石陽消息

2016-07-20 遥か欧州を離れて

最近はテレビ朝日サッカー中継が多くて、苦労した。ヨーロッパ選手権も、キリンカップも。キリンカップボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦は見たが、ブルガリア戦は見られなかった。7−2というちょっとありえないスコアだったから、見ていればさぞ楽しかっただろう(日本人には。ブルガリア人には不愉快きわまりないけども)。

ボスニアデンマーク戦BS朝日の中継があったので見られたのだが、あれを見るかぎりでは、特に前半は眠っているようなゆるいプレーだったから、これは勝てると思ったが、ジェコやピヤニッチが来なくても強かった。タフだった。しかし非常にいい試合をしていた。のめりこんで見られた。勝利は無理だが、引き分けはありえた好勝負だった。コンフェデ杯イタリア戦のような。そして結局負ける。そこまで含めて日本らしい。

私のような素人でも、見ていないブルガリア戦もあたかも見てきたかのようにわかる。中盤で余裕をもってボールが回せればすばらしいサッカーをするが、プレッシャーをかけられるとアジアの格下のチームにもあたふたする。カウンターは覚悟の上で攻撃するものの、カウンターをやられるともろい。それが日本だ。

先日、鳥取へ行ってインターナショナルドリームカップの日本‐メキシコ戦とマリ‐ハンガリー戦を見た。メキシコ戦は6−0の圧勝だった。ボール扱いの技術や組織力が卓越しているのに驚いた。ところが、マリとの試合では何もさせてもらえなかったという。その試合は見ていないので何とも言えないけれど、マリ‐ハンガリー戦を見るかぎりでは、マリはたしかに強いが、球あしらいや組織力で日本が劣っていたとは思えない。フィジカルとメンタルで敗れたのだろう。雨天強風のコンディションだったというから、そういう悪条件に対するひよわさもあるのかもしれない。いずれにせよ、A代表と同じ弱点を持っているのだろうと思われる。


先日のヨーロッパ選手権テレビ朝日の中継で、深夜や未明に数試合の中継があり、準々決勝は2試合、準決勝は1試合だけ(それもつまらないほう)だけだから不満もあるが、まあ無料の放送で中継してくれたことを喜ぶべきだけれども、いずれにせよ、うちらのところでは映らないのだからしかたがない。深夜や未明はつらいが、つらさに見合うだけのことはあったろうとは思う。2試合しか見てないけど。

「事実上の決勝戦」が3つあり(イタリアスペインドイツイタリアフランスドイツ)、そのいずれも勝ったほうが次の「事実上の決勝戦」で負けて、最後の「事実としての決勝戦」に勝ったポルトガルが優勝した。全7試合のうち、90分を見れば1勝6分けの成績で。いつぞやのギリシャの優勝並みに、事実のみが決定的に重いという真理を知らしめる大会だったと言える。

見られたのは2試合だが、美しいドイツポゼッションを見て(「足りないのはゴールだけ」。それを病む者、あに日本代表のみならんや。ゴールさえ決まっていればほれぼれするような美しさだった。内容に乏しくても結果だけは手に入れるのがドイツだった時代が長くあったのに、世は転変する)、決勝戦のプレーしないロナウドを見るこができたのはよかった。

ロナウドという選手は、非常にストイックだが、ナルシストエゴイストで、チームメイトと仲良くする必要を感じてないという印象を持っていたが、負傷交代後ピッチの外でチームメイトを鼓舞する姿を見て、こんなにもチームスピリットに溢れていたのかと意外の念に打たれた(チーム愛というより、単にタイトル獲得への執着心のすごさなのかもしれないが)。ポルトガルがきっと負ける、こんなにしても敗れる彼の姿を見ることになるのは残念だなと思っていたから、あの結果になったのはうれしい。負けるフランスはよく見る風景で、ジダンのときの勝つフランス(それはアフリカ選抜だった。今のもそうだが、度合いは減った)が異常だったのだ。


今でもサッカー強豪国は欧州南米にあり、クラブチームにおいてもかつては南米欧州並みに強かったが、今はヨーロッパだけがはるかに高く君臨している状態で、南米は選手供給地域となってしまっている。サッカー覇権欧州にある。学問芸術などのように、サッカーヨーロッパ支配しているわけだ。それをせっせと学習模倣するのが「後進国」の定めである。しかたがない。だが、しかたがないといって、何でも真似していればいいわけではない。ヨーロッパを尺度にしてものを考えるのは根本的にまちがっているという認識は、つねに持っていなければならない。ヨーロッパには学ぶ。進んでいるのだから。だが、学んだ上で、サッカーは「日本化」されなければならない。

「世界の(つまりヨーロッパの)トレンド」と称するものを受け売りしたがる人たちを見ると、本当にいやになる。それは学問や評論の世界でも、ファッションや芸術の世界でも同じで、「欧米の最新」を目ざとくとらえて新語をふりまく連中が「時代の最先端」顔をしている情けない状況が明治以来ずっと続いているわけだ。紹介屋さんたち、自分の頭で考えず、「上の人」に考えてもらっている人たちが跋扈するのが近代日本の精神風景である。そこにサッカーも含まれる。残念極まりない。

たとえば、シーズンを春−秋から秋−春に変えようとしている。愚かしい議論である。それは冬が好天の東京の人間の考えだ。日本海側や北日本の冬がどんなものか知らない連中の。雪については議論があるが、雨も多いのだよ。雪はもちろん、冬の冷たい雨が降る中を観戦に来ると思うのか。コアなファンはそれでも来るとしても、そう熱心でない一般ファンの足を遠ざける行為である。それでなくても冬に天気の悪い地方のチームのファンは少ないのに。子供連れの母親が来るかどうか。それが基準だ(重要な基準である。ヨーロッパではしばしばスタジアムが暴力的な男たちの集会所になっているが、日本はその正反対であって、それは誇るべきことだ。そして子連れの母親はまさしくスタジアムの平和の証拠であり、保証なのだから)。スポーツ観戦には夏の夕方などまことにけっこうだ。夏は高温多湿で、選手には消耗を強いるが、高温多湿の国の多いアジアでの戦いのためには有利だし、日本サッカーにおいて第一に重要なのはアジアでの覇権である。アジアを見ず、ヨーロッパばかり見ようとするのは天狗のふるまいだ。試合は選手のためにするんじゃない。協会のためにするんじゃない。観客のためにするのだ。間違えてはいけない。


興行優先でなく、強化のためヨーロッパに出向いてアウェイで試合しろという意見がある。強化を第一に考えるなら、それは正論である。今や代表選手の大半が向こうでプレーしている。ヨーロッパのチームを招いてホームで試合を組むと、派遣メンバーも落ちるし、観光気分で本気の試合をしないことがままある(南米チームはわりと本気で試合をしてくれるが)。気分の問題もあるけれど、より多くはコンディションの問題だろう。距離と時差が克服しがたいのだ。日本の代表選手たちは、代表の試合のたびに疲れる長旅を強いられ、その悪条件の下で奮闘している。ヨーロッパの選手たちは、日本へ来て彼らの苦労を知るがいい。

距離と時差こそが、ヨーロッパ南米のクラブ世界一を決めるトヨタカップが日本で開かれていた理由である。どちらにとっても同じ条件の中立地なのだから。今のクラブワールドカップなるものは、UAEだのモロッコだのでもやっているが、それは根本的に間違っている。ヨーロッパから距離も時差もほとんどないところでやったら、ただでさえ強いヨーロッパのチームにさらにアドバンテージを与えるだけではないか。いつも距離も時差もほとんどないところでやっている奴らにその苛酷さを教えるいいチャンスなのだから、教えてやらなければいけないのだよ。)

やさしい日本のサポーターは、応援するクラブのスター選手、代表の主力選手をこころよくヨーロッパに送り出している。だから、いつものテレビ画面でなく、目の前でわれらのスター選手を見たい、われらのヒーローがわれらの名誉のために戦っている姿を見たいというそれでなくても当然至極の感情に対しては、よりいっそう顧慮してもらいたい。距離衛星中継で克服できても、時差はいかんともしがたい。ヨーロッパでの試合なんて、深夜か未明か、まともな人間は寝ている時間だよ。招待されて行くならけっこうなことだが、こちらから押しかけてそんな試合を組むのは本末転倒のきらいがある。興行は悪しざまに言われることが多いが、そもそもプロスポーツは興行以外の何物でもない。日本での親善試合を云々するとき、問題なのは興行ではなく、批評である。その試合がどのように評価されるべきかわかっていて、大勝にむやみに浮かれ、惨敗に過度に悲観することがなければいいのだ。

サッカー専門誌はともかく、一般紙やスポーツ紙にはサッカー批評が存在していない(日経新聞を除いて)。試合のあと、民放のアナウンサーが選手にインタビューするとうんざりする。「どんな思いでしたか」「意気込みを聞かせてください」「サポーターに一言」、この三つしか聞かない。要するに彼らはサッカーのことは知らず、ゴールシーン以外は見ていないのだ。野球は見ないので知らないが、野球のヒーローインタビューはもっとましなことを聞くだろうと想像している。日本人における野球の教養とサッカーの教養の違いということなのだろう。


強化ということで言えば、昔、現役ブラジル代表の半分が日本でプレーしていた時代は、Jリーグで戦うことが即強化だった。

今のJリーグは、日本人のスター選手はヨーロッパに出て行って、空洞化している。かつてのように外国から代表クラスの選手が来るわけでもない。リーグが強化にあまり貢献していないのではないかという懸念が強くある。代表のレベルが今より低く、リーグのレベルが今より高かった時期には、Jリーグで試合することが強化につながったが、代表のレベルが上がり、リーグのレベルが下がった今では、そうはいかない。パススピードが遅い、プレッシャーがゆるい、ディフェンスが弱い、シュートチャンスでシュートを打たないでパスをする、やさしい笛を吹く審判、警察発表(審判判定)を復唱するだけのマスコミ等々、Jリーグは問題が多々ある。中でもおそらく最大の問題は、選手のドメスティックな心性である。同じ日本人が相手だから、つい「これくらいでいいだろう」と考えてしまう精神の惰性だ。

Jリーグ弱体化の具体的な例証が、ACLでの近年のお粗末な成績である。危機感を持たなければならない。

インターナショナルであることはサッカーサッカーである理由の根幹部分である。ドメスティックであることが野球の(アメリカスポーツの)根幹であるのと同様に。ドメスティックなありかたがサッカーに見られたら、それは病いであり、おそらくは致命的な癌細胞であるから、すみやかに取り除かねばならない。

スルガ銀行杯は実にけっこうなことだが、あれはJリーグ1チームだけが戦う。国際試合なら何といってもアジアチャンピオンズリーグ(ACL)である。タイトルを賭けた真剣な戦いだ。真剣でないのは日本だけだ。ACLを重視しないのは愚の骨頂である。あれは時に「罰ゲーム」呼ばわりされるが、それはドメスティックの毒素の現われにほかならない。サンフレッチェのように2軍を出すのではなく、リーグ戦以上に、少なくとも同等に、重視してもらいたい。チームやリーグだけでなく、ファンサッカージャーナリズムも重視しなければならない。チームやファンが後ろ向きなら、サッカージャーナリズムが率先して煽ってほしい。煽動は好きではないが、この際やむをえない。

といって、国際試合を重視するあまりリーグがおろそかになっても困るので、2ステージ制はいいことかもしれない。前期を捨てて後期に賭ける、という戦い方ができる。去年ガンバがやったように。

(しかし、チャンピオンシップは2試合でいい。日程を窮屈にしないためにも。単純明快に、前期優勝チームと後期優勝チームが戦うという形にするべきだ。前後期優勝チームが同一なら、前期2位と後期2位のチームが決定戦を行ない、挑戦者を決める。敗者復活戦である。チャンピオンシップはこの場合1試合のみ、両ステージ優勝チームのホーム戦。アウェイはステージ優勝チームが1−0で勝ったと見なす。つまりステージ優勝チームは勝ちでも引き分けでもチャンピオンシップ優勝。90分で0−1で負ければ、延長戦となる。だがPK戦はなく、延長戦ではアウェイゴール・ルールも適用されず、延長引き分けはステージ優勝チームの勝ちになる。このような、敗者復活の挑戦者はアウェイで2点以上取って勝たないかぎり優勝はない、というハンデ戦でどうだろう。)


キリンカップは一応タイトル戦だったので、ボスニアは本気だった。インターナショナルドリームカップのような若年層の国際大会は日本でもよく開かれているのだから、さらに一歩進めて、代表レベルの選手たちによるインターナショナルなタイトル戦を定期的に開催することが望ましい。

中国のクラブは「爆買い」によって世界の一流選手をかき集めているので、ACL以外で中国の強豪クラブチームとタイトル戦をするのもいい。

日韓定期戦もいいのだが、韓国の歪んだ国民感情によって過剰にエモーショナルになるので、避けたほうが賢明かもしれない。どうせどれかの大会で当たるのだから。

提案したいのは、環太平洋選手権である。環太平洋の国々は、アメリカメキシココロンビアペルー、チリ、オーストラリア、あるいは中米諸国など、リアルなライバルばかりだ。同格か、格上でも手の届く相手である。切磋琢磨にちょうどいい。

太平洋は広くて、距離も時差もヨーロッパ並みにあるけれども、こういう枠組みなら招待された国もかなり本気で来てくれるだろう。代表でもU23代表でもクラブチームでもいい。日本からは2チームが参加、あと4ないし6チームを招待して、毎年か最低でも隔年に開催する。たとえば、ヨーロッパ選手権が行なわれる年にフル代表6チームを招いて2週間のカップ戦、それ以外の年は3チームを招いて1週間のU23代表戦、というのはどうか。けっこう真剣な提案である。遠いヨーロッパの尻を追いかけるより、同様にヨーロッパからの距離を病む近隣諸国とともに強くなろうじゃないか。実際のところは近くないけれど、地震が起きれば津波が押し寄せてくるのだから、隣ではあるのだ。

2016-06-20 留学のいろいろ (11)

後記・郷土史の悲しみ

読めばわかるとおり、これは「島根の近代留学」とでも言うべきもので、わが家の本棚と近くの図書館にある本をもとに、島根県出身者とそれに関係のある人々の留学体験を書き並べているのだが、すぐに気がつくのは、この人たちの生まれた場所こそ島根県だったりほかの地方だったりしているが、死んだのはたいてい東京である。熊楠がひとり例外と言えるくらいだ(彼の場合和歌山に生まれて熊野に暮らしていたから、さらに下降している)。つまり、留学(公費留学)するのは優秀な人材であり、さまざまな地方で産していても、彼らが働く場所は中央である。中央への頭脳の吸い上げということだ。

地方には「郷土史」という研究ジャンルがあり、そこでは「郷土の偉人」がよく取り上げられる。だが、特に近代以降は、その「偉人」というのはほとんどがその土地で生まれたというだけの人である。鴎外のように10歳で上京したきり一度も故郷に帰ることがなかったというのは(交通不便な時代なら)決して珍しくない。大官の庇護や旧居の観光地化など、出身地に有形無形の恩恵はあるけれども。中央への貢献の度合いをもって郷土の価値が測られ、「郷土史」はそれに喜々として奉仕する。残念さはぬぐえない。

中央の知的支配はもちろん日本だけの現象ではない。西川一三が指摘しているように、チベットでは「政府はハランバの学位(ラマ最高の学位)を得たラマに対しては、年々多額の年俸を支給して厚遇している。(…) 政府が莫大な国費を以てラマの保護政策をとっている目的は、とりもなおさず学位を得た学力、金力あるラマを地方に帰さず、ラサの寺にひきとめ、一生住まわせようとすることにある。国内国外のラマ教圏内のラマ留学を増し、ラマの留学はラマの親戚知人はもちろん、その地方の巡礼者の足をラサに向かわせ、外貨をラサ、すなわちチベットに落とさせようとするのが終局の目的なのである。この政策チベット政府だけでなく寺においても見られる。寺の各学堂は所属の学堂内に、ハランバ、ツォランバーの最高学位を得たラマや、将来これらの学位を得る見込みのある前途有望なラマがいれば、競って学堂お抱えのラマとしている。立派な部屋を与え、雑僧をつけて、食事から身の回りのすべての面倒をみさせ、何の心配もなく勉強させている。これはひとりでも多くの学問ある高僧を集めておいて、多くの留学生巡礼者の足を自己の学堂にひきつけるためだ。すなわち巡礼者達による不定期法会を催させ、金を落とさせようとしている。ラマとしても向学心ある学僧は学問のある高僧の集まっている寺に、凡僧は布施の多く出る寺に集まろうとするのが、当然だからである」(西川:195f.)。

首都のラサ的様態。つまり、東京はラサだということだ。文化の中心が三都に分散し、そのほかに地方的な小中心も多数あった江戸時代を思えば、日本近代は極端から極端へ走るありかたをしていたことがわかる。

江戸を廃した東京は、近代化の突出した先端であった。日本の諸地方は(ある程度は東アジアも)東京を模すことによって近代化を進めた。留学生にとどまらず、明治以来の日本は青年層に膨大な上京者の群れを生んだ。日本の唱歌のひとつの特徴は、故郷を懐かしむ歌の多いことである。「ふけゆく秋の夜、旅の空の」「夕空晴れて秋風吹き」「兎追いしかの山」−。これらの歌を作ったのは、もちろん出郷者たち、設計者から作業員まで含む近代日本の建設者たちである。留学エリートらもその構図の中にある。そうであればこそ、「郷土の偉人」をトレースして一国の歴史スケッチが書けるわけで、それならまあ悪いことではないかもしれない。


引用・参考文献

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江本a:江本嘉伸「能海寛 チベットに消えた旅人」、求龍堂、1999

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鴎外b:「鴎外選集」3、岩波書店、1979

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金尾:金尾清造「長井長義伝」、日本薬学会、1960

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さねとう:さねとうけいしゅう「中国留学生史談」、第一書房、1981

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中村:中村光夫二葉亭四迷伝」、講談社文芸文庫、1993

夏目:夏目漱石文学論」1、講談社学術文庫、1979

南条:南条文雄「懐旧録」、平凡社、1979

西:「西周全集」3、宗高書房、1973

西川a:西川一三「秘境西域八年の潜行」上、中公文庫、1990

西川b:西川一三「秘境西域八年の潜行」下、中公文庫、1991

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増田a:増田渉「中国文学史研究」、岩波書店、1967

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松居:松居竜五南方熊楠 一切知の夢」、朝日新聞社、1991

南方a:南方熊楠十二支考」3、平凡社、1973

南方b:「南方熊楠文集」1、平凡社、1979

南方c:「南方熊楠全集」6、平凡社、1973

南方d:「南方熊楠全集」7、平凡社、1971

南方e:「南方熊楠全集」8、平凡社、1972

南方f:「南方熊楠全集」別巻2、平凡社、1975

南方g:「南方熊楠土宜法竜往復書簡」、八坂書房、1990

三宅:三宅艶子「ハイカラ食いしんぼう記」、中公文庫、1984

明治:「明治文学全集43島村抱月・長谷川天渓・片上天弦・相馬御風集」、筑摩書房、1967

森:森於莵「父親としての森鴎外」、筑摩書房、1969

山口:山口瑞鳳チベット」上、東京大学出版会、1987

山口・藤原:山口淑子藤原作弥李香蘭 私の半生」、新潮社、1987

芳地:芳地隆之「ハルビン学院と満洲国」、新潮社、1999

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井伏鱒二「さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記」、新潮文庫、1986

岩佐壮四郎「抱月のベル・エポック」、大修館書店、1998

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奥山直司「日本仏教セイロン仏教との出会い」、repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/.../2433/...

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小堀桂一郎「若き日の森鴎外」、東京大学出版会、1969

寺本婉雅「蔵蒙旅日記」、芙蓉書房、1974

藤田佳久「東亜同文書院中国大調査旅行の研究」、大明堂、2000

宮岡謙二「異国遍路 旅芸人始末書」、修道社、1971

吉村昭アメリカ彦蔵」、新潮文庫、2001

2016-06-16 留学のいろいろ (10)

留学のような、留学でないような

明治初期には、実質的に東京官立高等教育機関での修学は「留学」であった。つまり、そのころの高等教育は欧米人教師によって外国語(英・仏・独語)でなされていたからである。

柴五郎が通った陸軍幼年学校ではフランス語で教育が行なわれていた。明治6年(1873)入学したその学校では、「教官はすべてフランス人にてプーセ教頭のもとに、モンセ、ヴァンサンヌ、ルシェ、グーピル、ルイ等あり。日本人は助手、通弁のみ。/国語、国史修身習字などいっさいなく、数学の九九までフランス語を用い、地理、歴史など教えるもフランス本国の地理、歴史なり。日本の地理、歴史など教えられたることきわめてまれなりしが、フランスの山河、都市村落、河川、気候など暗記し、問わるればただちに回答す」。「食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」(石光b:10f.)。これ、留学でしょう。場所が東京というだけで。しかし、当然のことながら勉強はたいへんだった。「最初級に編入され、ABCの発声を習いつつ、一年前に入学せる者のうちにまじりて講義を聴く。まったく何が何やら弁え難し。これにてはいかに勉強するも追いつくはずなし。口惜し涙にくれつつ、休憩時間も休日もなく、必死に自習す」(同)。一方で、教えるほうのフランス人教官は、「おそらくは横浜神戸などに在住の者を採用せるもののごとく、後年、余が大尉か少佐のころ、パリに駐在せるとき、教頭プーセが小さきカフェーを営みおる由聞きたれど、遠慮して訪ねたることなし」(同)。

賊軍会津藩士の息子として困窮の中に育ち、蕨の根や犬の肉を食べるなど生存自体に苦労した人なので、十分な教育を受けていないと自覚していた。やっと受けた正規の教育はこのとおりフランス語だった。だから少年時代の回想録を書いたとき、自分の日本文に自信がなく、それを人に見せて校閲を願ったわけだ(そのためこの本は「石光真人編著」となっている)。整わぬ時代だったが、だからこそ個人の活躍の幅が広かったとも言える。

教師について、明治7年(1874)に来日して1年半ほど東京外国語学校で教えたロシアの革命家メーチニコフはこう書いている。「かつてハンブルグ動物園園長までつとめた動物学担当のヒルゲンドルフ教授のすぐ隣の生理学講座では、もうろくしたアメリカ宣教師が教鞭をとるといったことになる。またアメリカの高名な化学者アトキンソンが、逃亡した元砲兵軍曹だとみずから公言して憚らないフランス人(彼は高等数学を講じていた)を同僚にもつ羽目になるのだ」(メーチニコフ:289)。専門知識を必要とせぬ語学教師の調達には困らなかった。「この当時、日本におけるヨーロッパ商業は危機に瀕しており、各開港都市―とりわけ横浜―には、なんの仕事もないおびただしい数のヨーロッパ人、アメリカ人が住んでいたので(・・・)文部省としては東京やすぐ隣の横浜といった、いわば現地でかなり多くの教職希望者を調達することができたからである」(同前:276ff.)。東京外国語学校(および第一高等学校)の前身である明治初年の大学南校など、「商店員、ビール醸造人、薬剤師、百姓、船員、曲馬団の道化師」などがまじり、「無宿人の収容所」と在留外国人に評されていたそうだ(梅渓:242)。前歴を誰も知らない外国語学校の初代ロシア人教師シードルについて伝わる話では、「死ぬほど酒を飲んで、へべれけの姿で教室に現われるや、教壇にどっかと腰をおろしたこのシードル君、そのまま眠りこけてしまい、あとはどうやっても目を覚まさない。かと思うと、ひどくはしたないことばで学生たちを罵りだすしまつ。しまいにはとうとう学生たちととっくみ合いの喧嘩となり、学生たちの手でつまみ出されたという」(メーチニコフ:285)。メーチニコフ自身は、細菌学者でノーベル賞を受けたイリヤ・メーチニコフの兄で、ガリバルディのイタリア統一戦争に加わって戦い、片脚を失ったというような人物であり、二葉亭四迷こと長谷川辰之助(1864−1909)が明治14年(1881)にこの学校の露語科に入ったときの教師ニコライ・グレーも政治的亡命者で、ともに伝説的な教師となった。二葉亭の頃も、日本人の教師はいたけれど、物理や数学などを含めどの科目にもロシア語の教科書が使われ、講義もほとんど全部ロシア語でやっていた。メーチニコフの言、「はじめからヨーロッパの言語や書物の勉強に手をつけた子供や青年は、日本の公文書文学のことにはまったくチンプンカンプンという状態になってしまう。江戸や大坂の洋学校のもっとも優秀な生徒でさえ、時には公用語で書かれた書類が読めず、友人に多少とも体裁のととのった手紙すら書けないほどに、いわば日本人として文盲状態になってしまうこともあるのだ」(同前:208)は一つ話であるとしても、その懸念は強い。

二葉亭四迷の場合は、松江の相長舎をはじめ漢学塾に通っていたので、その心配はなかった。しかし、初対面のとき坪内逍遥が「多分、其頃に於けるロシア文学通の第一人者であろう」と認めるのと同時に、「彼の性格までが、・・・ 著しくロシア文学の感化を受けていた。・・・ 私は彼にぶつかって、全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た」(中村:65)と感じたのには、外国語学校の教育がいかなる影響を彼に及ぼしていたかがうかがえる。そうであればこそ、言文一致体の小説を初めて書くということにもなったのだ。

けれども、時代が必要としたそのような稀な成功例ばかり見ているわけにはいかず、大多数の凡才に必要なこと、日本語で高等教育が受けられるようにすることが要請される。明治政府が身の丈以上の金を費やして欧米各国に留学生を送っていた目的のひとつがこれであった。明治13年(1880)、東京大学総理加藤弘之は「東京大学ニ於テハ、方今専ラ、英語ヲ以テ教授ヲナスト雖モ、此事決シテ、本意トスル所ニアラス(中略)将来教師ト書籍ト倶ニ、漸漸具備スルニ至レハ、遂ニ邦語ヲ以下テ教授スルヲ目的トナス」(天野:50)。そのとおり、明治14年(1881)には東京大学の日本人教授数が初めて外国人を上回った(21人/16人)。明治19年(1886)の帝国大学発足時には42人対13人になっている。そしてその7割は留学帰国者であった。非留学者のほとんどは日本の古代法制や和漢学科の教授であるから、実質ほとんどが留学をした人々によって成っていたわけだ。その教授たちも始めは外国語で、多少日本語を混ぜて講義していたのだが、明治16年(1883)には教授言語を英語から日本語に切り替えることを決定した(同前:52ff.)。明治10年代は日本語で教授する私立の法律学校(のちに専修・明治・中央・法政早稲田大学などになる)が次々に現われた時代で、このころに高等教育の日本語化はほぼ成ったと言える。

だが、それが完遂されるためには、日本語が近代化しなければならない。まず、ヨーロッパの事物概念を表わす新しい語彙が必要になる。そこで活躍したのが漢学教育を受け西洋留学をした人たちで、西周考案の「哲学(希哲学)」や「理性」「技術」などのような漢字の組み合わせによる翻訳語(新漢語)が大量に造られた。終戦までの公式日本語は漢文訓読体であったけれども、それも語彙は古典由来の漢文の素養がなければ理解不能のものから、中等教育で教えられる新漢語を使って大いにわかりやすくなったし、二葉亭らの努力による言文一致体も確実に広がり、公文書以外の書記日本語はその文体になっていた。それらの語彙が中国人留学生によって中国にもたらされたのは見たとおりである。旧植民地高等教育が今なお宗主国の言語によっているのと変わり、教育の自言語化・自立が達成されたわけで、官費留学はそのための一大プロジェクトであったと言える。それが今、英語による高等教育の奨励によって掘り崩されようとしているのは、明治の遺産の放棄、自主的植民地化と言わなければならない。

なお、朝鮮人台湾人にとって、内地の大学はもちろんだが、京城帝国大学台北帝国大学で学ぶのも一種の「留学」であっただろうことも付け加えておく必要がある。彼らの昭和戦前期がわれらの明治初期である。


東京の大学がたしかに「自国の大学」、つまり自言語の大学になったあと、今度は「外地」に日本の学校ができていった。

そのさきがけは上海東亜同文書院で、明治34年(1901)創立だからかなり古い。もとは前年に南京に創立された南京同文書院だったが、義和団事件の混乱で上海に移転した。この学校の最大の特色は、最終学年に数名で隊を組み、3ヶ月から半年の間行なわれる大旅行である。西は四川雲南・甘粛まで、中国全土を踏査した。その成果は「支那経済全書」「支那省別全誌」「新修支那省別全誌」などの基礎になっている。その始まりは、明治38年(1905)、二期生林出賢次郎・波多野養作ら5人が卒業直後に外務省嘱託で西域や外蒙古の調査に出かけたことにある。林出は単身イリ(伊犂)まで行った。日野強少佐の「伊犂紀行」の旅より1年早く、一旦帰国後また渡清し、ウルムチに教官として滞在していたときには大谷探検隊の橘瑞超に出会っている。そのころ学僧たち学徒たちは(特務将校たちも)縦横無尽に大陸を歩き回っていたのだ。

満洲の「阿片王」と言われた里見甫(1896−1965)もこの学校の出身で、大正4年(1915)夏に一行4人で北京から太原、延安、西安、秦嶺、漢口と歩き、「中国をイヽナーと思い、その味をかみしめたものである」(佐野:116)。その旅行記の一節を見れば、「宜川より洛川迄二百十支里三日の行程である、一日は谷間を伝ふて九十里を踏破して龍泉鎮に着いた。月光の美しい処であった。翌日は愈々土匪の巣窟を通ふといふ。始め三十里程は谷を伝ふて徐々に山を登る。山が深いので今迄の禿山と違ひ樹木が茂って居る、野は秋草繚乱として山遊びに行った様な心地。/山を下って谷間に出る。清い流れがある、小樹の林がある、鳩が静かに啼く。草間にすだく虫声に誘われて叢に踏み込めば女郎花が倒れる萩の花がハラ〱と散る(中略)。今日の道中が最土匪の横行する処で頻々と掠奪にあった処である此の旧県では百余の壮丁火縄銃を提げ徹宵警戒して居る、昨夜東門外を襲って掠め去ったといふ本隊は東方廿里の処にありと言って居るが警戒するのみで敢て攻めて行く等は中々しない。/夜更けて夜巡り銅鑼の音寂寞を破る。翌廿五日山間の高原を進む、途上の村々皆守望所を設け耕作を止め戦々競々たる様である。僅か四十支里の道だから訳なく済んで丁度正午頃洛川城裏の人となった」(同前:117f.)。

外務省管轄の日露協会学校は大正9年(1920)ハルビン設立された。満州国建国のあと、昭和8年(1933)文部省所管のハルビン学院となる。6000人のユダヤ人の命を救うビザを発給した在カウナス(リトアニア領事代理、「諸国民の中の正義の人」杉原千畝(1900−86)もこの学校に学んだ。彼は大正8年(1919)に外務省留学生となっており、その頃ソ連には留学できないから、ロシア人の多く住むハルビンに行かされた。そのあとこの学校が創立され、そこに通った。「留学生」が通うなら、まちがいなく「留学」である。のちにここで教えることにもなった。日露協会学校ははじめ3年制、週36時間の授業の半分がロシア語で、みっちり仕込まれる。2学期からは寄宿舎を出て、ロシア人の家に下宿する決まりになっていた。杉原が外務省の試験に合格後「受験と学生」に寄せた体験記は、「哈爾賓は寒いといっても決して恐るるに足らない。厳冬の候でも、室内に於ては、却って日本より暖かで愉快である。来たれ、この謎の国露西亜へ!」(「雪のハルビンより」。渡辺:413)と結ばれている。当時の日本人の認識において、ハルビンロシアなのだ。白系ロシア人配偶者も得ているわけだし(1924年結婚)。だが、この白系露人との結びつきがソ連の忌避するところとなり、ソ連への赴任を拒否された。ロシア人の夫人とは離婚していたにもかかわらず。そのため、ヘルシンキ、カウナス、プラハケーニヒスベルクブカレストと、ロシア周辺の小国小都市を渡り歩くことになる。「ロシアドイツの間」の地域である。その巡りあわせがユダヤ避難民の幸いになったわけだが。ロシア語の達人ながら、モスクワに赴任できたのは、戦後、外務省をやめ商社で働くようになってからである。日本の外交官だからもちろん日本に尽くす立場だけれど、東方においても、「日本とロシアの間」、満州国の外交部に3年勤めていた。そこをやめたのは、夫人によれば「満洲国において日本人が中国人に対してひどい扱いをし、同じ人間と見なしていないことに我慢が出来なかった」(白石:69)からだということである。そのことは、同じ日露協会学校の卒業生岸谷隆一郎が喝破した、「失礼ながら武器をいじくるサラリーマン転勤族、それが軍人というもの。彼らは転勤しないと出世できない。だから、しょせん場当たりのことしかしない。このような軍人たちに抜本策を求めるのはどだい無いものねだりというものだ」という至言と通うところがある。彼は敗戦時満洲熱河省次長の職にあり、「俺は満州国と運命をともにする。満洲国がなくなれば岸谷もない」と言い残して自殺したという(芳地:100f.)。ハルビン学院が幻か、満州国が幻か。少なくともこの両者の崇高な部分を信じ、殉じた人がいたということだ。いかに現実の愚劣によって裏切られようとも、尊い一分まで否定し去ることはできない。

モンゴルについては、善隣協会によってフフホト(厚和・綏遠)に興亜義塾が設立された。昭和14年(1939)の募集広告によると、

「興亜塾給費学生募集

蒙疆及支那西北辺疆一帯ヲ確保シテ赤色ルートヲ壊滅シ、帝国ノ大陸国策ノ遂行ヲ完カラシメンガ為メ、文化事業其ノ他ノ工作ニ従事スル志士的青年ノ養成ヲ使命トスル興亜塾ハ愈々四月ヲ期シテ創立開校セラレントス

体力強健、思想堅実、御奉公ノ信念固ク、先駆者ノ意気ト熱意ヲ以テ第一線ニ立チ、積極的ニ活動セントスル青年ヲ求ム

一、興亜塾所在 蒙古 厚和特別市

二、募集人員 拾五名内外

三、応募資格 中等学校・専門学校・並ニ大学卒業生ニシテ年齢二十八歳以下ノ者

四、修学期間 一年六ケ月

五、修学期間中一切ノ費用ハ協会ニ於テ負担ス(衣食住ノ費用、旅費、小遣等ヲモ含ム)

六、卒業後ハ協会職員又ハ現地政府職員トシテ、支那西北一帯、並ニ蒙疆ニ於ケル第一線ノ任務ニ服スルモノトス」(江本:39)。

この学校は、旅行の同文、下宿のハルビンよりさらに進んで、1年間ひとりでモンゴル人のただ中で生活させられるという点できわめて実践的であり、語学習得の根本に触れている。「興亜義塾では一年間学科(蒙・支・露三カ国語、西域の地理・歴史・政治・経済)、それに軍事訓練を受け、さらに一年間は日本人の住んでいない蒙古高原にひとりで放り出されて蒙古人と生活を共にし、一蒙古人になり切る訓練を身を以て体験した。私は包頭北方百霊廟の四子部落サッチン廟で一年間ラマ僧に混って勉強した」(西川a:21)。

藤枝晃(梅棹らとともに西北研究所にいた)の回想によれば、はた目からはこう見える。「綏遠に、興亜義塾という、中田善水が塾長で、日本の中学出たやつをスカウトして来るのやね。あんまり出来の良くない豪傑、少々の事にこたえんような頑丈なやつばっかり。その第二回か第三回かの卒業生の、木村肥佐生いうの、ラマに化けてチベット行って。それからもう一人、西川一三。僕が行った時は、そういう若いのが二人潜入してるという事を聞いたですがね。その後、インド通って帰って来た。ああいうのが出たんは、興亜義塾というのも、成功したという事なんやろうかな。一人のやつは、向こうに入って、住みついて、いづれ、日本軍が来る時、それを迎えるように言われたて、これ見たら書いたるねん(「協会史」214頁)。例の小野田少尉、ああいう人のまだ見付からんやつが、いっぱいおるのやろな、あちこちに消えたやつが」(藤枝:66f.)。

興亜義塾二期生の木村肥佐生(1922−1989)はダワ・サンボ、三期生西川一三(1918−2008)はロブサン・サンボーの名で、ともにラマ僧に化けて、昭和18年(1943)に前後して西北に潜入した。西川によれば、「西北シナに潜入し、シナ辺境民族の友となり、永住せよ」という総理大臣東条英機の命令書を受けたという(西川a:84)。援蒋ルートである西北公路の探索が目的のひとつだったが、新疆への潜入は果たせず、ともに青海からチベットへ進む。寺本がタール寺からラサ入りした様と重なる。そしてチベットで日本の敗戦を知った。

彼らはまさに民衆のただ中にいた。モンゴル人であって日本人でなかった。木村はラクダに乗り、西川に至ってはモンゴルからチベットインドまで全旅程を歩き通した。特に西川(津和野から四つ目の駅の山口県地福出身)は、冬も裸足で暮らし、乞食もしたし、雨の中にごろりと口を開けて寝ることのできるような人である。だから、彼らを同族だと思っている内モンゴル人が、「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海のなかに叩きだすだろうよ」(木村:153)と言うのも聞くし、「安心しなされ。戦争は終わりましたぞ。盗人どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ」(同前:203)と「祖国の解放」を祝福される。それ以前に中国人モンゴル人に対する日本軍士官や日本の会社員の横暴傲慢な振舞いを見ていればこそ、さらに耳に痛かったろう。

木村はダンザンハイロブとツェレンツォーの夫婦を連れて(あるいは連れられて)潜入した。このツェレンツォーはまったく素朴な女で、木村は彼女の弟として旅しているのに、雇い主に対するような敬語を使うのをやめない。「だって実の弟じゃないでしょうが!」というわけだ。あるときは客のいる前で、「彼女がそばにいる時のこの人をふるまいときたら……今にも鋤をとりだして、穴を掘り始めるんじゃないかと思ったわ」と木村とその土地の娘とのエピソードについて語り出して、ダンザンと木村を唖然とさせた。「「それだけじゃない、この人ったら自分のナイフを研ぐことを考え始めたのよ。それまでずっと突きさそうともせず、鞘におさめてたのにね」。自分の機知にうっとりとなったのか、彼女はいっかな話しやめようとしない。それどころか聞き手が間違いなく話の露骨な部分をくみとれるように、一句一句を強調してみせた。(…) 客はバーブウ・ノインの若い召使二人だったが、すっかり当惑顔になっている。愚かな女がよりによって二つも大きなタブーを破ったからだ。まず彼女は弟の前でセックスの話をし、さらにツァイダム盆地で禁じられている言葉を使った。ダンザンは当惑しきった表情で、ラサから到着したばかりの晩夏のキャラバン隊の話をもちだして、なんとか話題を変えようと試みた」(木村:133)。この旅で彼女は出産し、後産が下りずに死にかけ、せっかく生まれた赤ん坊を亡くす(おそらく寝ながら乳をやって乳房で窒息死させて)などという経験をしている。そうしてたどりついたラサでは宗教的熱狂のうちに五体投地礼をくりかえし、インドへ下ってブッダガヤの聖なる菩提樹と仏塔に参拝して、「つまらないモンゴル人の女である私が、こんなありがたいお釈迦さまの遺跡にお参りできたのもあなたのおかげです。もういつ死んでも思い残すことはありません」(同前:209)と言う。木村と別れたあと、二人はネパールへ行き、仏塔の番人をしていたが、彼女はそこで病死したという。妻を亡くしたダンザンはラダックへ去った。人生は旅というが、まさにそれを一身に表わした生涯である。木村と同行したからラサへもブッダガヤへも行けた。だが、同行せず、内モンゴルに暮らしつづけていればどんな人生だったか。すでにこうであった以上、考えても詮無いことである。われわれはただ、木村の筆によって、こんな人もいてこんな人生もあったのだと知り、心を揺すられるだけである。

西川は一モンゴル人新米ラマ僧としてレボン寺に入って修学した。興亜義塾だけでなく、ここでも「留学」していたわけだ。しかも、特権ゼロ、茶汲み水汲みなど駆け出し僧の仕事をみなこなしている。最高の学位につくだろうと将来を嘱望されている「同郷」のイシラマを師とした。「イシラマにハタクとグンスク代五円を献じ、三跪三拝し、「なにも分らぬ者ですが、なにぶん宜しくお願い致します」と挨拶を述べた。それに対しイシラマは、「ロブサン、それはお前が取っておけ」とただ一言。その言葉は低くそして慈愛に満ちたものだった。熱いものがこみあげてきて、なにも言えず、涙の出るのを我慢し、「よし、この恩は…」と私はかたく心に誓ったのである」(西川b:49)。耳から覚えてチベット語の会話はなんとかできたが、書くのはもちろんさっぱりである。「親代わりの師匠イシラマは、私が経文もなにも知らぬ無筆者とはいっても、まさか、イロハも知らぬ無学者とは思ってもいなかった様子で、「ラマといって、イロハも知らぬ無学者が、このジュチュ僧舎に来たのは、お前が初めてだろう」とあきれてしまった。「この有様では、学問上の先生を選ぶなどとはとんでもない。俺の弟子として、俺の顔がたたないから、せめて経典が読めるようになるまで俺が教えてやる」ということになり、さっそく入門の翌日からイシラマについて、チベット語の勉強が始まったのである」(同前:74f.)。先生の指導にこたえ熱心に努力したおかげで、「こんどイシのところに来た弟子は、来た当時はイロハも知らなかったが、もうジャブロー(礼賛の経典)を全部暗記したそうだ、凄い奴だ」と言われるほどになった。

慧海が書いている問答修行にも参加しなければならなくなった。「入門して間もないある日のこと、イシ先生が、今夜僧舎で討論会があるが、その時、『一年生立て!』と上級ラマが怒鳴ったら、僧舎ではお前が一番の新参者だから、お前が真っ先に立つのだぞ」と突然言われ、何も知らない私は青くなった。しかし、先生は「シィシジン、サンニット、ヨーワルタル、ヨーウイチル」と二回繰り返され「これを暗記しろ!」と命令された」(同前:155)。そしていよいよその日が来て、「星のきらめく中庭の一段と高い石垣の上には、座布団のように、大きな石板が敷かれた答者の席があり、その席を囲んで九年生以上の全上級生が、その下の広場に集まった。(…) 全員が席につくと、

「一年生から立て!」と背後の九年生から声が起こった。兢々としていた私はままよとばかり、黄帽をかぶり、ダゴムを脱ぎ捨て答者の前に立ったが、足がぶるぶる震えて仕方がなかった。しかし私は、昼間先生から教わった一人芝居をどうにかこうにか、失敗することなく演じた。

答者は私の問に対し答えたが、なんのことか解らないだけではなく、その答に対して次になんと問を発したらよいのか、またどうしてよいのか分ろう筈はない。(…)

ところが、上座の上級ラマの間から、突如そして私に代わって答者に問が発せられた。そのすみきった声は実にわが師イシ先生の声だった。私はどれだけほっとしたことだろう。問答は助け船イシラマと答者の間に自然的に繰り返され、私はただ案山子のように立っていればよかった。まもなく、

「つぎ、立て」と九年生の中から声が起こり、その声と共に私はひっこみ、次の者が立った」(同前:156f.)。

二人がインドチベット人町カリンポンで出会ったときの様子はおもしろい。日本語が話せなくなっていたのだ。「我々だけになるや、西川氏は口をひらいたが、舌がもつれて話せない。私には何が起こったのかよくわかった。日本語で話そうとしたのが、言葉が出てこないのだ。ややあって彼は日本語を話すのをあきらめ、モンゴル語に切り替えた。「日本は戦争に負けたのかね?」」(木村:219)。木村のほうも同様で、カルカッタ港で日本船を見つけ、船長に「自分のことを説明しようとしたが、母国語であるはずの日本語がうまくでてこない。もどかしさのあまりペンを取って紙に書いた。「私の名は木村肥佐生。七年間日本語を話したことがありません」。奇妙なことに書くことには何の困難も覚えなかった」(同前:322)。

昭和25年(1950)、帰国すると二人はGHQから呼び出しを受けた。二人ともそれぞれ外務省に報告しようと考えた。彼らは大使館調査室の勤務とされていて、終戦まで両親のもとに毎月外務省から給料が振り込まれていたからだ。だが外務省はそれにまったく興味を見せなかったので、GHQで1年間日当を受けながら報告書を書いた。その後西川はその見聞を大部の本に著したものの、前半生と無縁の仕事(盛岡で美容器材卸業)をして生を終えた。一方、木村はその経験を生かしたが、それはCIAの下部組織で働くという形である(その後亜細亜大学教授)。これらのことは、敗戦後この国を支配しているのが誰であるかを如実に示している。たぶん今に至るまで。

平成元年(1989)、ウルムチへの旅の途上で病に倒れ、日本に運ばれて手術を受けた木村肥佐生の最期の様子は、夫人によるとこうだ。「手術後に麻酔科の先生が「あなたの名前は。」と尋ねられました。主人は暫く天上を見つめておりましたが、しっかりした口調で「名前は言えません。」と申しましたので、驚いた私は咄嗟に「ダワ・サンボです。」と答えてしまいました。すると主人は、きつい目で私を見てから先生に、「逃亡ではありません。潜行です。」と低い力強い声で訴えました。これが最後の言葉となり、十月九日、力尽き、ダワ・サンボとして他界致しました」(木村:369)。

興亜義塾も西北研究所も、存在した期間はごく短かったが、大きな成果をあげたと言える。しかし興亜義塾の場合、それが戦後に生かされたとは言えない。日本でなくアメリカの手に入ってしまった。同じく成功だった西北研究所のほうの成果は、戦後日本にしっかりもたらされたのに。国家べったりの興亜義塾のおのずからの限界である。スパイはしょせん国に仕えるもの、ということでもある。


満州国の成立は、不思議な「外国留学」を成立させた。満洲生まれ、撫順・奉天育ちの李香蘭こと山口淑子(1920−2014)は、父親の義兄弟である中国人有力者から李香蘭、潘淑華の名前をもらっていた。そして北京の潘家に寄寓して、1934年、そこの娘たちと名門ミッションスクール翊教女学校に通うことになった。これも立派な留学であるが、なんとねじれた留学であることか。彼女は潘家の娘潘淑華として、出自を隠し中国人として中国人の学校に通ったのである。政界の大物だから、親戚や妾、使用人や私兵などを含めて百人もが暮らす豪壮な邸宅の中に、たった一人の日本人であった。中国人作法も身につけた。「人様に何か言われると、すぐ笑いかえす癖があるが、なぜ笑うのか。日本人の習慣だとすれば改めなさい。意味もないのに愛想笑いをすることを中国では売笑といって軽蔑されます」「日常のあいさつで、点頭(軽い会釈)するのはよいけれど、日本人のように深々とお辞儀をするのはよしなさい。卑屈に見えます」などと奥様に注意され、それにならうと、実家に帰ったとき母親に、「淑子は、大都会に出てから生意気になって礼儀作法がダメになった」と嘆かれる。「中国人になろうとすれば、日本人らしさを失い、日本人であろうとすれば、中国人から誤解される― この二律背反の悩みは、風俗習慣だけでなく、あらゆる面で終戦時までつきまとうが、もっとも悲しかったのは、祖国・日本と故国・中国との対立が次第に激しくなってくることだった。クラスメートたちの日常会話にも「反日」「排日」「抗日」などの言動がひんぱんに表面化し、地下運動に参加する友人もでてきた。/そうした悩みを誰にも打ち明けられないことこそ、最もつらい悩みである。耐えられなくなると、私はよく太廟に出かけて古木の並木を散歩しながら思いきり泣いたものである」(山口・藤原:75)。あるとき学生の抗議集会に顔を出す羽目になった。「日本軍は偽満州国をでっちあげ、東北地方からこの北京にせまってきている。もし日本軍北京の城壁を越えて侵入してきたら諸君はどうするか」という問いかけに、「国民政府軍に志願する」とか「パルチザンに参加する」という声があがる中で、彼女の順番がまわってきたとき、とっさに「私は、北京の城壁の上に立ちます」と答えた。城壁に登れば、攻める日本軍か迎え撃つ中国軍の銃弾に当たってまっさきに死ぬだろう。それが自分にふさわしい身の処し方だと思った。

そうであればこそ、満映にスカウトされ新京へ行ったときの新京駅でのあざやかな出現が出迎えの日本人スタッフを驚かせたのだ。そのときの関係者は言う。「新京駅のホームではすっかりあわてましたよ。軟席車(一等車)の停車位置で待っていたのだが、李香蘭らしい女性はおりてこない。どうしたのだろうと心配していると、ホームのはずれにポツンと立っている小柄な娘、それがあなただった。オカッパ頭、青い木綿の中国服の質素な身なり。硬席車の窓から身を乗りだす中国人乗客たちに手をふって別れを告げている。日本人が乗る軟席車の特別車に乗ってこなかった、中国の人たちと打ちとけて話している、それだけでみなが感動してしまった」(山口・藤原:100)。

映画スターとして数々の「国策」映画に出演し、迎えた敗戦後、中国人の対日協力者は「漢奸」として裁判にかけられたのだが、彼女は日本人であることが証明できて、日本に引き揚げることができた。大陸で生まれ育ったのだから、「漢奸」でないように「引き揚げ」でもないのだけれど。中国人ではもとよりないのだが、日本人とも言い切れない(初「来日」のとき、特急列車に乗って目まいで気分が悪くなってしまった。特急あじあ号より遅い日本の特急で。「ごみごみした近景がコマおとしのフィルムのように目まぐるしくかわる」からである)。どちらにも真に属することなく、狭間を生きた人である。「華やかな狭間」ということだ。


その満州国崩壊は、シベリア抑留へとつながる。敗戦後、60万もの日本人兵士や満州国関係者がシベリアを始めソ連各地の収容所に連れ去られ、国際法を無視して囚人のような強制労働をさせられた。うち6万人ほどが寒さと厳しい労働と劣悪な環境のために落命したと言われる。10人に1人はいかにもひどい。隠岐西ノ島の出身で東京外国語学校ロシア語科に入り、社会主義運動に関わって退学処分を受けた後満鉄入社、北方調査室で働いていたという経歴ですでに妻子のあった山本幡男(1908−1954)も帰国のかなわなかった一人で、収容所勉強会アムール句会などを主催し、周りの人に慕われ、紙一枚持ち帰れなかった帰国時に、友人たちがその遺書を暗記して遺族に伝えたことで知られる(辺見じゅん収容所から来た遺書」)。

そんな悲劇があるため暗い色調で批判的否定的に語られがちなシベリア抑留であるが、抑留記「極光のかげに」を書いた高杉一郎(1908−2008)の言うとおり、これはひとつの「バビロン捕囚」である。抑留者は辛い記憶や恨みばかりを持ち帰ったのか? もちろんそういう人も多くいただろう。国で待っていた家族にとっては、ただ辛かったというだけかもしれない。だが、ここでは日本人の資質が問われているのだ。もし本当にここからネガティブな要素しか引き出せないのなら、日本人はその程度の人間だということである。待っていた人たちの心情もまた構図を歪めているだろう。留学の場合は、国で待つ家族には待ち甲斐があった。よりよい未来のために一時的に忍ばねばならぬことだった。戦争や捕虜の場合はそれと全然違う。帰ってくる保証は何もなく、帰ってきたとて行く前のレベルに戻ることしか期待されていないのだから、待つことの辛さはよくわかるし、それに一部の(多数の)抑留者のルサンチマンが合同すれば、ただ対ソ悪感情の材料になるだけであろう。だが、それだけなのか? それは貴重な経験に、学びの場にならないのか? 否である。日本人と日本文化にとって幸いなことに、それをもってポジティブな生産に結びつけた人たちはしっかりいた。

長谷川四郎(1909−87)の「シベリヤ物語」は、大岡正平の「俘虜記」と並んで捕虜文学の双璧だと思うが、五木寛之に「のんきな本で、捕虜生活の苦しみが出てないですね」と言われるほど、捕虜という名の囚人の生活の辛さがほとんど述べられていない。それは意図的なことで、その感想に対して長谷川自身は「それは罪ある者として私がよろこんでシベリヤに服役したためかもしれない」と言っている。これは重要なポイントだ。抑留者は要するに囚人で、懲役に付されていた。明治大正期の北海道の監獄の懲役労働について読んでいれば、それより(さすがに)ましだが同類のものだとわかる。自分がその罰を受ける理由があると思う者はそこから反省を引き出し、まったくそんないわれはないと思っていた者(兵卒の大部分はそうであろう)はただ恨みしか感じなかった、ということだ。「シベリヤ物語」に描かれるのは厳しいシベリアの環境の中に生きるたくましいが平凡なロシア人と周辺民族の姿で、日本人捕虜はそこでの生活風景の中の自然な構成物だ。場によくなじんでいる。たとえばマリーヤ・ゾロトゥヒナ。「野菜の積み込みにやってきた「兵隊たち」に対し、捕虜とか日本人とかいう観念を全然持っていなかった。彼女にはただ労働者という観念しかなかったように思われる。彼女は兵隊たちをただ未熟な労働者として取扱った。(・・・) トラックが動きだした。すると彼女はあわてて少年の手をはなして、たちまち笑顔になって、ぼくらに向って愛想よく手を振った。/― 幸福で!と彼女は言った」(「シルカ」)。

たとえばラドシュキン。「どういう用件か知らないが、ラドシュキンはモスクワへ出張したのだった。/こうしてラドシュキンなしの日が何日も続いたが、ある朝、私たちが煉瓦工場に近づいてゆくと、彼がいつものように、道具類を並べているのが見えた。彼は私たちが到着しても、別に長いこと不在だった人間のようではなくて、あたかも昨日別れたのと同じような態度だった。

「何処へ行ってたんです?」と私はきいた。

コルホーズへ、牛乳を飲みに」と彼は答えた」(「ラドシュキン」)。

たとえば「かちかちに凍りついた塵芥の山の麓を少しずつツルハシで取崩しにかかった」とき、通行人たちがからかって投げかける言葉。

「「ヤポン、働け、働け」と太い声が言った。

ヤポン、腹が減ったかい」と別の声が言った。

ヤポン、いつ国へ帰るんだい」とまた別の男の声が言った。

ヤポン、えらいぞ、きれいにやれよ」とまた別の声が聞こえて来た。

ヤポン、お前は民主主義者かね」とえらそうな声が言った。

ヤポン、立派な特殊技能を持ってるね」と皮肉な少年の声。

ヤポン、いい匂いでしょう」と若い女の声。

ヤポン、一ルーブリくれないか」と、これは吐き出した唾と同じ声だった。

ヤポン、お前のノルマはいくらだい」」(「掃除人」)。

「警戒兵不要者」という一種のパスをもらって、ひとりで村を歩けるようになった主人公は、本屋に入る。その看板は「細い斜体活字的に「本」と書いてあった。私はこの「本」の中へ入って行ったのである。恐らくは、ある人々が酒場にでも入ってゆくように。(・・・) 私はそれから毎日、馬から降りては、この「一八一二年のモスクワ」を少しずつ読んでみた。(・・・) 本屋の主婦は中年の独身女で、奥の一間にひとりで住んでいたが、彼女は私に対し上等な親切を示した。彼女は私に対し完全な無関心をよそおったのである。この無関心は冷淡なものではなかった。何故なら、私がある日、この「一八一二年のモスクワ」を開いて、ナポレオンクレムリン書庫でプガチョフ関係の文庫を調べている所を読んでいると、数人の小学生が入って来た。彼らは私を見て何やらひそひそ話していた。「ヤポン」とか「捕虜」とか言っていたようだ。すると店の主婦が彼らをたしなめて、こう言った。「そうです、あの人は日本人ですよ。それがどうしたのです?」/小学生たちは忽ち黙ってしまった。そして私が振り向くと、彼女はもう編物をしながら、窓辺に開かれた大きな厚い書物を読んでいた。彼女は毎日、その本を少しずつ読み、一枚一枚と頁をめくっていたのだった」(「ラドシュキン」)。

これをしも「留学」と言うのは、留学ということばの乱用であろう。しかし、ゴーリキーの「私の大学」のような意味で「人生の大学」ではあったし、朝鮮慶尚北道生まれの民族学者加藤九祚(1922−)のように、そこでロシア語を習得して、昭和25年(1950)に帰国ののち大学で学びなおし、抑留遺産のロシア語を駆使してロシア旧ソ連の学者と交際し、研究・発掘や翻訳に活躍するみごとな人生を送っている人もいる。このような人にとっては、抑留もたしかにひとつの「留学」であったと言えよう。シベリアから持ち帰った有益なものの筆頭は合唱愛好癖かもしれないが、それだけにとどまらない。

みずからの意志によらず、学ぶ意欲のある者にだけ開かれていたこの寒々しい「学びの場」は、漂流記から始まったこの留学談義をしめくくるのにふさわしい。

2016-06-14 留学のいろいろ (9)

伊東忠太の「留学」辞令

建築家建築史家の伊東忠太(1867−1954)は、築地本願寺平安神宮一橋大学兼松講堂などの設計をしたことで知られるが、明治35年(1902)3月から38年(1905)6月にかけて、奇妙な大「留学」をした。

「私は大学院を兎に角一と先づ卒業したが、是非とも少くとも三ヶ年中国から埃及希臘に至る迄、その間の諸邦を訪ひ、日本建築史を完成せねばならぬと決心して、時の工科大学長に懇請して見たが、学長は頑として認許されず、曰く『凡そ外国留学の規則は欧米に限る事である、中国より極西亜細亜迄の諸国留学は未だ曾て無き例である』と申さる。私は『外国留学は欧米に限るとは如何と思ふ、何処の邦でも必要あらば行いて留学するに何の不都合ありや』と質問し哀訴したれども承諾されず、数年の後明治三十四年に至つて始めて中国印度土耳古・合せて三ヶ年間の留学を命ずる辞令を頂きたるが、同時に『但し欧米諸国を経由して帰朝すべし』との命令を受けた」(伊東a:2)。「欧米諸国を経由して帰朝すべし」の但し書きはいかにも官僚的な辻褄合わせであるが、こんな一文を加える必要があったわけだ。欧米留学はすでに厳として確立した制度であり、その2年前に出発した漱石は別に希望もせぬのにイギリスへ行かされ、生涯で「もっとも不愉快の二年」を過ごさせられた。建築史研究のためにいかにアジア諸国の実地調査が必要だとて、それは「欧米経由」の装いをせずには受け入れられなかった。笑い話めくこの一条も、そんな施しをした上で願いを聞き届けてくれた度量を謝すべきだろう。

その行程は、北京から山西に行き、雲崗石窟を「発見」、五台山に登り、河南を経て西安、蜀の桟道を越えて成都重慶、漢口、湖南から貴州、雲南を通ってビルマミャンマー)へ抜け、カルカッタから北インドを回りボンベイへ。アジャンタ、エローラを見てカシミールまで行き、ガンダーラ地方へ。さらに南インドセイロン古跡、ハンピまで見ている。アフガニスタンには入れないので、船でトルコへ。小アジア各地を見たあとエジプトエルサレムシリアを経てコンスタンチノープルに戻り、ギリシアイタリア、英独仏米を通って帰朝した。留学というより一大調査旅行と言うべきだが、これをしも「留学」とするのは留学にとっての快事である。一方で非常な歓待を受けることもありながら、南京虫に食われ、悪童に石を投げられ、護衛に金を強請され、ほとんど探検にも等しい「西遊六万哩」の大旅行だ。その意味で、一方で留学に対する批評であり、他方探検に対する批評ともなっている。

名高い大谷探検隊の行跡とは、中央アジア部分を除いて重なっている。大谷探検隊は中央アジア探検のみが云々されるし、実際それがこの一連のミッションの最大の貢献であるのだが、実はインドビルマ清国を含む大調査行であった。いわゆる「探検」と大旅行の間の距離はわずかしかない。第一次探検隊はロシア領西トルキスタンのブハラ駅で井上雅二という日本人に会っているし、中国東トルキスタンでも電報や送金が受け取れた。「探検」と見なされることの多い慧海らのチベット入りも、慧海をラサで待っていたのが日本製のマッチであったように、商人・使節巡礼などが行き交う道の上にラサもあったわけで、単にその交通が繁くなく難儀なだけのこと。成都で知府に「自分は不日官命を以て入蔵するが、貴君若し同行の意があるならば、便宜取計らつても宜しい、但貴君は中国人に変装し、万事中国の風俗習慣に従ふことが絶対必要である」、あるいはカシミール文部大臣に、もしラダック(カシミールチベット人地域)に行くなら「案内者護衛兵等を差出し、少しも不自由のないように取計らつて進ぜる」などと言われたという(伊東a:149f.)。もちろんそれは可能性と言うばかりで、もしその申し出に乗っても実際実現できたかどうかわからないが(食言、遅延、朝令暮改等々はこうした企画の標準装備である)、人外境に行くわけでなし、道はあるし、その道が他愛もなく開くこともままあるだろう。「探検だ探検だ、不惜身命」と力んでいる人の前にこそ開かれない、ということなのかもしれない。ただし、このような保護された形の旅では、見聞に制約が多くなるだろうけれども。

人の歩かぬ砂漠や南極北極を踏査するならたしかに探検だろう。だが、中央アジアだろうがチベットだろうが、人は行き来しているのであって、地元民の行き交う道を歩くだけなら探検とは言えない。その土地の人の注意せぬものに科学の光を当て、調査報告を行なってやっと探検になる、ということである。その意味では、報告もきちんと行なった伊東のこれは、本人自身旅行であると思っているが、「探検」と旅行の間の線がきわめてあいまいなことを示している。隊伍を組んで洋装備洋習俗で押し入るのが「探検」なのかもしれない。いや、まじめにそう思う。

能海寛の死をめぐってはひとつ伝説があって、彼が殺された宿の壁に大日本帝国島根県石見国那珂郡波佐村出身能海寛と記し、「残念ながら此処にて土人の為めせつがいせらる」という意味の歌が書いてあったというものだ。それを伝えたのは井戸川辰三大尉ともいうし、伊東忠太であるともいう。事実は井戸川が大理の旅宿に能海の筆と思われる「大丈夫志を立つ何事か成らざらん」というような歌が書いてあるのを見た話が訛伝したものらしい。また、貴州と雲南の境あたりで伊東は大谷探検隊支隊の一員でマンダレーから北上中の野村礼譲、茂野純一にばったり遇っている。これらのことは、ひとつにはそのころ日本人がよく大陸を歩き回っていたことを、もうひとつには道は交差するものだということを示している。

伊東は正しい明治紳士で、文明を尊敬し、野蛮をきっぱりと見下していた。中国人インド人、トルコ人共通点が多いと指摘している。つまり、三者とも野蛮人だということである。たとえば、印度人と支那人と似ている点が大分あるとして、貪欲、迷信、偽善、懶惰、不潔、喧騒を挙げる(伊東b:444f.)。

しかし、奇異な習慣でも自分が納得できたことに対しては率直にその利を認めている。「印度で某印度紳士の宅に招待され、純印度式の御馳走になつたとき、我輩は『印度人が手掴みで食事をする風は如何にも原始的で感心できない』と云つた処、その紳士は極めて真面目な態度で『それは非常な誤解である。凡そ食物は味覚ばかりで食ふのではなく、必ず嗅覚を以てその美味い香気を嗅ぎつゝ食ふが、更に視覚が手伝つてその美味さうな形や色が味を助ける。我輩等は又その上に触覚を使つて美味さを助成するのである。指先で食物に触れると、先づ一種の美味さを感ずるのである。これを知らないで可惜触覚を利用せずに食ふ人は真に気の毒である』と逆襲した。/我輩は之には一言もなく降参したのである。成程菓子や果実や鮨子などは、掴んで食はなければ美味くない。して見ると、如何なる食物でも手掴みで食ふ方が美味いのであらう、たゞそれは習慣の問題である。又聴覚も不知不識手伝つて居ることは明白である。即ち吾人が飲食する時には五官が悉く活動して居るのである。吾人が印度人の手掴みを笑ふのは余程間違つて居ると思ふ」(伊東a: 13f.)。そして、求めに応じて日本式の食べ方を見せてやると、会席者は驚異の目を見張って、翌日の新聞に「彼の食事の仕方こそは世にも不思議なれ、二本の小さい棒を片手に操りて、如何なる種類の食物をもこれを口に運ぶことの巧妙さは、吾人が手を持てするに比して決して遜色ない」と書かれた。よき文化交流である。

また出すほうでは、「甚だ尾籠な話で恐縮であるが、印度人は使用の後、左手を用ゐて局部を水で洗ふ習慣がある。我輩は総て印度の習慣には従て見たが、これ斗りは出来なかつた。『日本人は潔癖だからこれは出来ない』と云ふと印度人は承知しない。『日本人は使用の後紙を用ゆると云ふが、紙で拭いた位で清潔になると思ふのか、吾人は水で洗ふから徹底的に清められる、紙でこすり放しにして置くと思ふと日本人の不潔さが想はれる』と逆襲して来たので我輩も苦笑を禁じ得なかつた。実際、日本人は潔癖だと云ふけれども、よく考へて見ると随分不潔癖な所もある様だ」(同前:15)。ウォッシュレットのできた今では、インド式の勝利かもしれない。なお、食事用便の習慣はトルコまでずっと同じだ。

トルコ人について、自分の従僕の例を挙げ、「彼は君士坦丁堡の薬種屋の亭主で、九尺間口の店の前に穿山甲人魚の干物などをぶら下げ、怪しい黒焼と草根木皮とを売つて兎も角も別に困らずに暮してゐる気軽な男である。(・・・) 彼の性質の内で土耳其人に共通な特色と思はれる点を二三数へて見よう。/彼は貧乏な癖に銭勘定は至極無頓著で、不経済なことばかりしてゐた。これは凡て土耳其人に共通した性質の一つである。彼の楽は大抵毎夜酒を飲んで芝居を見て夜を更かすことである。これは日本の寄席の類で、多くは女が音曲歌舞を奏する、頗る日本的の調子のものである。席料は大抵二重銭位だ。土耳其人の音曲を好むことは格外である。誰でも小唄をよく唄ふ。それから彼の癖は乞食に銭をやることである。乞食と見れば必ず欠かさずに銭をやる、或る時は遠くに乞食のゐるのを見つけて走つて行つて銭をやつたが、彼はこれを以て善行であると誤信してゐるらしい。土耳其人は一般に乞食を優遇するから乞食の絶える気遣ひはない。(・・・) 未開国の従僕の通性たる主人の物品を勝手に使用すること、主人の飲食物を竊み喰ひすること、買物の度にいくらか誤魔化すこと、主人を利用して土人に向つて我儘を振舞ふこと、今一歩進むと主人の物品を盗むこと等は避くべからざることだから、たゞ油断なく監督するより外はない。イスマイルは盗みだけはしないが其の他のことはみな行つた。而も彼は珍しい正直者であるのだ」(伊東b:572f.)と言う。だが、飲酒や寄席通いについては日本の庶民にも見られる性質で、喜捨については引用者は断然美徳だと思うのだが、プロテスタンティズム倫理には反するかもしれない。

2016-06-08 留学のいろいろ (8)

留学先としての日本

逆に、日本が留学の対象となることにもなった。国をあげ官民をあげて西洋知識や技術を熱心に取り入れた日本は、明治27・28年の日清戦争(1894−95)の頃までには旧文明国中国をしのぎ、アジアに抜きん出る国になっていた。戦争の帰結がそれを示した。同じ漢字国である日本は、「洋務」に遅れた中国にとって、格好の留学先になった。距離も近く(上海からなら北京より九州のほうが近い)、物価も西洋諸国より断然安く、人種も同じだ。何より同じ文明圏で、漢字を使っている。

明治の日本公用語漢文訓読体である。戊戌新政が潰えて日本に亡命する船上、梁啓超はそのころ人気の小説「佳人之奇遇」を勧められ、おもしろいので読むそばから訳したというエピソードがあるが、たしかに、そのころまったく日本語を知らなかった彼でも訳せる。あれは正調漢文訓読体であるから、要するに復文(書き下し文「朋有り遠方より来たる」を原文「有朋自遠方来」にもどす作業)すれば、ただちに漢文になるのである。

明治20年代までは文化的には江戸時代の延長で、実は漢学が非常に栄えた時代であった。学問をする青年は必ず漢学を修め、何か感じれば漢詩を作るのが常だった。町の至るところに漢学塾があった。洋学者も漢学の素養が深かったので、西洋文献を翻訳するにあたって漢字によって新概念を吸収咀嚼した。哲学だの物理だの、無数の新漢語・和製漢語が現われた。そして、それらは留学生によって中国逆輸入された。清国留学生たちはさかんに翻訳活動を行なっていたのである。1900年に訳書彙編社ができ、教科書訳輯社、湖南編訳社、会文学社などが翻訳出版をし、雑誌も多数発行され、それらは国内の留学生に読まれるだけでなく、本国にもしきりに送られた。英書・仏書・独書の翻訳もあるが、もちろん日本語訳からの重訳である(さねとう:432)。Economyを「経済」(「<経世済民」)とするのはよろしくないなどの意見もあったが、結局「経済」で定着してしまった。「情報」が「信息」、「協力」が「合作」などのように別語を使う例もあり、「紹介」と「介紹」のような逆転語もあるが、初め中国で「天演」と訳したevolutionが、今は日本訳の「進化」になったという例もある。「中華人民共和国憲法」のうち、「中華」以外はすべて和製漢語である(「共和」のように語彙自体は昔からあるが、翻訳語としての新しい意味が付与されたものを含め)。「取消」「手続」「場合」のような本来和語であったものも中国語の語彙に入った。現在の中国語社会科学語彙の6、7割、高級語彙の半分以上は日本でできた新漢語だという。もって日本留学の果たした役割を知るべきである。

日清戦争後の明治29年(1896)、清国は初めて日本に留学生を送ってきた。その後留学生の数は増えつづけ、日露戦争後の明治38・39年(1905・06)にピークに達した。その数8600名以上、1万とも2万ともいう。柔道創始者として有名だが、当時高等師範学校校長でもあった嘉納治五郎に、最初の留学生の教育が任された。嘉納はのちに清国留学生のために弘文学院を作った。ほかに短期間だが日華学堂というのを高楠順次郎が開いている。彼らはヨーロッパ留学経験者であった。

日本への留学生で最も有名なのは魯迅(1881−1936)だが、そのほかにも、のちの中華民国主席蒋介石(1907年東京振武学校に留学、のちに高田連隊勤務)、中華人民共和国総理周恩来(1898−1976)、文学革命の唱道者で共産党創立者陳独秀(1880−1942)、文学者郭沫若(1892−1978)など、枚挙にいとまがない。

体制側で出世した人もいるが、革命に身を投じた留学生も多く出た。中国人日本留学史を調査した実藤恵秀は、そのあたりのことこう表現している。

日清戦争がおわってから、明治のすえにいたるまで、中国は日本とひとつになっていた。

このあいだが、明治以来、いままでで、いちばん中国が日本にしたしんだ時代であり、日本をちからにした時代である。

中国でうたれる革命劇の楽屋は日本であり、その筋書は、日中合作であり、これに登場する役者は留日学生であり、中国亡命者であり、日本志士であった。中国の志士は、中国で失敗すると、すぐに東支那海をわたって、日本の楽屋に亡命した」(さねとう:22)。

ある留学生は、中国同胞に日本留学を呼びかけて、「異郷にきたという感じはあるが、異国にきたという感じはない」と言っている(同前:131)。また、大正8年(1919)5月4日北京で起きた学生たちの五四運動は、その3日後の5月7日に東京留学生に波及している。つまり、学生において中日は一体だったのだ。

女性も留学した。辛亥革命前の紹興で起義に失敗して刑死した革命烈女秋瑾(1875−1907)は、青山実践女学校に留学しているが、留学中湖南の女学生に「まず日本へ来れ!」と呼びかけている。「男子のとりしまりから脱するためには、自立せねばなりませぬ、自立するには学芸を求め、協力しなければなりませぬ。日本の女学は日に日に盛大となり、みなみな一芸を執って生活を謀り、上は父母を扶助し、下は夫をたすけ子を教え、男女坐食の人を無くそうとしている。このような国家が強大にならぬはずはありませぬ。諸姉妹に志あれば、日本に遊学せねばなりませぬ。私のもとへ来られれば、一切の便宜をとりはからいます」(武田:109)。

筆名魯迅こと周樹人は、南京の路鉱学堂に学び、卒業後省の給費生として1902年に日本へ留学した。22歳である。初めの2年は東京の弘文学院で日本語と普通学を学び、24歳のとき仙台医学専門学校に進んだ。初めての中国人学生だった。日本には1909年までとどまる。中国革命の結社光復会のメンバーにもなった。魯迅の留学時の出来事で一生の転換点になったのは、医学から文学への転向である。そのきっかけを彼自身が最初の小説集「吶喊」の自序に書いている(竹内好訳)。

「私の夢はゆたかであった。卒業して国に帰ったら、私の父のように誤られている病人の苦しみを救ってやろう。戦争のときは軍医を志願しよう。そしてかたわら、国民の維新への信仰を促進させよう。そう私は考えていた。私は、微生物学を教える方法がいまどんなに進歩したか、知るべくもないが、ともかくそのころは、幻燈をつかって、微生物の形態を映してみせた。そこで、講義がひとくぎりしてまだ時間にならないときなどには、教師は風景やニュースの画片を映して学生に見せ、それで余った時間をうめることもあった。時あたかも日露戦争の際なので、当然、戦争に関する画片が比較的多かった。私はこの教室の中で、いつも同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった。あるとき、私はとつぜん画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。一人が真中にしばられており、そのまわりにおおぜい立っている。どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。説明によれば、しばられているのはロシア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を斬られようとしているところであり、取りかこんでいるのは、その見せしめのお祭りさわぎを見物に来た連中とのことであった。

この学年がおわらぬうちに、私は東京へ出てしまった。あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことでない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動を提唱する気になった」。

同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった」というところに、留学の寂しさがうかがえる。仙台中国人は彼一人、あとはみな異邦人である。その異邦人たちは当然差別をする。漱石英国での孤独を、魯迅は日本で経験したわけだ。構造的な同一性ということだ。魯迅の場合は7年も日本にいたのだから、その寂寞にもかかわらず、居心地は必ずしも悪くなかったかもしれないが。

さしも隆盛だった日本留学も、昭和12年(1937)の日中開戦によって留学生が総引き揚げし、一旦終幕となった。


話はさらに逆転する。中国文学増田渉(1903−1977)は昭和6年(1931)上海に「留学」した。彼の「留学」については、長くなるが、彼自身の回想によるのが最もよい。

「私は学校を出てから(学校にいるときからであるが)しばらく佐藤春夫氏の手伝いをして中国小説の翻訳などをしていたが、しきりに中国へ行ってみたくなって、千枚ぐらいの長い翻訳が一段落ついた時、それをしおに上海に行く決心をした。それは昭和五年の暮れであったが、船の都合などで翌年三月に上海についた。最初は一か月ぐらいの旅行のつもりだったし、当時は別に中国文壇事情についてあまり注意していたわけではなし、魯迅上海にいることなど初めから知っていたのではない。ただ、佐藤春夫氏から内山完造氏あての紹介状をもらっていたので、ある日内山書店を訪ねたら、ちょうど魯迅上海にいる、しかも毎日同書店にあらわれると聞いた。(…)

私はとにかく、彼について勉強しようという気持ちから、最初は毎日内山書店へ、彼があらわれる時間を見はからって出かけて行った。たぶん私が彼に向かって、中国文学を勉強するにはどんな本から読んだらいいかとでもきいたものだろうが、彼は自分の幼少年時代の思い出を書いた『朝花夕拾』という本をくれた。私はその本を私の下宿で読んで行って、不審な字句や内容の事柄について、翌日内山書店で彼から教えてもらう―ということを当分つづけていた。(…)

その次に『中国小説史略』についての質問をはじめた。それは最初から翻訳するつもりであったし(内山完造氏がそれをすすめた)、ほとんど逐字的に講解してもらった。そのころは内山書店の店頭ではなく、魯迅の宅に直接出かけるようになっていた。内山での「漫談」(当時そういっていた)をすますと、彼とともに彼の寓居へ行き(内山からその寓居までは二分か三分の距離)、それから彼のテーブルに二人並んで腰かけ、私が小説史の原文を逐字的に日本訳にして読む、読みにくいところは教えてもらう、そして字句なり内容なりについて不審のところは徹底的に質問する。その答えが、字句の解釈なら簡単であるが、内容となるといろいろの説明がいるので相当時間がかかる。たいてい午後の二時あるいは三時ごろからはじめて夕方の五時から六時ごろまでつづけた。むろんいつしか雑談にわたったり、日々生起する時事に対する意見や批評をきいたりする合いの手がはいることも多かったが、およそ三か月はその本一冊の講読に費やされたと思う。当時、彼は外部とほとんど交渉をもたなかったから客はまずなかった。広い書斎兼応接間に、夫人の広平女史が少し離れたところで彼女自身の仕事(本を読んだり、抄写をしたり、編物をしたり)をしている(息子の海嬰は子守婆さんがたいてい外へつれて出ていて部屋にはあまりいなかった)、だから、じゃまするものもなく、私は十分教えをうけることができた。(…)これが済んだときは、私もホッとしたが、彼もホッとしたであろうと思われる。それから『吶喊』と『彷徨』との二小説集の講解も終わったのがその年の暮れであった。私はだからその一年、春夏秋冬、毎日彼の書斎に通ったわけである。そして一日、三時間くらい彼の個人教授をうけたことになる。毎日許夫人から点心とお茶を接待され、また一週間に二回くらいは彼の食堂で晩飯を御馳走になった。実に飽きもせず、諄々として彼は手をとるようによく教えてくれた。私は感謝の言葉もないほど今でも恩に感じている」(増田a:15ff.)。

そのころ反政府的な文学者の大弾圧があり、魯迅は身を潜める必要があった。内山書店主に提供されたアパートに住んで、姿を見られるのを恐れ、窓辺にもけっして寄りつかなかったという。したがって雑用もなく、訪問者にわずらわされることもなかったので、増田青年の来訪は暇をもてあます魯迅にとってもいい機会だったと言える。

昭和6年(1931)3月から12月末までわずか10ヶ月足らずの「留学」であるが、これこそが真の留学である。もともとは旅行であり、その延長としての滞留であって、それなら当時の大陸浪人と、あるいは今もアジア各地の安宿に沈殿している連中と同じだが、師と学びがこれを留学とする。ここには師がいて、弟子がいる。師はこれその時その地で得られる最良最善の人、背景は東西世界のうねりのぶつかる魔力に満ちた都市。「そのころの上海といえば、「魔都」とか「国際都市」とかいわれ、世界各国の人間が流れこみ、商業と革命と歓楽とがはげしくからみ合って渦巻き、何ものかが崩壊し、何ものかが突き上げ、ひしめき、せめぐ乱雑喧騒な足音が絶え間なくきこえた。もちろん外側からの観察でしかないのだが、しかし私の皮膚は異様な、ドライな重苦しさを感じた。私は圧倒されてしまった。私のよんだ書物のなかの「中国」とはまるで異質の、しかしなまなましい中国がそこにはあった」(増田a:270)。「上海は、そのころの中国の街に特有な、油じみた臭気をただよわせて、頽廃と革命がまざり合って渦巻いていた。その六月には中共中央の総書記向忠発上海でつかまり、処刑されたし、九月には満州事変が起って、上海でもあちこちに抗議デモがあり、日本人にそそがれる眼差しは痛かった。やがて一一月には江西省の瑞金に「中華ソビエト臨時政府」が成立した。上海にきて私は、いきなり異常な、強烈な刺戟を受けどおしであった。そのような刺戟が、いつか日常的なものにさえなってしまった」(増田b:427)。留学のひとつの理想形である。ただ決定的に惜しまれる点があって、それは増田中国語が話せなかったことだ(日本語ができる魯迅はいいが、できない茅盾とは通訳を介さねばならなかった)。読めるが、話せない。日本人の宿痾である。漢文漢学に反発して竹内好武田泰淳らと「中国文学研究会」を作り(1924年)、漢文学でない「中国文学」を標榜していた増田にしてこうであった。

増田明治36年(1903)日本海に面した島根半島の恵曇村に医師の息子として生まれた。魯迅からの手紙に、「恵曇村と写真屋とがそんなに遠いですか? 実に桃花源の感を起します」(増田a:166)とあるようなところだ。東京帝国大学支那文学科を卒業。戦後大阪市立大学の教授になったが、その講義は出雲弁で、学生が聞き取れなくて困った。ある学生が苦情を言うと、授業内容をプリントにして配布した、という逸話がある。40年来の友人竹内好の葬儀の席上、弔辞を読んでいるさなかに倒れ、そのまま不帰の客となった。昭和52年(1977)3月10日のことである。心臓発作だった。魯迅竹内好のような好師好友に恵まれたとも言えるし、また、魯迅や竹内が好弟子好友に恵まれたとも言える。一種理想的な死に方だ。

帰国魯迅から「送増田渉君帰国」という詩を贈られた(増田a:140)。

扶桑正是秋光好 楓葉如丹照嫩寒

却折垂楊送帰客 心随東掉憶華年

扶桑は正にこれ秋光好し、楓葉は丹の如く嫩寒に照る。

却て垂楊を折り帰客を送る、心は東掉に随って華年を憶う。

日本の風光をしのび、彼が東へ帰るを見るにつけても、自分の日本での若かりし日のことを憶う、というものだ。帰国増田岩波文庫で「魯迅選集」を出すとき、どれを入れたらよいか問い合わせたら、どれを選んでもいい、だが「藤野先生」だけはぜひ入れてもらいたい、ということであったそうだ。仙台医学専門学校中国留学生を親身に指導したあの先生、周青年のノートを毎週びっしり添削補筆してくれた風采の上がらない藤野先生の存在が、上海で偶然出会った中国文学研究志望の日本の青年を教えることに結びついているだろう。好意は人のためならず。人の人の、そのまた人にまで伝わってゆく。

「彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を与えられる」(「藤野先生」、松枝茂夫訳)。だがその先生は、大学の教授でこそあったが、まったく無名の人だった。魯迅が自分の選集にこの作品を入れてくれと頼んだのも、それによって藤野先生の消息が知れるかもしれないと思ったからだ。しかし何の情報もなく、病床を見舞いに上海を再訪した増田渉に、もう先生はこの世におられないのだろうと嘆息をもらしたそうだ。だが、藤野先生は当時福井の田舎に存命で、小さな診療所を開いていた。そういう人である。魯迅と並び立つような人物ではない。つまり、よき師はよき弟子が作るのである。弟子の心のうちにある。感化の力はたしかに師にあったわけだが、それを受けとめる弟子の感激の中によき師の像は結ばれる。わずか8か月教えただけの生徒が優秀で感受性が強かったため、札幌で伝説的な「大志」の銅像になったクラーク博士や、門人の庭にポンペ神社なる祠を建てられ朝夕拝まれていた長崎海軍伝習所のポンペ医師なども同じだ。魯迅やマックス・ミュラーのように大きさで弟子を圧している場合でも、それは変わらない。