石陽消息

2018-08-07 ワールドカップ・漢字カップ

今回のワールドカップ中国で見たので、必然的に漢字とにらめっこすることになった。

中国ワールドカップを見ることは、つまり膨大な漢字表記の固有名詞群を解読するということである。中国に暮らしている人、中国語生活する人には普通の日常で、何を今さらと笑われてしまうことなのだろうが、中国生活する時間は長くても、ずっと日本語生活を貫いてきていた者には、今さらな新しい経験だった。何となく前世紀前々世紀の東洋学者になったような気分だ。

中国には周辺民族に関する記録が山ほどあって、学者にとっては宝物庫なのであるが、それが全部漢字で記されているので、それがほかの記録にあったり現在使われていたりする地名人名のどれに相当するのかを検討しなければならず、かつての東洋学の主要な任務は漢字名の解読比定であった。白鳥庫吉桑原隲蔵などのビッグネームが、大宛国貴族山城弐師城は現在のどこに当たるかをめぐって華々しく論争していたさまを、ワールドカップ出場国名選手名を見ながら追体験できる。そんな楽しみ方もあった。「颯秣建」はサマルカンド西方の乾いた風が頬を撫でていくようだ。「烏拉圭」なんて、絶対あの頃の西域の国の名前だよ。ウルグアイピンインで書けばwulagui)と知るのはちょっと失望だ。

瑞典」「瑞士」は日本でも使うので知っていたが(ただしスイスは日本では「瑞西」)、「瑞」の発音は「rui」であって、それぞれ「Ruidian」「Ruishi」なのはおもしろい。日本語の音読み「ズイデン」「ズイシ」のほうが原音に近い。スウェーデンスイスを「瑞典」「瑞士」と表記するようになったのがいつごろなのか知らないが、早くても明代だろう。そのころは「スイデン」「スイシ」といったような発音で、「瑞」は「スイ」だったのが、いつからか「ルイ」に変わったのだなとわかり、何となくうれしい。日本の漢字音のほうが昔に近いということも。

巴西」はひどい。ブラジルのことだが、発音は「パーシー(ピンインでBaxi)」でBrazilとは全然違ううえに、あれじゃ意味も「四川西方」になってしまうだろう。日本での漢字表記「伯剌西爾」(だから日伯協会がある)のほうが適当だと思うのだが、あの表記は日本人が独自に作ったものなのか? 日本の米・仏・独・伊・露が中国では美・法・徳・意・俄であるように、日中で異なる表記もあるけれども(西・葡・墨などは同じ)、ブラジルもその一例になる(なお、かつての中国は周辺民族にケモノ偏や虫偏の文字を当てるいやらしい国だったが、近代欧米諸国には好字を当てているのは何か事情があったのだろうか)。

「丹麦」(たんばく:デンマーク)「比利時」(ひりじ:ベルギー)は、知ればなるほどとは思うものの、これ、普通名詞に受け取られないか? 「赤い麦」とか「利を比べる時」とか。ウラジオストクは漢字で書けば「征東」とか「鎮東」の意味だそうだが、後者なら中国にもどこかにありそうだ。承徳・大慶・大同・保定等々、あの国には普通名詞(抽象名詞)と区別できない地名がかなりある。たいていうれしそうな名前だ。人名でも、令計画なんて人もいたし、丁寧という卓球選手もいる。こんなの普通名詞だろう。英米にもWhiteさんもいるしBlackさんもいるが、固有名詞は語頭が大文字なのでわかる。日本語の場合は、外国の人名地名はカタカナ表記だし、漢字名も前後が助詞(ひらがな)で囲まれているからそれとわかる。漢字はそれぞれの文字に意味があり、かつ分かち書きをしない点からも、普通名詞固有名詞の区別がむずかしいと思うのだが、中国人はあれで大丈夫なのか? 昔の漢籍固有名詞普通名詞混同しないために、固有名詞には傍線を引いていた。現代でもそれは必要なように思うのだが。

実況は中国語だから聞いたってわからないけれど、人名は何とかわかる。しかし、デンマークチームに「アレクサ」という選手がいるみたいなのだが、誰だ?と思っていたら、エリクセンEriksenだった。漢字で「埃里克森(ailikesen)」。どうもアナウンサーには、アルファベットを見て発音している人と漢字を見て発音している人がいるようだ。ポグバPogbaのことを「ポバ、ポバ」とg音がほとんど聞き取れない言い方をしている人もいた。あれはアルファベットを見て言っている。漢字なら「博格巴(bogeba)」で、日本語同様「グ」が入る発音になるはずだ。

漢字で書かれると本当に困る。「克里斯蒂亚诺·罗纳尔多」だものねえ。「梅西」ぐらいならいいんだけども。サッカーでは新しい選手が続々と現われる。どうやって彼らの漢字表記を決めているのだろう。中国語には405の音節があるというが(プラス四声)、この音節にはこの文字を当てるというのが決まっているのだろうか。たぶん機械的に当てはめているのだろうが、その際声調も考慮しているのだろうか。私が知らないだけで、きっとルールはあるのだろう。そのルールを一般中国人も知っているのかな? 旅行中外国人と知り合いになって、その人の名前を日記に書くときはどうする? 何にせよ、面倒だ。カタカナがあってよかったとつくづく思う。


また、この大会は中国企業がスポンサーに多く名を連ね、すべての試合で漢字の広告を見ることになった。スマホvivoや家電のHisenseのように世界市場を目指している企業がスポンサーになるのはわかるのだが、国内企業に過ぎないと思われるところまで莫大なスポンサー料を払っているのは驚きだ。あれは結局国内向けなのだろう。だから漢字でいいというか、漢字でなければならない。国内消費者獲得のために、国際大会(世界一の人気で、それに見合って広告料も恐ろしく高い国際大会)に広告を出す。国内需要を満たせば巨大企業でありうる中国の事情が見える。国内事情を国際場裡で押し通す。国際常識が通じないというか、超越している。ま、おもしろい国であることはたしかだ。

2018-08-04 獣種差別

ソウル五輪のときよりはずっと静かだったようだが、平昌五輪に際してもやはり犬肉が問題になった。だが、人を食いはすまいし、何を食べようがかまわないではないか。日本人として犬を食べるのは趣味のよいことだとは思わないが、そんな悪食の連中はバカにしてからかっていればいいだけだ。イギリス人がフランス人を「蛙食い」と呼ぶように。目くじら立てるようなことではない。それは日本人がクジライルカを食べるのにとやかく言われたくないのとまったく同じだ。


何を食べて、何を食べないか。それは文化によって決まるが、文化における最大の決定要素である宗教の占める役割がここでも大きく、宗教によって決まることが多い。イスラム教ユダヤ教では豚を食べないし、ヒンドゥー教では牛を食べない。ブラーミンは肉自体を食べない。仏教僧侶も菜食である。仏教の影響を受けた近代以前の日本では原則四つ足を食べなかった。人間のために労役をしてくれ、暑い日差しのもと野良へ行く牛のために、傘をさしてやっている光景は幕末明治期の欧米訪問者の書き記すところであり、そのような牛を食べることは百姓には考えられなかった。イザベラ・バードは「奥地」旅行中何としても肉が食べたくて、当時の日本の田舎で唯一手に入る鶏を買ったが、食べるためと知って取り戻しに来た農婦もいたのだ。四つ足は食べず、足のない魚を食べて動物性蛋白質を摂っていたいた日本人が、同様に足のないクジラを食べてどこがいけない?

欧米と中国はさまざまな点で似ている。大酒飲みの豚喰らいで、紙で尻を拭くなど。逆にイスラムインドは、肉の禁忌や酒を飲まないこと、水で事後処理することなど、共通点がいくつもある。本当に何でも食う中国人には一籌を輸するが、欧米人も基本的に何でも食べる人種だ。では、彼らは何の肉を食べ、何の肉を食べないかを考えてみよう。

肉食獣を食べない。

海棲哺乳類を食べない。

霊長類を食べない。それは彼らの居住地(北辺寒冷地である)にいないことが大きな要因だが、霊長類は(海棲哺乳類も)知能が高いことも一因だろう。

虫や蛇を食べない。ただし蛙やカタツムリは食べる(ワニも)。

そして、草食獣を食べる。

肉食獣を食べないこと自体は合理的である。捕獲がむずかしい上に、危険である。食物連鎖の頂点だから、数が少ない。数が多く、捕獲や飼育が容易であるものを食べるほうがいいに決まっている。

だから、肉食獣の獲物である草食獣を食べるのも合理的であるけれど、思うに、彼ら自身おそらく自分を肉食獣の同類と見ている。仲間だから食べない。同類のシンパシーだ。

肉食獣の例外は犬と猫である。犬猫の捕獲や飼育は容易だ。数も多く、いま先進国と言われる国でも昔は野良犬がうろうろしていたし、現実に人間の子供には食い殺される危険があった。それを捕って食べるのは合理的なはずだ。猫(野良猫は今も多い)は肉量が少ないが、同様に少ないハトやウサギは食べているではないか。

彼らを食べないのは、ペットだからというより、彼らが肉食獣だからだろうと思う。肉食獣は食物連鎖上の高位であり、狩りをするのだから知能も高い。この点がポイントだ。要するに、欧米人は彼ら独特の認識による「高等生物」を食べないのだ。それは「獣種差別」であって、その「獣種差別」は人種差別とも表裏一体である。

牛や豚を食べなかった江戸時代の日本人を見下し、あたかもそれを食べることや獣の乳を飲むことが文明人の要件であるかのように押しつけ、昔からずっと食べてきたクジラを捕ろうとすれば根拠のない非難をする。価値観の強要だ。そしてそれが行動に現れると、好戦的戦闘的なシーシェパードのような形となる。第二次大戦以後先進国(つまり欧米)において戦争は現実的な対立解決法として取りえなくなっているので、彼らの野蛮な戦闘意欲がそのような形で現われているのだろう。人種差別が一向になくならない一方でそんな不埒なことをしているのだから、おそらく犬やクジラ有色人種より高等だとさえ無意識のうちに思っているのだ。

彼らとは違う基準で食べるもの・食べないものを分けているという簡単で筋の通った理由をことさらに無視するのは、一言で言って傲岸不遜である。捕鯨反対を唱える日本人や犬食反対を掲げる韓国人もいるのだが、洗脳ということばはイスラム過激派についてでなく彼らについて言われるべきである。


人間は何を食べてもいいのである。イモムシでも、ヘビでも。文化によって何を食べ、何を食べないかは異なる。それだけのことだ。人類に普遍的な基準は存在しない。

あえてルールを考えれば、1.人間を食べてはいけない。

なぜかと問い詰められればしかとした答えはできかねるが(食人種というのもあったし、共食いをする生物はいろいろある)、やはりこれはまずいだろうし、大方の人類の賛同を得られるだろう。

2.絶滅の恐れがあるものは捕らない・食べない。

これも理性的な規定で、反対する人はいまい。本当に絶滅が危惧される鯨種を食べようと思う日本人はいないだろう。タスマニア人を絶滅させた前科者がうろうろしているから、必要なルールである。

普遍ルールの3は、殺したものは食え、食わないものは殺すな。

娯楽のための狩りをし、趣味の殺生をする白人ハンターは許しがたい。しかも卑怯な飛び道具を使って。丸腰の若年個体を無差別に銃撃するスクールシューティングはその延長だ。捕鯨よりも犬肉よりも、まずこれを何とかしろ。殺したあと食うならこのルールには抵触しないが、ルール1に反する。やはりだめである。

「獣種差別」(それは人種差別の異なった地平への現われだ)をする白人にだまされてはいけない。普遍ルールを守ってさえいれば、あれこれ言われる筋合いはないのだ。

(6月4日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

2018-07-31 田舎観光のために

石見地域の観光業ははかばかしくない。近年海外から日本へ来る観光客の数が驚くほど増えていて、できればそれを招き寄せたいものだが、この地域には観光資源がほとんどない。わずかに津和野石見銀山があるくらいで、それも石見全体から見れば偏った位置にある。津和野は島根県民以外には山口県と認識されているに違いないし、石見銀山は「出雲銀山」のようなもので、出雲大社から足を延ばすという訪問のされかたが多い。結局のところ、石見の観光となるといわゆる「田舎ツーリズム」によることになってしまうだろう。

その「田舎ツーリズム」にしても、外国人に対してはどういうものを提供したらいいのか。日本人が相手でも、田舎と都会の感性は異なるためいろいろ齟齬する点があるのに、外国人となると、こちらの興味の持ち方とはまるで違った感じ方をすることが多く、なかなか測りがたい部分が大きい。モニタリングが必要であるゆえんだ。

外国人観光なら、すぐ近くに旅行意欲の高い巨大人口があるのだから、これをまずターゲットとすべきである。中国人の旅行目的が一時の爆買いに見られるモノ消費から体験型のコト消費に移ってきているというのは、「田舎ツーリズム」にとっては追い風になることだが、そこでも彼らが何を望み何を喜ぶかを正しく測ることが肝要になる。

何事でもそうであるように、大切なのは「敵を知り己を知る」ことだ。自己認識と他者の認識は食い違う。人間は自分の都合のいいように考える傾向がある(田舎ほどその傾向が強い)。相手を知りたければ、こちらで勝手にこうだろうと決めつけず、相手に教えてもらうように努めるべきである。こちらで考えたものを押しつけるのでなく、自分で見つけてもらう。そのためにはモニターツアーを行なう必要があり、それについて従来のものとは違う積極的で多角的なモニタリング提案したい。それは、日本語専攻の中国人学生を多数招くというプランである。


具体的にはこうである。

中国の大学で日本語を学んでいる学生10人を2週間招待する。

広島空港までは自費で来てもらい、そこからは送迎を含めて無料。

・宿舎は、大きめの空き家を借り上げて整備し、そこに共同生活。畳の上に布団。中国の大学は全寮制で、集団生活には慣れているので問題はない。Wi-Fi設備は必須。

食事は、朝夕は炊事当番を決めて自炊。食材はこちらから地産のものを提供。もちろん毎日中華料理を作るだろうから、イノシシ肉やシカ肉、魚を与えれば、ジビエや魚料理の中華風ヴァージョンのアイデアをもらうこともできるのではないか。

・交通手段として、自転車を提供するほか、運転手つきの車3台を常駐させる。運転手は学生アルバイトで、世話係を兼ねる。

・午前中は日本語教室。地域のボランティア教室教師応援を頼む。日本語教師をしていない地域住民もまきこんで、歌や方言を教えてもらうのもいいだろう。生け花などの文化も教える。詩吟の手ほどきも、漢詩日本的受容としておもしろかろう。

さらに、教えるばかりでなく、教えてももらう交流の場にもしたい。中国人学生が地域住民に簡単な中国語会話の手ほどきをするとか、太極拳や今むこうの中高年女性に大人気の広場舞を教えるなど。書道交流も考えられる。漢字については交流し、ひらがな書道を教えるというような。日本と中国の料理を相互に教え合うのもいい。学生にとっては、ただ授業を受けて教わるだけでなく、教えることで日本語の運用能力を高めることができる。

・午後および土日はさまざまな観光プログラムに参加する。

こちらでもあらかじめ各種のプログラムを用意するが、学生のほうでこんなことをしたいという希望があれば積極的に取り上げる。

こちらで用意したプログラムについても、決して全員で統一行動をとらせるのではなく、それぞれ選択自由、希望者のみが参加し、車1台に乗れるほどの少人数で行動する。できるだけ多くの経験をしてもらうことと、それぞれのプログラムの人気を測る「投票行動」ともなることを期待して。大学で言えば、午前は必修科目、午後は選択科目で、自分で選んで自分の時間割を作るということだ。

プログラムの案としては、

県内観光旅行(津和野石見銀山出雲大社松江等々)

石見神楽鑑賞、笛・太鼓・舞を習う、面作り体験

・水泳教室中国人には泳げない者が多いので需要があるだろう)、海水浴、浜遊び、アクアス見学(バックヤード見学も含む)

江の川でカヌー教室三瓶登山(火山の例として)/高島渡航

キャンプ

温泉めぐり

・磯釣り/川釣り/魚市場探訪/大魚解体実演

紙漉き/木工/焼き物体験

・和裁(自分のゆかたを自分で仕立て、夜に庭で花火)

ゲートボール空手柔道など

・旭の刑務所見学

・滝行

・祭りがあればそれを参観

等々が考えられるが、ほかにもいろいろあるだろう。


参加者の義務としては、最終日に最もよかった体験を報告する発表会を行なう。スマホがあるので写真や動画をふんだんに使うことができるだろう。地域の人たちにも来てもらう。レポートをまとめて発表するのは、彼らの日本語の勉強にもなる。それを文書でも提出し、また発表のあとディスカッションもして、人気不人気の点、問題点改善点を検討して、今後のツアー作りの参考とする。

また、SNSで発信してもらう。学生だから発信力は高くないが、かける10として数量でいくらかは補える。

基本的にすべて日本語で行ない、通訳が必要な場面では国際交流員に頼む。

これを1年だけでなく少なくとも3年間続けて、さまざまなデータや経験を蓄積する。


このプロジェクトには3つの目的があり、それぞれに効果が見込める。

主目的である

1.ツアー開発のための観光モニター

のほかに、

2.地域住民の国際交流

ともなり、地域に刺激を与え、活気を呼ぶこともできるだろう。

さらに、

3.知日派育成への貢献

もろもろの悪しきことどもの温床である無知の領域を縮め、日本語教育に力を添えて、わずか10人とはいえ中国人の日本語力を上げ石見をよく知る人材を育てるのは、よい種まきとなろう。


日本語専攻の学生を使ったこのプロジェクトは、双方にメリットがある。学生はコストが安く、フットワークが軽く、将来性もある。得るもの多く失うもののない(金銭的にも少ない)試みだと思うが、どうだろう。

(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

2018-07-26 リトマス監督解任一件

サッカー代表監督の解任一件で、ヤフーのコメントにこんなのがあった。

「先生の新しい課題が難しいので、校長先生に言ったら先生を替えてくれて、古い課題でよくなった」。結局そういうことなのだ。ザッケローニのときも試合中の4バックと3バックの併用という課題をこなせない生徒だったし。あのときは先生が課題を取り下げてくれたが、今回は決して取り下げない頑固な先生だったので、先生のほうが取り替えられた。


実に腹立たしい事件だった。卑怯卑劣なだまし討ち。背後からいきなり斬りつける。まあだいたいがだまし討ちをするのが好きな国民性ではあるのだが。

解任せよ解任せよと無責任に書きたてるマスコミに対し、サッカー協会はそんな無責任なことはすまいと思っていたが、実は無責任だった。

長い目で見ることができない人たちにはうんざりする。マスコミも、解任を叫ぶ一般ファンも、結局目前の親善試合に多くを求める消費者の姿勢でしかない。自分で勝手にノルマを決めて、次の試合(テストマッチにすぎない試合)で結果を出せと勝手に要求して、それが出ないと解任を書きたてる程度の低い評論家が多すぎる。売れる記事を書かなければならない生業だからやむをえない面はあるが、ジャーナリズムの本質が日銭稼ぎであることを知らしめる好例となっている。

彼に与えられたミッションは、W杯予選通過と本選での結果(グループリーグ突破)のはずだ。そのひとつは果たし、もうひとつも果たすべく鋭意準備中だった。もしそれ以上に求めることがあるならそのつど監督に伝えるべきだし、次のテストマッチでこれこれの結果が見られなければそれ相応の行動を取るとでも言っておけば、それ相応の試合をしただろう。それをしないでおいて、しかも試合後には続投と言っておきながら解任するのでは、激怒するのが当然だ。

彼のサッカーが日本人に合わないという意見には同意する。時に厳格すぎると思えるくらい厳格だということも含めて。しかし日本人によく合うサッカーが世界の舞台で通用するかについては、もはやブラジル大会で結論が出ているではないか。それに改善を施さねばならないので彼が招かれたのではないのか。もの忘れの激しさには驚いてしまう。同じことを飽きもせず繰り返す根気のよさにも。弱い中国軍に連戦連勝して勝った勝ったと提灯行列をするメンタリティから抜け出せていないのだ。アメリカにコテンパンにやられたことはけろりと忘れて。アジアですら弱小だった時代を、その時代を見てきた人たちもすっかり忘れているようだとも思う。欧米に勝てるように、強豪国に競り勝つ戦いができるようにあの監督を招いたのではなかったのか。

代表に何を求めているのかをはっきりさせなければいけない。世界大会で勝つことか、親善試合でときどき勝ったり善戦したり、負けてもビューティフルゴールをひとつほど決めることなのか。ハリルホジッチは「私が厳しいのではない。ワールドカップが厳しいのだ」と言った。そのとおりだ。

いくら体格が向上したといっても、日本人はやはり背が低いし、細い。体格のハンデを敏捷性・チームワーク・テクニックで補おうというのは正しい。しかし、そうしたところで強度の問題は回避できない。強度の要求を突きつけ続けたのがハリルホジッチだった。それは無理な要求ではない。猛特訓を課したラグビーのエディージャパンを例に挙げないことにしても(ラグビーナショナルチームには血統日本人・国籍日本人でない日本在住外国人もメンバーたりうるから)、プロ野球のトップ選手11人でチームを作ったらけっこうなフィジカルモンスターチームになるはずだ。藤浪や大谷がワントップにいたら怖いよ。相撲に進んでも三役ぐらい行きそうなのもいるし。要するに、野球選手のような練習を欲しない連中がサッカーをやっていて、彼らが協会に君臨しているということではないのか、という疑問は持っていい。


ザッケローニのとき、メンバー固定が非難された。世代交代が言われた。海外組偏重でなくもっとJリーグの選手を使えと主張された。

ハリルホジッチは全部やったんじゃないのか?

選手選考にはもちろん自身の好みもあったし、戦術への適合性による偏りもあったけれども、かなりフェアだった。一度呼んで、失敗すると外し、調子がいいとまた呼んで重用しようとしていた大島が好例だ。好みの選手であるらしい井手口や宇佐美も、クラブで出ていないときは呼ばない。その基準をほぼアンタッチャブルのスターである本田や香川にまで適用していた。

彼は、自分は「政治」はしないと言っていた。忖度や裏取引はしないということだろう。そして思い切った「冷酷な」決断をする。その彼に対して、協会は「政治」をした。テストマッチで負けたことを解任理由にせず、「選手とのコミュニケーション」などという理由で解任を告げたが、「政治」をしないあの監督にはそれは全然通じない。


日本代表はいつの間にかロートルチームになってしまった。オーストラリアもそんなチームだったが、若返りに成功し、今や日本がかつてのオーストラリアだ。

世代交代の失敗のみじめさは、なまじW杯で優勝したばかりにその優勝メンバーの陣容が続いて、哀れな末路をさらしたドイツイタリア、いや、何よりも身近になでしこジャパンで見ているのだから(なでしこの場合は不可解な宮間の失墜もあるが)、手を打たねばならない。だが、手は打ったのである。あの監督は積極的に若手を使ったし、国内組の選手にもチャンスを与えた。しかしそれをものにできておらず、この時期になってもどんぐりたちが背比べしている。監督の責任ではない。結局遠藤が抜けただけのブラジル組が主力のままで、まして大会直前に日本人監督に代わったのなら、ブラジル大会第一戦とほとんど同じメンバーがロシア大会第一戦の先発に並んでいるのではないかと思えてしまう。笑えない冗談だ。ドイツイタリアは優勝という輝かしい成功のあとの凋落なのに、日本は情けない失敗のあとにさらに凋落するつもりなのか?


本田や香川が本大会メンバーから外される恐れはあった。あの監督は、調子が悪いとか使う局面がないと判断すれば、躊躇なく彼らをも外すだろう(岡田監督がカズを、トルシエが俊輔を外したように)。

これまでも、本田を外せ、香川を外せという声はあった。そう言われてしかたがない低調なパフォーマンスだった時期に。しかし、ハリルホジッチが実際に2人プラス岡崎を外すと、非難の声が湧きおこる。じゃ、どうすりゃいいんだい?

ビッグ3」なんて言葉は、あの3人がそろって外されるまで存在していなかった。外されてから突然そんな言葉が言われだして、今ではスポーツ記者用語辞典に登録されている(「ビッグ3」と言うなら、本田・香川インテルにいた長友だろうに。スモールクラブにしか所属したことのない岡崎ではなく)。

どうせ負けるなら本田香川で負けろということなのか? 本田には、北京五輪で監督の指示に従わなかったり、ザッケローニのときもハーフナーが入っているのにクロスを上げなかったりなどの前科がある。メッシマラドーナなら監督をクビにしてもかまわない。彼らが気持ちよくプレーすれば勝てるのだから、監督はそのための環境整備係でいい。だが、日本にそんな選手がいるのか? まさかそれが本田や香川だと言うんじゃあるまいな? ブラジル大会の前、W杯優勝などという人に聞かれたら恥ずかしくなるようなことを真顔で言っていた選手がいた。選手の発言力に関してだけは優勝候補チーム並みのようだ。


その前のアギーレも解任されていた。彼のときにもマスコミはさんざん解任しろ解任しろと書きたていていた。彼の解任にも反対だったが、しかし消極的賛成をせざるをえなかった。八百長疑惑の先行きが見えないので。つまり、W杯直前になって裁判その他で解任せざるをえない事態になることを恐れたからだ。そんなことになったらとんでもない混乱だ。その恐れていた事態を、今回サッカー協会が自発的に(不必要に)起こしているのにはあきれてしまう。

アギーレの場合、アジア杯で敗れたタイミングで、そのアジア杯で敗れたことを理由にせず、彼のサッカーを高く評価した上で穏便に解任を納得させた。「政治」をして、このときは成功した。アギーレは今も日本に好感を持っているらしい。だからまた「政治」をして、「政治」をしない頑固な老人を激怒させている。


ブラジル大会は何だったのか?

日本が支配し圧倒して勝つという「日支事変サッカー」がああいう舞台では通用しないことをまざまざと知らされ、それゆえ強豪国に勝てるサッカーを目指したのではなかったのか? そのためにはハリルホジッチの戦術も厳格さも必要なものであった。だからあの監督は真剣に真摯に改革をしてきたのではなかったのか?

本大会出場を決めたオーストラリア戦はすばらしかった。相手がボールを持っていても決定機を作らせず、効果的に点を取った。日本がいつもやられていたパターンだっただけに、爽快だった。あれをまた見たい、対戦相手や局面に合わせて戦い方を変える変幻日本をみてみたいと思っていたのに、その希望は断たれた。

たしかにザッケローニからハリルホジッチに代わって、極端から極端に振れた感じは否めない。だが、進歩のためにはそんなジグザグの道もしかたがない。

むろんあの戦術で結果が出たかどうかはわからない。解任された今となっては永遠にわからなくなってしまった。しかしあのオーストラリア戦を見た者としては期待をしていたし、3年間の努力がどういう形になって現われるか最後まで見届けたかった。

それを直前になってご破算にする。

結局、ブラジル大会のサッカーブラジル大会のメンバーでまたやるわけだ。4歳老けたメンバーで。やんぬるかな。

しかし、よもやむざむざとブラジル大会の再戦はすまい。この3年間の遺産がそこここに生かされることを希望するのみである。

「永遠にわからない問題」は人を魅了する。「ハリルジャパンのロシア大会」はそんなものと化してしまった。銀座パレードの幻とともに。今は、失ったものを嘆き、伝説のひとつを得たことを慰めとするしかあるまい。嘆きもまた美しいもののひとつだから。


ハリルホジッチ前監督に感謝したいことはいろいろあるが(胸に輝くくまモンバッジとか)、サッカー批評家連をふるいにかけられたというのもそのひとつだ。彼が監督になる前から信頼できるサッカー批評家とそうでない批評家はだいたいわかっていたが、彼をめぐる言動でもののみごとにはっきりした。強力なリトマス試験紙だった。目先の批判や上っ面の称賛をして飯が食える人たちといっしょにどこまで行けるのか。彼らに飯を食わせているのはそういう記事を喜ぶ日本の民衆であるし。なかなかに根の深い日本の課題である。


このような緊急事態では人の行動の美しさと醜さが際立つ。東北の大震災のとき、外国人実習生を避難させたあとで自分は津波に呑みこまれてしまった零細企業専務と、原発近くの立入禁止区域で略奪を働く卑劣な連中のように。代表で2試合しかプレーしていないのに、会見のため来日した前監督に感謝の意を伝えるため広島から飛行機でやってきた選手がいたそうだ。概して歓喜より失望のほうが多くなりがちなわれわれの行く手を照らすのは、そういう無数の美しい行為たちである。

(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

2018-07-24 一時避難

ちょっとばかり離れていた中国にまたもどってきてみると、前には使えていたはてなブログが閲覧も投稿もできなくなっていた。そのほかにもいろいろ閲覧できないブログがある。それで、投稿できるこのブログ(閲覧はできないようだが)に一時的に避難することにした。今までの記事ははてなで見てください。

はてなだけでなく、YahooJapanでの検索もできなくなった。メールはでき、ニュースも見られるが、検索はできない。Googleは以前から使えない。これでYahooGoogleしか入れてない私のスマホからは検索がまったくできなくなった。

それだけではない。Wikipediaの日本語版も見られない。英語版などは閲覧でき、韓国語版もできるが、日本語版、そして中文版はだめ。FacebookYouTubeニューヨークタイムズなどが見られないのは以前からわかっていたからそのつもりでいたが、こんなに制限が拡大したのには困惑する。VPNを使えば見られるようだが、そのVPNにも閉鎖の魔手を伸ばしているそうだ。サイバー万里の長城はますます高くなっていく。

国民を外国の情報から遮断するためにそうしているわけだが、みんなが習っている英語による情報へのアクセスを妨げるのはわかる。だが、日本語学習者など大して多くもないのに、なぜYahooの検索や日本語Wikipediaから遠ざけようとするのだろう。単純に日本人に対する嫌がらせなのか、あるいは日本語情報は漢字を拾い読むことでけっこう伝わるものがあるのだろうか。

政府にそんなことをされても、おとなしく国内に暮らす民衆はほとんど困らない。対応する国内サイトがあるからだ。何せ13億人だから市場は十分以上に大きいうえ、外国のサイトが万里の長城によってブロックされているのだから無敵である。そのようなサイトが中国の発明品ならそんなことをされてもしかたがないと言えようが、もちろんアメリカの作ったもののパクリである。そのパクリを国民に使わせて、本家本元のアメリカのサイトはブロックしているのだからタチが悪い。そして13億にものを言わせ、規模を誇る。

これが韓国人なら、今にそういうサイトも韓国の発明だと言い出すのだろうが、中国人はそんなことはしない。しかし国民には誰の発明であるかは決して教えず、そのような記述があれば検閲によって徹底的に削除するというやり方をするに違いない。歴史に向き合う(というか、向き合わない)東アジアのふたつの流儀である。これらの国々が「歴史を忘れるな」と叫んでいるのは噴飯ものだ。ま、日本にも愚劣さにおいて彼らに十分対抗しうる安倍流歴史修正主義というのがあるけどね。

外国(欧米+日本)からの情報発信を国民から遮断するのは、中国政府ではなく外国(欧米)の本部の指令に従うキリスト教、特にカトリックを露骨に警戒し抑圧するのと軌を一にする。リゾーム的なイスラム教仏教が許容されるのと好対照だ。彼らが誇り、他の独裁国家に輸出しようとさえしているあの防火壁によって守られることで大きな利益をあげているインターネット会社は、当局の検閲削除に当然のごとく従う。そのことで国民の利益は損なわれているはずなのだが、彼らがそれで満足なら外から四の五の言うべきではないのだろう。とにかく、この国の驚異は数だ。9割が満足しているなら、それは12億が満足しているということで、その数の前には何もかも無力に感じる。不満な1億というのもすごい数なのだけども、12億の前にはやはり力を失う(12億は本当に満足しているのか、彼らの国内SNSでの発信も検閲し、問題がありそうだと思ったらバンバン削除しているのだから、不満をため込んでいるのではと外国人は考えるが、その不満はたぶんそんなに大きくない。金をもうけさせてくれる限りは)。


この国は国内向けにできていて、たいていのことが国内で完結するようにデザインされているようだ。

駅や空港にはwifiがあるが、これは携帯電話番号がないと使えない。電話番号を入力し、送られてきたパスワードを入れることによって使用可能になる。外国人でも在住者は携帯電話番号があるだろうから使えるが、それを持たない旅行者にはアクセスできない。

中国では何をするのにも身分証明書が必要だ。地下鉄を含む駅構内に入るのに、手荷物検査があるのはいい。安全は重要だから(イスラエルではセキュリティ検査の厳しい店ほど歓迎されるそうだ。世界はイスラエル化しつつある)。しかし身分証明書も提示する必要がある。切符を買うこと自体にも身分証明書がいる。外国人の場合はパスポートを提示することになる。切符の自動発券機や自動チェックイン機も駅や空港にあるけれど、これらは中国身分証明書がなければだめなので、外国人には使えない。

要するに、中国身分証明書がない人の行動は大幅に制限される国となっている。むろん、犯罪者に行動の自由がないのは悪いことではない。逃亡中の犯人を捕まえるのにも役に立つだろう。それはけっこうなのだが、政府が「犯罪者」や「テロリスト」と認定した民主運動家(それは反体制活動家と同義になってしまうのだが)や独立運動家、特定の宗教信者の自由も蹂躙されるわけだ。かつて共産党員は地下活動家であり、共匪と呼ばれ匪賊あつかいされていたのだが、自分たちが支配者になったのちはかつての自分たちのような存在は許さないのだ。正義は共産党が有し、共産党だけが有す。動乱に乗じまんまと天下を取った新皇帝がかつての自分の出自階層(匪賊や無頼漢など)を弾圧するのと同じで、笑ってしまうぐらいわかりやすい。

スマホ決済の普及が驚異的な速度で進んでいるが、これもまた外国人には利用できない。銀行口座がなければならないし、もちろんスマホもなければならない。スマホも買えない貧しい人がどれくらいいるのか知らないが、スマホが使えない老人はけっこう多いだろう。老人、子供、外国人にやさしくない国になりつつあるのではないか。スマホが使えない老人は年々世を去っていくので、遠からず国民皆スマホの社会になることは疑いないけれども。

現金というのはアナーキーな存在だ。その由来を問わず、所持人の素性を問わない。盗んだか、拾ったか、そんなことは問題にされず、いま手中にあることだけに価値がある。金、特に紙幣などというのは空しいものだ。要するに紙切れである。ちぎれる、燃える、風に飛ぶ。キューブリックの「現金に体を張れ」のラストで、強盗して金を盗んだ男が空港で捕まるラストで、風によって大量の札が飛んでいくシーンが印象的だった。そんな「吹けば飛ぶよな」空しい金札に狂奔するさまが逆説的におもしろいのだが、それを過去のおとぎ話と化そうとしているのがスマホ決済だ。しかし、これはつまりデータのやりとりである。誰が、どこで、何を、いくらで買ったか。膨大であるためチェックはほぼ不可能なはずだが、人工知能が発達すればそのような膨大なデータもじきに管理できるようになるだろう。

つまり、この国には徹底した管理社会が出現しつつあるわけだ。それは便利である。しかし従順な羊のみに便利なのだ。すべてが身分証明書の所持を基礎としている。データはまず会社が把握するのだけれども、共産党独裁国家ではそのデータはいつでも政府が入手しうる。1984どころではないような気がするのだが、杞憂だろうか。中国政府はもちろん杞憂だと主張するだろう。「12億の満足」を盾に。しかし炭鉱カナリアたちはいろいろなことを「杞憂」しつづける。

(しかし、スマホ決済によってニセ札横行が解消されるなら、それはたしかにメリットである。ゴミのようなボロ札駆逐も。)


一度は地に落ちた(欧米と日本によって地に落とされた)中国が復活してきたのは喜ばしいことだ。しかしこの国は実に厄介で、力をつけるや否や四千年の頑固な悪癖をまたぞろ発揮しだしてきた。中華帝国の構築である。ルールは彼らが決め、関わりたければ彼らの決めたルールに従わなければならない。皇帝はいないので拝謁の際叩頭はしなくていいが、実質叩頭であるさまざまな決定(彼らが勝手に決めたもの)の順守を夷狄に課す。欧米の覇権を認めず、それに対抗しようとしている点だけは評価できるが、それ以外の点ではまったく評価どころの話ではない。

ただし、英語を、世界を理解するための道具ではなく、世界に中国を理解させるための道具だと思っている点はむしろ小気味よくて、日本など見習うべきである。

世界に数限りない多くの賞がある中で、最低最悪の賞は疑いもなくノーベル平和賞である(経済学賞は無価値であり、文学賞無益だが無害だ)。あれは正しくノーベル西欧価値観広報賞と呼ぶべきだ(なお、最高の賞は本屋大賞であろう。全国の書店員が選ぶという選考方法がすばらしい。受賞作を読んだことはないし、おそらくこれからも読むことはないけれども)。

ノーベル平和賞が他を圧して最低最悪であるにもかかわらず、実はそれよりひどい賞がひとつだけある。孔子平和賞である。これは本当に戯画だ。中国に都合のいい人を表彰するのだから。独裁中華主義国家中国に。パロディーとしてなら秀逸だけれど、全然そうは思っていないところがさらに醜悪さを増すのだが、その点でもやはりノーベル平和賞の好一対をなしている。孔子平和賞のほうがひどいにせよ、五十歩百歩だ。

中国アメリカの写し鏡である。独善において両国は世界に並び立つ(西欧諸国、特にフランスの独善もかなりのものだが、米中の独善ぶりからは児戯に見える。今や他国に自分の独善を押しつける力の大部分を失っているからだ。それは独善関東軍を尖兵とした大日本帝国も同様)。自分たちがとにかく正しい。だから勝手にルールを決め、勝手に改変する。自国の利益が最優先で、手を縛られるのを極端に嫌う。そして何かされれば必ず報復する。即座に、粗暴に。なおかつ鉄面皮な宣伝をする。そういうアメリカに辟易していたが、復興中国は驚くほどよく似たその双生児だ。反中感情を持つ日本人が多いようだが、彼らは中国を見るその目でアメリカを見る必要があるだろう。まったく同じものがそこにある。

中国はすばらしいが、そのすばらしさを完全に相殺してしまう欠点をもっている。それは、「中国である」ということだ。この点もまったくアメリカと同じだ。困った隣国ふたつに挟まれてしまったものだ。大国が醜悪なのは、かつて大国を目指して横暴を極めた軍国日本を想起すればよくわかる。一方で、愚劣であるためには大国である必要がないことは小国北朝鮮が示してくれている。それが慰め? いやいや、なかなかつらい東アジアである。

(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

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