石陽消息

2016-05-30 留学のいろいろ (5)

客死

西周らのオランダ留学に同行した職人の大川喜太郎は、留学中に病死した。江戸小石川の名高い宮大工久保田伊三郎もこの留学に選ばれていたが、船中で病気になり、長崎で下船、江戸に帰って間もなく死んだという。士分の留学生は無事帰国したが、それでなくても医学のまだ十分に発達しない時代、病に倒れることはよくあるし、まして気候環境が激変すれば心身の負担が大きいのは道理で、異邦での孤独な死は留学につきものであった。

留学は帰国が前提だ。南方熊楠アメリカ留学に発つとき友人に与えた無邪気な詩に見るように。

「僕もこれから勉強をつんで、

洋行すました其の後は、

ふるあめりかを跡に見て、

晴るゝ日本へ立帰り、

一大事業をなした後、

天下の男といはれたい。」

けれども、みんなが帰ってくるわけではない。仏学の先駆者の一人である松江藩士入江文郎(1834−1878)は、蕃書調所・開成所教授を勤め、明治4年(1871)フランスに留学し、学制調査などをした。フランス語の著作もあったそうだが、結核のためパリに死した。そんな人のことなど知らない? 当然である。事をなす前に死んでしまったのだから。事をなさなかった人は忘れられていい。歴史にそんな余裕はない。知る人にのみ知られ、瞑すべし、ということだ。

三笠の山の月を思った阿倍仲麻呂、入竺の志を抱き、その途上マレー半島で虎に食われた高岳親王。異国の土となった人は数多い。「日本未帰還者の歴史」というのも書かれてよい。勝者成功者の歴史を書くのは簡単だ。というより、歴史は勝者成功者が書く。だが、それだけでいいはずがない。


南條文雄とともに渡英し、マックス・ミュラーに師事した笠原研寿は、結核を病んで明治15年(1882)9月に帰国し、養生もかいなく翌明治16年(1883)7月16日に世を去った。帰国こそしたものの、帰ってもただ病に伏していたばかり。ほぼ客死だ。彼の死を聞くと、ミュラーは即日筆をとって心のこもった追悼文を書き、「ロンドン・タイムズ」に寄せた。

「日本よりの最近の郵信は、わが若き友にしてかつ門人なるケンジュ・カサワラの死を報じ来った。彼の名は英国においてはよく知られていないが、彼の死は知られざるままに過すべからざるものである。われらが自分らのために記録しおかねばならぬ人々の伝記とは、世間がこれに意をそそがず、ほとんど聞き及ばざるところの人々にして、しかもその事業に全力を献げ、そがいかにして最善の途においてなされたかをわれらに教えてくれるもの、かかる人々の伝記であるとラスキン氏の言ったのは真に至言ではなかろうか。

わがこの仏弟子なる友の生涯はその道に身をささげ、しかも成果を得なかった多くのものの一であって、われのこれを讃歎し痛惜するは、あたかも己れが庭園のよき果物の若木が爛漫たる花に匂いながら、そのあらゆる美しさと将来の待望とを、一朝の厳霜にて凋落せしめられたるのを見るにも似ている。…… 彼は日本に帰って後はもっとも有為な人となったであろう。なぜならば彼はただに欧州文明の長所をあまりなく評価しえたばかりでなく、己れが民族的の誇負をもうしなわず、けっして単純な西洋文明の模倣者とはならなかったと思われるからである。

彼の行状は完璧であり、我執なき人の自然のままの挙措であった。その品性については、わが言いうることは次の言に尽く。すなわち長年月われは彼を観察したが、一つの欺瞞をもそこに見出すことはできなかったと。最近四ヶ年間においてオックスフォードは、その学生中にこの可憐なる仏弟子よりも清浄にして高潔な魂をもった者を、ただ一人でも有したかを私は疑わしく思っている。

…… 彼はいくつかの草稿をあとにのこして去り、われはその公刊の準備にあたり得んことを望んでいるが、とりわけてナーガールジュナ(竜樹)の著とされた仏教述語集『ダルマサングラハ』を挙げる。多年蛍雪の労も、ついにその果を結ばぬと考えることは痛ましい。しかし、三千二百万の日本仏教徒の中にあって、かの一顆のすぐれて覚りを開きえた仏弟子が、いかにあまたの善事をもなすべかりしものをと考えるのは、さらにいたましいことである。(Have, pia anima!)(なおきみたまよ、いざさらば)……」(前嶋信次「美しい師弟」。前嶋:72ff.)。

死なせたくない人が死ぬ。それにわれわれは抗えない。できるのはただ、しかるべく弔うことだけだ。日本ですらまだ無名だった学徒を、マックス・ミュラーはよく弔ってくれた。われわれはミュラーを弔わねばならない。そのことは、南條とも併せ、前嶋氏がこの上なく美しくしてくれた。


入蔵志願者

明治時代、当時鎖国だったチベット入りを目指し、その途上に死んだ能海寛(1868-1901?)も留学生(東本願寺派遣)だったが、その目的は普通の留学とは違っていた。能海は明治元年(1868)安芸との国境に近い石見の山村の真宗大谷派の寺に生まれ、東京で南條文雄の弟子になり、大蔵経の経典を求め入蔵を志した。ダライ・ラマ宛の法主からの親書を携えて、明治31年(1898)11月に渡清して以来、明治34年(1901)4月の最後の通信まで、入蔵を遂げんと清国内を西に東に旅していた彼は、求法取経僧というべきで、あまり近代留学生らしくはないが、しかし同じく入蔵を目指していた河口慧海・寺本婉雅がチベット仏教の寺院で修学していることから考えて、彼もチベット入りすれば寺院で学んだだろうと思われる。

能海がチベットを目指していた頃は、「入蔵熱」の時代であった。世界に鎖された秘密国、ヒマラヤの奥地の古い仏教国に仏教再興の鍵があると新生明治仏教の若き僧侶たちは考えていた。前出法竜もそうだし(熊楠はまあ除くとして)、一番乗りを果たした河口慧海チベット大蔵経請来に最初に成功(北京から!)した寺本婉雅のほか、明治21年(1888)セイロン留学に出発した東温譲、明治26年(1893)彼がボンベイで客死したときそれを看取った川上貞信も。彼は東の遺志を継ぎ、入蔵を目指してダージリンのチャンドラ・ダス(英国のスパイとしてチベットに潜入、のち蔵英辞典を著す)の別荘に住み、チベット語を勉強しつつ準備をしていたが、このルートは結局断念し明治30年(1897)帰国、別ルートの入蔵を目指して北京にまた留学したのだけれども、ここで北清事変に巻き込まれたことは前述した。

能海はまず重慶から打箭炉へ行き、そこで寺本婉雅と落ち合い、ネパール使節団について行ったが、巴塘で進蔵をはばまれた。次に単独で青海へ向かったが、金や持ち物を盗まれ、やむなく重慶へ引き返す。三度目は雲南からのチベット入りを試みて、消息不明となった。この間打箭炉と重慶で二度の越冬をする以外は旅の空であるが、打箭炉でささやかなチベット経典収集と翻訳を行なっている。「金剛経、般若心経、外二部西蔵経文直訳」を本山へ送っているが、「般若心経西蔵文直訳」以外の稿本は紛失した(能海:195)。その訳経時の感慨を手紙に記す。「支那人は多く西蔵人を蛮家々々など称し候へども、今彼西蔵人の用ふる真行草隷の書、及干殊爾、丹殊爾の翻経を見れば、西蔵の文字は一千三百年前印度字より製作せられたるものにて、更に他国の文字を借ることなく自在に文章を書き顕したり、経典は一千乃至一千一百年前頃既に自国の語に翻訳せられて、少しも他国の言語文字を借りたることなし、我日本の如きは人口は西蔵の十倍以上を有し、長き歴史を有するにも関らず、文字といへば片仮名平仮名のみ、これとても大半は漢字により、漢字にあらずんば完全に文章を形成し完全に意志を表出するを得ず、仏教盛なりと雖日本文の経典とては七千余巻の中、一部半部一巻半巻一品半品もあらざるなり、予は実に日本の学者日本の仏教徒に対して大々的不平を有せざるを得ず、美しくかゝれたる(元来美なる)西蔵文字の経典を見て、予は実に羨望に堪へず候」(同前:111f.)。後述の成功者慧海・婉雅がチベット人を見下す発言をしているのに対し、この人こそチベットに入って学ぶべき資格を第一に十全に有していたと思わせる。だが、「今や極めて僅少なる金力を以て深く内地に入らんとす、歩一歩艱難を加へ、前途気遣はしき次第なれど、千難万障は勿論、無二の生命をも既に仏陀に托し、此に雲南を西北に去る覚悟なり、重慶より連れて来りし雇人を当地より重慶に返すに当り内地への書状を托す、今後は多分通信六ケ敷かるべし、明日出発、麗江に向はんとす、時に明治三十四年四月十八日なり」(同前:200)と書いた通信を最後に、ふっつりと消息を絶つ。旅人を殺して金を奪うのはあのあたりの住民の「経済活動」の一部であるから、その犠牲になったのであろう。われわれはただ合掌するのみだ。

寺本婉雅(1872−1949)は能海と同じく真宗大谷派の僧で、明治31年(1898)7月私費渡航北京和宮チベット語モンゴル語を習い、能海と同行した最初の試みに失敗したあと、一旦帰国明治33年(1900)の北清事変に際し陸軍通訳となり、8月再度北京へ行った。12月、義和団と欧米兵に重ねて荒らされた黄寺および資福院でチベット大蔵経を発見し、日本へ送った。その後明治36年(1903)青海のタール寺に滞在、チベット語の学習や翻訳などを行なった。38年(1905)そこからラサへ行く。タール寺には明治39年から40年(1906−07)にかけても滞在している。だが、軍とも密接に連絡を取っていた彼は、研究のほうもやっていたとしても、仏教政治の工作者という面が強い。

西蔵旅行記」で名高い黄檗宗の僧河口慧海(1866-1945)は、明治30年(1897)6月インドへ出発した。ダージリンのチャンドラ・ダスのもとに寄寓し、チベット語を習う。明治32年(1899)1月ネパールに入り、さらに西行し、翌年7月ラサから1000キロほども離れた間道からチベット潜入に成功した。カイラス山を巡礼したあと、ラサに到達したのは明治34年(1901)3月である。ラサではセラ寺に入門した。翌年5月に日本人であるとわかり、チベットを脱出しダージリンに戻った。日本への帰国明治36年(1903)5月である。その後明治37年(1904)にまたインドに渡り、翌年からはベナレスの中央ヒンドゥー学院でサンスクリットを学んでいる。ベナレスには7年滞在した。大正3年(1914)ラサを再度訪問。前回できなかった大蔵経請来を果たす。

セラ寺での勉学について、慧海はこう紹介している。「そこには十四、五の子供から四、五十歳までの僧侶が居って、問答を稽古しますので、その問答は我が国の禅宗のような遣り方とは全く違って居るです。それは余程面白い。また非常に活発である。甚だしきは他から見ますとほとんど彼は喧嘩をして居るのではなかろうかと見らるる程一生懸命にやって居るです」(河口:40)。「今問者が言葉を発すると同時に左の足を高く揚げ、左右の手を上下向い合わせに拡げて、その手を拍つ拍子に足を厳しく地に打ちつける。その勢いは地獄の蓋も破れようかという勢いをもってやらなくてはならんというのであります。またその拍った手の響きは、三千大世界の悪魔の肝をこの文殊の智慧の一声で驚破する程の勢いを示さなければならんと、その問答の教師は常々弟子達に教えて居るです」(同前:41f.)。「その問答は因明の論理学の遣り方であって因明論理の法則により、まず始めに仏というものは人なるべしと言うて問いかけると、答者はそうであるとか、そうでないとか答える。もしそうだと言えば一歩を進めて「しからば仏は生死をまぬかれざるべし」となじる。そこで答えて「仏は生死をまぬかれたり」と答えると、問者は「仏は生死をまぬかれず。何となれば仏は人なるがゆえに、人は生死をまぬかれざるがゆえに、汝は爾く言いしがゆえに」と畳みかけて問い詰めるので、そこで答者が遣手でありますと「仏は人にして生死をまぬかれたり。仏の生死は仮りに生死を示現したり」などと言うて、仏に法身報身化身の三種のあることを解するようになるのです。またもしそうでないと答えると、いやインド釈迦牟尼仏は確かに人であった、これはどうであるかというようにどこまでもなじって行く。どっちへ答えてもなじるようにしてだんだん問答を進めますので、その問い方と答え方の活発なる事は真にいわゆる懦夫をして起しむるの慨があるです」(同前:41)。チベットの習俗を概して軽蔑的に見ている彼が珍しくほめている部分だが、それでもやはり「確かにこの問答が怠惰なるチベット人、蒙昧なチベット人を鞭撻して幾分仏教の真理に進ませるので、半開人に似合わず案外論理的思想に富んで居るという事も、こういう事から起って来て居るのです」(同前:45)などと言う。山口瑞鳳はしかし、「河口はセラに入っても、学僧としての論議を実はしなかったのではないかと思われる」と言っている。論議のはじめに言う「チー・チタワ・チョエ・チャン」を「文殊菩薩の心という真言」だと見当違いの解説をしているからだ(山口:69)。しかし、チベット仏教の修行をすることは彼の目的でなかったから、見聞で十分に満足だっただろう。能海ならどうだったか? 言って詮無い問いだが、つい問いたくなる。


インドセイロンスリランカ)への留学はやはりほぼ仏門の専管である。そして、環境のしからしむるところか、病没者を多く出している。前出東温譲、インド留学中に第一次大谷探検隊のインド調査に加わった島地黙雷の息子清水黙爾など。島崎藤村の「椰子の葉蔭」のモデルになった藤井宣正(1859−1903)は、留学地はロンドンだったが、このインド調査に同行し、イギリスへ帰る途中マルセイユで病没した。もともと病身だったが、インドで死に至ったようなものだ。

なお、セイロンへの留学では、釈興然(1849−1924)の名を挙げなければならない。釈雲照(1827−1909)の甥で、出雲神門郡塩冶村出身、もと真言宗の僧だが、明治19年(1886)にセイロン留学、ゴールのランウェルレー寺、コロンボ仏教学院ウィドヨーダナ・ピリウェナに学び、明治23年(1890)具足戒を受け、上座部仏教(いわゆる小乗)の最初の日本人僧となり、グナラタナの名を得た。帰国釈尊正風会を起こし、上座部仏教の広布をはかったが、それはなかなか進まなかった。セイロンに渡る前に南條文雄にサンスクリット語を学び、帰国インドへ向かう河口慧海パーリ語を教えた。慧海を上座部仏教に勧誘したが、断然大乗の慧海は峻拒し、放逐されたという。

留学といえば欧米のみを想起するのは正しくない。学ぶべきものがあると考えれば、赴いて学ぶのが当然だ。中国でもインドでも、その国が植民地化に悩む近代にあっても。仏教であれば、タイで学ぶこともあるのだし。

2016-05-27 留学のいろいろ (4)

私的に学ぶ

さて、西周らに戻ると、オランダに到着した幕府留学生一行は、ハーグライデンの二手に分かれた。「ハーグに居つた人々では内田・榎本・沢・田口は和蘭海軍大尉ヂノウ(Dinoux)に就いて船具・砲術・運用の諸科を学び、榎本は傍ら海軍関大監ホイゲンスに就き蒸気学、沢は海軍局軍務局長海軍大佐フレメリーに頼んで其局員に就いて大砲・小銃の事、火薬製造法を質し、伊東・林の両人は先づポンペに就いて理学化学、人身窮理学の伝習を受け、理・化学の講義には榎本も私も出席して聴講した。伊東・林は幾干もなくハーグの近郊ニュウウェジップの海軍鎮守府病院に入つて一般医学修行を始めた。

津田・西の両人は其後も永く和蘭学問の淵叢たるライデンに留つて、其地の大学教授フィッセリング(Prof. Vissering)に従ひ法政経済の学を学んだ。フィッセリングの教授は頗る懇切で要を得、両人は毎週二度案下に侍して口授を筆記すること二年、慶応元乙丑年(一八六五年)十月を以て其業を終へて私たちに先立ち其月十四日(一八六五年十二月一日)ライデンを発し、巴里を経、マルセイユから仏国郵船に乗つてスエズを過ぎ帰朝の途に就いた。横浜に帰着したのは歳も正に暮れんとする十二月二十八日(陽暦二月十三日)であつたといふ。後年私の聞く所によれば西・津田が伝へたフィッセリングの法律経済の学は、実に我日本に於ける其学問の出発点であつて今日の斐然たる我国の斯学に就いては忘る可らざるものであるとのことである」(赤松:168f.)。

西周津田真道がフィッセリングについて学んだのは性法学(Naturregt)・万国公法学(Volkenregt)・国法学(Staatsregt)・経済学(Staatshuishoudkunde)・政表学(Statistiek)で、まず3ヶ月オランダ語を学んだあと、彼の家に通って講義を受けたのである。

なお、最初の留学でもあるし、チョンマゲ刀の旧幕時代であるから、明治以後には絶えてない苦労もあった。「ハーグに移つた内田始め一同は語学の教師を迎へて和蘭語を始めとして普通学の教授を受けたが、和蘭語に就いては私は専ら発音の匡正に実地の練習を積むことが緊要で、それには上流階級の紳士の家族と交際するに不如といふので、ホフマンやポンペが紹介して呉れて国会議員・市会議員・大学教授などといふ知識階級の人の所へ午餐とか茶とかに招かれて屡々行つた。主人の側では日本の服装で来て呉れとの望みが多いので、何時も例の紋付・打裂羽織・裁付袴に大小を佩し草履穿きで出掛けた。刀身は常に手入れを怠らないで所望に応じては鞘を払ふて示すだけの用意はして居つた。到る所皆親切に歓待して呉れて異境に在る心淋しさを忘るゝ愉快を味つた。招く方では相客に親類・縁者を招待する者が多かつたが、半分は珍しい東洋人見物といふ心持で同席したのであつた。

私たちは江戸を出発する時に幕府に誓詞を差出した其中に、御国風を守ることゝいふ一項があつたから、扮装は全然純日本式で押通して来たが、到着した当時は上陸地から至る所見物の群衆に囲繞され、旅館に居を定めた後も市街へ出れば必ず見物人に難まされ、常に警官の保護を受けなければ買物も容易でなく、当分は市民の目標となつてゐた為めに流行唄まで出来て無邪気な子供に唄はれる始末で、之には殆ど当惑したが、和蘭海軍卿カッテンデーキからの忠告もあつて遂に一同兜を脱いで洋服に更へることにした。併し頭髪だけは何時日本へ呼戻されるか判らないので刈る訳にも行かず、私は月代を生して前の方から見ると西洋風の斬髪で後ろの方には髷を付けて帽子で之を隠してゐた。此点では坊主頭であつた医師の伊東・林の両人は忽ち頭から爪先まで欧羅巴風に改まつたので皆から羨ましがられた」(赤松:163f.)。

旅行なら丁髷に羽織袴で押し通すこともできようが、留学は長期の滞在であるから、そういうわけにはいかない。彼らのオランダ到着が1863年、御一新が1868年、またたく間に文明開化の散切り頭になったのでこんな苦労は意識にのぼることもないが、それは日本に来た清国留学生が弁髪のためした苦労と同じだということは知っておいたほうがいい。日本の悪童どもが弁髪の清国人をチャンチャン坊主と囃すのを見たら、ヨーロッパの悪童に囃される風采正しい旗本御家人を思わなければならないということだ。こちらのほうは帯刀だから、丸腰の弁髪頭にはなお味方せねばならぬ。


留学というと学校に入ることをすぐ考えるが、学校は留学に特に関係ない。学位その他の証書が必要ならば学校によらなければならないが、それが条件でなければ、学校に拘泥することはない。学ぶには師がいれば足りる。独学だってできる。

夏目漱石(1867−1916)が文部省から英国留学の命を受けたのは明治33年(1900)である。このころにはもう留学制度は自動装置のようになっていて、本人が望む望まぬにかかわらず行かされる。英文学専攻なら行くのは当然とも言えるが、漱石自身はこう述懐する。「ロンドンに住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あわれなる生活を営みたり」(「文学論」序。夏目:16)。「自己の意思をもってすれば、余は生涯英国の地に一歩もわが足を踏み入るることなかるべし」(同前:17)。

留学の成果の集大成であり、心血はそそがれているが誰も読まぬあの「文学論」の序文に、自分自身で留学の様子をまとめている。最初はオックスフォードケンブリッジに学ぼうかと思って、ケンブリッジの知人を訪ねてその大学を下見してみると、そこには数名日本人留学生がいたが、「彼等は皆紳商の子弟にしていわゆるゼントルマンたるの資格を作るため、年々数千金を費やすことを確め得たり。余が政府より受る学費は年に千八百円にすぎざれば、この金額にては、すべてが金力に支配せらるる地にあって、彼等と同等に振舞わんことは思いも寄らず。振舞わねばかの土の青年に接触して、いわゆる紳士の気風を窺うことさえ叶わず、たとい交際を謝して、ただ適宜の講義を聞くだけにても給与の金額にては支えがたきを知る。(…) これを聞く、彼等は午前に一二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二三時を消し、茶の刻限には相互を訪問し、夕食にはコレジに行きて大衆と会食すと。余は費用の点において、時間の点において、時間の点において、また性格の点において、とうていこれ等紳士の挙動を学ぶあたわざるを知って、かの地に留まるの念を永久に断てり」(同前:7f.)。いわゆるオックスブリッジが英国紳士(大英帝国エリート)の養成所であることを知ったわけで、そういうエスタブリッシュメントたらんとする希望も、また性格的適合性もない夏目金之助には無用のところだった。敵さんのほうからもそんな者は無用で、白洲次郎のような人が求め求められる場所である。

それでロンドンに住むこととし、まず「大学に赴き、現代文学史の講義を聞きたり。また個人として、私に教師を探り得て随意に不審を質すの便を開けり。/大学の講義は三四カ月にして已めたり。予期の興味も知識をも得るあたわざりしがためなり。私宅教師のほうへは約一年ほど通いたりと記憶す」(同前:9)。そして、「余は下宿に立て籠りたり。いっさいの文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学のいかなるものかを知らんとするは血をもって血を洗うがごとき手段たるを信じたればなり」(同前:12)。つまり学校へ通わず、本を買いこんでそれを読破しノートを取る自学勉強法を選んだわけだ。

一方で、定期的にクレイグというシェイクスピア学者を訪ねて、文学について質問をした。「もっとも何を教えてくれるのか分らない。聞いていると、先生の好きな所へ連れて行って、決して帰してくれない。そうしてその好きな所が、時候の変わり目や、天気都合でいろいろに変化する。時によると昨日と今日で両極へ引っ越しをすることさえある。わるく言えば、また出鱈目で、よく評すると文学上の座談をしてくれるのだが、今になって考えてみると、一回七志[シリング]ぐらいで纏った規則正しい講義などのできるわけのものではないのだから、これは先生のほうがもっともなので、それを不平に考えた自分は馬鹿なのである。もっとも先生の頭も、その髯の代表するごとく、少しは乱雑に傾いていたようでもあったから、むしろ報酬の値上げをして、えらい講義をしてもらわないほうが可かったかもしれない」(「クレイグ先生」)。

漱石一流のユーモアある才筆で描かれるこの人のさまをもっと見てみよう。

「先生はアイルランドの人で言葉がすこぶる分らない。少し焦き込んでくると、東京者が薩摩人と喧嘩をした時くらいにむずかしくなる。それでたいへん疎忽しい非常な焦き込み屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔だけ見ていた」(同)。

「先生の得意なのは詩であった。詩を読むときには顔から肩の辺が陽炎のように振動する。― 嘘じゃない。まったく振動した。その代わり自分に読んでくれるのではなくって、自分が一人で読んで楽しむことに帰着してしまうからつまりはこっちの損になる」(同)。

「先生は自分を小供のように考えていた。君こういうことを知ってるか、ああいうことが分ってるかなどと愚にも付かない事をたびたび質問された。かと思うと、突然えらい問題を提出して急に同輩扱いに飛び移ることがある。いつか自分の前でワトソンの詩を読んで、これはシェレーに似たところがあると言う人と、まったく違っていると言う人とあるが、君はどう思うと聞かれた。どう思うたって、自分には西洋の詩が、まず目に訴えて、しかるのち耳を通過しなければまるで分らないのである。そこで好い加減な挨拶をした。シェレーに似ているほうだったか、似ていないほうだったか、今では忘れてしまった。が可笑しいことに、先生はその時例の膝を叩いて僕もそう思うと言われたので、大いに恐縮した」(同)。

クレイグ先生は独身で(当然)、身の回りの世話は家政婦がしていたのだろう。「先生は疎忽しいから、自分の本などをよく置き違える。そうしてそれが見当たらないと、大いに焦き込んで、台所にいる婆さんを、ぼやでも起こったように、仰山な声をして呼びたてる。すると例の婆さんが、これも仰山な顔をして客間にあらわれて来る。

「お、おれの『ウォーズウォース』はどこへ遣った」

婆さんは依然として驚いた目を皿のようにして一応書棚を見回しているが、いくら驚いてもはなはだたしかなもので、すぐに、「ウォーズウォース」を見付け出す。そうして、「ヒヤ・サー」と言って、いささかたしなめるように先生の前に突き付ける。先生はそれを引ったくるように受け取って、二本の指で汚い表紙をぴしゃぴしゃ敲きながら、君、ウォーズウォースが… と遣りだす。婆さんはますます驚いた目をして台所へ退って行く。先生は二分も三分も「ウォーズウォース」を敲いている。そうしてせっかく捜してもらって「ウォーズウォース」をついに開けずにしまう」(同)。これはまったく小説や舞台劇の一情景だ。

この人は沙翁字典の編纂を期しており、そのためウェールズの大学の招きを蹴り、大英博物館に通って考究を続けるためロンドンで暮らしていたのである。だが、「日本へ帰って二年ほどしたら、新着の文芸雑誌にクレイグ氏が死んだという記事が出た。沙翁の専門学者であるということが二、三行書き加えてあっただけである。自分はその時雑誌を下へ置いて、あの字引はついに完成されずに、反故になってしまったのかと考えた」(同)。

これは帰国後、文名上がり小説家として立ったあとに書いたものだから、自虐を交えつつも暗くはない。ロンドン滞在中の手紙にある自画像は、ユーモアがありながら苦い。「それからステッキでも振り回してその辺を散歩するのである。向こうへ出てみると逢う奴も逢う奴も皆厭に背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背に税をかけたら少しは倹約した小さな動物ができるだろうと考えるが、それはいわゆる負け惜しみの減らず口という奴で、公平なところが向こうのほうがどうしても立派だ。なんとなく自分が肩身の狭い心持ちがする。向こうから人間並み外れた低い奴が来た。占めたと思ってすれ違ってみると自分より二寸ばかり高い。こんどは向こうから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思うと、これすなわち乃公自身の影が姿見に写ったのである。不得已苦笑いをすると向こうでも苦笑いをする。これは理の当然だ」(「倫敦日記」)。

どう見ても健康的でない。事実「英国人は余を目して神経衰弱といえり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといえるよし」(夏目:18)。そんな噂が立つほどになったころ、明治35年(1902)に帰朝した。こういう留学も「三等国」から「一等国」への留学の一面である。

留学は孤独なものである。同胞とももちろん交際するけれども(自国にいるより親密な交際ができるので、結果友人も多くなったりする)、周囲を囲むのは異邦人だ。大なり小なり留学生が感じる孤独の毒を、漱石は飲みすぎたかもしれない。


独学者の代表例は、何といっても南方熊楠である。大学予備門で同期だったほか、「方丈記」の英訳をしたという点でも漱石共通する。彼の留学はまさに漱石と行き違いで、1900年熊楠の乗った帰国の船は漱石の渡欧の船とインド洋ですれ違っている。

足芸人を通じて骨董商を知り、そこから大英博物館のフランクスに紹介されたのは前述の通りで、「その時ちょうど、『ネーチュール』(御承知通り英国で第一の週間科学雑誌)に、天文学上の問題を出せし者ありしが、誰も答うるものなかりしを小生一見して、下宿の老婆に字書一冊を借る。きわめて損じた本でAからQまであって、RよりZまで全く欠けたり。小生その字書を手にして答文を草し、編輯人に送りしに、たちまち『ネーチュール』に掲載されて、『タイムス』以下諸新紙に批評出で大いに名を挙げ、川瀬真孝子(当時の在英公使)より招待されたることあるもことわりし。これは小生見るかげもなき風してさまよいおるうちは日本人一人として相手にするものなかりしに、右の答文で名が多少出ると招待などはまことに眼の明らかならぬ者かなと憤りしゆえなり(小生はこの文出でし翌週に当時開き立てのインペリヤル・インスチチュートより夜宴に招かれたるなり)」(履歴書。南方b:13)。そして、「その答文の校正ずりを手にして、乞食もあきるるような垢じみたるフロックコートでフランクスを訪ねしに(この人は『大英百科全書』一一板にその伝ありて、英国にかかる豪富にして好学の人ありしは幸いなり、と記しあり)、少しも小生の服装などを気にかける体なく、件の印刷文を校正しくれたる上、(…) 大いなる銀器に鵝を丸煮にしたるを出して前に据え、みずから庖丁してその肝をおり出し、小生を饗せられし。英国学士会員の耆宿にして諸大学の大博士号をいやが上にも持ちたるこの七十近き老人が、生処も知れず、たとい知れたところが、和歌山の小さき鍋屋の悴と生まれたものが、何たる資金も学校席位も持たぬ、まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日始めて学問の尊きを知ると小生思い申し候。それより、この人の手引きで(他の日本人とかわり、日本公使館などの世話を経ずに)ただちに大英博物館に入り、思うままに学問上の便宜を得たることは、今日といえどもその例なきことと存じ候」(同前:13f.)。

熊楠は学校を拒否した人で、さらにはついに師をもたなかった人であるが、図書館博物館・学界・学術雑誌などの「学問するための装置」に囲まれて、それを存分に活用した人であった。学ぶのはこのようにもできる。

2016-05-25 留学のいろいろ (3)

北京籠城

近代蒸気船の時代には、遣唐使の頃と違い中国渡航自体は難事でないが、渡った先での生活が平穏とは限らない。いや、混乱する清末期では戦乱に遭遇するのは普通にありうることのひとつである。西欧だとて、留学中戦争勃発(第一次・第二次大戦)に立ち会うことはあった。しかし、銃弾飛び交う中みずから武器を取って戦う留学生というのは稀有であろう。

アヘン戦争以来欧米列強の蚕食をうけていた清朝であったが、日清戦争敗北以降、「眠れる獅子」ではないかという恐れが完全に消え失せて、帝国主義的略取に拍車がかかった。その中で「滅洋」を掲げる義和団山東から華北に勢いを得て広がり、キリスト教会中国人キリスト教徒(教民)、外国人宣教師を襲って暴乱の様相を呈してきたところ、西太后の清廷がそれに便乗して列国に宣戦布告してしまい、北京天津での戦闘となった。いわゆる義和団の乱北清事変(1900)である。

情勢が険悪になってきたのを見て、公使以下の外国人居留民を守るため、5月31日に天津から北京へ400人ほどの救援隊が派遣された。さらに6月11日、2000人の増派隊が送られたが、鉄道が破壊されていたため到達できず、天津へ引き返した。その日の朝駅へ出迎えに行った人たちは空しく帰り、午後日本公使館の杉山彬書記生が一人でもう一度駅へ迎えに出たところ、清国兵に殺害された。遺体は切断され、心臓が抉り出されるという無残さだった。結局この増派隊は到着せず、最初の406名(うち日本兵27名)の兵士で東交民巷の外国公使館地域を守ることになるのだが、これでは少なすぎるので、義勇兵が集められた。欧米人が44名、日本人31名。一見して数が非常にアンバランスなのがわかる。日本人の男は戦える者はほとんどが義勇兵となったが、欧米人はそうでない、ということだ。義勇隊の名簿には、野口多内(外務省留学生)、服部宇之吉(文部省留学生東京帝国大学文科大学助教授、文学士)、大和久義郎(留学生)、狩野直喜文部省留学生、文学士)、川上貞信(西本願寺留学生)、竹内菊五郎留学生)の6人の名がある。安藤辰五郎大尉も留学に来ていたわけで、これらの留学生が戦闘に参加することとなった。そのありさまはいささか滑稽で、服部宇之吉はこう記している。「六月十日、公使館正門内に義勇隊の勢揃いをなしたる時のごときは、とにかく何かの兵器を手にしたるは十人ばかりにて、その他は徒手なりき。……わが義勇隊の様こそ外目には滑稽なりしならめ、急造の支那槍や日本刀などを携えたるは、名こそ義勇隊なれ義和団に似たらずやなどと互いに戯れたることもありき。義勇隊長安藤大尉が、われらに訓示することあらんとして開口一番、義和団諸君といいハッと心づきて、義勇隊諸君といい改めたること一回にはあらざりき。いかに外形の貧弱なりしかを知るべし」(服部宇之吉「北京籠城回顧録」。大山:209)。

さらに6月20日、総理衙門へ交渉に赴いたドイツ公使ケッテラーが清国官兵に殺され、その夕刻にいよいよ戦闘開始となった。各国にそれぞれ防衛区域が割り当てられたのだが、日本の担当はイギリス公使館東隣の粛親王府だった。指揮をとったのは、柴五郎中佐。海関勤務の若いイギリス人下級職員レノックス・シンプソンはウイールの筆名でこう書いている。「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守備にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも五百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。/ぼくは長時間かけて各国受け持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」(ウイール「率直な北京便り」6月21日付日記。ウッドハウス:109f.)。「小柄な奇才・柴中佐は、やたらと歩き回って時間を無駄にするようなことはしない。彼は緑・青・赤の点を付した地図を備えており、刻々と変わる兵隊たちの部署、それぞれの兵力、戦闘能力を常に監視・記録している。なぜかぼくは日本軍の持ち場から離れることができなくなってしまった。彼らの組織作りが、それほどにも素晴らしいからだ」(同6月23日。同前:110)。

柴自身の報告もあるのだが、イギリス人の日記を見るほうがよくわかる。柴五郎はよき日本人の常として謙虚の徳を示し、自分の働きを誇ることがないので、彼の報告ではその功績が見えにくい。外国人はすなおに称賛している。たとえば、「王府の炎上は城壁の上からもよく見える。そこは一大活劇シーンだ。小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつもいる」(モリソン日記7月8日。同前:111)。「王府の攻撃があまりにも激しいので、夜明前から援軍が送られた。王府で指揮にあたっているのは、日本軍の柴中佐だ。日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では、柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ。この点では、わがイギリス水兵が次につづく、しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」(イギリス公使館付通訳書記生ランスロット・ジャイルズの日記、6月24日。同前:112)。「午前十時十五分。王府が大火事だ。柴中佐はマクドナルドに援軍を要請。通訳生三人、海関職員三人、水兵六人が行った。しばらくして、王府で一斉射撃の音がした。王府は戦略上のキイ・ポジションだ……日本兵が王府の守備にあたっていてくれることは、ぼくたちみなにとって非常にラッキーなことだ。もし、これがイタリア兵やオーストリア兵だったとしたら、王府はとっくの昔に敵の手に落ち、ぼくたちは全滅していただろう。なぜならば、王府が落ちれば、イギリス公使館は数時間以内にこなごなに吹き飛ばされてしまうからだ」(同7月8日。同前:123)。「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。/当時、日本人と付き合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言も非難を浴びていないのは、日本人だけである」(ピーター・フレミング北京籠城」。同前:108)

そう、柴以外の日本人も勇敢だった。柴は自分の片腕と思っていた安藤大尉の戦死に涙する。「安藤大尉は、ついにこの日の晩なくなりました。実に哀惜のいたりに堪えませんでした。大尉は久しい以前より支那のことに志し、今回はいよいよその家宅までも売却して、自費留学を思い立ち、事の始まりますわずか五、六日前に北京に到着し、そのうえ北京天津間の汽車不通となりしその日の朝、要事を帯びて天津に行かんとして停車場まで行き、汽車不通のため果たさず、もって籠城となり、こんどの最後を遂げたるは実に不運の人でありました。戦争中は実に立派な働きをなしました。沈着にして勇敢で、かつ人に向かってきわめて親切であるため、日本人一同敬服したるはもちろん、諸外国人もみな感心しておりました。英公使のごときは、大尉の死を聞きて、ことに悲痛の弔辞を寄こしました。大尉に死なれた時には、私は一手を失いたる心地して、今後はなんといたそうかと、実に当惑いたしました。平常は戦闘の忙わしさに、戦死者埋葬のことなどは本願寺の川上という和尚さまに任せて、私は葬式などに列する遑はありませんでしたが、大尉の時だけは、一方には銃声の盛んなるにもかかわらず、間を偸んで、戦闘線の人に隠れるようにして葬式に列し、一朶の草花を手向けたときは、感慨のきわみ少時は墓前を去るに忍びませんでした」(柴五郎「北京籠城」7月6日の項。大山:53f.)。

「小さな人種の中でも、また特に小さい安藤大尉」(ウイール。ウッドハウス:118)の最期はこうだった。「ぼくは安藤大尉のもとに駆けつけた。こんな可哀想な光景を、ぼくは今まで目にしたことがない。地面に広げられたコートの上に寝かされた彼の脇腹、弾丸で引き裂かれ、口を開けていた。彼はひどい事故にあった子供のように見えた。身長は5フィート(約1.52メートル)足らず。彼の剣は約30インチ(76センチメートル)ほどの短いもので、それは紐で手首にしっかりとくくりつけており、彼はそれを解き外されるのを拒んだ。彼は両腕を空中に上げ下げして苦痛と戦っていたが、そのたびに手首の剣も跳ね上がったり下がったりした。しかし、この努力にも力尽きて彼は我にもあらず、うめき声をだしつづけた」(ウイール。同前:119)。

「とびきり勇敢な、眼鏡をかけた日本公使館二等書記官」(ウイール。同前:118)楢原陳政(1862−1900)も、7月23日38歳で戦死した。「この日、朝、楢原君不帰の客となれり。同君の学識と外交の手腕とは人の認めるところにして、いま喋々を要せず、その死はわが対清外交上、実に少なからざる損失といいつべし」(服部宇之吉「北京籠城日記」7月23日。大山:183)。イギリス人の目にもそうであった。「優秀な学者かつ紳士である楢原氏が二十四日亡くなったのは、まことに残念であった」(イギリス公使館付牧師R・アラン「北京公使館籠城」。ウッドハウス:149)。重傷は負ったが、設備さえよければ死ぬことはなかった。死人の使った布団に寝かせられ、古着のきれや綿で手当てされて、破傷風を発したのだ。

彼は留学の経験者で、明治15年(1882)渡清して同20年(1887)までの6年間を過ごし、杭州で兪曲園に従学したほか、清国内各地を巡歴した(その成果は「禹域通纂」としてまとめられた。中国に関する日本人の調査研究の最良のものとされている)。また明治23年(1890)公使館書記生としてイギリスへ行き、エジンバラ大学にも学んだ。日清戦争の講和会議で通訳を務め、日本に来た清国留学生の世話もした。ロンドン・タイムズの記者ジョージ・アーネスト・モリソンは、楢原の友人だった。「楢原は、いつ会っても感じがいい」(同前:150)と言っており、彼の死について、「ああ、楢原! 可哀想な私の親友。彼は重体だ。もう、今夜はもたないだろう」(同前:149)と嘆いていた。

服部宇之吉(1867−1939)もあわや戦死者の列に加えられたかもしれぬところであった。「柴中佐より、粛親王府の一角を守りし伊国指揮官にあてたる手紙を携え行き、その返簡を待つ間、独立の煉瓦壁によりて立ちおりしに、たちまち正面より一丸飛びきたりて壁にあたり、土はサッと予の頭に降りかかれり。驚きて壁を見れば、予の頭より五分ばかり上のところに銃丸入りおれり。予にしてもし身長一寸も高かりしならんには、ま額をうち貫かれて即死すべかりしなり。その他にも二、三回銃丸を免れたることあれども、この時もっとも強く運命ということを感じたり」(大山:222)。

服部宇之吉は明治32年(1899)9月に北京に来た。文部省からドイツを含む4年間の留学を命ぜられたのである。すでに文科大学助教授であった彼が中国に留学に来たのは、清国留学生がそのころから増え始めた事情を背景に、中国教育界を指導し教員養成機関を設置するための準備の視察という目的があったらしい(丹羽:134)。そのときの日本公使政治小説経国美談」を書いたことで知られる矢野竜渓で、「着京の翌日公使矢野文雄を訪ふと、矢野は君(服部)に『君は誠に悪いときに来た。目下支那人の地位名望ある者は外国人との交際を避けてゐる。紹介はして上げるし、先方も会ふには会ふだらうが、恐らく迷惑がつて到底親密なる交際は出来ないだらう。洵に悪い時勢である』」(丹羽:134)と言ったという。義和団事件の前年、すでに排外の気運が高まっていたのである。同年11月に公使は「中亜細亜紀事」を書いた元ロシア公使の西徳二郎に替わる。

そのころの出来事に、「初夏某日、予、狩野、古城両君と馬車を駆りて瑠璃廠にいたり、書肆を訪い、帰途前門外某飯荘に過ぎりて食事をなせるに、故意かはた偶然か二人の偉丈夫入りきたりてまた食を命ぜり。時に他客なし、彼の二人予らの方を見つつ食をとりいたるが、しばらくして予らの卓に進みきたりて話しかけ、一、ニ言の後、体格もっとも勝れたる一人、左手をもって右袖を捲きあげ、太くたくましき右腕をあらわし、拳を握りかためて予らの面前にこれを揮いて曰く、この拳よく堅を破り強きをくじく、天下何物も怖るべきなし、この卓この碗のごときはこれを破ること易々たるのみと、数回拳をふるい勢を示してすなわち去れり」(大山:201)。義和団員との接近遭遇の例だが、この事変は中国民衆側からも見てみなければならない。たとえば「義和団民話集」(平凡社、1973)のような民衆の語りから。

服部は東四牌楼北六条胡同の旧日本公使館に住んでいたが、その外を「洋人討つべし、何を用いてこれを討つべきか、義和拳法の神に通ずるあり」などと歌って過ぎる声を聞くほど危険が身に迫るのを感じて、6月10日台基廠の森中佐の留守宅に移った。乱の平定後、一旦帰国し、ドイツ留学に向かったが、留学期間途中に呼び戻され、明治35年(1902)8月、京師大学堂師範館の正教習として再度北京に赴き、明治42年(1909)まで勤めて、機関整備と教育に尽力した。帰国時には清朝から進士を授与された。彼も戊辰戦争をくぐり抜けた一人で、二本松藩士の子として生まれ、実母は生後すぐに死亡、叔父に養われたが、官軍との戦いで実父は戦死、養父は藩主に従って逃れ、養母とともに農家に潜んで官軍の捜索をあやうく逃れたという。幼児のこととて記憶になく、後年養母に聞いて知るのみとはいえ、人格形成に大きな影響があっただろうことは容易に想像できる。

その服部との初対面の様子を、モリソンはこう記している。「スクワイアーズと一緒に日本陣営を視察して回った。柴と一緒にもう一人日本人が来たが、そのつつましい様子の男はときどき知的なことを口にした。服装その他から察して、この男は理髪店の助手かなと思った。名前を尋ねてみたら服部だといい、「私は帝国大学中国哲学教授です」とつけ加えた」(モリソン日記7月7日。ウッドハウス:144)。

これに限らず、モリソンの日記はかなり直截辛辣で、当時の欧米人が日本人をどう見ていたかがよくわかるだけでなく(たとえば「まったく不思議なくらいよく類人猿に似ている日本公使・西男爵は、外国語ロシア語しかできない」。モリソン日記7月4日、同前:178)、のちに前述のように賛辞を受ける柴五郎も、初めは「あのバカは、自分が何をなすべきか、分かっていないのだ」(モリソン日記6月16日、同前:142)などと侮蔑的に言われていて、逆に、その後の称賛が真実のもの心からのものであることを示すわけである。

柴五郎(1859−1945)は会津藩士の息子で、戊辰戦争では祖母・母・姉妹みな自害、敗北後移封された下北半島では寒さと飢えに苦しみ、青森東京では下僕の生活を送った。その後陸軍幼年学校に入ることを得、軍人として精励して大将まで進んだ。「ある明治人の記録」は彼が苦闘の半生を語った自伝で、人間はこう鍛えられるのだと知る。「混乱の日本」に育った者は、「混乱の中国」にも動じることはない。軍人としての有能さはイギリス人の証言に見られるとおりだが、こういう苦労を重ねた人だから、無辜の人々に対してやさしかった。籠城時には義和団の暴行の標的になっていた中国人キリスト教徒をよく保護し、援軍到来で公使館地域が包囲から解放されるや、ただちにもうひとつの籠城箇所(北堂と呼ばれる天主教堂)に部隊を差し向け、結果非キリスト教徒日本軍がそこを解放することとなった。連合軍首都進撃を前に光緒帝と西太后西安に蒙塵し、主のいない北京を欧米日の軍隊が占領したときは、他国の管轄区域で略奪が横行している一方、柴が担当した日本軍管轄区域は軍紀厳正で治安が保たれていたので、他区域から移ってくる者が多くいたという。日露戦争にも出征し、功があった。明治の大ベストセラー政治小説佳人之奇遇」を書いた東海散士こと柴四朗(1853−1922)は実兄で、彼は白虎隊士であったが、熱病で病臥していたため生き残った。明治12年(1879)アメリカに留学し、ペンシルヴァニア大学で学士号を取り、明治18年(1885)帰国。のちに代議士になった。同じく隊士だった山川健次郎(1854−1931)もアメリカのエール大学に留学(1871−75)、東京帝国大学総長となる。わずかにいる白虎隊士の生き残りは、みなひとかどの人物になっている。

この事件での働きを機に、日本は列強クラブの仲間入りを果たしたと言っていい。その2年後に日英同盟が締結される。晴れて狼の仲間入りをしたわけである。略奪、暴行、強き者の自尊と弱き者への軽蔑。狼の振舞い方のよいレッスンになったことだろう。柴五郎個人は薩長軍からすでにその振舞いを見せつけられていたので、美質を傷つけられることはなかったけれども。敗戦の年、87歳の彼は自刃をはかる。それがもとで、その年の暮れに病没した。最後のサムライの死と言っていいかもしれない。

内藤湖南とともに京都帝国大学文科大学教授を勤め、京大支那学の基礎を築いた君山狩野直喜(1868−1947)は、文部省留学生として明治33年(1900)4月に北京に渡った。服部宇之吉と同じところに住んだが、すぐに義和団事変が勃発する。乱後帰国、改めて明治34年(1901)8月に今度は上海に留学に来て、明治36年(1903)4月まで滞在した。上海には王立アジア協会中国支部(亜州文会)があり、その図書館は充実していた。上海への留学は欧米人のシノロジー研究に親しむ機会を得ることでもあった。あのモリソンの東洋学文献の一大収集が東京にもたらされ東洋文庫の基礎となったのにも、北清事変での日本人とモリソンの交情がひとつの機縁になったであろうことを考えると、中国と欧米の研究を踏まえた日本の東洋学の起こりは義和団にあった、ということも言えるかもしれない。敦煌文書の発見で有名なフランス人東洋学者ポール・ペリオ(1878−1945)はそのころハノイの極東フランス学院の研究員であり、そのときは北京派遣されていて、籠城組だったのだ。

イギリス看護婦ジェシー・ランサムの「北京籠城病院物語」に、「日本兵はみな一つの病棟に入り、お互いにいたわり合っていましたし、同胞人が看護にあたりよく面倒をみていました。柴中佐や日本婦人がときどき見舞いに来ましたが、なかでも毎日来て常に負傷兵のもとにいたのは若い僧侶でした。彼は非常にインテリで英語もよく解し、通訳としても役立ってくれました。彼はお葬式の時以外は、仏僧としての仕事はしていないようでしたが、負傷兵の実際的な世話は、実によくしていました」(ウッドハウス:125)と書かれている西本願寺留学生川上貞信(1864−1922)は、その後日露戦争にも従軍僧として参加し、乃木希典を総司令官とする陸軍第三軍に従った。


そのころ黒竜江清国対岸に位置するロシアの町ブラゴヴェシチェンスクには、陸軍休職して「留学」中の大尉石光真清(1867−1942)がいた。熊本の出身で、柴五郎を見出し家に置いてくれた野田豁道は叔父、柴の手記を編集した石光真人は息子である。日清戦争後、次の敵ロシアを知るためにロシア語の必要を感じてやってきたもので、軍も支援していた。明治32年(1899)10月に仮名を使ってやってきて、小学校教師の家に寄寓し、「昼はア[レキセーフ]氏の勤める小学校へ通学して坊主頭の子供たちとともに読み書きを学び、夜はア氏夫人から作文の手ほどきをしてもらった」(石光a:19)。在留邦人に怪しまれるので、そのあと「カザック連隊付騎兵大尉ポポーフ方へ寄食することにした」(同前:21)。夕食後夫人にロシア語作文を見てもらうのを日課にしていたという。ロシア語を学ぶだけならウラジオストクでもハバロフスクでも用は足りるのに、わざわざブラゴヴェシチェンスクへ三十を過ぎた壮漢が来るというのが怪しさいっぱいなのは道理だ。彼の手記はまるで小説のようにおもしろくて、だいぶ脚色されているだろうと思われるが、これしかよるものがないので、これに従う(たとえば日露戦争前軍を離れて情報収集のためハルビンでやっていた写真館に二葉亭四迷が来ていたとき、たまたま手に入ったロシア軍の異動命令書の翻訳を頼んだが、こんなつまらぬものは嫌だと断られ、「今後は何があっても君には頼まん」と言ったというのだけれども、その後ロシア革命時にブラゴヴェシチェンスクに差し向けられたときは、アムール州の革命派・反革命派の歴々と単身丁々発止のやりとりをしていることになっている。必ずや叙述に誇張があるはずだ)。彼はここで「アムール川の流血」を目撃することになる。北清事変満洲在留ロシア人が多数殺された報復に、7月16日三千人の中国人が虐殺され河に投げ込まれた事件である。翌月そこを脱出し、ウラジオに向かった。

偽名を使った留学というのも妙なもので、語学の勉強はするものの、留学に名を借りた情報収集活動というのが実態だが、スパイ成田安輝(陸軍士官学校中退者)の秘境チベット行きが「探検」なら、これも確かに「留学」である。本人が留学だと言っていることだし。

2016-05-21 留学のいろいろ (2)

珍談

明治ともなれば、難破遭難など、前時代の漂流記もどきの経験はさすがになくなるが(しかし1912年遭難沈没したタイタニック号にも日本人が乗っていた。細野正文[1870−1939]という人で、鉄道院の在外研究員だったから一応留学だ)、整わぬことは多かった。


松江藩医の息子で物理学者の北尾次郎(1854−1907)は、明治3年(1870)12月3日、池田謙斎・大沢謙二・長井長義らのちの医学薬学界の重鎮になる人たちとともに、選ばれてプロイセン留学の途についた。大学東校留学生一行中の最年少である。森有礼伏見満宮、西園寺公望ら(この時代は華族の留学も奨励されていた)の乗るアメリカ船でサンフランシスコへ行き、大陸を横断しニューヨークへ、そこからヨーロッパへ渡った。だが、長井長義(1845−1929)は東校留学生の一員なのに、その船上に姿がない。乗り遅れたのである。

長井と親交のあった石黒忠篤の回想によると、「その時予は長井の平常佩びて居た短刀を荷物の中へ入れて行くことを勧めた。何の為かときくから座を正し声を励まして曰く、大和魂大和男児の片時も離すべからざるものだ。若し命ぜられた学科の蘊奥を究むることが出来なかつたら、切腹して彼地の土となる事を忘るな。然し郷里に残された両親は、予が粥をすゝるとも生涯安く過させる事を云つたら、長井も座を正して、如何にも左様なりと云つた(…)/そこで当日発船の時刻に海岸に行つた処、船はもう烟を吐いて居る。夫に浪が高いので艀が遅れ、気が急ぐから予も手伝って櫓を押したが、その内にたうとう発船したので、オイ〱と呼んだが構はず出て行つて了ひ、また乗り後れて了つた。止むなく艀を漕ぎ戻す内、又乗り後れたと云つて東京には帰れぬから、発つたと云ふことにして置いて、次の便船までの間、横浜に居て語学をやつたが良からうと云ふことに決し、長井を横浜の知人篠田と云ふ人に頼み、予は東京に帰つた。/長井は篠田の世話で独逸人の処に通ひ、独逸語を習つた。その間二度ほど大学の書生寮に居る予の処に訪ねて来たが、他人に知られると具合が悪いから、晩にこつそり遣つて来て予を近所まで呼び出し、宛然色女にでも会ふ様や具合であつた。/で予は近頃色女に逢つて居るぢやないかと疑はれたが、本当の事を打明ける訳にも行かず、遂にその疑をはらさず仕舞になつた。三十日遅れて二月二日、次の船で漸く出発した」(金尾:67f.)。業成らずんば腹を切れと言い放つ厳粛な場面のあとのいささか間抜けな「色女」出没は、いかにもこの時代ならではのコントラストだ。

長井はその船の中で食事に困った。「私は洋食を食べることが出来ない。只コックが横浜で仕入れたと云ふ薩摩芋だけで、パンもバタでは食へなくて砂糖をつけた。桑港までの廿五日間と云ふもの、私は良く薩摩芋と砂糖をつけたパンと日本の御菓子とだけで過したものである。洋食が食へないと云ふ丈ならまだいゝが、あの肉や脂油の臭ひを嗅ぐと食欲を減殺されてしまふ。殊にバタの臭いが嫌で堪らなかつた。肉はまだ食べたくなかつたが、空腹になるので仕方なく徐々に取るやうになつた。加州のオレンジとクネンボは実にうまくて、之で蘇つたやうな気がした」(同前:77)。

次郎らの一行の大沢謙二の回想では、「それから鏡に突当つたことがある。壁全体が鏡になつて居る所があつたのでね。ハテ向ふから何だか見たやうな男が来るなと思つて行くと、ドンと突当つて驚いた。是は私ぢやないが湯に這入つて水口を捻ったら湯が出て来た。あちらの浴槽には湯と水と二口あつて自身に調合する様にやつて居るのだが、それがどうした加減か湯の口が閉されぬので段々湯槽から溢れるやうになり、熱くてたまらぬから出やうと思つた所が、出口に錠が下ろしてあつて容易に出られぬ。サア周章てて仕舞つて大声で叫び廻つてやつと戸をあけてもらうや否や、裸体で駈出して二階へ飛上つたと云ふやうなことがあつて、イヤ一時は大分評判で新聞へまで出された。何しろ此時分の洋行には色々失敗談がある」(大沢:26)。

次郎たちがベルリンにいた明治6年(1873)、文部省は一時官費留学を廃し、留学生の引き揚げを発令した。「当時留学を命ぜられた人の中、我々医学の方は皆洋学をした方であつたけれど、其外の奴は御維新の時分働いた豪傑連、イヤ誰の首を取つて来たとか何とか云つて威張つて居つた男で、指の無い奴や胸に創のある奴や、さう云ふ殺伐な手柄で以て洋行を命ぜられたのだから、アベセーのアの字も分らぬ連中ばかり、従つてこれらの先生たちは退屈して仕方がないから、金のあるに任せて遊んだものだ」(大沢:33)。「玉石混淆あまりにひどいから、下らぬ奴はその中から引抜いて帰国さすがよからうとの主意で、今の枢密顧問の九鬼隆一氏が、当時大学の四等出仕かなんかで、やつて行くと、九鬼の野郎がきやがつた、畜生切つてしまえなどと騒いだこともあつた」(池田:244)。しかし自費なら残ってよかったので、大沢は明治7年8月まで(明治11−15年に再度留学)、池田は9年、次郎は16年、長井は17年まで留学を続けた。


真宗大谷派の学僧で、わが国の近代仏教学・サンスクリット学の祖と言うべき南条文雄(1849−1927)の自伝「懐旧録」は、僧兵であった履歴から始まる。大垣の城下に生まれた彼は、慶応2年から4年の間(1866−68)、藩の僧兵になり、鉄砲を持って三里廻り七里廻りの調練で走らされた。ついに出陣することなく解散したのは幸運だった。終わってしまえば笑い話だろうが、そんな平安時代にまで連なる歴史を生きていたわけである。彼が行きたいと念じていたチベットにもその同類(河口慧海の言う壮士坊主)がいたわけで、東西古今が体現されているような気がする。

彼は、サンスクリット梵語)の知識の必要を痛感していた本願寺法主英国留学を命ぜられ、笠原研寿(1852−1883)とともに明治9年(1876)6月14日横浜を出港したのだが、その時は二人とも外国語ができなかった。笠原が少しフランス語が読めただけだ。「唖に聾の旅行」と自嘲している。けれども、使命を果たし、立派に学業を成し遂げた。英文大蔵経目録を作り、博士号を受けた。要するに、人物が大事だということだ。道具にすぎない語学など、あとからついてくる。

しかし、「唖に聾」だから、当然失敗もする。ロンドンに着き、出迎えの公使館書記生に宿屋へ案内をしてもらった。「その晩私は旅の疲れでねむたくてしようがない。部屋にはガスが灯っている。しかし私はどうしてそれを消してよいか解らない。しかたがないから、簡単にフッと吹き消して、安心して眠りについたのである。ところが夜中になって何だか外が物騒がしく部屋の中は変な悪臭でいっぱいになっている。外の人たちはどこかにガスが漏れているというので騒ぎだしたのであるが、それが私の部屋の近くに来てますます激しくなるので、ついにこれをしらべに来たのである。そしてようやくのことで螺旋を廻してくれたのでまずまず助かった」(南条:100)。そのまま気がつかずにいたら、留学初日に死亡、なんてことにもなったかもしれない。

そんなことがなくてよかった。留学中のその精励ぶりは、たとえばこうだ。「フランス・パリーに達しとどまること三旬日、日本公使館の保証で、パリー図書館より『飜訳名義大集』(Maha-vyutpatti)の二大冊、及び馬鳴の『仏所行讃』(Asvagosha Buddha-carita)の梵文の写本とを借り出し、二人手を分かち、日をかぎりてこれを謄写した。その他『梵漢辞典』、『法集名数経』の謄写及び『入 伽経』、『金光明経』の抄写を完了したのであるが、これらはいずれもマ先生(マックス・ミュラー)の注意によってであった。十月に入って一堂はオックスフォードに帰り、さらに二日をへてケンブリッジにいたり、同地大学所蔵の梵本を借りて、パリーにおける『仏所行讃』の所写を校合し、十二月オックスフォードに帰ることとなった。今日から回想してみると、この当時ほど緊張したことはない。文字通りの不眠不休で、全く寝食を忘れての研鑽であった」(1881年。同前:136)。

当時ロンドンには日本学生会というものがあって、毎月例会を開いて所感を述べたり研究を発表したりしていた。南条らもここで仏教について話をし、好評だったので英語でそれをまとめることにして、「全文を英文に翻訳してみたが、これを校正してくれたのはハンガリーの人でイギリス帰化していたディオセー君であった。この人は実に語学の天才で、英独仏三ヶ国語は全く自由なものであった。ことに日本人にもよく交わって、日本語もよくできたのでディオセー君の校正してくれたのは実に好き幸いであった。ディオセー君はおもしろい男で、日本文は片仮名交りでこれを認め、よく「マッテイマス、アソビニイラッシャイ」などといったふうの口語文で手紙を寄こしてくれた。ことに宛名ときては非常に奇抜なもので、いわゆる宗教家に付する尊称Reverendの日本語訳を用いて「南条坊主様下」と書いたのは噴飯に価いするもので、その当時も笠原君とまた坊主様下が来たと言ってよく笑ったものである」(同前:104)。

紹介者を得てサンスクリット学の泰斗マックス・ミュラーのもとに来たのは明治12年(1879)2月のことであったが、そのとき知人が日本で入手したという悉曇の辞書「梵語雑名」を示され、日本における梵文の原典について問われた。慈雲尊者をはじめ邦国にも悉曇学の研究はあったのだが、絶えていたのである。中国経由のその学統が失われたあとで、近代のサンスクリット学が西欧経由で始まった、ということだ。

なお、笠原研寿が明治15年(1882)9月肺疾のため帰国したあと、12月に石見邑智郡川本出身の真宗本願寺派の僧菅了法(1857−1936)がオックスフォードに来たので、彼と同居した。グリム童話を日本で初めて翻訳した人物である(「西洋古事 神仙叢話」、明治20年4月)。帰国自由民権運動に投じ、第一回の帝国議会代議士となった。のち、江戸時代念仏禁制で隠れキリシタンならぬ隠れ念仏のいた旧薩摩藩鹿児島県で、真宗寺院の開基となる。

明治16年(1883)「大明三蔵聖教目録」を完成させ、翌年オックスフォード大学からマスター・オブ・アーツの学位を受けた南條は、同年3月、アメリカ回りで帰朝する。しかし、笠原とは帰国時にはかならずインドに立ち寄って仏蹟を礼拝するという約束をしていた。本願寺派の僧北畠道龍がマックス・ミュラーを訪ねてドイツからオックスフォードに来たときに、帰途インドに寄り仏蹟を巡拝するのに同行を誘われたが断っていた。インド行きの宿願は明治20年にようやく果たされる。コロンボカルカッタダージリン、ブッダガヤ、ボンベイと巡った。カルカッタではアジア学会の図書室で「梵文無量寿経」を校読する。ミュラーの弟子である南条は、イギリス植民地インドでは知己が多かった(ただし白人ばかりである。インド人の知人もいればいいのだが。ちなみにロンドン中国人とは交友があった。帰国南京に金陵刻経処を開設し仏教書籍を刊行した楊文会など)。留学も考えていたようで、ベナレスの梵語専門学校で旧知の校長シフネルに「インド留学の所志を披瀝したが、氏は切にその無用とインドの不健康地なるとを説いてことの断念を勧告せられたので、私もついにその所志を翻してシフナル氏の懇切な注意にしたがうことにした」(同前:233)。この帰途には中国にも立ち寄り、天台山に登っている。ミュラーにはチベットに行って経典を収集するように勧められていたが、これは果たせなかった。やがて弟子の能海寛がチベットへ向かうことになる。

僧侶の留学というのは近代留学の場合見過ごされがちだが、本来留学の正統である。遣唐使中世の禅僧の入宋入明を見れば明らかだ。近代初期、その古き歴史があざやかによみがえったわけである。


南方熊楠の「履歴書

南方熊楠(1867−1941)の「留学」は破天荒である。和歌山資産家の家に生まれ、上京して大学予備門に入ったところまでは立身出世のコースだが(同期生に夏目漱石正岡子規秋山真之などがいる)、じきに退学してアメリカへ渡る。それが明治19年(1886)の暮れで、翌年まずサンフランシスコパシフィック・ビジネス・カレッジに入学するが、すぐにやめ、ミシガン州ランシングの州立農学校に入る。しかしあるとき日米の学生と寄宿舎で小宴を開き、ウイスキーをしたたか飲んだのを校長に発見され、学友の罪を一身に背負って退学、アナバーへ行って滞留。ここでは大学に入らず、図書館に通いながら林野を歩いて自然を観察、植物を採集していた。フロリダにはまだ知られていない植物が多いと聞き、明治24年(1891)フロリダジャクソンヴィルへ行き、中国人の牛肉店に寄食して、昼は商売を手伝い、夜は顕微鏡で生物を研究した。同年、キューバに渡った。そこで地衣の新種ギアレクタ・クバナを発見した。「これ東洋人が白人領地内において最初の植物発見なり」(「履歴書」。南方b:9)と自慢している。さらにイタリア人の曲馬団に加わっていた川村駒次郎という曲芸師に誘われ、それに加わって2ヶ月の間ハイチベネズエラジャマイカまで回っている。その間、「小生は各国の語を早く解し、(…) 曲馬中の芸女のために多くの男より来る艶簡を読みやり、また返書をその女の思うままにかきやり、書いた跡で講釈し聞かせ、大いに有難がられ、少々の銭を貰い、それで学問をつづけたること良久しかりし」(柳田国男書簡。南方e:363)。

明治25年(1892)9月、渡英。ロンドンで足芸師美津田滝次郎と知り合い、彼を通じてプリンス片岡なる男を知る。「この片岡はcant, slang, dialects, billingsgate種々雑多、刑徒の用語から女郎、スリ、詐偽の外套言うに至るまで、英語という英語通ぜざるところなく、胆略きわめて大きく種々の謀計を行なう。かつて諸貴紳の賛成を経て、ハノーヴァー・スクワヤーに宏壮なる居宅を構え、大規模の東洋骨董店を開き、サルチング、フランクスなど当時有数の骨董好きの金満紳士を得意にもち、大いに気勢を揚げたが、何分本性よからぬ男で毎度尻がわるる。(…) おいおい博賭また買淫等に手を出し、いかがわしき行い多かりしより、警察に拘引せられ、ついには監獄に投ぜらるることもしばしばにて、とうとう英国にもおり得ず、いずれへか逐電したが、どうなり果てたか分からず。(…) 当時小生は英国に着きて一、二の故旧を尋ねしも父が死し弟は若く、それに兄がいろいろと難題を弟に言いかくる最中にて国元より来る金も多からず。日々食乏しく、はなはだしきは絶食というありさまなりしゆえ、誰一人見かえりくれるものもなかりしに、この片岡が小生を見て変な男だが学問はおびただしくしておると気づく。それより小生を大英博物館長たりしサー・ウォラストン・フランクスに紹介しくれたり」(「履歴書」。南方b:12f.)。

無所属独学、住居も「ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬小屋の二階のようなもの」で、ひどい陋巷で電報も届かなかったという。あまりに部屋のきたなさに、訪ねてきた両翅虫学の権威でシカゴロシア総領事だったオステン・サッケン男爵は、出された茶を飲まずに帰った。そういう生活をしていただけに、まじめな官費留学生なら決して交わらない類の人間と交際があっておもしろい。たとえば大井憲太郎の子分で高橋謹一という男が、シンガポールから「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達て御地へ参り候につき、しかるべく御世話頼み入り候なり」などという珍無類の紹介状をもらって渡英してきて、「少々の荷物をケットに包み、蝙蝠傘にかけて肩に担うただけでも英人は怪しむに、理髪店に入って頭を丸坊主に剃らせ、むかし豊年糖売りが佩びたような油紙製の大袋に火用心と漆書きしたのに煙草を入れ、それを煙管で吸いながら、大英博物館に予を訪れた」(南方c:202)そうだ。「旦に暮を料らずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見るみる会話が巧くなり、古道具屋の賽取りをしてどうやらこうやら糊口しえたところが、生来の疳癪持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月かかって儲けた金を討死と称して飲んでしまう」(南方a:208)。熊楠大英博物館を追い出されたときには、この高橋入道が助けてくれた。「予五百円の資本で千円ほどの浮世絵を借り入れ、面白くその筆者の略伝、逸事や、ことには数限りなき画題や故事の説明を書き並べ、講釈入りの目録を作り、安値に印刷させ、入道それを持って日々ロンドンの内外へ持ち廻り売り歩いた。予は大英博物館を出て間もなく、戯作の大家アーサー・モリソンの世話で、南ケンジントン国立美術館の技手となり浮世絵の調査を担当した」(南方c:203)。

亡命中の孫文とも交友があったけれども、革命が成功してこそ国父だが、そのころは要するにお尋ね者であって、熊楠と釣り合う境遇である。

のちの真言宗高野派管長土宜法竜は、シカゴでの万国宗教大会に参加したあとロンドンに寄り、明治26年(1893)10月大英博物館熊楠と知り合って意気投合し、長く文通を続けた。そのころ法竜はチベット行きの希望を持っていて、一方熊楠は、「只今アラビヤ語を学びおれり。必ず近年に、ペルシアよりインドに遊ぶなり」(南方g:6)と考えていた。このころ公使館にいた後出楢原陳政に喇嘛教について問い合わせてもいる(なお彼はその答えに、「北京には数個の大喇嘛寺あり。紅教、黄教ともに有之。喇嘛僧正北京和宮および西山喇嘛寺におる。喇嘛は清帝満州以来崇むるところにして、これにあらざれば満蒙諸族を圧すること能わず。故に清帝喪祭その他祷雪祷雨は喇嘛僧これを主る。(…)北京の喇嘛寺は、雍和宮、崇慈寺、栴檀寺、隆福寺、護国寺を首とし、喇嘛は総管喇嘛、班弟札薩克大喇嘛一人、同副一人、札薩克喇嘛四人、大喇嘛十八人、この他通常喇嘛は一万以上に及ぶ」と詳細に知らせる。この人の中国知識のほどが知られる。南方d:202)。明治27年(1894)頃には、「私は近年諸国を乞食して、ペルシアよりインドチベットに行きたき存念、たぶん生きて帰ることあるまじ」、「今一両年語学(ユダヤペルシアトルコインド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより舟にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候」(南方d:239)と言い、もし法竜がチベット入りをするなら、「通弁は小生なすべし。仁者いよいよ行く志あらば、拙はペルシア行きを止め、当地にて醵金し、直にインドにて待ち合わすべし」(同前:240)と書いているが、結局実現しない夢だった。

当時は世界に冠たる大英帝国の最盛期であり、その首府にある大英博物館はまさに世界の知の集積地であった。熊楠はそこに通い、朝から晩まで本を読んでいた。彼のような「至って勝手千万な」大独学者が人に掣肘されず思うさま学問をする理想的な環境であったかのようだが、そこもまた俗世である。人がいる。衝突する。彼は博物館で白人を殴打し、その後もたびたび紛争を起こして、とうとう出入り禁止になってしまった。鼻の高い白人のもっとも鼻の高い時期だから、東洋人に対する人種差別は当然あった。軽侮に甘んずる人間でない熊楠がそれに反発するのもまた当然で、彼は弁明書にこう書く。「私の友人は、私が最近読書室でやったことは英国民の間に、私の祖国についての悪い評判を抱かせてしまうだろうと、親切に忠告してくれました。この忠告に心から感謝しながら、私はその親切に対するお返しとして、ひとつの指摘をしておきたいと思うのです。それは、私が何人かの英国人から受けた数々の侮辱は、かならずや日本国民の間に、英国民に対する有害な偏見を引き起こさずにはいないであろうという指摘です」(松居:177f.)。正しい指摘だが、正しすぎるために当然撥ねつけられる指摘で、ましてや復館の陳情書にあってはならぬ指摘で、結局彼は大英博物館を去ることになる。なんら不思議のない事の帰結で、このゆえにもなおこの人を愛さずにはおれない。一方にモリソンやロバート・ダグラスなど彼の才を惜しんで復帰に尽力してくれた英国人、他方に「署名して一言しくれたら事容易なりしはず」なのに何もしてくれなかった加藤高明公使ら日本人を配して。世の中には地位を見ず人を見る人たちと、人を見ず地位を見る人たちがいて、前者がイギリス人に多かったことも言っておかねば片手落ちだ。後者が残念ながら地位ある日本人に多いことも。

留学は外国へ学びに行くことであるから、その外国は進歩発展した国であるはずで、そういう国の人々が、彼らの国に学びに来なければならぬほど遅れた国の者を軽侮するのは自然なことではある。つまり、差別だ。これも留学に構造的に付随する問題である。それに憤慨するのは許される。大いにしてよろしい。ただし、そのとき日本人がたとえば中国人留学生差別してきたことを忘れるのは許されない。

2016-05-15 留学のいろいろ (1)

漂流者たち

天保12年(1841)正月5日、土佐中浜村の万次郎少年(1827−1898)ら5人の乗り組んだ船は漁に出た。万次郎は当時15歳、9歳のとき父親を亡くし、13、4歳の頃から船に雇われ、魚はずしとして働かなければならなかった。沖で不漁が2日続いたあと、7日は大漁だったものの風が強く、帆柱が折れてしまった。船はそのまま風波に押し流されて漂流し、13日にようやく絶海の孤島に上陸した。彼らは雨水をため、おびただしくいるアホウドリの肉を食べて飢渇をしのいでいたところ、6月になって3本マストの異国船が現われた。それはアメリカ捕鯨船で、彼らはその船に救助され、サンドイッチ群島(ハワイ)のホノルルに連れて行かれた。4人はそこに残ったが、利発な万次郎はホイットフィールド船長に気に入られ、船長と行動を共にし、1844年、船長の家のあるマサチューセッツ州ニュー・ベットフォードに帰ってきた。そこで学校に通わせてもらい、算術や測量術を学んだ。アメリカ人は彼を「ジョン万」と呼んだ。1946年4月、また航海に出て、ホノルルに立ち寄ってその地に残った3人(4人のうちの1人重助は病死していた)と再会したり、またニュー・ベットフォードにもどってから、ゴールドラッシュに湧くカリフォルニアで砂金取りをしたりしたのち、またホノルルに渡り、1850年11月、伝蔵・五右衛門とともに上海行きの船に乗り込み(寅右衛門はハワイに残った)、翌年正月2日に琉球の沖合でかねて購入の短艇冒険号を降ろしてもらい、それに乗って沖縄本島南端の村に着いた。その村、鹿児島長崎で漂流民の吟味を受け、ようやく嘉永5年(1852)10月、土佐の生まれ在所に帰り着いた。

帰国幕末の多難な時期で、翌嘉永6年(1853)には黒船が来航している。幕府は英語ができアメリカの事情にも明るい万次郎を旗本に取り立て、航海、測量、造船の御用を命じた。幕末維新期、万延元年(1860)遣米使節団の一員として咸臨丸アメリカへ渡ったのを始め、英語教育などで活躍したのはよく知られている。

これは留学ではない。留学とは修学の目的をもって行なうものである。これは漂流であって、教育を受けたのは偶然にすぎない。しかし、渡った先で学校に通い、帰ってのちは人に教え世の中の役に立ったという意味では、かっこつきで「留学」としてもよかろう。

四方を海に囲まれた日本では、漁業が盛ん、近世は船運も盛んで、その結果難船漂流はよくあることだったし、たいていは海の藻屑、無人島の白骨になったろうが、中には運よく助かる者もあり、さらに運よく異国船によって日本に帰還する者も江戸時代を通じてけっこうあった。文政3年(1820)遭難漂流してオランダ船に助けられ、2年後身一つで帰ってきたという浜田藩の会津屋清助などがそうだ。南風が寒く北風が暖かいとか、相撲取ろうの島で相撲を取ったとかいう妙な話をしていたが、息子の八右衛門はそれを信じ、竹島渡航と称して抜荷(密貿易)を行ない、露見して死罪となった。見聞のみ持ち帰り、その見聞は結局息子の身の破滅という形にしか実らなかった。

天明2年(1782)に遭難しアリューシャン列島へ流れ着いた大黒屋光太夫(1751−1828)も有名である。ロシアでは、ピョートル大帝の頃の伝兵衛以来、日本人漂流民にロシア語を学ばせ、サンクトペテルブルグ、のちにはイルクーツクで日本語を教えさせるということを続けていた。中でも1729年に薩摩からカムチャトカに流れ着いた薩摩のゴンザは、デミアン・ポモルツォフと名を変え、ロシア人学者の協力を得て露和辞典や会話書を編纂したというし、光太夫の一行だが帰国を選ばずイルクーツクにとどまった新蔵は(ロシア名ニコライ・コロツィギン)、「日本および日本貿易について、あるいは日本列島の最新の歴史記述」なる本の監修を行なった(井上:15; 369)。学んだという点では「留学」の一面があるが、帰って来なければ「留学」たりえない。これは「抑留」「留用」だ。だが、帰ったところで同じである。帰国のため奔走し、望郷の念やみがたく10年の辛苦ののちに帰ってきた鎖国日本で、光太夫は番町薬草園に幕府の「囲い者」になって生涯を終わった。ロシアのやり口と日本のやり口は鏡うつしであることがよくある。

19世紀前半までの漂流は鎖国政策の影におおわれていたが、その後半、幕末になると事情が変わる。香港上海ハワイサンフランシスコの間を通う船が多くなり、捕鯨船も日本近海に出るようになったため、救助された漂流者もけっこういたし、開国が近づくと帰国がかなうこともよくあった。漂流者は船乗りで、帰国までの間外国船で働いて洋船の操船術も知り、英語もいくらかはできるようになったので、帰国後藩に召し抱えられることもままあった。とはいえ、真に活躍したと言えるのは万次郎とアメリカ彦蔵(1837−1897)ぐらいなものだ。彦蔵は播磨の生まれで、嘉永3年(1850)に遭難、米国船に助けられ、ミッションスクールに学び、安政6年(1859)ハリス公使の通訳として日本に戻った。日本で初めて新聞を発行したことで知られる。彼はキリスト教に改宗し、アメリカ帰化していた。万次郎も彦蔵も、利発で人に愛される性格だったことと、何より遭難時少年だったので、親代わりになって学校へ通わせてくれる人がいた。彼らのように、流れ着いた先で勉強もし活動もし、帰国もかなったうえ、帰国の時代が彼を必要としていたというのは、僥倖であったと言うべきだ。帰国後の活躍を見れば、学んだ人と生活しただけの人の差がわかる。しかし、英語こそアメリカで学んで身につけていたが、日本で日本語の読み書きは十分に習得していなかったので、通訳として重宝された幕末明治の最初期が過ぎると、時代に追い越されていったのもまた当然であった。もとより留学でないのだし、漂流民の限界である。

だが、漂流は胸に迫るものがある。漂流するのはほぼ船乗りに限られるという点では、職業による平等はない。生き抜くためには力も強い意志も必要だっただろう。しかし彼らは究極のところ、「天に選ばれた者」である。人事を超えている。こざかしい人事の彼岸であることに、ある種の感動を覚える。一方で、彦蔵と同じ船で遭難して上海に住み、開国後赴任するイギリス公使オールコックに通弁として雇われた岩吉(改名して伝吉)のように、イギリスの威を借って傲慢な振舞い多く、攘夷の武士に斬り殺された例もある。たかが英語が多少できるぐらいのこと、それは自分の能力というよりむしろ運命の施し物であったのに、それを勘違いする悲劇も生まれるのも、「天に選ばれる」ことのうちに含まれるのだが。

ジョン万次郎の軌跡には、留学の「ジョン万原型」とでもいうものが認められる。つまり、

1. 旅が難儀である。

2. 最も肝要なのは向学心である。その際制度は重要でない。

3. 帰国してこそ(正確には、帰国して世に働いてこそ)意味がある。

2と3が普遍的なのに対し、1は交通機関が発達するにつれ次第に薄まっていくが、初期留学には大いにあったことだ。ここでは幕末明治以降の近代留学を見るのだが、その初期においてはほぼ「遣唐使」だった。つまり、渡航が冒険であった。その昔、遣唐使に難破はつきものだった。たとえば、日記を残しているために唐での行路動静がよくわかる円仁(のちの慈覚大師、794−864)の場合、承知3年(836)5月12日出航するも、嵐で第一船と第四船は九州に吹き戻され、第二船も九州漂着、第三船は難破し、生存者は対馬などに漂着した。翌年(837)の二回目の渡航の試みも壱岐五島列島に流されて失敗。承知5年(838)三度目の渡航が試みられたが、その前に遣唐副使小野篁は仮病を使って乗船を拒み、そのため隠岐島へ流刑になった。6月22日九州を発し、今度はやっと渡ることができたが、円仁が乗った第一船は長江河口近くの浅瀬に乗り上げ、第四船も遠からぬところで座礁し、死者が出た。第二船は山東半島の付け根のあたりに着いた(遣唐使船は4隻で行くのだが、第三船が難破していたので、二回目三回目の航海は3隻で行なわれた)。円仁は7月2日上陸。揚州に着いたのは7月25日。一行はそこにとどめられ、ようやく10月5日に大使長安へ出発、12月3日に到着した。旅の苦難思うべしである。小野篁でなくとも逃げ出したくなろう。


文久2年

留学とは、簡単に言えば外国へ行って学ぶことだが、後進国であった日本の場合、知的エリートが先進国に渡って学び、進んだ知識を吸収して自国を益すること、という意味の傾きを持っている。それは後進国一般に当てはまる。留学の目的が個人的な成功であるとしても、その成功は社会に還元される。

最初の近代留学生派遣は、文久2年(1862)、徳川幕府によるものだった。

幕府和蘭海軍留学生派遣の事は蒸気軍艦製造註文に関聯して起つたことで、是は其頃永井玄蕃頭其他要路の人々の間に海軍拡張の急務なることが切実に考へられた結果、軍艦増建士官養成といふことも益々盛になる気運に向つたのであつて、(…)乃で幕府軍艦一隻を先づ和蘭へ註文しようといふことになつて、長崎から当時のコンスル・ゲネラール(総領事)デ・ウヰットを江戸へ招き寄せて交渉を進め、其相談が纏つて愈々和蘭で建造さるゝことゝなつた。此軍艦が後年幕府第一の新鋭なる軍艦にして、又当時東洋に於ける優勢の軍艦であつた開陽丸である。

軍艦建造のことが決つたので、幕府は亦之と同時に留学生派遣するの議を定めて、愈々文久二年壬戌年三月十三日に城中に於て該留学生へ左の通り申渡した。

先般亜米利加政府え蒸気軍艦御誂相成右製造中諸術研究として被差遣候旨被仰渡、夫々支度相

整ひ候議之所、亜国政府之方差支有之、急速其運びに不至候に付、今般改て右軍艦和蘭政府

御誂替相成、依て役々の者も同国へ可相越候。

江戸で此命を受けた者は左の七人である。

内田恒次郎(成章)

榎本釜次郎(武揚)

沢太郎左衛門(貞説)

赤松大三郎(則良)

田口俊平(良直)

以上の五人は御軍艦操練所の士で、内田・榎本・沢は御軍艦組、田口と私とは御軍艦組出役、一同外軍諸術研究を目的とする。

津田真一郎(行彦)

西周助(時懋)(後に西周と改む)

以上二人は洋書調所教授手伝並で、外に長崎の養生所に於て和蘭人ポンペを師として医学修行中の

伊東玄伯(後宮内省侍医伊東方成)

林研海(後陸軍々医総監林紀)

二人は長崎で一行に加はることになつた」(赤松:114ff.)。

そのほかに、水夫頭・古川庄八、船大工・上田寅吉、鍛冶職・大川喜太郎、鋳工(大砲鋳物)・中島兼吉、時計測量器技師・大野弥三郎、上等水夫(帆縫)・山下岩吉も同行した。「大野は、オランダで時計の製法を学んで帰国後、時計製作所を設け、日本ではじめて懐中時計をつくったほか、大阪造幣局で各種の機器を製作したといわれる。また上田は、のち海軍技師となり、清輝、天城、天竜などの諸艦の設計にも参加した。かれは留学中、オランダの本もよく読み、専門書もこなしていたという」(石附:382)。

文人・学者・政治家などの留学に比べ、職人や技術者の留学は注目されないが、彼らも日本の発展に大きく貢献している。文人・学者は記録される。みずからも書けば、周囲も書く。彼らはいわば「書記カースト」である。歴史を記し記される。もの言わぬ人たちにももっと目が注がれなければならない。海外渡航で言うならば、旅芸人やからゆきさんなどが先駆者であり先兵だ。中国で言えば華僑、苦力だ。しかるべく取り扱われるべきである。

明治初期に啓蒙学者として活躍した西周(1829−1897)は、石見国津和野藩医の息子として生まれた。脱藩し洋学を修め、幕府に召され蕃書調所教授手伝となった安政6年(1859)に、越後糸魚川藩侍医石川有節の娘升子と結婚した。渡米渡欧を果たすべく運動していたが、万延元年(1860)の遣米使節団には随行できず、次の機会を待つことになる。そんな時期である。だいたい明治期の留学生は留学直前に結婚することが多い。大事を前に身を固めるということだが、ひとり生還を必ずしも約束されていない万里の果ての仕事に赴き、新妻に長く孤閨を守らせるのは、現代とは違うメンタリティである。行った先で無謀なことをせぬよう、家への絆を強め、必ず帰って来させるまじないでもあろうか。

升子は周助の出発に際し、歌を詠んでいる。

「まだ知らぬ千さとのほかの国にして行きます君を守りませ神

今のわがうきもつらきも諸ともに昔がたりとなすよしもがな」

慶応元年(1865)に周が帰国したときには、

慶応元年十二月二十八日の夜背の君のかへらせ給ひしに、

指折りてかぞへ待ちにし日を更にはたかずふれば四年なりけり

暮れて行く年のなごりも嬉しさに忘れはてたる今にもある哉」(川嶋:57; 101)

留学仲間の赤松則良の帰国(1868)の場合は、「私の留守宅では私が恁様に突然和蘭から帰つて来ようとは考へても居らなかつたので、河岸から行李を船夫に担がして門口に入ると、只一人家を守つてゐた母は私の声を聞くのは真に根耳に水の驚きで、夢かとばかり駈け出して来て碌に口もきけぬ程の喜びであつた」(赤松:211)。国で帰りを待つ人たちもまた留学の一部分である。南條文雄が7年の留学を終えて帰朝したとき、養母は「おまえの言うことがわかる」と言って喜んだそうだ。日本語を忘れているとでも思ったか。素朴な恐れである。そこまで遠い距離、そこまで長い不在。それを思い暮らしている人たちのことも忘れるべきでない。


難破

西周らの留学で、特筆すべきは三項である。いわく、難破・篤志勉学・客死。

純然たる漂流である万次郎らは別としても、難船は船旅にはあることだった。近代最初の留学生の洋行は、ほかに麻疹流行にも見舞われたりして、ずいぶん難儀な旅だった。まず、旅立ちのようすを西自身の筆になる「和蘭紀行」から見てみよう。

文久の二、みつのえ戌のとし、六月十八日、朝六ツ半時江戸の下谷三味線掘の宿より旅たちしき、余と同しき業もちて洋書調所に仕へ、同じく遣洋留学の仰を蒙れる津田行彦も和泉橋とをりに住ミて程ちかけれは、人はしらせて同しく路につきけり、義兄手塚をはじめ妻およひ家の人隣の人々其外睦ひし朋友なと見送にとて和泉橋迄来りて別をなし、中には教への子妻方の児子なと送りて築地の操練所まて至りき、午のときすきはかりに押送の船ニて品川の中なる咸臨丸に乗組なしき、(…)抑かゝる大任を蒙りつるは賤しき身に余れる御恵ともおほえぬれと、才薄く学浅けれはなか〱に惶くて蚊の山負へる心地そすなる、されと素より業となしつる道の為にしあれは、よし死ねはとていなミ奉らしと心に誓ひ、夫のいにしゑの空海伝教等か仏の道求めんとて唐天竺へ行きしもかくこそあらめなと、名高き僧たちもちて自らおくへらんもいとおこかましく覚へ侍るなり、さはいへと、此事をしも思ひ企てしはなか〱にあさゆふのことにはあらすて、年久しくねかひ居ぬことなりけるに此度はからすもねかひのまに〱ことさちわひぬ」(西:339f.)。

あとは同行の赤松大三郎則良の半生談から引く。赤松則良(1841−1920)は長崎海軍伝習所に学び、この留学の前にも、万延元年(1860)の遣米使節派遣のとき咸臨丸に乗り組んでサンフランシスコへ行っている。海軍建艦の基礎を築き、のち海軍中将男爵になった。妻は林研海(1844−82)の妹貞。同じく林の妹である多津は榎本武揚(1836−1908)に嫁しているし、弟紳六郎は西周の養子になった。赤松の娘登志子は森鴎外西周の従兄妹の子)の最初の妻で、於莵を生んだ。この最初期留学生は家族関係でも結びついている。

「さて咸臨丸に乗組んだ我々は此日の夕七ツ時(午後四時)前途に多大の希望を抱いて品川湾を抜錨して長崎に向ふ。朝陽丸も亦此日小笠原島に向つて出帆した。

翌暁浦賀に着したが風波暴き為め滞留、二十四日出帆直路鳥羽に向はうとして機関に故障を生じたので、其夕方下田に投錨した。然るに此頃関東方面には麻疹の大流行で、船中患者を発生して一行中先づ榎本が発疹し、尋で沢・内田・私にも伝染し、職方の者も同様で、咸臨丸乗組員や便乗の士官が十二、三人病床に着く。総員の三分の二が患者だといふ始末だから、遂に下田を出ることが出来ない。其中に咸臨丸乗組士官の豊田港が余病を併発して亡くなるといふ不幸などが起つて已むを得ずして八月朔日迄此所に淹留するに至つた。(…)

八月二日下田を出帆して鳥羽に向つたが、航路を錯つて行過ぎ、遅れて志摩国的矢浦に入港、此所で測量士官を上陸させるなどで八日間碇泊した上、九日の朝六ツ半時(午前七時)出帆、夕刻風波を二木島に避け、翌十日抜錨、十二日夕兵庫着、十三日神戸発、同夜五ツ半時(午後九時)讃岐国塩飽島に碇泊した。此地は私たち一行中の職方古川庄八・山下岩吉の故郷であるから、海外万里の永い旅に上るに当り親戚故旧に対し暇乞をさせんが為めに態々寄港したので、乗組水夫の大部も亦此島出身者であつたので、島民は小舟を艤して来り、本船を取巻き親戚故旧互に相見て呼ぶといふ有様であつた。

十四日の夕六ツ半時(午後七時)塩飽島を出帆、上ノ関を経て十六日夜下ノ関着、此所で石炭を積入れ十八日出帆福浦に寄り、途中石炭の乏しくなつたので十九日肥前国田助浦に入港、漸く二十二日になつて石炭船の入つて来たのを待つて之を買入れることが出来たので、翌朝抜錨昼後八ツ半時(午後三時)長崎に着船投錨した。私たちは江戸を六月十八日発してから此日即ち八月二十二日に至る前後六十五日掛かつた訳で、途中の故障とは云ひながら今日から思へば実に悠々たる航海であつた。」(赤松:125ff.)。

長崎からはバタヴィア行きの「誠に小さな風帆船」カリップス号に乗った。「十月四日船はガスパル・ストリート(Gaspar Str.)に入る。即ちボルネオ(Borneo)とスマトラ(Sumatra)との間に在るバンカ島(Bangka)とビリトン島(Billiton)との間の海峡で、亦暗礁の多い処であるが、此辺は既に赤道近く驟雨が日々数回来る為めに、暑熱も凌ぎ能く且つ涼風が起るので船の進行をも援ける。翌五日の朝又錨を上げて出たが、風が少しもなく海面は油を流したやうに静かで、船足は殆ど止つて了つた。此海峡の中央にリアート島(Liat)といふ樹木の繁茂した小島があつて、其の西の瀬戸は比較的暗礁が少ないので其航路を執つたのであるが、潮流の急な為めいつしか此小島の一里近くまで流されて、此日は此所に投錨した。翌る朝風が出たので是れ幸と錨を上げて少しく船が出るかと思ふと、船底へドシンと突当つたものがある。素破暗礁だといふ騒ぎで船長以下狼狽して脱出に努め、漸くそれを離れるかと思ふと又突当てゝ了つた。一同焦慮して引出さうと工夫したが容易に今度は動かない。一体此辺の潮の干満は一昼夜に一回で、其差は九尺程もある。船体は干潮と共に漸次傾斜し初めて十八、九度になつた。午後満潮を待つて引卸しにあらゆる方法を施したが殆ど徒労に帰したので、船長も我々を呼んで「最早万策尽きて施す術なきに至つた。言訳はないが、此上は各々生命の安全を計る為めに近傍の島へ上陸する外はない」といふ。一等安針役は中々元気のある男で、遥かにリアート島の近くに漁船と覚しき小舟が十隻程浮んでゐるのを目懸けて、ボートに乗つて出掛けて往つたが、忽ちのうちに三隻の馬来人の乗つてゐる漁船を率ゐて帰つて来たので、力を協せて引卸しを試み我々も手伝つたが更に効果はなく、傾いたまゝの船中に泊ることにして不安の一夜を明かした。

(「西周伝」によって補うと:「漁艇数隻あり。船の坐礁を知るに及びて、皆先を争ひて来り集まる。乗る所の民皆馬来種にして、其意船の廃するに至りて貨を奪ひ利を射んと欲するものゝ如し。一行皆刀を佩びて以て不虞に備ふ」という情景もあった。鴎外c:80)

翌七日は驟雨が屡々来り早風も交つて波も高かつたが、前日約束した漁船四、五艘が来たので重ねて最後の努力を試みたが、此の日は風と波とで船体の動揺が甚しく、水垢は溜る、綱は切れる、殆ど絶望の姿となつたので、一同遂に船を放棄してリアート島へ避難することに定めた。

私達は馬来人の漁船に手廻りの荷物を積込み、分乗してリアート島へ上陸したが、来て見ると遠望した如く樹木も茂つてはゐるが何れも水中から生へてゐるので、少し許り高い場所は燥いてはゐたが土に波紋のあるのを見れば、満潮には大部分水に浸ることが知れる。私たちは船から携へて来た帆布を張つて雨露を防ぐ準備をし、粥を煮て餓を凌ぎ、地上に茣蓙を布いて夜を迎へたが此日の夕刻にはカリップス号は部屋々々まで浸水するに至つたとのことである。荷物は大川・古川の両人や和蘭人が残留して大体揚げることが出来た。此夜は土人襲来の万一に備へる為めに、交る〱夜警をしたが弦の月清く晴れ渡り、孤島に旅愁を味ふて壮者も万感胸を衝くものがあつた。一行中津田真一郎の歌がある。

伊久利立、賀須巴乃海門爾、船奈豆三、中乃島回乃、月乎見加奈[イクリタツ、ガスパノセトニ、フネナヅミ、ナカノシマワノ、ツキヲミルカナ](沢太郎左衛門翁の日記に此歌あり、茲に入れる。リアート島の名は中の島といふ義なりと)(…)

此日船長から漁船に托して此所から西南十三、四里を距てたレパル島(Lepar)の酋長の許へ馬来語で救援を請ふ旨の書面を送つたので、翌九日の午前には其酋長夫婦が二十艘許の小舟を率ゐて救助に来て直ちにレパル島へ行くやうにとの事であつたが、何分にも荷物が多いので先づ乗れるだけ行かうといふ事になつて、私と内田津田・西の四人と職方の古川・大野・中島・山下と馬来語に巧な和蘭ファン・サーメレンと尚一人の一等按針役等と共に先発し、日暮れ夜更けてレパル島に上陸することが出来た。此島は直径半里許の小島で人口も僅かであるが、皆回教徒で礼拝堂がある。私たちは其酋長の家へ泊つた。其家は小高い丘の上に在つて三千坪程もあらうかと思ふ大きな構で、周囲には板塀を廻らし隅々には櫓ともいふやうなものが在つて、古びた長さ一間半程の元込の砲が備へなどしてあつた。家屋は瓦葺の破風造であつたが、之は酋長の家だけで普通のものは皆椰子などの葉で葺いたもので、当時の私たちには総てが頗る珍らしい構造であると感じた。

扨島へ上陸すると翌日直ぐにリアート島に残つた人々を迎へに七隻の漁船を出したが、予期の時刻になつても杳として其消息が判らないので、私達先着の者は非常に心配して皆夫々手分けをして島の廻りへ見張りに出て諸所へ焚火をするなど大騒ぎをしたが、十二日の白々明けになつて一同は漸く到着した。只船長のポールマンと水夫三人とは遂に来なかつた。是は蘭領ボルネオに属するビリトン島の方へ逃げて了つたのだといふことであつた。

酋長の家では私たちが遭難者でもあり、又初めて来た異国の客でもありするからであらうが、非常に歓待して慰めて呉れるつもりで自分も出て来て食事を共にしたが、食膳に供へられた料理などは当時の私たちには材料の見分けもつかないやうな物が多かつた。珍客の接待用として備へたフォークやスプーン、ナイフもあつたが酋長自身は巧みに指で摘んで食つて居た。私たちも未だ西洋料理には不慣れなので、上田寅吉に箸を削つて貰つてそれで食べたが、酋長は之を頗る珍らしがつて見てゐたのを覚えてゐる。(「西周伝」では、「島民皆檳榔子を囓む。歯黒く唇紅なり。又膚に塗り食を調ふるに、皆椰子油を用ゐ、其臭鼻を撲つ」。鴎外c:82)(…)

十五日になると午前十時頃バンカの方向から一艘の蒸気船が来る。見ると軍艦で檣頭に長旒旗を飜し小船を二艘曳いてゐた。午後になると其軍艦から艦長の海軍大尉が端舟で上陸した。之はバンカ島の常備艦ギニー号で、艦内にはレジデントも乗込んで私たちを迎へに来て呉れたので、是れから出発の準備に着手したが荷物が多いので到底一艘の小舟には積み切れない。乃で更に酋長に頼んで漁船を二艘出すことにして貰ひ皆協力して其夜の十二時過ぎに積荷を終つたが、潮の具合で十六日の暁方に漸くレパル島を離れた。

遭難以来種々厄介になつた酋長には諸般の費用としてファン・サーメレンから話して貰つて八十六弗三十仙を遣り、榎本から短刀一口、裁付袴、日本の旗、私から手槍一本を記念の為めに贈つて感謝の意を表した。私たちが小舟で軍艦ギニー号に乗り込んだのは午後五時頃になつた。軍艦の仮泊した地点が遠距離であつたのみならず、正午頃に仏蘭西の商船が浅瀬に擱座したのを引卸すとて出動したので、徒に海上で潮の満ちて来るのを待つてゐた為めに恁様に遅くなつた。私たちは小舟の中で驟雨に遭つてズブ濡れになつたので、ギニー号に乗移つた時の姿は散らし髪、足袋跣足で全で狂人のやうな有様であつた」(同前:133ff.)。

それからトバリー港へ行き、郵船に乗り換えてバタヴィアへ向かった。「十八日の朝バタヴィアの港へ着いた。バタヴィアは蘭領第一の港で、各国の軍艦商船が沢山出入し、近くには支那人町、遠くには洋館の宏壮なる建物が見えるので、私たちは其繁昌に驚いた。(…) 一行中、林・津田・西・沢など此地の風土病の熱病に冒されたが、幸にして何れも大した事もなく、三、四日で癒つた」(同前:139f.)。

バタヴィアからは客船テルナーテ号に乗った。「月末に入りマダガスカル島の沖で冬至線を越えると、此辺から貿易風が止んで喜望峰の近く迄は颶風や竜巻の多い地帯であるから、船長を初め一同窃かに心配したが、幸にして恙なく此境を過ぎることが出来た。十二月二十九日は恰度日本の大晦日で、田口俊平の狂句がある。

まだかすと聞いて嬉しき年の暮

私達はサルーンに集まつて江戸の歳末の情況など咄し合ひ、江戸絵図を広げて互に懐郷の想に耽つたことであつた。

明くれば文久三癸亥年正月元日で、西暦千八百六十三年二月十八日に当り、本船は東経五十二度十二分、南緯二十八度二十八分、マダガスカル島の西リウニオン島の沖に位置し、曇つた蒸暑い日本の五月頃の気候であつた。一行は元日の式を行ふ為めに皆黒紋付に小袴・割羽織を着し、脇差を佩し、扇子を携へて船室に集り、船から求めた三鞭酒七本を屠蘇代りにし、船長・一等按針役其他相客の蘭人等を招いて祝宴を催したが、船長も私たち異郷の者を慰める為めに晩餐には特に意を用ゐて献立をして呉れた。其食膳に缶詰の桃が出たが、此時始めて缶詰といふものを知つた」(同前:145)。

セント・ヘレナ島ではロングウッドにあるナポレオンの幽居や墓を訪ねた。榎本の詩がある。

長林烟雨鎖孤栖  長林の烟雨 孤栖を鎖す

末路英雄意転迷  末路の英雄 意転た迷う

今日弔来人不見  今日 弔来の人を見ず

覇王樹畔鳥空啼  覇王樹の畔 鳥空しく啼く

「前年(一八六二年)六月十八日日本江戸を出発してから此日迄、実に三百二十二日であつた。私達一行十五人は長崎を離れてからは、南洋の海難に遭遇して爪哇に上陸したのと、セント・ヘレナの孤島に薪水を得る為めに寄港した以外は、茫洋たる海上に昼を送り夜を迎へ、殆ど一年に近き月日を費して、目的の地たる和蘭に恙なく到着したのである」(同前:156)。

最終行程こそ「恙なく」であろうが、冒険談と言っていい旅である。