.6%がヒンドゥー教徒、10.7%が仏教徒、そのほか4.2%のイスラム教徒などがいる(2001年の統計)。民族では、ここで見る独特なネワール仏教の担い手であるネワール人が5.4%である(しかし言語としてネワール語を母語とする者は3.6%)。「ネパール」という名称はもともとカトマンドゥ盆地を指していて、それが国の名前ともなったので、ちょうど「ヤマト」が奈良盆地一帯の名前から国全体を指す名前にまで拡張されて使われるのと似ている。そのもともとの「ネパール」であるカトマンドゥ盆地には、首都カトマンドゥ、南隣のパタン、東のバクタプール(バドガオン)という三つの町があり、1769年にゴルカ族によって征服されるまで、それぞれを首都とする三つの小侯国があった。ゴルカ王朝ヒンドゥー教徒で、この王朝のもとでヒンドゥー教の浸透はいっそう進んだであろうが、それ以前から三侯国の王はヒンドゥー教徒であった。しかし、この三つの町には800近い寺院があるが、カトマンドゥではそのうちの40%が仏教寺院であるほかに、ヒンドゥー教仏教双方に属するとされるものが5%ほどある。仏教および仏教ヒンドゥー教双方に属する寺院は、バクタプールでは全体の2割程度にとどまるものの、パタンでは7割にも及ぶ。ヒンドゥー王の下においてもそうなのだから(ネパールは2008年まで王国だった)、現在仏教が退潮しているとしても、過去においてはかなり盛んであったことがこのことからもわかる。

ネワール仏教の特徴は、1.二重信仰と、2.カースト化にあると言えよう。

仏教神道の二重信仰である日本では仏教信者と神道信者の数を足すと人口のほとんど2倍になるというふうに、統計の上でもはっきりと二重性を示しているのと異なり、ネパールでは自分の信仰としてどちらか一方を申告しなければならないので、仏教徒ヒンドゥー教徒統計上で截然と分かたれる。だから多数のヒンドゥー教徒ネワール人と少数の仏教徒ネワール人がいるということになるわけだが、しかしヒンドゥー教徒ネワール人が仏教寺院に、仏教徒ネワール人がヒンドゥー教寺院に平気で詣でているばかりか、ヒンドゥー寺院に仏塔やマニ車があったり、シヴァ神のリンガに仏像が彫られていたりすることがごくふつうの風景となっている。

カトマンドゥ盆地にはクマリという生ける女神がいる。サキャというネワール人仏教徒カーストの中から2、3歳の少女が選ばれて、初潮を迎えるまでの間、タレジュというヒンドゥー女神化身と見なされて崇拝される。初潮を迎えたらその務めを終え、別の少女が新しくクマリとなる。彼女はさまざまなヒンドゥー教の祭りで重要な役目を務める(最たるものは王国のヒンドゥー王にティカという額の印を授けることであろう)。最も華やかなのはインドラ祭のときの山車行列で、彼女は同じように着飾ったガネーシュ、バイラブ役の同年配の少年とともに山車に乗って町を巡る。このヒンドゥーの祭りには5人の仏教司祭も五仏陀として加わる。仏教徒はクマリはタレジュでなくヴァジュラ・ヴァーラーヒーの化身とするが(ちょうど祈雨儀礼の中心であるマチェンドラナートを仏教徒は観音だとしているように)、ヒンドゥー教の神であるガネーシュやバイラブをクマリと同じ仏教徒のサキャ・カーストの少年が務めているのを見ても、それはささいなことで、タレジュであって困ることはない。要するに、ここではヒンドゥー教仏教が非常に混淆しているのだ。

仏教ではヒンドゥー教の神々が仏教を護る諸天として崇拝されているし(インドラ帝釈天、サラスヴァティーが弁才天ガネーシャが聖天など)、ヒンドゥー教の側では、ブッダヴィシュヌ化身のひとつと見なすなどのように、このふたつの宗教には相互に重なり合う部分があるのは確かだ。両教の基盤にあるヨーガ、また大乗仏教興隆とほぼ同時代的に興ったバクティ帰依信仰や、仏教においては密教の姿となったタントリズムのように、仏教ヒンドゥー教それぞれの中で時を同じくして現われた同じ性格の宗教性の発動という共通項もある。阿弥陀仏に一心に帰依する浄土教信仰は明らかにバクティである。しかし、仏教ヴェーダ聖典の権威やカースト、世界の創造者としての神々を認めないので、ヒンドゥー教としては受け入れられない教理であることもまた確かである。

支配下の民衆の多くが仏教徒であっても、王家ヒンドゥー教を信奉していたので、その圧力のもと、ネワール人仏教徒は結局カーストを受け入れた。本来カーストを認めない仏教としては逸脱であり堕落であると言われてもしかたがないし、実際そう非難されてきた。だが、このことについてはもう少し考えてみる必要があると思う。


世界の宗教は、非婚宗教と結婚宗教に分けられる。これは聖職者が妻帯するかしないかによる外形的な区別であるが、単純に外形的と言えないほど本質に関わる部分を持っていると思う。仏教キリスト教カトリック)、滅びてしまったが一時は勢力のあったマニ教などが非婚宗教で、イスラム教ヒンドゥー教、あるいは日本の神道などが結婚宗教だ。司祭者も家族を持つので、在家主義とも言えよう。キリスト教の中でも、プロテスタントは在家主義ギリシャ正教は、修道士非婚だが、司祭は家庭を持つ折衷的なありかたである。

非婚宗教出家主義をとる。それはエリート主義宗教とも言える。このような宗教形態にはふたつの大きな問題がある。ひとつは、出家者は俗世を離れ、生産に携わらず、宗教に専念する。彼らの生活は生産者に支えられなければならない。聖なる職務に携わるというわけだが、客観的に俗なことばで言えばごくつぶしである。民衆が直接支えられるそのような「宗教エリート(=ごくつぶし)」の数は限られる。したがって、非婚宗教においては権力の庇護が必要となる。実際日本の仏教を見ても、聖徳太子以来徳川慶喜まで仏教は権力の保護を受けてきた(廃仏毀釈でその関係は新政府から断たれるわけで、太政官布告は権力からの三行半と言える)。

二つ目は、戒律の問題である。宗教エリートたちは禁欲を旨とする。だいたい、性欲と食欲は人類の生存に関わる二大欲求で、それを断ったり厳しく制限する者は聖者と見なされ、一生不犯を貫く清僧は尊敬される。しかし誰もが聖者になれるわけではない。聖職についていても、その多くはやはり煩悩具足の凡夫である。大黒稚児生臭坊主般若湯などのことばが示すとおり、破戒は日本仏教の日常風景であった。カトリックでは男色が宿痾となっている。太政官布告には現状の公許の側面はたしかにあった。

一方で、イスラムには聖職者というものがいないし、ヒンドゥー教では司祭階層であるブラーミンは妻帯し家族を持つ。世界史には「イスラムの衝撃」というものがある。発祥の地インド仏教が滅びたのは、それまでにヒンドゥー教の興隆によって衰えていたところへ、イスラム勢力によるナーランダなどの仏教僧院の破壊が直接のきっかけを与えた。西においても、キリスト教の揺籃の地パレスチナシリアエジプト東ローマ帝国からイスラム軍に奪われ、そこでのキリスト教は瓦解し、今では細々と命脈を保っているにすぎない。オスマン・トルコの進撃と時を同じくして起きたキリスト教宗教改革にも、イスラムの刺激があることは疑いない。

当時のキリスト教世界の東半分はイスラム化したわけだが、インドの場合はヒンドゥー化したのであろう。非婚エリート主義宗教は権力の保護を失うと脆いということが、このふたつの例からわかる。そして両地域は結婚主義宗教に取り込まれていった。ヒンドゥー化ということは、つまりカースト化である。ヒマラヤの山裾、カトマンドゥ盆地のネワール人は仏教を保持したが、カースト化せざるを得なかった。仏教司祭も妻帯し、ひとつのカーストとなったわけである。それはヒンドゥー教におけるブラーミンのような存在であり、ブラーミン化したとも言える。妻帯し、なぜか鶏肉や鶏卵は食べないが肉食もして、剃髪していないこと真宗のごとくである。ただ、この昔の仏教僧侶のカースト、ヴァジラチャリヤには、子供のとき一時的に剃髪出家する儀礼を行ない、数日後に還俗するという習慣がある。今では一種通過儀礼となっているが、形の上では出家して在家に戻り、そのあとで密教の灌頂も受けているのだから、筋は通っている在家仏教の形式である。

カーストについて言えば、カーストはそれを否定する側からばかり云々されがちであるが、カーストのある側、ヒンドゥーの側から見れば、仏教キリスト教信者がひとつのカーストとなる、ということでもある。自分が他者を見る見方に対して、鏡合わせに他者が自分を見る見方があるのである。ネワール仏教の場合、反転して他者の見方を受け入れ、さらに細分化が行なわれたという変容を遂げたと解することができよう。

(また、日本の寺家については、特殊な職業だから寺家同士で結婚することが多いのではあるまいかと思っている。統計的にはどうなのか知らないが、もし想像の通りなら、日本の仏家もいくらかはカースト化しているとも言える。そもそも、親の仕事を子が継ぎ、同業者同士で結婚するというのは自然であるし、望ましくさえある。カーストはそのような緩い形でならどこにでも存在するものだし、合理的なものでもあるのだ。)

小さなことだが、ネパール仏教寺院では入場料を取られることがよくある。日本の観光寺院の拝観料徴収と呼応しているように感じる。ヒンドゥー教寺院は神道神社同様無料である(ただしヒンドゥー教徒以外は入場不可という寺院もある)。こういうのもおもしろい。よってくるところはあるのかもしれない。


破戒」妻帯宗派ができるのにはさまざまな事情があった。それを「破戒」の一点のみで判断するのは狭量だと思う。仏教にはさまざまな可能性があることを考えるべきであろう。原始仏教から(非仏説である)大乗、密教、さらには在家主義へと可能性が広がっていく柔軟さこそ、仏教の特質のひとつではあるまいか。地理的に見れば、辺境の地において在家主義が発生している。日本はアジア太平洋に落ちるきわ、仏教世界の最果てであるし、ネパールインド世界の最奥部である。このことも何かを示しているであろうか。さまざまのこと考えるネパールかな、である。

2017-10-31 ネパールに「日本語熱」はあるのか

カトマンドゥには市営バスがない。バスはすべて個人経営のようだ。会社組織であっても、給料は歩合制に違いない。きれいなバスはなくはないがないに近く、汚い小型バスとやや汚い小型バスばかり走っていて(さらに小さい乗合自動車とさらにさらに小さい三輪乗合自動車もある)、そのバスには車掌と呼ぶにはためらわれる薄汚い格好でゾウリ履きの男が乗っている。集金係の助手である。子供のこともあり、女であることもまれにはある。大きな荷物は屋根の上に載せるのだが、ましらのごとく梯子をするすると登って、客の荷物の上げ下ろしをしてやる。行き先を連呼して客を威勢よく呼び込むのが主な仕事で、停留所で降りてバスが動き出すまで呼び込みをし、走り始めたバスにひらりと飛び乗るのはなかなかいなせなものだ。バスはだいたいいつも込んでいて、たまにすいているのに乗れても喜ぶことはできない。すいていれば客引きのためバス停に長く停まるのだから。客の数と稼ぎが直結しているのだろう。

外国人にとっては便利とは言いかねる乗り物だが(表示がネパール文字だから読めないのだ。数字が書いてあっても、これもインド数字だからわからない。結局客引きの兄ちゃんに行きたい場所を言って、乗れと手真似されたら乗るということになる)、ネパール人にとっては便利なのかもしれない。いずれにせよ、必要によってできた事業形態である。公共セクターとしてバス事業をすれば金がかかるし、赤字になる恐れもあろう。民間にゆだねれば、競争と工夫によって最適の形態を見つけ出す。快適とは言いがたくても、カトマンドゥの状況に対しては今のところこれが最適ではあるのだと思う。


日本語学校もこれと同じである。

ネパールは、異常な数の留学生を送り出し、国内では異常な数の「日本語学校」で生徒が日本語を学んでいる。驚くべき「日本語熱」があるように見える。

日本への留学を仲介する業者が500以上ある。正確な数は誰も知らない。日本専門の業者もあるし、いくつかの留学先のひとつとして日本を扱う業者もある。

この国の「日本語学校」というのは、仲介業者が設けている日本語を教えるクラスのことである。留学ビジネスが本業で、日本語学級はそれに付随するサービスなのだ。

1日1時間ほど、無料、随時入学可が特徴である。授業料を取るところもあるが、たいていは無料で教える。そこでもうけようと思っていなくて、留学仲介によって得られる収入によって会社は運営されている。授業料を取るといっても、手続きがすべて成功裏に終わってビザが取れてから、授業料もいわば成功報酬の一部として徴収するという「良心的」な業者もある。留学できなかった者は無料になるわけだ。

生徒はできるだけ早く日本へ行くのが望みだから、3か月とか6か月ぐらいしか学校に来ない。長くても1年未満がところだ。

日本語を教える大学が1つ、仲介業もしているが、語学学校と言えるものが1つ。それ以外はすべて「留学業者学校」である。


教師の数もしたがって多いわけだが(学校の数を考えれば1000人もいるかもしれない)、N5程度で教えている教師が多いと聞く。それ以下の人もおそらくいるだろう。

教師の数が多いのだから当然だが、JALTAN(国際言語大学の中に事務局がある)という教師会もある。だが、この「教師会」に教師は加入できない。学校単位での加入になるのだ。学校として加入を希望しても、申請書をはじめいくつもの書類を提出した上で、審査がある。その審査には5年かかるなどというとんでもないことを言われる。

これにはもちろん「日本語学校」やそこで働く教師が無数にいるという上記のようなネパールの特殊事情もあるので、資格審査なしに受け入れることができないのは理解できる。しかし、教師が非加盟の学校にかわってしまったらメンバーでなくなるということだから、「教師会」と言えるのかという疑問はつきまとう。かつ、審査に5年もかかるというのはまったくありえないことで、新規参入を認めない利権団体ともなっているのだろう。JLPTの実施、弁論大会やカラオケ大会の開催、デリーの交流基金専門家が来て行なうセミナーの受け入れ(デリーの基金からの通知には参加無料とあるが、JALTANは1500ルピーの参加費を取る)などの活動をしているが、その一方で大使館や交流基金の援助は独占されているのだろう。なお、昨年まで弁論大会やセミナーへの参加は加盟校の教師学生に限定されていたが、今年から誰でも参加できることになったそうだ。といっても広報をしていないので、「部外」からの参加はほとんどない。

この「ネパール日本語教師会」のほかに、「ネパール日本語学校会」JALSANという団体もある。JALTANに加盟できない学校がいくつか集まって独自に自分たちの組織を作ったわけだ。これも弁論大会などを催している。教師会も他国に見られない独特なありかたをしている。


留学仲介会社の経営者は、日本留学の経験者で帰国後この仕事を始めた者もいるし、当人は日本と関係なく、ただ商売としてやる者もいる。

留学先としての日本はセカンドチョイスである。オーストラリアアメリカに行きたい者が多い。英語はすでに知っている。日本語はゼロから始めなければならないのだから、本当に学びたいなら英語圏への留学を目指すほうが自然だ。オーストラリアなどでは卒業後働くのも永住権を取るのもむずかしくないと聞く。ただ、それにはある英語試験の成績が60%以上でなければならないし(それはとても高い水準らしい)、学費も高い。留学でなく働くためには、湾岸諸国やマレーシア韓国などへ行く。

国内に仕事がないので外国へ行くことになるのだ。ネパールには進出企業がない。港がなく、輸送インフラがきわめて貧弱だから、いくら人件費が安くても製造業進出できない。観光業ぐらいしかよい働き口がない。そのため、留学をして帰国しても、日本語を生かす道がない。日本語力を生かす道は、「日本語業」(留学仲介業とか教師とか)か観光業となる。「日本語業」につく者は、つまり後進が払う金の中間搾取によって生活をするわけで、無限ループの構造になっているし、おそらくは先細りなのではないかと懸念されるが、しかたがない。それしかないのだから。

セカンドチョイスということは、英語力の低い者が日本語学校に来るということだ。インドと同じく英語で教育を受けているはずなのに、生徒の英語が下手なのに驚くことがある。インドですら英語が話せる者は人口の2割、流暢に話せる者は4%だというから、イギリス植民地でなかったネパールではさらに低かろう。田舎から来た生徒が多いのも一因である。田舎はやはり英語教育のレベルが低いので。

これらの「日本語学校」の経営は、仲介手数料と日本の学校からの報奨金によって成り立っている。だから何としても「顧客」を日本へ行かせたい。そこに歪みが出る。

語学センスがない者も、それどころかそもそも頭が勉強に向いてない者も学校に来る。私は音痴だし運動神経も悪いので、歌やスポーツとは適当につきあうだけで関わろうとは思わない。ほかの自分に適性のある分野でがんばればいいと思う。だが、私などがいくらそう考えようと、そういう適性のない者もどしどし学校に来る。しかし顧客であるから、飯の種であるから、どんな学生でも世話しなければならない。

多くの学生はまじめだが、日本語が勉強したいのではなく、日本のビザを取って日本で働くのだけが目的の者もかなりいる。100万もするような授業料は「ビザ代」と考えて、その「ビザ代」を払ってアルバイトに精を出し、疲れて学校に寝に来るような者が出てくるゆえんである。

だからその「ビザ代」が惜しい者は、難民申請をしたり(それが却下されるまでの間は―もちろん却下される、難民でも何でもないのだから―学校に行くことなくアルバイトに専念できる)、不法滞在をしたりする。倫理的には不誠実で、長期的全体的には不利なのだが(彼らの行為によって入国審査が厳しくなり、後進の同胞申請を難しくする)、短期個人的には合理的で合目的的な方策である。つまり、構造的な問題なのだ。


日本へ行くには関門が3つあって、まず日本の日本語学校の面接(スカイプのことが多いが、直接日本から誰か来て面接することもよくある。お得意さま回りということだろう)、在留資格COE)取得、大使館の面接。ほかの国ではCOEが取れたというのはビザが取れたというのと同義だが、ここではそのあと大使館の面接に合格しなければビザがもらえない。

日本の学校の面接を受けるのは、ひらがなカタカナを習った程度、「みんなの日本語」の2・3課までぐらいしか勉強していない連中だ。それに面接練習をほどこす。想定問答を覚えこませるわけで、犬に芸をしこむようなものだ。「日本語はどうですか」と聞かれると、一人残らず「日本語はおもしろいですが、漢字はむずかしいです」と答える。想定問答集の通りに。授業ではまだ「これはボールペンです」「ここは教室です」などとやっている連中だから、しかたがない。歳を聞かれて、「8歳です」(18歳)「46歳です」(26歳)と答えたりもする。数字もまだ十分に入っていないのだ。

これに合格すると、そのうち3分の1ぐらいは学校に来なくなる。目先のことしか見ていないし、そもそも日本語を勉強したくないのだから。そして、習ったことを忘れてしまったころになって、大使館の面接を受ける準備のためにやってくる。また犬の芸だ(前回のは、いずれ習うことを先取りして教えるということであるわけだから、犬にたとえてはシニカルにすぎるけども、こちらのほうはまったく勉強していない者の一夜漬け表面糊塗だから、犬を持ち出してはむしろ犬に失礼だ)。


日本の学校の面接がだめで行くのをやめる者もいるが、これは傷が浅い。まだ留学仲介業者にも日本の学校にもお金を払っていないから。

入学許可をもらってCOE取得のための手続きを始めるとき、仲介業者に手数料を払い、COEを取ったあと日本の学校に学費その他を払うので、すべて準備が完了したあとに大使館の面接で不合格となりビザがもらえなくなると金と時間の大損になるわけだが、目の前のことしか見ない彼らはその深刻さを理解していない。平然と田舎へ帰って授業に来なくなる。そして直前に犬の芸。

COEは書類審査だから、日本語力は関係ない。教師がやれることはない。書類の不備でこれがもらえない者も一定数必ずいる。半数を超えることもあるようだ。中にはまじめに勉強してかなりできるのもいるのだが、COEがもらえないとなると、彼らも日本語の勉強を即座にやめる。日本へ行くことだけが目的だから、そうなる。がっかりである。


COEはそういう審査だからしかたがないが、面接の結果も日本語力や努力と正比例しない。箸にも棒にもかからないのは落とされるが(落とされない場合もけっこうある)、箸にかかった者の中から誰が選ばれるかは多くは印象による、という印象を持っている。当人の学力や努力は教えている教師がよく知っている。どうしてこっちがだめでこっちが、と思うことはしばしばある。

大使館の面接でも、学力と努力が正当にはかられるわけではない。だいたいあからさまに日本語力のない者がふるい落とされているとは言えるが、例外はいくつもある。

試験なら学力・努力をかなり反映した結果になるからこれに依拠してほしいのだが、大使館独自で筆記試験を行なうのは難しいだろうとは思う。さりとて現行の民間の試験はカンニング横行で信頼できない。

このカンニングの問題。まあ半分ぐらいはカンニングする。「みんなの日本語」2・3課程度習っただけの者が大勢N4レベルの判定を受けている。試験を実施する者も監督する者もかつて大いにカンニングしていたわけだから、克服しがたい業病のようなものだ。日本人が監督の任に当たらなければだめだろう。日本人が関わっているJLPTは信頼できるようだが、ほかは信用できない。

そのようなもろもろの結果、日本へ行けるかどうかは多分に運の問題となってしまう。よく勉強した者も、行けることもあれば、行けないこともある。まったく勉強しなかった者も、行けないこともあれば、行けることもある。やんぬるかな。


COEがもらえず日本へ行けなかったけれど、その後も日本語の勉強を続けてN3ぐらい取って、学校で日本語を教えている人たちもいて、N2試験を目指して独学で勉強したり、教師研修セミナーなどに参加したりしている。辞書や参考書を作っている教師もいる。不十分な出来の辞書だとしても、作ろうという意図そのものがよい。

こういう人たちこそ留学させたいのだが、書類の不備で留学できなかった彼らにチャンスを与えないような体制になっているのは本当に残念だ。


このようなネパール留学生らが貢ぐ金によって日本語学校や一部の大学・専門学校が支えられているわけである。情けないことではある。

「留学」と言うなら、本当に勉強する力のある者に制限すべきであって、JLPT合格者は面接を免除したうえで(今年一瞬だけそう決められたが、すぐ撤回された。しかしこれは外務省外郭団体も運営に当たる半公的な試験だから、民間の試験とは一線を画されてよい)、一夜漬けの効かない漢字についての問題を取り込むことによって、厳格公正化を図るのがいいだろう。

一方で、名のみの留学でなく、韓国のように語学力審査をした上で労働力として受け入れる制度も導入するべきだと思う。年間受け入れ人数や滞在年限等、さまざまな制限は必要だろうが。


日本人が直接法で教えるのは、長期的視野のもとにのみ可能であって、せいぜい半年しか勉強しない者にはネパール人がネパール語で教えるのが適当である。学期やクラスが確定していないと、直接法は効果を発揮しがたいのだ。学期もクラスも融解しているネパールでは、日本人教師の必要性はほとんど認められない。1日1時間、無料、随時入学可、来たければ来て休みたければ休む、というのが結局ネパールの実情に合っている。日本語学習者の異常な多さに比べて、日本人教師が異常に少ない理由もそこにある。カネがかかるのに効果が薄い日本人教師を経済的に脆弱な極小規模の業者が招くわけがないということだ。


ネパール親日的なのはたしかである。だいたいみんな日本が好きだ。しかし日本については何も知らない。大使館日本人会日本文化紹介の催しをよくしているが、こんなにいる日本語学習者のごく一部しか参加しない。概念的に好きなだけなのだ。

つまり、「日本渡航熱」はあるが、「日本語熱」があるとは言えない。そして「日本渡航熱」は外国への「出国熱」の一部でしかない。いや、「熱」は一時的なものについて言うので、これは恒常的な(恒久的でないことを願う)ものだから、むしろ「若者の進路選択肢のひとつ」と言うべきだろう。留学後働いてのち帰国するなら出稼ぎ、住みつづけるなら移住である。そういう大きなコンテクストの中にネパールの日本留学・日本語学習はある。

きわめて特異で独自なネパール日本語教育事情である。


ではネパールで教えることを人に勧めないかというと、そんなことはない。このような諸事情をわきまえた上なら、薄給で働くのもいいのではないか。おもしろい国、気持ちのいい人たちだから。ただ、これらの事情は所与である。

2017-09-27 インドなネパール、日本なネパール

ネパールの車のナンバーはインド数字で書かれている。読めない。日本のナンバープレートが漢数字で書かれていて、それを(中国人以外の)外国人が見て困っている、というのを想像すればいいのだが、インドですら洋数字を使っているのに、なぜネパールがそうするかね? 小包を送った受取証に代金が書いてないので聞いたところ、ここにあると言われた。インド数字で書いてあるのである。こちらのほうは日本でも漢数字で書くことはあるからわかるが、ナンバープレートは困るよ。そしてこの件のもっともおもしろいところは、なぜインドでないネパールインド以上にインドなのか、という点だ。

王制時代にはヒンドゥー教を国教としていたそうだ。インドはそうしていないから、当時唯一のヒンドゥー教国家だったわけである。統計によると、ヒンドゥー教徒は81.3%、仏教9.0%、イスラム教4.4%だという。インド(78%)より比率がわずかに高いだけの8割でヒンドゥー教国家だなどと言ってはいけないが、要はイスラムなのだろう。ネパールにも無視できないほどいるけれど、インドの場合は13.4%で、比率のみならず数として一大勢力で、ヒンドゥー主義の主張は宗教紛争となるだけだから(なっているし)避けられる。その点ネパールは大胆になれるのだ。

仏教も大きな勢力ではあるけれど、仏教チベット仏教)プロパーとしては山地のチベット系民族の宗教であるか、あるいはヒンドゥー教との二重信仰であるか、という形をとる。もともとインド宗教であり、釈迦はラーマの化身であるとされてもいて、多数派ヒンドゥー教徒から見ればヒンドゥー教の異端の一派ぐらいに考えられているのかもしれない。

そもそもインドである。山地にあり、軍隊が強く、イギリスと戦って善戦したので、植民地化されず独立を守っていて、そのためインドの一部とならなかった、ということだ(現在のインドは英領インドの後継国家である)。インドの一部として見れば、チベットへの移行空間として独特であるが、山地の少数民族は別として、ヒンドゥー教信仰する大多数の人たちの生活文化はまったくインドだ。サリーを着るし、額に赤い印(ティカ)をつけ、女性は手にメンディーという模様を描く。食べ物も、主食が米であるところが西北インドと異なるが(東インド南インドとは同じ)、あとは豆カレー野菜カレー、辛い漬物アチャールヨーグルトなど、インドと同じものが金属盆に盛って出される。牛が町中をゆうゆうと歩いている風景や牛肉を食べないこと(しかし水牛は盛んに食べる)、カーストがあること等々、インドでしかありえない。ネパール語ヒンディー語の同系語だし、文字もヒンディー語と同じデーヴァナーガリー文字である。幅150−200キロの間に標高8850メートルから70メートルまで下る国土のうち、インド国境沿いのタライと呼ばれる低地は掛け値なしのインドで、ラーマ王が婚礼を挙げたのも、ゴータマ・シッダールタが生まれたのもここである。インド文明の重要な周辺部であったわけだ。

ネパールの観光ビザは簡単に取れ、かつ窓口の係員が微笑むというインドでは考えられない対応をして、観光ビザさえ取りにくいインドとは雲泥の差を見せるが(国の基幹産業が観光業で、外国人料金を高く設定して金を搾ろうという意図も当然あろう)、就労ビザネパールも非常に取得がむずかしく、ここではインドと対等である。


だが、ネパールは日本とも似ているなと感じる。山国で、土地が狭く、道が狭く、だからスズキの軽が重宝される。アルトでないタクシーなんてあったっけ? 寺も非常に小さく、寺院というよりお堂という感じである。完全に木造でなくとも、木造部分が多い。屋根が多重で、三重塔とか五重塔を思わせる。

いわゆる照葉樹林文化の東端と西端でもある。タケノコを食べているのには驚いた。

大地震が多いという共通点もある。地震国に対して並々ならぬ共感を覚えるのは、日本人の特性のひとつである。ネパール人のほうでもきっと共感はあるだろう。

精強勇猛なグルカ兵が有名な一方、よく微笑む人たちでもある。こちらが微笑めば、必ず微笑み返す。この点はインドと違い、むしろ東南アジアに似ている。「菊と刀」か?

国旗もおもしろい。ヨーロッパの発明した国民国家に覆われている今の世界では、ヨーロッパの決めたルールにのっとって国歌国旗をもたなければならないことになっていて、植民地から独立した国々ではヨーロッパ式に横長長方形を何色か(多くは三色)に塗り分ける旗を作って国旗でございとしているが、日本の日章旗ヨーロッパ方式とは外れて独特であり、扇や鉢巻などにも使えるなど独自のありかたをしていて誇らしく思う。しかし独特ということではネパールはさらに上手で、長方形ルールを完全に無視し、中に太陽と月を描いた三角形を重ねるという奇っ怪な形態をしている。あっぱれである。独立国であったればこそ。エンブレムを中に置いただけのヨーロッパ流三色旗である旧植民地インドとは筋合いが違う。

ネパールではヒンドゥー教仏教が二重信仰のようなありかたをしている。ヒンドゥー寺院に仏塔や仏陀の像がある。各人はヒンドゥー教徒である、仏教徒であると一応認識しているのかもしれないが、どちらの寺院にお参りしてもかまわない融通無碍な寛容さを示す。この点も、平然と神道仏教の二重信仰である日本人には違和感がない。ヒンドゥー教原理主義者や仏教原理主義者(そういう人もいるに違いない)から見れば、いやキリスト教徒イスラム教徒から見ても不純で不快であろうが、なに、これでいいのだよ。

僧侶階層が妻帯しひとつのカーストをなしているのもネパール仏教の大きな特徴であり、それは司祭カーストブラーミンが妻帯しているのに倣ったのかもしれないが、同じく僧侶妻帯の日本にも似る。日本でもお寺さんはお寺さん同士で結婚することが多く(独特の生活習慣があるので)、つまり準カーストと言っていいようなありかたに見える。これも似ている(日本でもっともカースト的なのは梨園だろう。主役を演じる家筋、脇役の家筋などが決まっているところも)。

ネパールにはクマリという生ける女神がいる。あるカーストの女の子が選ばれて、初潮を迎えるまでの間女神化身である少女神として崇拝されるというものだ。1984年から91年までクマリだったラスミラ・サキャは、「回想 神から人間へ」(スコット・ベリーとの共著、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)の中で、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。

すべてのクマリがそんな印象を持つのかどうかは知らないし、彼女の個人的な意見かもしれない。しかし、なるほどとも思った。

クマリは斎宮を思わせるところがある。斎宮の場合は未婚で処女を通すのではあるが、女性であって、初潮前の少女とは異なる。平安時代春日大社などに奉仕した斎女は少女だったようだが、斎宮にせよ斎女にせよ神に仕えるという点では神そのものであるクマリとは違うのだけれども、似ていることはたしかだし、クマリが山車に乗って巡幸するインドラ祭では、クマリの山車のほかにガネシュ、バイラブとしてそれぞれ山車に乗る2人の少年がいるのだが、彼らはこの祭りのためだけに選ばれるのであって、まったく日本の祭りに出る稚児と同じだ。

何より、日本には最近まで現人神がいたし、「人間宣言」をしたあとも常人とは思われてない。女神でなくなったあと普通の女の子にもどるために苦労したラスミラ・サキャの回想録は非常におもしろかったが、読んでいる間感じたのは、要するに平民(もはや華族はいないから、結婚相手はどうしても平民となる)と結婚し臣籍降下した皇女だな、黒田清子さんが書けば似たものになるかな、ということだ。しかり、われわれにはクマリがよく理解できますよ、ラスミラさん。

2017-08-27 「母は娼婦です」

日本語の発音はかんたんだ。母音は5つで、ローマ字にあるのと同数だし、子音は14。こういうものは多くても少なくてもむずかしくなるが、多すぎず少なすぎない適当な数だ。thや反り舌音のような妙なものもない。開音節ばかりなのは、聞くのにはモノトーンな感じかもしれないが、言うのには言いやすいはずだ。

母語が有気音・無気音対立中国語である人には、日本語の有声音・無声音対立がむずかしい、というように、母語によって困難がでてくることはあろう。rとlが言い分けられないわれわれにも身にしみてよくわかることがらだ。だがそれは相対的なむずかしさであり、絶対的には日本語の発音はやさしいと言い切っていいと思う。

とはいえ、特殊拍と言われるもの、わけても長音と促音はむずかしい。「きてください」「きってください」「きいてください」を聞かせてみると、ほとんどの国の学習者が区別できない。つまり発音できない。

しかし、つまる音(促音)はなるほどむずかしかろうとわれわれも想像できるが(「坂の上に住む作家はサッカーがすきだ」)、長い音と短い音が発音できず聞き分けられないのは不思議に思う。伸ばせばいいだけだろ?

「おばさん」を「おばあさん」と呼んではいけない。怒られるぞ、気をつけなさいと言い聞かせると、おばさんに向かってことさらに「おバーさん、おバーさん」とバを強調して言うので、頭を抱えてしまう。「ば」の部分が問題だと認識してはいるのだが、音の長い短いがわからないので、強く発音してしまうのだ(強く発音すると長く聞こえる)。これだったら指摘しないほうがよかったかもしれない。

山陰線には3駅はさんで大田駅と小田駅がある。「大田で降りてください」と伝えたのに小田で降りられては非常に困る。駅前には何もなく、バスもなければ、山陰線は1時間以上待たないと次の列車は来ない。日本人も大田(市とはいえ、東京基準でいけばここも駅前に何もないんだけどね。まあ比較の問題で)で待ちぼうけをくわされるわけだが、小田で降りてしまった外国人のほうがたいへんだ。

「コピー」は「コーピ」と言うし、そう書く。私の知っているすべての国の学習者がそうだった。流暢に日本語を話す者にしてなお。なぜこんなのがむずかしいかよくわからないのだが、わからないからむずかしいのだろう。「コーヒー」は「コーヒ」。「コヒー」と書かないあたりに秘密がありそうだ。

アクセントは、標準である東京アクセントのほかに、それとまったく異なる関西アクセントが一大勢力であるし、一型アクセントもあるので、発音練習において特にこだわる必要はない。しかしながら、私はスピーチ練習などではアクセントを徹底的に教え込む。というのは、長音や促音の箇所にアクセントの変わり目が当たることが多いのだ。「こうとうがっこう」なら、「こう」で上昇、「がっ」で下降。つまり、アクセント練習ではアクセントが本丸なのではない。敵は本能寺にあり。長音・促音を身につけさせる一助に、と考えてのことである。もちろんアクセントが正しければ聞きよくもあるのだし。


母語によって発音の間違いも違う。タヌキの母語は知らないが、人に化けたタヌキは「オレだ」と言えず、「オネだ」と言うのでわかるという。四川人の場合はタヌキと逆で、ナ行をラ行に発音する。つまり「尾根」が「俺」に、「カナダ」が「体」になる逆さ狸。

トルコ人は「せ」が「さ」になる。「千円です」が「三円です」になってしまう。997円も違う。そんな通訳は損するぞ。

中国人の「ません」は「ますん」に聞こえるので、「行きます」だか「行きません」だかわからない。いつも「えっ、行くの、行かないの?」と聞き返すことになる。文末の最後の部分まで聞かないと肯定か否定かわからないのが日本語の大きな欠陥だが、その部分で「ますん」じゃ困るよ。

そしてネパールでは、面接で「母は娼婦です」と答える学生が出てくる。面接の練習のためにネパール人教師がモデル問答集を作るのだが、それに「はははしょうふです」と書いてあり、学生はそれを暗記する。ハハハ。ここは「しゃ・しゅ・しょ」がうまく発音できない者が多くて、「でしょう」を「ですよ」と言う。書き取りをさせても「しゅ」を「しょ」と書いたり、その逆に書いたりする。この点と、長音の無能があいまって、「しゅふ」が「しょうふ」になってしまったわけだ。大使館での面接のような大事なものなら、日本人に見てもらうべきだろう。学生がいい物笑いだ。

ま、私たちもシラミ(lice)が主食だし、おたがいさまだけどね。しかし「母は娼婦です」の破壊力はそれをだいぶしのぐと思うよ。

2017-07-29 交通に寄生者多し

カトマンドゥのパシュパティナートというシヴァ寺院へ行ったとき、道を歩いていたら男に呼び止められ、1000ルピー払えと言われた。外国人は料金を払うことになっているのだと言う。ネパール人は無料。そのことはガイドブックで承知してはいたが、柵などで仕切られたエリアに入るときに払うものだと思っていた。仕切りなど何もない、人々が大勢行き交っている道である。これには驚いたし、腹が立った。肝心の寺院や周囲のいくつかの寺院はヒンドゥー教徒以外は入れない。つまり、道を歩くだけで1000円払えというわけだ。むろん払わず、背を向けて立ち去った。

施設に入るとき、あるいは柵などで囲われた区域に入るときに入場料を払うのはわかる。それが高くてもしかたがないし、自国民無料・外国人高額でも、腹立たしくはあるけれど、決まりごとならやむをえない。だが、これはただの道なのだ。寺院のかたわらを通るとはいえ。自由な通行を妨げられて金をむしりとろうとされた過去の不愉快な思い出が浮かび、条件反射的に拒絶した。

ガイドブックを見ると、ネパールにはそのような場所が多いようだ。王宮広場とか、観光価値が高いところはみなそうなっているらしい。よろしい、それならそんなところには行かない。観光はだいたいが嫌いである。観光業は餌付けに似ていて、観光業者はいわば餌付けされた猿のようなものだ。白人の餌に群れるのは見よい眺めではない。それよりも、人の顧みない小さくささやかなもの、しかし当該文化の本質がうかがい知れるようなものを好む偏った習性をもっているので、むしろ好都合かもしれない。

しかし、自分一人ならそれでいいが、お客さんが来て案内することになればそうも言っていられない。そのときは払うことになるだろう。是非もない。

思い出される不愉快の数々。ルーマニアなどでは車掌がありもしない故障を言い立てて金をむしろうとする。こっちは列車に乗っている身だから、いわば身柄を押さえられている状態なので、たちが悪い。コンパートメントに一人でいるとねらわれる。

不良警官が通行人や車を呼び止めて難癖をつけ、金をまきあげることもよくある。実によくある。実際に何か違反をしていて、目こぼしのため金を渡す運転手も多いので、彼らによって助長されている側面もあるのだが。

逆に、税関や国境検問は通行をさえぎり検査をする当然の権利も義務ももっていて、それで時間をとられることも多いが、不当な要求をされた経験はほとんどない。

タクシーは、メーターで走るなら非常に便利な乗り物だが、私が行くような国にはメーターで走るタクシーなどないのが普通だ。乗る前に値段交渉をしなければならない。むろん外国人にはふっかける。交渉がまとまっても、途中で値上げしてくることも珍しくない。雲助、胡麻の蝿の類である。世界のいたるところに江戸時代がある。

天下の大道の画竜点睛、乞食は心騒がせる存在だ。私もけっこう歳は取っているが、日本で乞食は見たことがない。浮浪者はあるが。日本の乞食は東京オリンピックとともに消えたらしい。だから異国で初めて乞食に相対したときは、途方に暮れてしまった。ムスリムにとっては施しは義務である。ムスリムでなくとも、ゆとりのある者が困っている者に施すのはあるべき行ないだろう。といって、袖を引いたりまとわりついたりする職業的とおぼしき乞食にやるのは業腹だ。いろいろ迷った末、ポケットに裸銭があるときはやる。なければやらない、という原則を定めた。つまり、財布を取り出してまではやらない、ということだ。そして、くれくれとねだる者には決してやらない。そのように自分のルールを決めてからは、心穏やかに乞食に対せるようになった。

もちろんこんな態度は最善ではない。あれこれ考えず施すのが最善だ。だが、私程度の者には最善は望むべくもなく、次善くらいが相応である。乞食諸氏は諒とせられよ。