石陽消息

2016-11-14 敗者たち、たとえばマニ教(2)

ヨーロッパ人の偏見につきあってはいられない。消えた敗者ではマニ教墨子教団などが好例だが、マニ教といえば「邪教」と烙印が押されている。一方で、兼愛非戦の墨子の教えは「古代の知恵」と見なす。マニ教にまとわりつく危険な邪教のイメージは、正統派キリスト教の対抗者として信者を奪い合う強力な「異端」「異教」であり「敵」であったからだ。そのあたりの事情を探ると、非寛容で戦闘的なキリスト教の実像がよくわかる(それは対イスラムについても同じだ。マニ教と違い、勃興ののち圧倒的な地位を築き、18世紀以降衰微の相を示してはいても、今なお一大勢力でありつづけているので、そうあからさまに荒唐無稽な攻撃はしないが、隠微な悪罵は西洋の骨髄にある。英語の受け売りを業とする者のイスラム論は、すべて悪性菌に感染しているものとして疑ってかからねばならない)。

墨子の場合は、西欧とまったく関係のないところで興亡し、ヨーロッパ人には19世紀ごろようやく知られただけであるから、彼らからの害毒には無縁である。死に絶えて書物中の存在となり、危険はないのだから、むしろ賞賛された。欧米人と同じかそれ以上に偏向の激しい中国人にとっても、紀元前に存在しなくなった教団にはさまで悪評を浴びせる必要はなかった。


墨家について、「漢書」芸文志の墨家の項には6つの書目が挙げられているが、そのうち今に伝わるのは「墨子」だけで、あとは散逸した。その「墨子」も、「漢書」には71篇があったとされているが、現存するのは53篇で、18篇が失われている。それは儒家道家の書にもあることだから問わぬとしても、戦国末まで「世の顕学は儒墨なり」(韓非子)と言われ、「墨翟の言、天下に満つ」(孟子)「二氏(孔墨)みな死すること久しきに、その従属するものいよいよ多く、弟子いよいよ豊かに、天下に充満す」(呂氏春秋)と記されたごとく、儒家と並んで世に盛んだったのに、秦漢統一帝国成立ののちはまったく衰え、というか絶え、「史記」にはわずかに「墨翟は宋の大夫であり、城を守り防禦する術にたけており、費用を節約する説をとなえた。あるいは孔子と同時代の人だといい、あるいはその後代の人だという」と書かれるのみであるのはどうしたわけか。

墨子」の内容は、一見互いの連関がよくわからない三つの部分に分けられる。政治思想を説く部分と、論理、守城術を扱う部分である。

彼の思想の大きな特徴をなすのは、兼愛と非攻である。現代のことばで言えば博愛不戦となる。非攻といっても、不義の軍に攻められた場合に防御するのは是としていて、それどころか守城の防御術の技術者として活躍していた(「墨守」という成語に見えるように)。第三部分はすなわちこれによる。

墨家のありかたは儒家に似ている。諸子百家中、弟子を集め集団を形成していたのは儒家墨家のみであり、墨子は旅行中の馬車にも多くの書を積み込んでいた読書人で、堯舜の道を唱え、「尚書」「詩経」など儒家が尊ぶ書を同様に尊ぶ。しかし、この二者が大いに異なる点が多くあり、兼愛がまずそれに当たる。儒家は近きより遠きに及ぼす愛を説くのであって(修身斉家治国平天下の順)、わが父は他人の父より愛すべきであり、つまり別愛だ。兼愛というのは禽獣の愛だと考える。奢侈を戒める節用も墨家の特徴だが、とりわけ節葬・非楽はまさしく儒墨の厳しく対立する点である。儒家冠婚葬祭業者であり、音楽を重んじていた。また天志・明鬼も儒家と大いに異なる点で、墨子天命を言わず、天志を語る。天命を言うのは運命論であるとして斥け、天を神のごとき意志のあるものと考えた。「怪力乱神を語らない」無神論的傾向の儒家とはまったく異なる有神論で、兼愛と合わせ、諸子百家中もっとも(あるいは唯一)宗教性が強い。宗教儀礼などのことが伝わらないのでしかとは言えないが、一種の宗教集団だったのではあるまいかとも思える。そして非儒篇では激しく儒家を攻撃している。

「その従属するものいよいよ多く、弟子いよいよ豊かに、天下に充満」していた墨家が、なぜ急速な消滅に至ったのか。彼らは一種の防衛戦請負業者となっていたので、戦国の世が終わり大統一帝国が生まれたあとでは用がなくなったということがひとつにはあろう。逆に、冠婚葬祭業者儒家は、戦国のあとに活躍の場はむしろ広がった。戦乱から成り上がった漢の高祖劉邦皇帝地位の偉大さを教えた儒家の礼楽である。贅沢を禁じる墨家の教えも、戦国時代には人に響いただろうが、戦乱がおさまり天下をわがものとする皇帝が奢侈を追求する世となれば、時代に合わぬたわ言ともなったかもしれない。儒家が勝者となれば、墨家は敗者として消えるまで、という関係であっただろう。弾圧もおそらくは受けたであろう。ともかく、墨家は敗亡の道をたどり、「墨子」一冊を残してこの世から消えた。

かくて墨家の学統は絶え、「墨子」の書こそ存していたけれど、清まで2000年間考究する者はほとんどなく、注釈はなかった。「墨子」のテクストは難解である。そもそも古い文献には誤写や脱簡錯簡などがあるのが当たり前で、学統を継ぐ者が語釈解釈を加え、講述をして、伝承していくのである。その作業が2000年も絶えていれば、難しいのは当然だ。

それでも、この書が残っていたために、最終的に諸子百家のひとつとして、必読ではないにせよ古典の中に位置を占めることができた。完全に無害となり、書棚の中で埃をかぶりつつ、ときどきそこから取り出されるというありかたであるが、絶学の集団としてはまず望みうる最大限であろう(以上、「墨子」、森三樹三郎訳・解説、ちくま学芸文庫、2012および「墨子」、薮内清訳・解説、中国古典文学大系5、平凡社、1968)。


マニ教は典型的な敗者である。かつてヨーロッパから中央アジア中国まで広がり、「第四の世界宗教」になりえた宗教だったが、遺跡遺構や文献残闕を残すのみで、跡形もなく消えうせた(中国福建省にもとマニ教寺院だったものがいくつか残ってはいるが)。

教祖マニ(216−277)はイラン人で、パルティア王族の家系だった。父が属したユダヤキリスト教グノーシス主義の洗礼教団エルカサイ派で育つ。その教義は、キリスト教(正統が確立する前、つまり正典と外典・偽典が峻別される前の、今の正典・外典・偽典が混然と信奉されていた時代のキリスト教)、特にそのグノーシス派を基礎に、ゾロアスター教仏教などの教義が混淆した宗教で、ゾロアスター教に由来する二元論が大きな特徴になっている。もともとイラン人であるからゾロアスター教はよく知っていたし、西北インドへ旅したこともあって、インド宗教を知る機会もあったようだ。

多くの宗教において、教祖はただ語る人行なう人であって、その言行を弟子が記録するところから教団が始まる、というのが宗教史上のよくある形だが、マニ教はそれとまったく異なり、「書物宗教」として始まっている。マニ自身がみずから教義の根幹を著述しているのである。そのために文字(マニ文字)を考案してまで。彼の手になるのは、中世ペルシャ語による「シャープーラカーン」とアラム語による「生ける福音書」「生者の宝庫」「プラグマテイア(伝説)」「奥義の書」「巨人の書」「書簡集」「讃歌と祈祷」で、ほかに絵をよくした彼には絵画集「宇宙図(アルダハング)とその注釈」もあった。教祖がみずからの手ですべてを用意した独特な「人工的」宗教である。それらの書物は「シャープーラカーン」を除いて失われ、ただ題名と断片のみが知られる。

マニは自身を、数々の世に現われた預言者の最後の者と考え、「ゾロアスター仏陀、イエスの三人を継ぐ預言者の封印」といった。のちにイスラムムハンマドをそう呼ぶことになる。イスラムに先んじているわけだ。宣教は成功を収めつつあったが、ゾロアスター教を奉じるササン朝宮廷から迫害を受けて獄死した。架刑でこそなけれ、みずからの出自母体からの迫害によって死ぬところはイエスに似ている。


マニ教教義を見る前に、まずそれを生む母胎となったグノーシス派とゾロアスター教教義に触れよう。

2世紀に大きな勢力であったグノーシス派は、キリスト教の異端として知られるが、宗教性のうちのひとつの精神的潮流と見たほうがよく、それが当時興隆しつつあったキリスト教と結びついたものである。その神話は、たとえばヴァレンティノスによるとこうだ。「父、すなわち絶対的で超越的な第一原理は不可視であり、理解できないものである。父は仲間である思考(エンノイア)と結合し、ともにプレーローマ[充満]を構成することになる一五対のアイオーン[生ける神的原理]を生む。最後のアイオーンである知(ソフィア)は、父を知りたいという欲望のために目を曇らされて危機を招き、その結果、悪と情欲があらわれた。プレーローマから突き落とされて、ソフィアとそれがひき起こした常軌を逸した被造物は、劣った知恵(サジェス)を生んだ。そのうえに、キリストと伴侶の女性としての聖霊という新しいカップルが創造された。最後に、プレーローマは最初の完全性を回復して、イエスともよばれる救世主を生む。救世主は低次の領域に下って、より低次の知恵から生じた質料的な要素で「目に見えない物質」を形成し、心的な要素で造物主、すなわち「創世記」の神を造る。「創世記」の神は高次の世界の存在を何も知らず、自分自身を唯一の神であると考えているのである。彼は物質世界を創造し、息でそれに生気を与え、「質料的な人間」と「心魂的な人間」という二種類の人間を形成する。しかし、霊的な要素はより高次の知から生まれて、造物主に知られずにその息のなかに入りこみ、「霊的存在」の階級を生むのである。物質に捕らわれたこれらの霊的な分子を救うために、キリストはこの世に降下し、厳密な意味では受肉することなく解放をもたらす知識を示す。このように、霊的存在だけが霊知(グノーシス)によって覚醒され、父のもとへ昇っていくのである」(エリアーデ世界宗教史」4、柴田史子訳、ちくま学芸文庫、2000、p.239)。

ゾロアスター教は、世界を善神アフラ・マズダーと悪神アングラ・マインユの争闘の場と見る。「まことに、はじめに二つの霊があり、彼らは対をなすもので、戦っていると知られている。思考や言葉や行動において彼らは二つ、つまり善と悪である…… この二つの霊が初めて邂逅した時、彼らはそれぞれ生と非生を創造した。そして最後には、虚偽(ドゥルグ)に従う者たちは最低の存在になり、最上の住居は正義(アシャ)を保持する者たちへ与えられる。この二つの霊のうち虚偽に従う方は最悪の行動を選び、最も堅い石(天空)に覆われている最も聖なる霊は、正義を撰んだ。アフラ・マズダーを、正しい行為でいつも満足させる人は、(すべて正義を撰ぶであろう)。[ヤスナ・30・3−5]」(ボイス「ゾロアスター教」、p.58f.)。

ゾロアスターの根本的な教義の多くは、次第にエジプトから黒海までの全地域に伝播するようになった。/すなわち、創造主である至高神がいること・彼と対立し彼の支配下にはない悪の力が存在すること・この悪の力との戦いを助けるために、多くの下位の神々が創られたこと・この世界は目的があって創造されたこと・現状ではこの世界は終末をむかえること・この終末は宇宙の救世主が予告し、彼がその完遂を助けること・その間には天国と地獄が存在し、個々の魂は死んだ時に運命を決める個別の裁判があること・時の終わりには、死者のよみがえりと最後の審判があり、邪悪なものは消滅すること・その後神の王国が地上に来たって、正しい者は庭園(「楽土」のペルシア語)に入るようにこの王国に入り、そこで神の前で永遠に魂と同様肉体も不死となって幸せになること、などである」(同、p.157f.)。これらの多くはユダヤ教キリスト教イスラム教に採り入れられたので、われわれにもなじみがある。日に5回祈ることもゾロアスター教からイスラム教に入った。だが、善悪二元論だけは独自である。拝火教とも言われるような火の崇拝や、死体を裸で遺棄し鳥獣に食わせる風葬のやりかたも目につく特徴だ。「個人の救済は、その人の考えや言葉や行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えることはできない。… 各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった」(同、p.74)。そのことの卑小な例が、ペルシャ人は「犬と人間以外はどんなものでも殺し、蟻や蛇、這うものも飛ぶものもすべて無差別に殺し、そのことをたいへん誇りにしている」と書くヘロドトスの驚きである(同、p.156)。それら悪の創造物を殺すことは善霊を助けることになるわけだ。


これらを踏まえた上で、マニ教神話エリアーデの要約によって見てみよう。

「はじまり、すなわち「前時代」においては、光と闇、善と悪、神と物質という二つの「資質」ないし「実体」が、境界線によって隔てられる形で共存していた。北は偉大な父によって支配され、南は闇の王子に支配されていた。しかし、物質の「秩序を乱す働き」が、闇の王子を王国の北の境界へと追いやった。光の輝きを見て、王子はそれを征服したいという欲望をかきたてられた。北の父が敵を撃退しようと決意したのは、そのときである。王は、自分自身のうちから生命の母を「よびだした」、つまり投影したのである。そして、次に彼女が、新しい実体である原初的人間(イラン的な変換においてはオフルマズド)を投影した。実際、五つの光から作られた「霊魂」と「甲冑」である彼の五人の息子とともに、原初的人間は境界に降りたった。彼は闇に挑戦したが、征服された。そして、息子たちは悪魔(アルコーン)によって奪われた。この敗北は宇宙の「混合」のはじまりを記すものとなったが、同時に、神の最終的な勝利をたしかなものにする。というのも、闇(物質)はいまや光の一部 ― すなわち聖なる霊魂の一部 ― を所有し、父は救済の用意をしながら、同時に闇に対する決定的な勝利を準備しているからである。

第二の創造において、父は生きた霊魂を「よびだした」。その生きた霊魂は闇の世界に降り、原初的人間の手をとって、彼を「光の王国」である天界の故郷にひき上げた。悪魔的なアルコーンたちを圧倒した生きた霊魂は、その皮膚から天国を、骨から山を、肉と排出物から大地を作った。さらに彼は、闇との接触によってそれほど損なわれなかった部分から、太陽と月と星を創造することによって最初の光の救済を行なったのである。

最後に、父は最後のよびだしにとりかかり、発散によって「第三の使者」を投影した。第三の使者は、まだ捕われていた光の分子を集める。つまりは救うために、宇宙を一種の器械の形に組織する。月のはじめの二週間のあいだ、分子は月に上がり、満月になる。月の後半は、光は月から太陽に移動して、ついには天界の故郷にいたる。しかし、悪魔に呑みこまれた分子がまだ残っている。それから、使者は目もさめるような全裸の乙女の姿をとって、男性の悪魔の前に現われた。一方、女性の悪魔には、この使者の姿はハンサムな全裸の青年に見えたのである。欲情にかきたてられて男性の悪魔たちは精子を放ち、それとともに、呑みこんでいた光を放つ。精子は地に落ちて、あらゆる植物が生じた。すでに身ごもっていた女性の悪魔は、ハンサムな若者を見て奇形児を生んだ。その子は地に捨てられ、木々の芽を食べて、自分のなかに含んでいた光と同化するのである。

「情欲」として人格化した物質は第三の使者の戦術を警戒し、いまだに捕らわれている光の分子の周りに、いっそう強固な牢獄を作る決心をした。男女二人の悪魔は、光全体を吸収するためにすべての奇形児をむさぼり食い、それから交わった。このようにしてアダムとイヴが生まれたのである。(…)

しかし、光の大部分はアダムに集められたので、彼はその子孫ともども救済の主たる対象となるのである。終末論的なシナリオが繰り返される。原初的人間が生きた霊魂に救われたのとちょうど同じように、堕落し、無知であるアダムは、オフルマズドないしは「イエス、光」と同一視される救世主、すなわち「神の子」によって覚醒される。救済をもたらす知性の化身(「ヌースの神」、「ヌース」)は、闇のなかで迷って鎖につながれてアダムの内に閉じこめられた、自分自身の霊魂を救いにやってくる。グノーシス派の他の思想体系におけると同様に、救済は三つの段階を含む。覚醒、救いをもたらす知識の啓示、記憶回復である。「アダムは内省し、自分が何者であるかを知る」。そして、「祝福されたものの魂は再び知性に溢れ、生き返った」のである。

このような救済のシナリオは、現在と未来の霊知をとおしてのすべての救済のモデルになった。この世の終わりまで、光すなわち聖なる霊魂の部分は、この世 ― 人間や動物の身体や植物 ― に閉じこめられたままの他の部分を「覚醒」、つまりは救済しようとするのである。(…)光の分子、つまり祝福された死者の霊魂は、月と太陽という「うつわ」によって絶えず天の楽園へ運ばれて行く。しかし一方で、最終的な救済は、マニによって示された道を進まないもの、つまり生殖をやめようとしない者のために遅らされている。光は精子に集中しているので、生まれた子供は各々、聖なる分子の捕囚を長引かせることにしかならないからである」(p.252ff.)。

「終末の大団円である第三の時」の「ドラマは一連の恐ろしい試練で始まり、それに正義の教会の勝利最後の審判が続き、霊魂キリストの法廷(ベーマ)の前で裁かれる。短期的な支配のあと、キリストと選ばれた民とすべての人格化された善は、天国に昇っていく。世界は一四六八年間続く擾乱によって覆われ、浄められて、消滅することになる。光の最後の分子は集まって「像」になり、天国に昇っていく。物質はそのすべての人格化、悪魔とその犠牲者、呪われた者とともに、一種の「球」(ボロ)の中に閉じこめられて大きな穴に捨てられ、岩で密閉される。このとき、闇は二度と光の王国に侵入することができなくなるので、二つの実体の分離が決定的なものになるのである」(p.256)。

つまり、「人間は物質でありながら、アダムとイヴの子孫として大量の光の本質ももっているという矛盾した存在である。マーニーは、人間は「真理の道」に従ってグノーシスをえ、現世の救済に貢献すべきであると説いた。つまり、人間には自分のなかの救われるべき本質を自ら救わねばならないという使命がある。(…)マニ教徒であることには、極めて道徳的で清浄な生活を送り、かつ、壮大な宇宙の戦いに参画しているという充実感をえられるという魅力があったといえるだろう」(山本由美子「マニ教ゾロアスター教」、山川出版社、1998、p.37ff.)。


マニ教は、仏教ジャイナ教出家と在家のように二つの階層からなる。キリスト教修道士と平信徒とも似ている。出家者(「撰ばれた者」)に課される五戒は、真実・非暴力・禁欲・口の清潔(菜食。肉・酒・乳製品禁制)・清貧である(タルデュー「マニ教」、白水社、2002)。したがって出家者は生産活動に携わることができず、平信徒(「聴聞者」)によって支えられねばならない。輪廻転生教義も認められ、平信徒は来世によいものに生まれ変わり、いずれ「選ばれた者」になって、天国に行くことが期待される。仏教ジャイナ教の教理の輪廻とそれからの解脱との類似が感じられる。五戒も、ジャイナ教五戒、不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有(衣服にまでも及ぶ。いわゆる裸形外道である)とほぼ同じである。ジャイナ教の場合、虫を殺すのを避けるため口を白布で多い、手に払子を持つこともある。断食死を理想ともしている。物質と現世を否定するマニ教は、仏教からの影響が云々されるが、むしろジャイナ教と比較されるべきだろう。「撰ばれた者」がまとう白衣もジャイナ教共通だ。


結果として滅び去ったのだから、その歴史が心楽しいものであるはずはない。

ローマディオクレティアヌス帝の迫害はキリスト教徒とともに受けた。原始キリスト教がそう言われてきたように、秘密めいたセクトが受けがちな嫌疑をもたれ、「悪魔崇拝人身御供、占いの際の人間の頭蓋骨の使用、性的狂乱を行っていると非難されてきた」(ストヤノフヨーロッパ異端の源流」、平凡社、2001、p.167)。キリスト教体制になれば、彼らからそう疑われるのである。要するに体制宗教と危険な反体制宗教の関係性であって、もしマニ教覇権を得れば、キリスト教はじめ他宗教はどう扱われただろうか、ということは考えてみてもいい。

彼等自身の書いたものは偶然残ったわずかな例外を除いて、要するに「敵」の書いたものばかりだから、その像は当然歪んでいる。キリスト教では教父とあがめられる聖アウグスティヌスは若い頃マニ教徒で、キリスト教に改宗したあと、マニ教反駁の文を書いた。のちに起こる10世紀バルカンのボゴミール派、12・3世紀南仏のカタリ派のような二元論異端は、正統派キリスト教によって激しく弾圧根絶された。ヨーロッパ人に特徴的なのがイデオロギーによる弾圧である。残虐さは人類に普遍的と言えるが、寛容さの欠如はヨーロッパの特質だと断言してもいいのではないかと思われる。彼らの「イデオロギー的残虐さ」の最初期の発現がこのカタリ派弾圧であった。

マニ教は唐代中国にも伝来し、ウイグル人マニ教に改宗した。9世紀に西域に成立したいわゆる天山ウイグル王国では国教の地位にあった。テュルク系遊牧民のこのようなマニ教受容は奇観であるが、同時代に他のテュルク系民族ハザール人がユダヤ教に、ブルガール人がイスラム教に改宗したこととあわせ考えるべきである。そのコンテクストの中にある。近隣民族と異なる宗教、遠く離れた宗教を受け入れて差別化をはかるねらいがあったのであろう。いずれにせよこの部分はマニ教史の数少ない、唯一かもしれない安息の時期で、やがてウイグル人の間での地位仏教イスラム教に押され、王国自体が滅んだあとは、砂漠の中に文書を遺すだけであった。

マニ教中国で最後に姿を現わす。宋・元代の浙江・福建に現われた明尊教・明教がそれで、弥勒信仰と混淆し、白蓮教に流れ込んだらしい。白蓮教徒の起こした紅巾の乱から朱元璋王朝を建てるが、それが明を名乗るのは明教に由来するとの説がある。

ヨーロッパキリスト教ペルシャゾロアスター教(のちにはイスラム教)など、覇権を握ったどの宗教からも危険な異端と見なされ弾圧され、しっかり足場を築いた天山ウイグル王国が滅びたのちは消滅の道を行くだけであった。中国南東部にも信者を得たが、宗教のありかたがまったく西方とは異なる中国ではもとより大勢力にはなりえず、社会不満を吸収し、反乱の母体となる秘密結社を形成するというきわめて中国的なありかたをしていた。もとマニ教の寺院はこの地域にいくつか残っているが、一風変わった仏教(摩尼光仏)ないし道教老子化胡)の寺院として存続するだけだった。

なお、この世界の善事悪事を直日神禍津日神の働きと考えた本居宣長(「凡て此世中の事は、春秋ゆきかわり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、吉凶き萬事、みなことごとに�撥の御所爲なり。さて�撥には、善もあり惡きも有て、所行もそれにしたがふ」。「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける。(…)かの善人も禍り、惡人も福ゆるたぐひ、尋常の理にさかへる事の多かるも、此神の所爲なる」―「直毘霊」)と、それを一歩進めた林桜園神風連の思想的指導者)の思想は、かなりゾロアスター教に似ている。世に善悪があり、「善人も禍り、惡人も福ゆるたぐひ」をただ善神悪神の作用と説くだけの宣長から進んで、桜園は「顕界の人が人事を尽せば、その努力は幽界に反映し、直神禍神闘争において直神の有利に作用する」(渡辺京二神風連とその時代」、洋泉社、2011、p.126)とした。

この類似はどうしたものか。二元論というものはどこでもありうる、という一般論で片づけていいのか、あるいはマニ教の図像が大和文華館所蔵の絵などにある(青木健マニ教」、講談社、2010)ことから見て、マニ教中国から伝わっていて、その影響が及んでいたとするべきか。後者とすれば非常におもしろいが、それを証明する手立てはないだろう。なお、その教義神風連とともに消えた。平田篤胤は師宣長の直日神禍日神を和魂荒魂と解釈しなおし、荒魂はけがれがあれは怒り荒ぶり、道理に合わぬ曲事をもするが、けがれがなければ恵みさえも与える、と説いた(篤胤にも二元論があるが、それは顕界幽界の二元論である。善悪、霊肉、顕幽、さまざまな二元論がありうる)。


このように、滅びた宗教であり断片的にしか資料が残っていないのに、それを集めて再構成し考究している学者たちの努力には敬服する(彼らはだいたいが滅ぼした側の後裔だけれども)。個人的には、まだ存続しているゾロアスター教や、失われたものではグノーシス派に魅力を感じるが、マニ教で心を奪われるのは、失われてしまったという事実そのものである。それを調べて何か物質的に得られるものがあるわけではない。せいぜい伝奇小説が書けるぐらいなものだ。ただありし日の壮麗さを感じ、すべて敗れ去ったものたち、敗れ去りつつあるものたちへの思いを沈潜させるだけである。私もそちらの側にいるのだから。

歴史はなるほど語っている。だが、その語りの背後には、厖大な語られない世界、敗者たちの「失われた世界」があるのだということを忘れてはならない。

2016-11-13 敗者たち、たとえばマニ教(1)

今この世界に生き残っているわれわれは勝者である。そして勝者としてしか世界を見ない。だがその一方で、敗れ去り、わずかな痕跡を残すだけで消え去ったものたちがいる。

敗北には理由がある。退場にはわけがある。だが、敗者となり地上から消えたものたちも、かつてたしかに存在し、そのあるものは覇を唱えてもいたのだ。彼らを知ることなしに世界を知ることはできない。インカやアステカの文明のように理不尽な抹殺もあったことだし。


歴史は結局文字である。文字記録以外のものも史料とするべく、考古学・古銭学・民族学その他さまざまな分野に補助を求めているが、しかしそれらは補助学にとどまり、根幹のところではどうしても文字資料によらざるをえない。それゆえ、先史時代を含む無文字社会は歴史の辺境に位置することになる。

それだけにとどまらない。文明社会は基本的に有文字社会であるけれど、その文明には特有の性格があり、「親歴史的」な文明と「非歴史的」というか「反歴史的」な文明がある。前者は中国およびその影響下の東アジア文明と、ギリシャローマヨーロッパと続く西欧文明であり、後者の代表は言わずと知れたインド文明である。インドは文字資料に乏しくなく、宗教文献はきわめて豊富、文法学や数学天文学も発達し、性学の書もあるのだが、なぜか歴史記録にはまったく関心がなく、史書と言えるものができたのは、時も後代、場所も辺境の、スリランカの「ディーパヴァンサ」(4世紀)と「マハーヴァンサ」(6世紀)、本土ではカシミールの「ラージャランギニー」(12世紀)を待たねばならない。

インド誌」を書いたアル・ビールーニー(973−1048)は、「インド人は遺憾ながら物の歴史的順序に多くの注意を払わぬ。かれらはかれらの諸王の年代的な順位を列挙するのに怠慢である。そして人々がかれらのそれを解明するように迫って、而もかれらがどう言ってよいか解らなくなると、かれらは直ちに童話を語ろうとする」(ヴィンテルニッツ「ヴェーダ文学」、中野義照訳、日本印度学会、1964。p.29)と言っている。そのため、「ブッダの生没年やカニシュカ王の在位年について100年以上開きのある説が提唱され、学者たちが論争をくり返すとにった事態も生ずる。人類の祖マヌが制定したとされる『マヌ法典』の成立年代も、西暦前200年から西暦後200年にいたる間、といった程度にしか知ることができないのである」(山崎元一「世界の歴史3古代インドの文明と社会」、中央公論社、1997、p.12)。

インドでも、文字自体は古くからあった。前6世紀からあったらしい。確実なのはアショーカ王の碑文で、これが前3世紀。しかしながら、この文明の特徴として、「インドにおいては最古の時代から今日に至るまで、全部の文献的、及び学術的活動に対して権威のあるのは、言われた言葉であって、書かれたものではないというのが、注目すべき現象である」(ヴィンテルニッツ、p.33)。「無数の古文書があり、これらの古文書が相当の神聖と尊敬を得ており、また最も重要な原典がインドでも安価な版本で得られる今日においてもなお、インドにおいては全部の文献的、及び学術的な流通は口頭上の言葉に基礎を置くのである。人々が原典を学ぶのは写本や書物からではなくして、ただ師の口からのみである ― 今日も数千年前と同じである。書かれた原典はせいぜい研究の補助方法たるのみで、記憶の支えとして利用せられる。しかしそれはかれに何等の権威とはならぬ。師の話された言葉のみが権威をもつのである。そして今日、もし一切の写本と印刷物とが消失することがあっても、それで以てインドの文献は何物も地上から消滅することはない。その大部分は学者と朗誦者との記憶から再現することができるからである。詩人の作品でもインドでは読者に対するものではなく、常に聴者のみを当にしている。そして最近の詩人でも読まれることを欲せず、かれらの願いはかれらの試作が「知者の喉のための荘厳」でありたいのである」(同、p.34)。この文明においては、哲学法律、医学、天文学建築学、文法書、辞書も韻文で書かれるのだが、それはもちろん暗誦のためである。

「発音、アクセント及び読誦法においても注意深くあらゆる欠点を避けつつ、学生は一語一語師匠の言うことを繰返し、以て自分の記憶にこれを刻印しなければならぬ。そしてこのようにして口誦で伝承することが、根本的な本典の維持に対しては、写本に書いたり写し替えたりするよりも遥かに大きな保証たりうることに疑はない、実にわれわれは、たとえばリグ・ヴェーダの讃歌の本典が、今日われわれの印刷本で読むのと同様に、一語一語、一綴一綴、各アクセントが、西紀前五百年以来不変で残存しているという直接の証明をもっているのである」(同、p.37)。義浄が「南海寄帰内法伝」で、四ヴェーダの書は「悉く口づから相伝授して、これらを紙葉に書せず」と書いているとおりだ。

最古のインドの文献は何か。最古の写本はインドでは12世紀のものだというが、実はインドの領域外のほうがもっと古いものを残していて、ネパールでは10世紀、「日本で発見された棕梠の葉の写本は6世紀の前半に書かれたもの」だと言われ、シュタインがタクラマカン砂漠で発見したものは4世紀に遡る。しかし「これらの文字学的にはそのように貴重な発見も、インドの文献についてのわれわれの知識を従来以上に拡大しないことは注目に値いする」(同、p.38)。

最古の「書」がヴェーダであることは間違いない。学者の研究によって、前期ヴェーダ時代(前1500−1000年頃)に「リグ・ヴェーダ」が、後期ヴェーダ時代(前1000−600年頃)にその他の三ヴェーダが成立した、と考えられている。だが、それがいつ筆録されたのかはわからない。ビールーニーが「最近」カシミールで文字に書かれたヴェーダのことを語っているので、そのころにはあった(ルヌー/フィリオザ「インド学大事典」1、金花舎、1981、p.250)。仏典は何度も「結集」されたが、それは記憶した経文のすりあわせで、筆記されたのはスリランカで西暦紀元前後らしい(同、p.223)。


同じアーリア族のイランでも事情は同じである。ゾロアスター教聖典アヴェスターも口伝えだった。ゾロアスター教仏教よりもキリスト教よりもずっと古い宗教で、今も滅びてはおらず、インドのパールシーたちの宗教として生きており、またイランでもわずかに信徒が残っている。教祖ゾロアスターは前1200年ごろの人とされる。無文字社会なら口誦なのは当然だが(ユーカラが口誦されてきたように)、その時代のイランはすでに無文字社会ではなかったけれど、アーリア族の神官たちは文字を有したあとまでも口誦での伝承を重んじていた。「メディア人やペルシア人は、西イランで数種の文字を知ってはいたが、そのような外国の技術を疑いの目で見ていたということである(ペルシア叙事詩では、文字は悪魔が発見したとされている)。したがって、次第に実用的な目的のためにその技術は採用されはしたが、昔のイランでは知識人であった祭司たちは聖なる言葉を記録するにはふさわしくないとして、それを拒否したのであった」(ボイス「ゾロアスター教」、山本由美子訳、講談社学術文庫、2010、p.110)。筆録はようやく6世紀のササン朝時代末期で、新しくアヴェスター文字(アヴェスターを書き記すための文字)を作って筆記した。最古の写本は13世紀のものである。筆録後まもなくゾロアスター教を国教としたササン朝イスラム勢力に滅ぼされ(651年)、21巻から成るアヴェスター本文の7割が失われた。

イスラムの勃興が100年早く、筆録前にササン朝が滅びて異教の支配下に入っていたらどうなっていたか。だが、そんな想像をして恐れるのは書物の奴隷である現代のわれわれで、神官は本文を暗誦していたのだから、神官さえ生き残っていれば宗教伝承も絶えなかっただろう。


歴史において、文字記録は卓越している。無文字・先文字時代を考えるための道具はまず考古学で、文字以前や以外の調査を行なうが、ここでも「石の卓越」という現象がある。骨とか土器とか、とにかく鉱物性ものによって考古学は書かれる。そのよりどころとするものは、かなりの部分が墓暴きである(だから天皇の陵墓参考地を掘らせない日本の保守文化は考古学の敵で、つまり学問の敵でもありそうだが、墓暴きが卑しい行為であるという感覚をなくすのは、それはそれで問題だ)。この世界はどうしても不平等だ。テントや木造の文化、墓を造らない文化に考古学ができることは少ない。

それはいいことにしよう。文字はきわめて有用な道具だ。文字にはどうしても頼らねばならない。考古学の「文字」である石や骨についても同様に。

その文字というものは、すぐれて文明の子である。宮崎市定が「歴史的地域と文字の排列法」で指摘しているとおりだ。文字を書くのにどれがよいという決まりはないので、縦でも横でもよければ、右からでも左からでもいい。さすがに下から書く文字は存在しないが、右からか左からかの問題に関しては、左から書くヨーロッパ人は、人類の大多数は右利きであるから、左から書くのが自然であると独善的なことを言うけれど、書くとき筆の陰になる部分が生ずるが、「既に書いた部分が影になるか、これから書こうとする余白が影になるかが、右から文字と左から文字との相違である。そしてこの場合、優劣は殆ど無く、あってもそれは言うに足らぬものであろう。そうでなければ西アジアの諸民族が何千年もの間、右から文字を書き続けて来よう筈がない」(宮崎市定「東西交渉史論」、中公文庫、1998。p.49)。牛耕式という書き方もある。ある方向から読み、行が下ると逆方向から読む、というやり方である。どちらから書いてもよいならば、そういう「どちらでもよい事が、どちらかに決定されているという厳然たる事実の中に、絶大な意義を認めなければならないと思う。それは、どちらでもよい事の中にこそ、反って伝統が十分の威力を発揮しているからである」。「この伝統は大きな力であって、最も抵抗の弱い所、即ち必然性のない所に於いて特に驚く可き保守性を発揮する」(p.50)のである。文字自体の系統と並んで、この書字方向についても目を配る必要はそこにある。文字学は第一に解読、次に文字の系統に目を注いで、書字方向はあまり気を配られる項目ではないが、そういうところにこそ考えるヒントがあることを指摘したこの好論文の着目点によって世界の文字を整理してみると、おもしろいことがわかる。

現行の世界の文字を一瞥すれば、およそ四つに大別できる。ギリシャ系アルファベット(単音文字)・セム系アルファベット・インド系アルファベット・漢字系文字(表意文字・音節文字)である。

ギリシャ系アルファベットは、ギリシャ文字ラテン文字ローマ字)・キリル文字アルメニア文字グルジア文字で、左から右へ横書きする(左起横書き)。この文字の使用地域は、宗教はほぼキリスト教であり、言語は印欧語である。ラテン文字は西欧諸国の植民地支配によって広がったので、新大陸はすべてこの文字、サハラ以南のアフリカもそうだし、古い文明地域であるアジアでも、ベトナムインドネシアフィリピンなどで使われる。トルコで採用されたのは、政教分離原則にもよるし、それ以前に使っていたアラビア文字がセム語を記すための文字で、トルコ語表記には不適当だったことにもよる。ウズベキスタンが最近キリル文字からこれに転換したのは、ロシアからの自立という意図がある。キリル文字は旧ロシア帝国ソ連の版図内の民族に使われる。ソ連の勢力圏だった外モンゴルもそうだ。

ヘブライ文字アラビア文字に代表されるセム系アルファベットは、右から左へ横書きする(右起横書き)。宗教ヘブライ文字ユダヤ教アラビア文字イスラム教であり、もともとセム語を記すための子音文字だが、言語を越えてイスラム教地域で使われている。

インド系アルファベットはギリシャ系と同じく左起横書きで、インド亜大陸から東南アジアで使われるさまざまな文字がここに属する。チベット文字もこの系列だ。つまり、ヒンドゥー教仏教の分布域に広がっている。インド系文字の特徴は音素音節文字であることで、母音を示す印が付加されて、1文字が1音節を表わす。

漢字系文字というのは、表意文字の漢字と音節文字のかな・ハングルで、本来縦書き、行は右から左へ書く(右起縦書き)のだが、左起横書きが浸透中である。中華文明圏の文字であり、この文明は独特の宗教性があって、西方一神教インドとかなり異なる。祖先崇拝を柱とする儒仏道教中国で。儒教仏教道教ということでなく、三者融合した民間信仰と考えるのがよい)・儒仏神教(日本)・儒仏巫教(朝鮮)としたらいいかもしれない。かなが純粋な音節文字であるのに対して、ハングルは音素音節文字である。昔は漢字圏だったベトナムラテン文字へと移った。

シュメールエジプトの太古よりさまざまな文字が興亡してきたのだが、現在使われている文字で見れば、世界は単純化されていると言えよう。特に、文字発祥の地西アジアエジプトが、イスラムの興起とそれによるアラビア文字覇権により、ほとんど一色に塗りつぶされている。

注目すべきはモンゴル文字で、ウイグル文字、ひいてはソグド文字からできたもので、セム系アルファベットに属す。したがってソグド文字・ウイグル文字と同じくもとは右起横書きだったものが、中国文明圏との接触で、それを90度回転した縦書きになった。しかし行は左から右へと書く(左起縦書き)。やはりセム系と思われる突厥文字も同じである。縦書きで左起というところが、ふたつの文明の影響関係を示している。

シュメール楔形文字エジプト聖刻文字が文字の濫觴であるが、その最初期においては書字方向は一定していなかったという。シュメール楔形文字は、古くは漢字と同じく右起縦書きされていたが、粘土板に書くときは早くから左起横書きとなった(つまり、のちのモンゴル文字と同様、90度回転したわけだ。ただ縦横の方向は逆である)。最初の「世界帝国」であるアケメネス朝ペルシャ公用語アラム語で、碑文にはアッカド語エラム語・古代ペルシャ語の楔形文字が用いられた。これら三つの楔形文字は左起横書きである。一方、フェニキア文字からできたアラム文字は右起横書きだ。

エジプトヒエログリフの場合は、縦書きも横書きもあり、右からも左からも読む。縦書きがより古く、また右向き(左起)が優勢だというが、聖刻文字には人や動物の形の文字があるので、それの向きによって読む方向もわかるしくみになっている。ただ、聖刻文字を崩した神官書体・民衆書体の場合ははっきりと右起横書きである。

古代西アジアにおいて、書字方向は一定ではなかったようだ。フェニキア文字(最初のアルファベットとされる)に先行するウガリト文字は左起横書きであるが、フェニキア文字が右起横書きであったため、これからのちフェニキア文字の流れを汲むセム系文字は右起横書きとなった。しかし南アラビア文字は左起横書きで、それに由来するエチオピアのアムハラ文字もそうである。この文字は、4世紀ごろ子音文字に母音を示す印を加えて音節を表わす音素音節文字となった。インド系の文字と同じしくみである。

なお、今も解読されていないインダス文字も書字方向には定説があって、右起横書きないし牛耕式とされている。インドの諸文字はインダス文字とは無関係で、西北の一部で使われていた右起横書きのカローシュティー文字はあきらかにセム系であるが、早く消えた。ブラーフミー文字もセム系文字が範だろうと考えられているが、書字方向は左起横書きである。このブラーフミー文字からさまざまなインド系文字が現われた。

文字史の考察は、別の知見も与える。われわれはかなという民族文字を使いつづけているため気がつきにくいが、文字は言語を超える。したがって、(言語と密接に結びついている)民族も超える。ふつうに考えれば、文字はそれを使う言語の特徴に応じているはずだと思われ、実際かななどは、中国の文字である漢字が日本語を書き記すのに適さないため、漢字から万葉文字を経て形成されてきたので、日本語を書き表すのに非常によく適合しており、逆に外国語中国語でも英語でも、あるいは最近隣のアイヌ語でも)を書くのにはまったく不適当だ。そして成立以来ずっとそれを漢字と混ぜて使いつづけている。

このような自然で幸福な文字と言語の関係は例外で、当該言語を書くのに適当か不適当かに関わりなく、諸民族とその言語は近隣大文明の文字を採用し、いくらかの改変を加えることで満足している。つまり、文字と言語は対応しない。子音表記で用が足りるセム族の言語に適合したセム系子音文字が、母音表記を必要とする印欧語やテュルク語に採用されるという例が示すとおりだ。文字と言語が対応しないのに対して、文字は文明と分かちがたく結びついている。そして、文明とは宗教なのである。出生以来宗教嫌悪を性格とする近代文明の息子らは認めたがらないかもしれないが、文明は世界観や過去世・現世・来世にわたる史観を基底にもっているのであり、それはまさに宗教の基礎と同じだ。上の一瞥でもわかるように、四種の文字体系がそれぞれ宗教に応じているのが如実に示すとおりである。もちろん、ヘブライ文字ユダヤ教アラビア文字イスラム教のようにきれいに一心同体化しているものばかりではなく、ギリシャ文字はまずヘレニズムの文字として広がり、ローマ帝国キリスト教化を経てギリシャ系文字はキリスト教の文字となったのだけれど、一度そうなってからはこの宗教と分かちがたく結びついていた。

文字の交替は文明の交替である。そのことはエジプトを見ればよくわかる。聖刻書体に神官書体、さらに民衆書体を加えつつ使われてきたエジプト固有の文字は、5世紀を最後に消える。代わって現われたコプト文字は要するにギリシャ文字で、それに民衆書体から採られたいくつかの文字を加えたものにすぎない。当然左起横書きで、いわゆるコプト教徒、エジプト人単性論キリスト教徒の文字である。しかし、イスラムの征服によってここでもアラビア文字に取って代わられることになり、コプト教徒(エジプトキリスト教徒)こそ今も残っているものの、コプト語コプト文字ともに消えてしまった。


文字を考える場合には、書体だけでなく、何に書くか、何で書くかも見ておかなければならない。

文字が書かれる材料については、三大別できる。鉱物性(いわゆる金石文、つまり石や金属、そして粘土板など。甲骨文字の書かれた亀の甲羅などは動物性とも言えるが、ここに含めるべきだろう)・動物性(羊皮紙などがそうだ。なおカローシュティー文字の名は驢馬の皮に由来するという説がある)・植物性(パピルスやヤシの葉、樹皮、板、竹、布、そして紙)である。さまざまな物が用いられてきたが、結局紙と石が残ったと言っていい。特に紙の有用性は卓絶していて、印刷術はまず木版として隋唐のころ中国でできたのだが、それは紙があったればこそである。紙があって、印刷が可能になったのだ。その意味でほぼ書写材料の最終形態かと思えたが、ここへきて液晶というものが現われて、鉱物が復権した。

書記用具については、日本語の「書く」の語源が「掻く」であるごとく、また英語の「write」、ラテン語の「scribo」の語源が「刻む、ひっかく」であるように、硬いもので掻いて痕をつけることから始まったのは言うまでもない。石碑などはもちろん今でもそのように書くわけだし、書記術の起源メソポタミア粘土板に葦のペンで「書く」のは「彫る」に近い。インドでは針筆でシュロの葉に鏤刻し、その痕に炭の粉を付着させる方法をとっていた。

漢字「書」の場合は、「聿」があるから筆で書くことを表わしている。竹簡・帛書の時代から筆と墨であったが、これは紙にも非常に適合している。


また、誰が書くのか、という問いもある。最古代において、書くのは祭官や書記に限られていた。書記術は特殊能力で、年月をかけて学習しなければならない。その意味ではエリートであって、識字層は「識字カースト」を成す。古い時代の文字体系はしばしば非常に複雑であるが(今なお使われている「古代文字」である漢字を想起すれば、その一斑はわかる)、書記術がほとんど普及していない段階では、その能力習得のために時間も労力もかけられる「特権カースト」のメンバーには大きな問題ではなく、むしろ複雑さのため余人が近づけないほうが「カースト」成員には有利であった。「秘儀」化は彼らの望むところだ(朝鮮両班が簡明で便利なハングル軽蔑し、その普及を妨げて、外国文字の漢字、外国語の漢文を守りつづけていた心根を見よ)。

神官祭司が文字階級であったから、古代の書物に宗教書が多いのは当然だ。また書記官の仕事として歴史・法律も書き記される。その仕事が石に書かれた碑文の形であれば、時を越えて残ることになりやすい。それら宗教法律・歴史に対し、詩は口誦が原則で、文字に記されるのはさまで古くはない。人類が人類になった時から詩はあったはずだが。

神官はある教義を信奉する者の自然として、自分たちの教義に縛られ、ほかの宗教に対して偏向している。書記官は国家王室の奉仕者であるから、見方は当然狭くなる。古代以降、識字能力がある程度普及してからも、それを保持する者は社会の小さな一部分でしかなく、ひとつの階級をなしていて、彼らの書き物は非識字階級(つまり民衆)や他国他文明に対して大きなバイアスがかかっているし、意図的非意図的な書き落としがある。そのことは決して忘れてはならない。

中国文明の大きな特色として、「神話がない」ということが挙げられる。歴史記録に異様に熱心で、その一方、古代の他の民族のもとでは豊富に見いだされる神話が異常なくらい乏しいのだ。それは中国文明の性格かもしれないが、民族全体の特性というより記録事務にあたった書記階級の特性かもしれない。たぶんその双方の相乗だろう。


印刷術の普及というのは文字の発明以降の文明全体の歴史を通して見ればつい最近のようなものだが、それ以前の長い時代、書物は手写されていた。文字の発明以前には、それを文字に記せば書物となる「原書物」は口誦されていた。太安万侶以前に稗田阿礼がのちに「古事記」となるものを口誦していたように。

近代以前、長く暗記は教育の中心であった。なにもインドイランのアーリア族の極端な例を待つまでもなく、「シノタマワク…」、論語全文を素読暗誦するのは江戸時代教養人の基礎だったし、今もイスラム神学校では子供たちが体を揺すりながらコーラン暗誦に励んである。

書物の出現は明らかにわれわれの記憶能力を著しく減退させているが、そこには触れないことにして、まず写本の問題を見てみよう。

印刷術発明以前、書物は書いて伝えられた。そして、原著者の自筆稿本が残っていることはまずない。聖徳太子の「法華義疏」(615)の自筆稿本が残っているのは稀有の例外で、日本という国の「正倉院的」性格によるものだ。外敵の侵略がなく、4世紀以来ただひとつの王朝が連綿と続いている国など、ほかにあるものではない。内乱はもちろんあったし、地震・洪水・火事などの災害が非常に多く、高温多湿であるという保存に不適当な条件がいくつもあるにもかかわらず、このように古物がよく保たれている。木版印刷が隋唐に始まりながら、中国には最古期の印刷物が残らず、日本に「百万塔陀羅尼」(770)が残っているのも同様だ(木版印刷については新羅仏国寺に伝わる「無垢浄光大陀羅尼経」が8世紀前半と考えられ、最古であるようだが)。そのような例はあるものの、たとえば「古事記」は室町時代初期の写本が最古だし、「源氏物語」も紫式部自筆本などはもちろんなく、最古の写本は鎌倉時代である。

古事記」は稗田阿礼が暗誦していた「帝皇日継」「先代旧辞」を太安万侶が筆録編集したもので、それ以前にも「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本紀」のような書物があったようだが、蘇我氏滅亡の際焼失して伝わらない。写本の場合、もし一部しかなければそれが失われれば完全に消え失せてしまうし、数部程度の存在なら散逸の危険性は非常に高い。というより、写本時代の書物は今に伝わらないほうが常態で、伝わっているのが偶然のようなものである。だから始皇帝の焚書は伝世の大いなる危機で、あの時代は読書人口も少なく、したがって写本の部数も少なかったであろうから、燃やされて失われた本は多かっただろう(印刷隆盛の時代のナチスの焚書はパフォーマンスだけである。版本が多くあるのだから失われることはない。よりタチの悪いのは体制に都合の悪い資料の組織的焼却で、敗戦時に日本の官僚や軍人のしたことが好例だ)。そのように意図的に滅ぼそうとされずとも、災厄災害に遭うことで滅びてしまった書物はきわめて多いはずだ。平安時代の物語で現存しているのは40ほどであるが、名前のみ知られて伝わらないいわゆる散佚物語は240ある。「夜の寝覚」「浜松中納言物語」のようなものは一部が失われている。伝わらなかった大きな理由は写本が少なかった、つまり人気がなかったからであろうし、ほとんどは凡作駄作だろうが、240もあれば中には佳作もあり、あるいは傑作もあったかもしれない。現存40作中にも、一部の傑作以外に凡作が多くあるが、それらが世に残った理由はただ幸運というだけではあるまいか。


中国というのもまたインドに負けず劣らず特異であって、史記以来の各王朝の正史の山に見られるように、できごとの記録を取ることに異常に執着するという文明のありかたをしている。この文明は連続性に大きな特徴があり、日本で特徴的な連続性が「万世一系」の王朝の継続と外敵の侵入を免れていることで支えられているのに対し、王朝は頻繁に交代し、中国史は外敵侵入史と同義と思われるほど侵略されまくりであるにもかかわらず、その文明はとぎれることなく殷周以来今日まで続いている。甲骨文字以来字体は変わっても同一の文字を使いつづけ、紙を発明し印刷術を興した中国文明は、書き物に有利な環境が整っていた。書物の普及でも世界に冠たるものがあった。「1750年までに中国語で出帆された図書の数は世界中の他の言語で書かれた図書全部を合わせたよりも多かったという」(フェアバンク「中国」上、市古宙三訳、東京大学出版会、1972.p.39)。

とはいえ、王朝の力が衰えると必ず戦乱の巷となってきたので、特に写本の時代には伝承が脅かされることはしばしばあった。いわゆる五厄、隋代までの書物の五つの災厄に数えられるのは、始皇帝の焚書、王莽打倒の反乱での国家蔵書の焼失、後漢末および西晋末の混乱、梁末の国家蔵書の焼失であるが、それはその後も繰り返された。一方で、漢の武帝を始め、皇帝権力による文献の体系的収集も四庫全書に至るまで行なわれたのだが、それが逆に、王朝滅亡時の戦乱による佚書を招くことにもなるわけだ。現存最古の目録「漢書」芸文志に載っている書目のうち、そのわずか4分の1、約150点が完全にか部分的にか残っているだけである(銭存訓「中国古代書籍史」、宇津木章・沢谷昭次・竹之内信子・広瀬洋子訳、法政大学出版局、1980、p.21)。

中国佚書史の中で、日本はおもしろい役を演じている。「遊仙窟」など、大陸で滅び日本で保存されていた本というのがいくつもある。また、それとは違う意味だが、「揚州十日記」「嘉定屠城紀略」のような清朝初期の満洲軍による虐殺の記録は、大陸では所持しているだけで死罪になる禁書だが、清に服属せぬ独立国の日本では平気で出版されていて、清朝末期の日本留学生は日本でこれらの本を読んで衝撃を受け、滅満興漢革命の意志を堅くした。

書物が残ることに関しては、偶然もあり、必然もある。発掘によらなくてはわからないメソポタミアエジプトの古代と異なり、中国については非常に古い時代の記録が書物の形で連綿と伝えられてきた。中国の古代についてわれわれはかなりよく知っている気になるが、よく見てみれば、われわれが知っているのは魯の歴史や制度なのである。他の諸侯国にも記録はあったが、魯のもののみが残った。要するに孔子祖国の記録であって、彼とその弟子たちが守ってきたからで、この保存は必然である。むろん失われるより残るほうがよく、一国からも全体は推し量れるが、しかしやはり魯だということは忘れてはならない。


なお、書物先進国中国では紀元前にすでに書店(書肆)が存在していた。大図書館文書館アッシリアの昔からあるが、識字層が広がれば写字生を使っての書物生産も商売になるわけで、ギリシャには前5世紀から書店があったという。しかししょせん写本であるから、ギリシャでも佚書は常態で、たとえば「アイスキュロスの劇は少くとも七十あった中からたゞの七つが、ソポクレースのは百十三の中からたゞの七つ、エウリピデースのは九十二の中からたゞの十八、アリストパネースのは少くとも四十三の中からたゞの十一が残ったにすぎないこと、そしてギリシアのその他のすべての悲劇・喜劇詩人の作品は何も残っていないことをわれわれは知っている。五世紀の終り頃にストバイウスが編纂した大抜萃集中には、湮滅した作品からの引用の方が伝存作品より取ったものより遥かに多い。(…)ざっと勘定したところ、ストバイオスの最初の三十部門では三百十四が現在なお残っている作品からの引用で、千百十五が湮滅したものからである」(ケニオン「古代の書物」、高津春繁訳、岩波新書、1953.p.30)。

アリストテレスを見ても、3世紀のディオゲネス・ラエルティオス「哲学者列伝」に挙げられているアリストテレスの著作目録中のかなりの部分が失われている。そのリストは完全ではないことは重要な著作である「形而上学」がそれに漏れていることからもわかるが、一方、失われたと思われていた諸都市国家の国制についての資料集のうち、「アテナイ人の国制」が19世紀末になってエジプトで発見されるなどということも起こった。ギリシャ文明を代表する大学者で、のちの西洋の哲学の基礎をなすビッグネームであるのに、キリスト教の時代には読まれなくなり、8・9世紀のアラビア人やルネサンス期(いわゆる12世紀ルネサンスを含む)のヨーロッパ人によって再発見されたのちに、今日まで続く地位を得たのである。

キリスト教化とはキリスト教著作の絶対的な尊重と「異教」著作の軽視蔑視であって、その意味で明らかな野蛮化、野蛮の過程である。そもそもヘレニズム文明から見れば、ユダヤ教バルバロイの寝言その一であり、キリスト教は寝言その二(ただ、この寝言にはギリシャ人自身が没入してしまい、みずからの過去の栄光のかなりの部分を打ち捨ててしまった)、イスラム教は寝言その三なのである。

古典古代の学問はアラビア経由で西欧に伝わった、などと言われることがよくある。ギリシャ哲学や科学の成果がシリアバグダッドシリア語・アラビア語に翻訳され、それがイベリア半島イスラムキリスト教ヨーロッパの接する地点であった)のトレドなどでヘブライ語を通じてラテン語にさらに訳されて、ヨーロッパの学術復興をうながした、という歴史である(その際、ネストリウス派キリスト教徒ユダヤ教徒が大きな役割を果たしている)。しかし、その言い方にはいくらか意外の念がこめられているのを感じないわけにはいかない。先進ヨーロッパと後進アラビア、文明ヨーロッパと野蛮アラビア、という近代の眼差しからくる意外さである。だが、古典古代文明と相容れないキリスト教なんぞを信奉している土地、武力による成り上がり(ローマ人)と蛮族の土地である西ローマで忘れられたのはごく自然なことであって、故地である東ローマ帝国ビザンツ帝国)の領域内でそれが保たれたのもまたごく自然だ。ヘレニズムの中心はギリシャ本土およびアレクサンドリアアナトリアシリアの地域で、つまり東ローマ帝国領である。バビロニアはヘレニズムから見れば周縁部だが、文明一般からは中心だ。このうち、ギリシャ本土とアナトリアを除いてはイスラムの勃興によってイスラム帝国領となった。ギリシャの遺産がアラビア人の手に渡り、ヨーロッパ人の手に残らないことに何らの不思議もない。中心から周縁へ文化は流れる。いわゆる12世紀ルネサンスは古代の学問がアラビア文化からイベリア経由でヨーロッパに流れ込んだ現象、ルネサンスは(オスマン帝国によって滅ぼされた)ビザンツから流れ込んだ現象と捉えるのが実態に即している。


古典を読め、と言う。古くから読み継がれてきた本には価値があるに違いない。教えられること多いのは確かだと思う。そのことに異存はない。だが、「古典を読む」ことに関しては、実のところわれわれは自文化の古典しか読めないのだ、という事実がある。

そこそこ教養のある日本人が実際に読んでいる「古典」とは何か。四書五経諸子百家の書や史記などの史書、日本の古代中世文学、仏典、聖書ギリシャローマ哲学書や歴史書叙事詩劇作ルネサンス期以降の西欧文学、啓蒙期以降の西欧哲学、まあこんなところだろうが、一見して非常に偏っているのがわかる。簡単に言えば、ヨーロッパ人が「古典」と考えるものと、明治以前の日本人が「古典」と考えていたものの足し合わせにすぎない。日本人たるわれわれの現在の文明がそういうものであり、だからわれわれの「古典」もそういうものであるわけだ。東亜文明と西欧文明だけによっているということで、それは世界の全体ではありえない。ま、西欧文明しか知らない欧米人よりずっとましではあるのだが。単純に倍だからね。

それ以外にももちろん「古典」はある。だが、インドイスラムの人々が古典としているものをわれわれはよく知らない、ヴェーダコーラン、そのほかにマハーバーラタラーマーヤナ、カーリダーサの作品、ウパニシャッド、また千一夜物語、王書などは、邦訳もあり読んでいる人もいようが、「必読」とされているわけではないし(上記東亜西欧古典を知らなければ知識人として軽侮を招くおそれがあるが、こちらのほうは読んでなくとも何ら欠格条件にはならず、ただオプションであるだけだ)、これら以外についてはほぼ無知である。

古典について言えるのは、「生きている」ものしか読めないということだ。まさか写本を読むわけではあるまいし、読むのはいずれ校訂された刊本である。つまりまず校訂を経ていて、さらに、現代と大いに異なる古い時代の書であるから、注釈や解説が必要だ。外国語のものの場合、あるいは必要なら古語の場合も、翻訳されているわけで、「古典」はそのようなさまざまな「加工」を通して提供されているのだということを忘れてはならない。そのような労力がつぎこまれるのは、その書を読むことをその社会が奨励しているからである。つまり、古典に親しむというのは、所属する社会がよしとするものをよしとする追認の態度である、ということだ。

自分の社会が奨励する「古典」はもちろん読むとして、それ以外の「古典」、インドにはインドの、イスラムにはイスラムの「古典」があり、それらについても読めるなら読めばいい。だが、話はそこではないのだ。無文字段階が長く続いていた文化には読むべき自文化の「古典」が乏しく、他文化の(多くの場合植民地宗主国の文化の)「古典」を読むことをそれらの宗主国式に教育された教師に奨励されるという事情が一方であり、みずからの「古典」を堂々と保持している文明についても、生き残っている時点で「勝者」であり、彼らについての知見を広げるのは結局勝者の間のやりとりだ。言いたいのは、敗者、「失われた世界」について、われわれは何を知っているだろうか、ということである。

勝者は敗者の書物を滅ぼす。ヨーロッパキリスト教徒イスラムによる異教の図書の破却を非難するが(「もしその本がコーランに反せば、異端である。焼くべきだ。もしコーランに同じなら、無用である。焼くべきだ」)、パウロも焚書をしたと聖書に書いてある(「使徒行伝」)のを想起すべきだろう。パウロによる布教を受け入れたエフェソスの人々は、改宗の熱狂により所持していた魔術の本を焼き捨てた。それらはあわせて銀5万もの値打ちがあったという。「魔術」と言っているが、当時の魔術は占星術をはじめとする当時の科学を含むのである。キリスト教によって滅ぼされなかった場合、その「魔術書」のうちから「古典」が現われなかったと誰に言えよう。かれを批判しこれを称揚するのは、その人がこちら側に属していることをしか意味しない。始皇帝ナチスの焚書が非難されるのは彼らが敗者であるからで、パウロが褒めたたえられるのは勝者であるからだ。イデオロギーのなすわざとして何の違いもない。

古典は読むべきだ。だが、読むときに「古典」をめぐるこういう事情もわきまえておくべきだろう。


歴史なんかは徹底的に疑わなければならない。

アレクサンドロス大王というのは破壊と掠奪をこととする征服者なのだが、英雄の光輝にのみつつまれて、賞賛の声のみを聞く。権力の栄華で堕落する前に、若くして華々しい成功のうちに死んだからでもあり、賛美者に恵まれているからでもある。滅ぼされたペルシャの側から見ないからである。ギリシャ人はもちろん自分たちの英雄を賛美する。そのギリシャからローマ、西欧へと続く文明は歴史記録に熱心で、われわれの教えられる歴史のかなりの部分は彼らの記録によって書かれている。その側にずっと属しつづけたアレクサンドロスが英雄でありつづけるのは当然だ。

相手側、ペルシャ帝国の建設者キュロスは、同じく世界帝国を築いた大征服者で、より慈悲深かったと思われるのに、その栄光は十分に賞賛されていない。アレクサンドロスに比べると影が薄い。それは、のちに彼の帝国が滅びたことにもいくらかはよるが、主にペルシャが歴史記録に熱心でなかったことによる。ペルシャ帝国については碑文以外の記録に乏しく、ギリシャヘロドトスの書が主要な史料という状態では、実態に即したペルシャ像が歴史の中に座を占められないのもやむをえないのだが、正しいことではない。

チンギス・ハーンはもっぱら破壊と虐殺をしてまわった無慈悲残虐な征服者というイメージが強い。チムールも破壊虐殺では引けを取るわけではないが(征服というものはたいてい破壊と虐殺を伴うから、大征服者にこれはつきものだ)、そのイメージは決して悪くない。中央アジア西アジアで暴れまわっただけで、チンギス・ハーンに比べれば規模が小さいということもあるけれども、もちろんそんなことが理由ではない。歴史記録に執心する西欧文明と東亜文明が攻撃されなかったからだ。西欧にしてみれば、直接の敵で脅威であったオスマン帝国を打ちひしいでくれたわけで、「敵の敵」で味方である。最晩年、征明の軍を起こす直前に死んだため、明とも直接事を構えなかった。これが征明に成功していたら、評価も違っていただろう。モンゴル軍は、中国はもとより東欧までも侵掠していたので、両文明は貶め罵る言辞を記録に残したのである。ユーラシアの歴史はほぼこの両文明の記録によって書かれるのだから、イメージは悪くなるに決まっている。遊牧民と定住民の違いもあろう。チンギス・ハーンは純然たる遊牧民であった。移動を常とする遊牧民は、そもそも記録や書記の作業から縁遠く、それはほぼ定住者の専管である。首都サマルカンドを飾り立てるのに熱心だった定住者のチムールは、この点でも有利だった。

歴史について考える場合、歴史は勝者によって書かれるというのが第一の、記録に熱心な文明の史料によって書かれるというのが第二の与件としてあることを知っておかなければならない。歴史というものは根本的に偏向があり、歪んでいるのである。

文明の連続という点では、ギリシャローマは連続した一体と見なしうるとしても、ローマヨーロッパの間には切断があって、ローマ帝国の滅亡キリスト教化というのが切断線になるわけだが、滅亡前にキリスト教ローマというのが成立しており、またラテン語使用という連続線もあって、継続性も認められる。客観的には「異教」的ギリシャローマと西欧は別の文明と見られるが、西欧人の自己認識にそれはなく、みずからをギリシャローマ文明の正統の後継者を思っているだろう。

中国については、前に見たとおり殷周以降一貫してひとつの文明を成している。インダス文明以後のインドもひとつの文明と言ってよく、イスラムの侵入によってもそれが破られたわけではない。

それに対して、西アジア北アフリカの文明史は何度も断絶している。アレクサンドロスの征服(つまりヘレニズム)とイスラムの征服によるふたつの大きな切断がある。ペルシャ帝国キリスト教は切断とは言えないが、それぞれ古代セム族帝国・ヘレニズムに独自の影を入れた。アルタイ系遊牧民の侵入も影響を与えている。言語と文字と宗教がこんなに交替した地域はほかにない。特に言語と文字の交替は伝承の上の大問題で、同じ言語同じ文字であっても写本は絶えず書き継がれることで世に残るのに、ここではその上さらに繰り返し翻訳や転写が行なわれなければならず、それができなければ断絶することになり、実際多くのものが消えた。そういう事情が深くこの地域の文明史を規定している。要するに、西アジア文明史は失われつづけていたのである。言語のみならず文字も変わるので、翻訳や再述によって伝承されないものは読まれなくなり埋もれていった。

古代西アジア史は、聖書学、旧約聖書史料批判の領域であった。西アジア古代史の伝存する有力な史料は、ヘロドトスと岩壁の碑文などを除けば、ほぼ旧約聖書のみであったからだ。ヘロドトスユダヤキリスト教、つまり勝者によって歴史は書かれるのだということを如実に示す例である。それ以外の史料近代ヨーロッパ考古学的発掘によって土の中から掘り起こされた。聖書のノアの洪水に類似する話がシュメール以来この地域には数々あって、その考古学的発見がヨーロッパでセンセーションを巻き起こすのだが、あの洪水伝説にしても、説話モチーフの伝播という共時的視点で捉えるのはまったく不十分で、言語や文字の、つまり文明の交替にともなって、あるいは翻訳され、あるいは再述されてきた同一の物語の変奏と考えるほうが適当であろう。

さらに。近代まで文字を持たなかった無文字社会には歴史はない。彼らの歴史を再構成しようと、他民族による記録や口伝えの伝承や発掘成果などをかきあつめて手を尽くしているが、根本的な無理はなかなか埋めがたい。当時文字をもたなかった倭人の国邪馬台国について、正史である「三国志」の記載を信じると、その位置はグアム島あたりになってしまうし、洛陽並みの人口があったことになる。むろん誤記だとすぐにわかるが、では邪馬台国の位置はどこかということで、終わりのない論争が繰り広げられているのを見ればいい。また、その国名も「邪馬壹(一)」と記されている。これは「邪馬臺(台)」の誤記だというのが定説だが、「邪馬一」だとする説もある。史料がこれひとつしかなく、それが誤りを含んでいるので、諸説出てくるわけだ。われわれに身近なこの例をもって、他も推し量れよう。

有文字社会でも、近代に至るまで一般庶民はほとんど無筆であった。あの厖大な書籍の山をこしらえた漢民族にしてからが、あれを書いたのは読書人・士大夫層で、彼らに特有の限られた視角から記されたものばかり、それ以外の手になる書など何ほどもない。他の社会に属する者の書いた記録は、一面で同じ社会の者にはない客観性も見られるが、不正確さや誤解曲解はまぬがれないし、偏見や為にする記述が交じり、偏向しているのが普通だ。そんなもので民衆の歴史や想念がわかるはずはないと考えて興ったのが口承の民間伝承を資料とする民俗学で、欧米人が未開人を研究する民族学とは似ていながら根底のところで異なる学問であるが、相補うものでもある。いわゆる「歴史」によっては、真の歴史はわかるはずがないのだ。わからない、と見据えたところから、すべては始まる。「歴史はもと我々の足跡の如く、無意識に後に残されたものではなかった。孔子の筆になるという「春秋」の昔から、筆者が是ぞ伝うるに足ると認めた事実だけを竹帛に垂れたのが歴史である。従うて其内容の如きは、即ち史官の判断選択に依るより他はなかったのである。史官は最初から歴史の一部を無歴史にしようとする意図を持って居たともいえるのである」。「今日の歴史の閑却している部分に、我々が知りたい歴史、即ち自分の謂う史外史が存するのである」(「民間伝承論」)という柳田国男の言が鋭く指摘するとおりである。

2016-09-15 リオ五輪雑感

ちょっと旧聞だけど。

サッカーの日本代表は残念だったが、本来あの対戦相手で1勝1敗1引き分けは大いにありうるし、決して悪くない成績だ。グループ1位のナイジェリアが3連勝か2勝1分けで走ってくれたら決勝トーナメントに行けたわけだし。スウェーデンには最初から勝つと確信していたが、結果として銅メダルを取ったナイジェリアに1点差負け、南米最優秀選手をオーバーエイジにもってきた大陸の雄コロンビアに引き分け。世界的に見れば何も特別なことは起こっていない。

実は、ナイジェリアには勝つか、悪くても引き分けだと思っていた。大会準備でガーナ南アフリカギニアと対戦し、きれいに勝っていて、黒人特有の身体能力にも慣れていただろうから、それに振り回されることはあるまいと思って。しかし、オーバーエイジの選手はその試合に出ていなかったし、彼らを含めて世界の大舞台を経験していないので、ひどいミスばかり犯して自滅した。それに、1点差というのはだいたい0−1とか1−2のことである。4−5はありえない。4点取ったら普通は勝つよ。引き分けすら想像しにくいことで、ましてや負けるなんて、常識を逸脱している。

しかしながら、(PKを除いて)日本チームの得点はことごとく美しかった。アジア予選からそうだ。不思議なチームである。得点にならなかった美しい崩しも多い。

けれど、ミスが多かった。あんなに愚かなミスをしていれば、罰せられなければならない。だから、結果は至当である。だが、ミスの多さを得点力と少しの幸運で乗り越えてもよかった。常識外れもいいじゃないか。ま、常識どおりで文句はないけれど。


いろいろな涙を見た。

ブラジルドイツの決勝戦は、できすぎたストーリーのようだった。PK戦で5人目のドイツの選手が止められ、最後のキッカー、ネイマールが決めて勝つ。ネイマールは泣いていた。プレッシャーのすさまじさが思われる。ハッピーエンドでそれから解放された瞬間涙が溢れるのは、非常に人間的な光景だ。

ホームだから声援もものすごいのだが、それは期待の反映で、ふがいなければ容赦なく自チームにもブーイングする。予選リーグで0−0なんて試合を続けていたときは、女子選手の名前をコールされていたという。あんな過度の(と日本人には思える)重圧の中でいつもプレーしていたら、そりゃあ鍛えられるよね。

それを思えば、日本のサッカーはプレッシャーがない。南米選手にはそのことを批判しながらも日本が好きな人が多いが、きっと無用なプレッシャーがなくて快適なのだろう。監督は尊敬されるし、給料は必ず支払われるし。


泣いたといえば、レスリングの吉田だ。負けて泣くのは珍しいことではないが、あんなに泣いた選手は初めて見た。期待の重圧を感じていて、責任を果たせなかった気持ちからなのだろう。日本人は露骨にプレッシャーはかけない。無形無言のプレッシャーであり、責任感のあるまじめな日本人はそれをひしひしと感じる。察するというやつだ。よき日本人である彼女は、それを過剰に意識していた。きわめて日本的なあり方だったと言える。

彼女は父親にレスリングを習い、その父親を亡くしていると聞いた。敗戦後、観客席の母親と抱き合いながら、「お父さんに怒られる〜」と言っていたのが耳に残っている。トルコの女の子はみなファザコンだが、日本もけっこうそうなのか? 女子選手と父親の関係はおもしろいかもしれない。重量挙げの三宅親子とか。女子選手は底に愛のある厳しいコーチを父とも兄とも感じ、従順に従うような印象があるのは確かだ。鬼の大松とニチボー貝塚とか。

勝ったアメリカのコーチが声をかけにそばに来たが(長年君臨してきた王者に対する当然の敬意である)、日本のテレビのインタビューが終わらず、吉田選手が泣きつづけていたので、去っていってしまったのがおもしろかった。インターナショナルな配慮がドメスチックな要請に負けていた。


「攻め続けましたね」「それが自分が教わったレスリングです」

選手の発言では、この受け答えがよかった。だいたい日本人には名文句が少ない。自分のことばで話さないからだ。インタビューは定型句ばかりである。答えるほうだけでなく、質問するほうも。それでは単なるセレモニーだ。日本人のセレモニー好きは骨髄に徹している。

加藤沢男のような最終種目での大逆転で優勝した内村に対し、会見で「あなたは審判に愛されているのではないか(つまり、ひいきされているのではないか)」と質問した記者に、「無駄な質問だ」と横からぴしゃりとやったウクライナの選手もすばらしい。王者の実力を知り、自分がそれにわずかに足りなかったことを知っている最高の銀メダリストの発言だった。とっさに出ることばによって、その人の本当の価値がわかる。


美しい敗者がいる一方、醜い敗者もいる。だだ1人を除いてあとは全員敗者になる運命なのだから、敗北を受け入れるのはつらくても必要なことなのだが。

サッカー韓国代表は準々決勝で敗れたけれど、終わったあと執拗に抗議をしたようだ。韓国らしい。自チームにも非難を浴びせるが、相手チームのエースで得点者のSNSに罵りの書き込みをしていたそうだ。事実を、現実を認めることができない人々である。罵れば事実がくつがえるとでも思っているのか。

ある中国人が、日本人にとって歴史は学問、中国人にとって歴史は政治、韓国人にとって歴史は願望、と言ったそうだが、至言だね。日本人が学問というのには多少割引が必要だが、あとは本当にそのとおりである。

好太王捏造説なんてのもあったな。日本の特務機関が碑文を書き換えたという説。当然のごとく否定された。都合の悪いものは捏造だとする考え方の人は、自分自身が都合が悪ければ捏造をする人間だということを語っているのだ。


この五輪では、観客のブーイングや野次が問題になっていた。要するに、ブラジル人にとってのスポーツはサッカーであり、サッカーの観戦(というか、参戦)様式でしかスポーツが見られない「パブロフの犬たち」だったのだろう。サッカーがしょせん下賤なスポーツだということでもある。その中で時おり高貴の瞬間が輝く。


大会中、強盗のニュースをよく聞かされた。だが、強盗事件はリオデジャネイロではふつうのことであり、リオの日常の視点から見れば、その中にオリンピックがよそものとしてやってきたにすぎない。カモを大勢引き連れて。リオにとってはオリンピック侵入してきた異物で、オリンピックにとってリオが客体なのではない。

選手村やそのほかのホテルで、湯が出ないだの、水があふれるだの、ドアが閉まらないだのといった苦情が頻出したらしいが、一部の先進国以外のこの地球上ではごくごくふつうのことである。バラの木にバラが咲いているだけ。盗みも日常茶飯事だが、選手村の客室係がしてはさすがにまずい。逆に、客室係を強姦しようとした選手が3人もいたという。こうなると目糞鼻糞じみてくる。

強盗事件も(当然)多かったが、強盗のでっちあげをアメリカ金メダル選手がやったのは新機軸だった。

われわれナイーブな日本人は、オリンピック選手を崇拝する習性があるが、オリンピック倫理性を競う大会ではない。しかし、日本のスポーツ選手はけっこう倫理的で、選手に倫理を求めることを観衆も選手自身もさほど奇異に思っていない。日本の運動選手はすべて「代表選手」だからであろう。日本のスポーツはまず学校スポーツであって、学校の代表として全校生徒の前で壮行会などやってもらっているから、母校の名誉を賭けるという矜持に慣らされている。私生活としては不良もかなりいるけれど、こういう態度は身についている。まして国を代表するともなれば。高野連の呪縛というか、何にせよ自他ともに倫理的にならざるをえないのである。

そんな日本の特殊事情を離れれば、スポーツ選手は身体能力が高いだけのあんちゃんねえちゃんである。選手村コンドームが配られるのも、現実に対応しているわけだ。優秀な兵隊だということだ。兵隊とは強姦をする連中のことである。


あと、閉会式で首相コスプレをやったようだが、つまりコスプレ日本の文化だと宣言したわけだな。

2016-08-16 宋寨村の村芝居座について補足的に

宋寨村は、河南省の懐慶府(今の沁陽)や清化鎮(今の博愛県)の近くにある村である。清朝最末期の明治40年(1907)に当時中国に留学中の桑原隲蔵が(宇野哲人とともに)長安への旅の途上にこのあたりを通っているので、その日記を見てみよう(「考史遊記」、岩波文庫、2001、p.33)。

「九月五日 晴 行程一百里

午前五時二十分馬車を賃して清化鎮を発す。暁寒膚に徹す。十時二十分水北関清化鎮より三十五里余に「漢孝子丁蘭故里碑」あり。沁水を渡り十一時懐慶府清化鎮より四十里に着す。府の東関外に「漢孝子郭巨故里碑」あり。城外に「何文定祠」あり。南関外に「明礼部尚書何文定墓」あり。憾むらくは、この日行程遠くしてひとえに前往を急ぎ城の内外を細観するを得ざりしことを。午後七時半孟県清化鎮より一百里の大昇店に宿す。」

丁蘭・郭巨ともに二十四孝に挙げられる孝子である。

なお、リヒトホーフェン(「絹の道(シルクロード)」という語を作った人として知られているドイツ中国学者で、ヘディンの師)も1870年にこの地域を調査しており(「支部那智旅行日記」中、慶応出版、1944)、「清化鎮近在の小村に腰を据え、この賑やかな市場町で陶の手引きによって荷獣と乗獣を傭ふ談判をした」(p.284)と書いている。「町の住民は、この一帯に住む人達と同様に善良であるとはいへ、その数は際限がなかった。二日の滞在期間に、町民といふ町民が、我々を見にやって来た。群集は、再三、旅館の、閉鎖した大戸を圧し潰して、たちまち部屋の中まで闖入した」(p.286)。河南省以外では、「洋鬼!」と罵られたり、襲われそうになったりしているが、この省では、物見高く押し寄せるが危害を加えることはないという同時代の日本と同じありかただったようだ。そして、「懐慶府は、大きな町であるにも拘らず、商業都市ではない。そして、この点では、清化に遥かに及ばないが、しかし、二つの特有な産物を持ってゐる。一つは、鋼製品、特に、小刀、剃刀、道具類の製造である。山西産の鋼は、蕪湖及び漢口から輸入される英国鋼と混合されてゐる。前者だけでは余りに脆く、後者だけでは余りに軟らかすぎるからだ。当地の鋼製品は、大きな名声を獲得してゐた。この町は一種のゾリンゲンである。もう一つの特産物は、此処で沢山作られてゐる、ある植物の根である。その根は、地黄といふ名で呼ばれ、盛んに薬用に使はれてゐる。が聞くところによると、強壮剤として効能があるのださうである」(p.288)と言っている。


「懐梆」というのは、懐慶府近辺の梆子腔という意味だ。梆子というのは拍子木で、それを用いるのが特徴である。この劇は陝西・山西あたりに起こったらしい。

旧劇は雅部(崑曲)と花部(乱弾)に分けられる。「中原大雅の音」と言われる優雅な崑曲に対し、乱弾というのは激しい調子の庶民的な地方劇で、方言を用いる。そのひとつが梆子腔である。京劇は、安徽省の徽班という劇が崑曲や梆子腔のような乱弾を取り入れて成立したものだそうだ。だから梆子腔と京劇河南省の豫劇などはかなり違うらしいのだが、通じない者には同じように見える。それはちょうど、私のような中国語のわからない者には、中国語の方言の違いがわからず、全部中国語に聞こえるのと同じだ。

梆子は方言で演じるわけだが、そうすると村人には近くなるが、標準語で教育を受けた若い高学歴世代からは遠くなる。


この村の一座の創設は新しく、第二次大戦後国共内戦後である。

1949年の建国後の初めての春節を祝うために、板胡が好きな李直基氏は、リーダーとして村の住民と積極的に協力して、宋寨村懐梆劇団を結成した。(…)劇団のメンバーは農民であり、農繁期に農業をし、農閑期に懐梆を演じ、村民を楽しませた。

50、60年代に懐梆は最も輝かしい時期を迎えた。役者たちは新しい演目を学び、あたりの各地を巡って懐梆を演じた。1966年から1977年までの文化大革命期は、革命模範劇だけを演じていた時期だった。懐梆の発展は壊された。1978年、改革開放の後、状況は好転した。村役場の支持を得て、村役場に人民舞台が建てられた。

今の宋寨村懐梆劇団の団長は李長寅氏である。父親の事業を継続した。(…)稽古場と活動室が建てられた」(郭雪奕レポート)。

稽古場は廃された廟である。

「目下、劇団は祭日に出演するだけでなく、市や県で開催する演劇のコンクールで実力を発揮するチャンスも見逃さない」(同)。コンクールではたびたび入賞し、新聞にもしばしば取り上げられている。

「懐慶府一帯では、三分の一の村に舞台がある。仮設舞台も多い。舞台の前方には直方体の穴があって、上にパネルをはめ込む。足の動きがよく響き、遠くの観衆も聞き取れる」(同)。

能舞台では舞台の下に甕を埋めて、足拍子の音をよく響くようにしているが、それと似ている。足音の芸術という側面があるわけだ。


日本の農村歌舞伎、地芝居・村芝居は江戸の後期から明治にかけて盛んになり、その普及は昭和戦前まで続いているが、特に明治時代に隆盛を迎えている。

概して言えることは、江戸文化は明治に花開いている。歌舞伎や相撲は江戸の華だが、明治期に完成したと言っていい。相撲なら常陸山・梅ケ谷、歌舞伎なら団十郎菊五郎が大成者と言える。漢学塾も幕末から明治20年代にかけて隆盛した。

もともとの江戸文化が、身分制が破られたことで勢いを得た、ということだろう。身分制からの解放による社会的な自由度、交通の発達による空間的な自由度が増したことがかえって旧文化に力を与えたわけだ。

それに、明治は実は天保生まれの人々が担っていた。江戸明治は連続している。歌舞伎作者の河竹黙阿弥明治にも活躍していたように、半七捕物帳の半七のモデルになった老人が明治生まれの岡本綺堂の身近に生きていたように。明治が真の意味で近代になるのは、20年代以降、明治生まれの青年たちが社会に出てからである。言文一致運動もそのころ始まる。「江戸を知らない子供たち」が社会で活躍するようになって、初めて明治は近代明治になったのだ。

中国の場合、長い戦乱の時代が終わったということもあるが、そういう明治とパラレルなありかたが指摘できるのではないかと思う。この村の例しか知らないので、どこまで一般化できるかはわからないが。


もともと農民劇団だから、農閑期の上演である。清明節などの祭日に上演することが多く、あたりの村舞台に招かれて公演することもあるし、神農山の二仙廟のような宗教施設で祭事に上演することもある。

中国も日本と同じく、勧進元が一座を招いて行なう勧進公演から常設劇場での定期公演に移っていった。村芝居は、その村の人たちのためにだけ演じられるなら、一種の祭礼行事である。招かれて、つまり買われてほかの村々で上演するなら、発生期の職業劇団の姿をなぞる形と言える。石見神楽などに似たありかただ。


観客は老人ばかりである。人民服人民帽を見かける。年齢層が非常に高い。その理由は3つ。

1.人口構成の問題。現在の村にはそもそも若い人が少ない。一人っ子政策によるひずみのほかに、生産年齢人口は沿海部に出稼ぎに行っていることによる。

2.機会の問題。老人は見に来る余暇があるが、仕事のある人は見に来られない。中国は基本的に親孝行で、年取った親を働かせるのはよくないと考える。だから老人は働かず、時間がありあまっている。年を取っても体が動くかぎり働くのが美徳である日本とはやや異なる。

そして、3.興味の問題。老人は愛好するが、若い人は興味がない。

この3つが重なりあっているのだろう。

学生は旧劇に興味を示さない。私の学生は全員見たことがなかった。テレビでやっているのを見たことのある者はいるが、公演を見たことはない。日本でも学生はまずほとんど歌舞伎も能も見たことがないが、それとはやや様相が異なる。歌舞伎東京にあるだけで、地方では見る機会そのものが非常に限られているのだが、中国では、テレビに戯曲専門のチャンネルがあるし、けっこうな数の公立劇団があって巡演もしているので、見たいと思えば見る機会はあるはずだから。また、日本では歌舞伎を見たことのない若者の親の世代祖父母の世代もあまり見ていないだろうと思われ、いわば低値安定しているのに対し、中国では祖父母の世代は大好きで、孫の世代はほとんど興味がないというように、急激に下降している。

ドッグイヤーという言葉があるが、現代の中国はまさにそれである。

これは私見だが、人は生涯自分の20歳から30歳の時代を生きる、と言っていいのではないか。自分自身を顧みても、今も昭和を生きていると感じる。昭和の人間として死ぬことだろう。

つまり、70歳の人は50年前の1966年を生きている、ということだ。日本では高度成長のさなか、東京オリンピック鉄腕アトムの時代。一方中国では、大躍進政策が失敗したあとで、文化大革命の始まる頃であり、政策の失敗で2000万人とも言われる餓死者を出すような貧しい国だった。

40歳の人は1996年。日本では今とほとんど変わらない。今よりよかったかもしれない。中国では、天安門事件のあとであり、改革開放は始まっていたが、まだまだ貧しかった時代である。

今の20歳は、日中ほとんど変わらない。現在中国は世界第二の経済大国だし、ある面では中国のほうが進んでもいる。

このギャップを考えれば、若者が旧劇に興味を示さないのは当然なように思える。

老人は、若い者は日本をよく知らないなどと言いがちだ。若い中国人に対しても、中国人のくせに中国のことを知らないと考えたり口に出したりすることがあるのではなかろうか。しかし、中国の学生から見れば、私などは「日本人のくせに日本を知らない」と思われているかもしれないのだ、と考えることが大切である。AKBだのジャニーズだの、いま人気のマンガアニメだのをまったく知らないのだから、つまり日本を知らないということになる。お互いさまなのだ。

ともあれ、アニメ・マンガも栄えつつ、旧劇も栄えつづけ、村芝居も失われずにいてほしいと願うのだが、団員に若い人がいなくなっている現状からは、むずかしい将来が予感される。

2016-07-20 遥か欧州を離れて

最近はテレビ朝日サッカー中継が多くて、苦労した。ヨーロッパ選手権も、キリンカップも。キリンカップボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦は見たが、ブルガリア戦は見られなかった。7−2というちょっとありえないスコアだったから、見ていればさぞ楽しかっただろう(日本人には。ブルガリア人には不愉快きわまりないけども)。

ボスニアデンマーク戦BS朝日の中継があったので見られたのだが、あれを見るかぎりでは、特に前半は眠っているようなゆるいプレーだったから、これは勝てると思ったが、ジェコやピヤニッチが来なくても強かった。タフだった。しかし非常にいい試合をしていた。のめりこんで見られた。勝利は無理だが、引き分けはありえた好勝負だった。コンフェデ杯イタリア戦のような。そして結局負ける。そこまで含めて日本らしい。

私のような素人でも、見ていないブルガリア戦もあたかも見てきたかのようにわかる。中盤で余裕をもってボールが回せればすばらしいサッカーをするが、プレッシャーをかけられるとアジアの格下のチームにもあたふたする。カウンターは覚悟の上で攻撃するものの、カウンターをやられるともろい。それが日本だ。

先日、鳥取へ行ってインターナショナルドリームカップの日本‐メキシコ戦とマリ‐ハンガリー戦を見た。メキシコ戦は6−0の圧勝だった。ボール扱いの技術や組織力が卓越しているのに驚いた。ところが、マリとの試合では何もさせてもらえなかったという。その試合は見ていないので何とも言えないけれど、マリ‐ハンガリー戦を見るかぎりでは、マリはたしかに強いが、球あしらいや組織力で日本が劣っていたとは思えない。フィジカルとメンタルで敗れたのだろう。雨天強風のコンディションだったというから、そういう悪条件に対するひよわさもあるのかもしれない。いずれにせよ、A代表と同じ弱点を持っているのだろうと思われる。


先日のヨーロッパ選手権テレビ朝日の中継で、深夜や未明に数試合の中継があり、準々決勝は2試合、準決勝は1試合だけ(それもつまらないほう)だけだから不満もあるが、まあ無料の放送で中継してくれたことを喜ぶべきだけれども、いずれにせよ、うちらのところでは映らないのだからしかたがない。深夜や未明はつらいが、つらさに見合うだけのことはあったろうとは思う。2試合しか見てないけど。

「事実上の決勝戦」が3つあり(イタリアスペインドイツイタリアフランスドイツ)、そのいずれも勝ったほうが次の「事実上の決勝戦」で負けて、最後の「事実としての決勝戦」に勝ったポルトガルが優勝した。全7試合のうち、90分を見れば1勝6分けの成績で。いつぞやのギリシャの優勝並みに、事実のみが決定的に重いという真理を知らしめる大会だったと言える。

見られたのは2試合だが、美しいドイツポゼッションを見て(「足りないのはゴールだけ」。それを病む者、あに日本代表のみならんや。ゴールさえ決まっていればほれぼれするような美しさだった。内容に乏しくても結果だけは手に入れるのがドイツだった時代が長くあったのに、世は転変する)、決勝戦のプレーしないロナウドを見るこができたのはよかった。

ロナウドという選手は、非常にストイックだが、ナルシストエゴイストで、チームメイトと仲良くする必要を感じてないという印象を持っていたが、負傷交代後ピッチの外でチームメイトを鼓舞する姿を見て、こんなにもチームスピリットに溢れていたのかと意外の念に打たれた(チーム愛というより、単にタイトル獲得への執着心のすごさなのかもしれないが)。ポルトガルがきっと負ける、こんなにしても敗れる彼の姿を見ることになるのは残念だなと思っていたから、あの結果になったのはうれしい。負けるフランスはよく見る風景で、ジダンのときの勝つフランス(それはアフリカ選抜だった。今のもそうだが、度合いは減った)が異常だったのだ。


今でもサッカー強豪国は欧州南米にあり、クラブチームにおいてもかつては南米欧州並みに強かったが、今はヨーロッパだけがはるかに高く君臨している状態で、南米は選手供給地域となってしまっている。サッカー覇権欧州にある。学問芸術などのように、サッカーヨーロッパ支配しているわけだ。それをせっせと学習模倣するのが「後進国」の定めである。しかたがない。だが、しかたがないといって、何でも真似していればいいわけではない。ヨーロッパを尺度にしてものを考えるのは根本的にまちがっているという認識は、つねに持っていなければならない。ヨーロッパには学ぶ。進んでいるのだから。だが、学んだ上で、サッカーは「日本化」されなければならない。

「世界の(つまりヨーロッパの)トレンド」と称するものを受け売りしたがる人たちを見ると、本当にいやになる。それは学問や評論の世界でも、ファッションや芸術の世界でも同じで、「欧米の最新」を目ざとくとらえて新語をふりまく連中が「時代の最先端」顔をしている情けない状況が明治以来ずっと続いているわけだ。紹介屋さんたち、自分の頭で考えず、「上の人」に考えてもらっている人たちが跋扈するのが近代日本の精神風景である。そこにサッカーも含まれる。残念極まりない。

たとえば、シーズンを春−秋から秋−春に変えようとしている。愚かしい議論である。それは冬が好天の東京の人間の考えだ。日本海側や北日本の冬がどんなものか知らない連中の。雪については議論があるが、雨も多いのだよ。雪はもちろん、冬の冷たい雨が降る中を観戦に来ると思うのか。コアなファンはそれでも来るとしても、そう熱心でない一般ファンの足を遠ざける行為である。それでなくても冬に天気の悪い地方のチームのファンは少ないのに。子供連れの母親が来るかどうか。それが基準だ(重要な基準である。ヨーロッパではしばしばスタジアムが暴力的な男たちの集会所になっているが、日本はその正反対であって、それは誇るべきことだ。そして子連れの母親はまさしくスタジアムの平和の証拠であり、保証なのだから)。スポーツ観戦には夏の夕方などまことにけっこうだ。夏は高温多湿で、選手には消耗を強いるが、高温多湿の国の多いアジアでの戦いのためには有利だし、日本サッカーにおいて第一に重要なのはアジアでの覇権である。アジアを見ず、ヨーロッパばかり見ようとするのは天狗のふるまいだ。試合は選手のためにするんじゃない。協会のためにするんじゃない。観客のためにするのだ。間違えてはいけない。


興行優先でなく、強化のためヨーロッパに出向いてアウェイで試合しろという意見がある。強化を第一に考えるなら、それは正論である。今や代表選手の大半が向こうでプレーしている。ヨーロッパのチームを招いてホームで試合を組むと、派遣メンバーも落ちるし、観光気分で本気の試合をしないことがままある(南米チームはわりと本気で試合をしてくれるが)。気分の問題もあるけれど、より多くはコンディションの問題だろう。距離と時差が克服しがたいのだ。日本の代表選手たちは、代表の試合のたびに疲れる長旅を強いられ、その悪条件の下で奮闘している。ヨーロッパの選手たちは、日本へ来て彼らの苦労を知るがいい。

距離と時差こそが、ヨーロッパ南米のクラブ世界一を決めるトヨタカップが日本で開かれていた理由である。どちらにとっても同じ条件の中立地なのだから。今のクラブワールドカップなるものは、UAEだのモロッコだのでもやっているが、それは根本的に間違っている。ヨーロッパから距離も時差もほとんどないところでやったら、ただでさえ強いヨーロッパのチームにさらにアドバンテージを与えるだけではないか。いつも距離も時差もほとんどないところでやっている奴らにその苛酷さを教えるいいチャンスなのだから、教えてやらなければいけないのだよ。)

やさしい日本のサポーターは、応援するクラブのスター選手、代表の主力選手をこころよくヨーロッパに送り出している。だから、いつものテレビ画面でなく、目の前でわれらのスター選手を見たい、われらのヒーローがわれらの名誉のために戦っている姿を見たいというそれでなくても当然至極の感情に対しては、よりいっそう顧慮してもらいたい。距離衛星中継で克服できても、時差はいかんともしがたい。ヨーロッパでの試合なんて、深夜か未明か、まともな人間は寝ている時間だよ。招待されて行くならけっこうなことだが、こちらから押しかけてそんな試合を組むのは本末転倒のきらいがある。興行は悪しざまに言われることが多いが、そもそもプロスポーツは興行以外の何物でもない。日本での親善試合を云々するとき、問題なのは興行ではなく、批評である。その試合がどのように評価されるべきかわかっていて、大勝にむやみに浮かれ、惨敗に過度に悲観することがなければいいのだ。

サッカー専門誌はともかく、一般紙やスポーツ紙にはサッカー批評が存在していない(日経新聞を除いて)。試合のあと、民放のアナウンサーが選手にインタビューするとうんざりする。「どんな思いでしたか」「意気込みを聞かせてください」「サポーターに一言」、この三つしか聞かない。要するに彼らはサッカーのことは知らず、ゴールシーン以外は見ていないのだ。野球は見ないので知らないが、野球のヒーローインタビューはもっとましなことを聞くだろうと想像している。日本人における野球の教養とサッカーの教養の違いということなのだろう。


強化ということで言えば、昔、現役ブラジル代表の半分が日本でプレーしていた時代は、Jリーグで戦うことが即強化だった。

今のJリーグは、日本人のスター選手はヨーロッパに出て行って、空洞化している。かつてのように外国から代表クラスの選手が来るわけでもない。リーグが強化にあまり貢献していないのではないかという懸念が強くある。代表のレベルが今より低く、リーグのレベルが今より高かった時期には、Jリーグで試合することが強化につながったが、代表のレベルが上がり、リーグのレベルが下がった今では、そうはいかない。パススピードが遅い、プレッシャーがゆるい、ディフェンスが弱い、シュートチャンスでシュートを打たないでパスをする、やさしい笛を吹く審判、警察発表(審判判定)を復唱するだけのマスコミ等々、Jリーグは問題が多々ある。中でもおそらく最大の問題は、選手のドメスティックな心性である。同じ日本人が相手だから、つい「これくらいでいいだろう」と考えてしまう精神の惰性だ。

Jリーグ弱体化の具体的な例証が、ACLでの近年のお粗末な成績である。危機感を持たなければならない。

インターナショナルであることはサッカーサッカーである理由の根幹部分である。ドメスティックであることが野球の(アメリカスポーツの)根幹であるのと同様に。ドメスティックなありかたがサッカーに見られたら、それは病いであり、おそらくは致命的な癌細胞であるから、すみやかに取り除かねばならない。

スルガ銀行杯は実にけっこうなことだが、あれはJリーグ1チームだけが戦う。国際試合なら何といってもアジアチャンピオンズリーグ(ACL)である。タイトルを賭けた真剣な戦いだ。真剣でないのは日本だけだ。ACLを重視しないのは愚の骨頂である。あれは時に「罰ゲーム」呼ばわりされるが、それはドメスティックの毒素の現われにほかならない。サンフレッチェのように2軍を出すのではなく、リーグ戦以上に、少なくとも同等に、重視してもらいたい。チームやリーグだけでなく、ファンサッカージャーナリズムも重視しなければならない。チームやファンが後ろ向きなら、サッカージャーナリズムが率先して煽ってほしい。煽動は好きではないが、この際やむをえない。

といって、国際試合を重視するあまりリーグがおろそかになっても困るので、2ステージ制はいいことかもしれない。前期を捨てて後期に賭ける、という戦い方ができる。去年ガンバがやったように。

(しかし、チャンピオンシップは2試合でいい。日程を窮屈にしないためにも。単純明快に、前期優勝チームと後期優勝チームが戦うという形にするべきだ。前後期優勝チームが同一なら、前期2位と後期2位のチームが決定戦を行ない、挑戦者を決める。敗者復活戦である。チャンピオンシップはこの場合1試合のみ、両ステージ優勝チームのホーム戦。アウェイはステージ優勝チームが1−0で勝ったと見なす。つまりステージ優勝チームは勝ちでも引き分けでもチャンピオンシップ優勝。90分で0−1で負ければ、延長戦となる。だがPK戦はなく、延長戦ではアウェイゴール・ルールも適用されず、延長引き分けはステージ優勝チームの勝ちになる。このような、敗者復活の挑戦者はアウェイで2点以上取って勝たないかぎり優勝はない、というハンデ戦でどうだろう。)


キリンカップは一応タイトル戦だったので、ボスニアは本気だった。インターナショナルドリームカップのような若年層の国際大会は日本でもよく開かれているのだから、さらに一歩進めて、代表レベルの選手たちによるインターナショナルなタイトル戦を定期的に開催することが望ましい。

中国のクラブは「爆買い」によって世界の一流選手をかき集めているので、ACL以外で中国の強豪クラブチームとタイトル戦をするのもいい。

日韓定期戦もいいのだが、韓国の歪んだ国民感情によって過剰にエモーショナルになるので、避けたほうが賢明かもしれない。どうせどれかの大会で当たるのだから。

提案したいのは、環太平洋選手権である。環太平洋の国々は、アメリカメキシココロンビアペルー、チリ、オーストラリア、あるいは中米諸国など、リアルなライバルばかりだ。同格か、格上でも手の届く相手である。切磋琢磨にちょうどいい。

太平洋は広くて、距離も時差もヨーロッパ並みにあるけれども、こういう枠組みなら招待された国もかなり本気で来てくれるだろう。代表でもU23代表でもクラブチームでもいい。日本からは2チームが参加、あと4ないし6チームを招待して、毎年か最低でも隔年に開催する。たとえば、ヨーロッパ選手権が行なわれる年にフル代表6チームを招いて2週間のカップ戦、それ以外の年は3チームを招いて1週間のU23代表戦、というのはどうか。けっこう真剣な提案である。遠いヨーロッパの尻を追いかけるより、同様にヨーロッパからの距離を病む近隣諸国とともに強くなろうじゃないか。実際のところは近くないけれど、地震が起きれば津波が押し寄せてくるのだから、隣ではあるのだ。