石陽消息

2016-09-15 リオ五輪雑感

ちょっと旧聞だけど。

サッカーの日本代表は残念だったが、本来あの対戦相手で1勝1敗1引き分けは大いにありうるし、決して悪くない成績だ。グループ1位のナイジェリアが3連勝か2勝1分けで走ってくれたら決勝トーナメントに行けたわけだし。スウェーデンには最初から勝つと確信していたが、結果として銅メダルを取ったナイジェリアに1点差負け、南米最優秀選手をオーバーエイジにもってきた大陸の雄コロンビアに引き分け。世界的に見れば何も特別なことは起こっていない。

実は、ナイジェリアには勝つか、悪くても引き分けだと思っていた。大会準備でガーナ南アフリカギニアと対戦し、きれいに勝っていて、黒人特有の身体能力にも慣れていただろうから、それに振り回されることはあるまいと思って。しかし、オーバーエイジの選手はその試合に出ていなかったし、彼らを含めて世界の大舞台を経験していないので、ひどいミスばかり犯して自滅した。それに、1点差というのはだいたい0−1とか1−2のことである。4−5はありえない。4点取ったら普通は勝つよ。引き分けすら想像しにくいことで、ましてや負けるなんて、常識を逸脱している。

しかしながら、(PKを除いて)日本チームの得点はことごとく美しかった。アジア予選からそうだ。不思議なチームである。得点にならなかった美しい崩しも多い。

けれど、ミスが多かった。あんなに愚かなミスをしていれば、罰せられなければならない。だから、結果は至当である。だが、ミスの多さを得点力と少しの幸運で乗り越えてもよかった。常識外れもいいじゃないか。ま、常識どおりで文句はないけれど。


いろいろな涙を見た。

ブラジルドイツの決勝戦は、できすぎたストーリーのようだった。PK戦で5人目のドイツの選手が止められ、最後のキッカー、ネイマールが決めて勝つ。ネイマールは泣いていた。プレッシャーのすさまじさが思われる。ハッピーエンドでそれから解放された瞬間涙が溢れるのは、非常に人間的な光景だ。

ホームだから声援もものすごいのだが、それは期待の反映で、ふがいなければ容赦なく自チームにもブーイングする。予選リーグで0−0なんて試合を続けていたときは、女子選手の名前をコールされていたという。あんな過度の(と日本人には思える)重圧の中でいつもプレーしていたら、そりゃあ鍛えられるよね。

それを思えば、日本のサッカーはプレッシャーがない。南米選手にはそのことを批判しながらも日本が好きな人が多いが、きっと無用なプレッシャーがなくて快適なのだろう。監督は尊敬されるし、給料は必ず支払われるし。


泣いたといえば、レスリングの吉田だ。負けて泣くのは珍しいことではないが、あんなに泣いた選手は初めて見た。期待の重圧を感じていて、責任を果たせなかった気持ちからなのだろう。日本人は露骨にプレッシャーはかけない。無形無言のプレッシャーであり、責任感のあるまじめな日本人はそれをひしひしと感じる。察するというやつだ。よき日本人である彼女は、それを過剰に意識していた。きわめて日本的なあり方だったと言える。

彼女は父親にレスリングを習い、その父親を亡くしていると聞いた。敗戦後、観客席の母親と抱き合いながら、「お父さんに怒られる〜」と言っていたのが耳に残っている。トルコの女の子はみなファザコンだが、日本もけっこうそうなのか? 女子選手と父親の関係はおもしろいかもしれない。重量挙げの三宅親子とか。女子選手は底に愛のある厳しいコーチを父とも兄とも感じ、従順に従うような印象があるのは確かだ。鬼の大松とニチボー貝塚とか。

勝ったアメリカのコーチが声をかけにそばに来たが(長年君臨してきた王者に対する当然の敬意である)、日本のテレビのインタビューが終わらず、吉田選手が泣きつづけていたので、去っていってしまったのがおもしろかった。インターナショナルな配慮がドメスチックな要請に負けていた。


「攻め続けましたね」「それが自分が教わったレスリングです」

選手の発言では、この受け答えがよかった。だいたい日本人には名文句が少ない。自分のことばで話さないからだ。インタビューは定型句ばかりである。答えるほうだけでなく、質問するほうも。それでは単なるセレモニーだ。日本人のセレモニー好きは骨髄に徹している。

加藤沢男のような最終種目での大逆転で優勝した内村に対し、会見で「あなたは審判に愛されているのではないか(つまり、ひいきされているのではないか)」と質問した記者に、「無駄な質問だ」と横からぴしゃりとやったウクライナの選手もすばらしい。王者の実力を知り、自分がそれにわずかに足りなかったことを知っている最高の銀メダリストの発言だった。とっさに出ることばによって、その人の本当の価値がわかる。


美しい敗者がいる一方、醜い敗者もいる。だだ1人を除いてあとは全員敗者になる運命なのだから、敗北を受け入れるのはつらくても必要なことなのだが。

サッカー韓国代表は準々決勝で敗れたけれど、終わったあと執拗に抗議をしたようだ。韓国らしい。自チームにも非難を浴びせるが、相手チームのエースで得点者のSNSに罵りの書き込みをしていたそうだ。事実を、現実を認めることができない人々である。罵れば事実がくつがえるとでも思っているのか。

ある中国人が、日本人にとって歴史は学問、中国人にとって歴史は政治、韓国人にとって歴史は願望、と言ったそうだが、至言だね。日本人が学問というのには多少割引が必要だが、あとは本当にそのとおりである。

好太王捏造説なんてのもあったな。日本の特務機関が碑文を書き換えたという説。当然のごとく否定された。都合の悪いものは捏造だとする考え方の人は、自分自身が都合が悪ければ捏造をする人間だということを語っているのだ。


この五輪では、観客のブーイングや野次が問題になっていた。要するに、ブラジル人にとってのスポーツはサッカーであり、サッカーの観戦(というか、参戦)様式でしかスポーツが見られない「パブロフの犬たち」だったのだろう。サッカーがしょせん下賤なスポーツだということでもある。その中で時おり高貴の瞬間が輝く。


大会中、強盗のニュースをよく聞かされた。だが、強盗事件はリオデジャネイロではふつうのことであり、リオの日常の視点から見れば、その中にオリンピックがよそものとしてやってきたにすぎない。カモを大勢引き連れて。リオにとってはオリンピック侵入してきた異物で、オリンピックにとってリオが客体なのではない。

選手村やそのほかのホテルで、湯が出ないだの、水があふれるだの、ドアが閉まらないだのといった苦情が頻出したらしいが、一部の先進国以外のこの地球上ではごくごくふつうのことである。バラの木にバラが咲いているだけ。盗みも日常茶飯事だが、選手村の客室係がしてはさすがにまずい。逆に、客室係を強姦しようとした選手が3人もいたという。こうなると目糞鼻糞じみてくる。

強盗事件も(当然)多かったが、強盗のでっちあげをアメリカ金メダル選手がやったのは新機軸だった。

われわれナイーブな日本人は、オリンピック選手を崇拝する習性があるが、オリンピック倫理性を競う大会ではない。しかし、日本のスポーツ選手はけっこう倫理的で、選手に倫理を求めることを観衆も選手自身もさほど奇異に思っていない。日本の運動選手はすべて「代表選手」だからであろう。日本のスポーツはまず学校スポーツであって、学校の代表として全校生徒の前で壮行会などやってもらっているから、母校の名誉を賭けるという矜持に慣らされている。私生活としては不良もかなりいるけれど、こういう態度は身についている。まして国を代表するともなれば。高野連の呪縛というか、何にせよ自他ともに倫理的にならざるをえないのである。

そんな日本の特殊事情を離れれば、スポーツ選手は身体能力が高いだけのあんちゃんねえちゃんである。選手村コンドームが配られるのも、現実に対応しているわけだ。優秀な兵隊だということだ。兵隊とは強姦をする連中のことである。


あと、閉会式で首相コスプレをやったようだが、つまりコスプレ日本の文化だと宣言したわけだな。

2016-08-16 宋寨村の村芝居座について補足的に

宋寨村は、河南省の懐慶府(今の沁陽)や清化鎮(今の博愛県)の近くにある村である。清朝最末期の明治40年(1907)に当時中国に留学中の桑原隲蔵が(宇野哲人とともに)長安への旅の途上にこのあたりを通っているので、その日記を見てみよう(「考史遊記」、岩波文庫、2001、p.33)。

「九月五日 晴 行程一百里

午前五時二十分馬車を賃して清化鎮を発す。暁寒膚に徹す。十時二十分水北関清化鎮より三十五里余に「漢孝子丁蘭故里碑」あり。沁水を渡り十一時懐慶府清化鎮より四十里に着す。府の東関外に「漢孝子郭巨故里碑」あり。城外に「何文定祠」あり。南関外に「明礼部尚書何文定墓」あり。憾むらくは、この日行程遠くしてひとえに前往を急ぎ城の内外を細観するを得ざりしことを。午後七時半孟県清化鎮より一百里の大昇店に宿す。」

丁蘭・郭巨ともに二十四孝に挙げられる孝子である。

なお、リヒトホーフェン(「絹の道(シルクロード)」という語を作った人として知られているドイツ中国学者で、ヘディンの師)も1870年にこの地域を調査しており(「支部那智旅行日記」中、慶応出版、1944)、「清化鎮近在の小村に腰を据え、この賑やかな市場町で陶の手引きによって荷獣と乗獣を傭ふ談判をした」(p.284)と書いている。「町の住民は、この一帯に住む人達と同様に善良であるとはいへ、その数は際限がなかった。二日の滞在期間に、町民といふ町民が、我々を見にやって来た。群集は、再三、旅館の、閉鎖した大戸を圧し潰して、たちまち部屋の中まで闖入した」(p.286)。河南省以外では、「洋鬼!」と罵られたり、襲われそうになったりしているが、この省では、物見高く押し寄せるが危害を加えることはないという同時代の日本と同じありかただったようだ。そして、「懐慶府は、大きな町であるにも拘らず、商業都市ではない。そして、この点では、清化に遥かに及ばないが、しかし、二つの特有な産物を持ってゐる。一つは、鋼製品、特に、小刀、剃刀、道具類の製造である。山西産の鋼は、蕪湖及び漢口から輸入される英国鋼と混合されてゐる。前者だけでは余りに脆く、後者だけでは余りに軟らかすぎるからだ。当地の鋼製品は、大きな名声を獲得してゐた。この町は一種のゾリンゲンである。もう一つの特産物は、此処で沢山作られてゐる、ある植物の根である。その根は、地黄といふ名で呼ばれ、盛んに薬用に使はれてゐる。が聞くところによると、強壮剤として効能があるのださうである」(p.288)と言っている。


「懐梆」というのは、懐慶府近辺の梆子腔という意味だ。梆子というのは拍子木で、それを用いるのが特徴である。この劇は陝西・山西あたりに起こったらしい。

旧劇は雅部(崑曲)と花部(乱弾)に分けられる。「中原大雅の音」と言われる優雅な崑曲に対し、乱弾というのは激しい調子の庶民的な地方劇で、方言を用いる。そのひとつが梆子腔である。京劇は、安徽省の徽班という劇が崑曲や梆子腔のような乱弾を取り入れて成立したものだそうだ。だから梆子腔と京劇河南省の豫劇などはかなり違うらしいのだが、通じない者には同じように見える。それはちょうど、私のような中国語のわからない者には、中国語の方言の違いがわからず、全部中国語に聞こえるのと同じだ。

梆子は方言で演じるわけだが、そうすると村人には近くなるが、標準語で教育を受けた若い高学歴世代からは遠くなる。


この村の一座の創設は新しく、第二次大戦後国共内戦後である。

1949年の建国後の初めての春節を祝うために、板胡が好きな李直基氏は、リーダーとして村の住民と積極的に協力して、宋寨村懐梆劇団を結成した。(…)劇団のメンバーは農民であり、農繁期に農業をし、農閑期に懐梆を演じ、村民を楽しませた。

50、60年代に懐梆は最も輝かしい時期を迎えた。役者たちは新しい演目を学び、あたりの各地を巡って懐梆を演じた。1966年から1977年までの文化大革命期は、革命模範劇だけを演じていた時期だった。懐梆の発展は壊された。1978年、改革開放の後、状況は好転した。村役場の支持を得て、村役場に人民舞台が建てられた。

今の宋寨村懐梆劇団の団長は李長寅氏である。父親の事業を継続した。(…)稽古場と活動室が建てられた」(郭雪奕レポート)。

稽古場は廃された廟である。

「目下、劇団は祭日に出演するだけでなく、市や県で開催する演劇のコンクールで実力を発揮するチャンスも見逃さない」(同)。コンクールではたびたび入賞し、新聞にもしばしば取り上げられている。

「懐慶府一帯では、三分の一の村に舞台がある。仮設舞台も多い。舞台の前方には直方体の穴があって、上にパネルをはめ込む。足の動きがよく響き、遠くの観衆も聞き取れる」(同)。

能舞台では舞台の下に甕を埋めて、足拍子の音をよく響くようにしているが、それと似ている。足音の芸術という側面があるわけだ。


日本の農村歌舞伎、地芝居・村芝居は江戸の後期から明治にかけて盛んになり、その普及は昭和戦前まで続いているが、特に明治時代に隆盛を迎えている。

概して言えることは、江戸文化は明治に花開いている。歌舞伎や相撲は江戸の華だが、明治期に完成したと言っていい。相撲なら常陸山・梅ケ谷、歌舞伎なら団十郎菊五郎が大成者と言える。漢学塾も幕末から明治20年代にかけて隆盛した。

もともとの江戸文化が、身分制が破られたことで勢いを得た、ということだろう。身分制からの解放による社会的な自由度、交通の発達による空間的な自由度が増したことがかえって旧文化に力を与えたわけだ。

それに、明治は実は天保生まれの人々が担っていた。江戸明治は連続している。歌舞伎作者の河竹黙阿弥明治にも活躍していたように、半七捕物帳の半七のモデルになった老人が明治生まれの岡本綺堂の身近に生きていたように。明治が真の意味で近代になるのは、20年代以降、明治生まれの青年たちが社会に出てからである。言文一致運動もそのころ始まる。「江戸を知らない子供たち」が社会で活躍するようになって、初めて明治は近代明治になったのだ。

中国の場合、長い戦乱の時代が終わったということもあるが、そういう明治とパラレルなありかたが指摘できるのではないかと思う。この村の例しか知らないので、どこまで一般化できるかはわからないが。


もともと農民劇団だから、農閑期の上演である。清明節などの祭日に上演することが多く、あたりの村舞台に招かれて公演することもあるし、神農山の二仙廟のような宗教施設で祭事に上演することもある。

中国も日本と同じく、勧進元が一座を招いて行なう勧進公演から常設劇場での定期公演に移っていった。村芝居は、その村の人たちのためにだけ演じられるなら、一種の祭礼行事である。招かれて、つまり買われてほかの村々で上演するなら、発生期の職業劇団の姿をなぞる形と言える。石見神楽などに似たありかただ。


観客は老人ばかりである。人民服人民帽を見かける。年齢層が非常に高い。その理由は3つ。

1.人口構成の問題。現在の村にはそもそも若い人が少ない。一人っ子政策によるひずみのほかに、生産年齢人口は沿海部に出稼ぎに行っていることによる。

2.機会の問題。老人は見に来る余暇があるが、仕事のある人は見に来られない。中国は基本的に親孝行で、年取った親を働かせるのはよくないと考える。だから老人は働かず、時間がありあまっている。年を取っても体が動くかぎり働くのが美徳である日本とはやや異なる。

そして、3.興味の問題。老人は愛好するが、若い人は興味がない。

この3つが重なりあっているのだろう。

学生は旧劇に興味を示さない。私の学生は全員見たことがなかった。テレビでやっているのを見たことのある者はいるが、公演を見たことはない。日本でも学生はまずほとんど歌舞伎も能も見たことがないが、それとはやや様相が異なる。歌舞伎東京にあるだけで、地方では見る機会そのものが非常に限られているのだが、中国では、テレビに戯曲専門のチャンネルがあるし、けっこうな数の公立劇団があって巡演もしているので、見たいと思えば見る機会はあるはずだから。また、日本では歌舞伎を見たことのない若者の親の世代祖父母の世代もあまり見ていないだろうと思われ、いわば低値安定しているのに対し、中国では祖父母の世代は大好きで、孫の世代はほとんど興味がないというように、急激に下降している。

ドッグイヤーという言葉があるが、現代の中国はまさにそれである。

これは私見だが、人は生涯自分の20歳から30歳の時代を生きる、と言っていいのではないか。自分自身を顧みても、今も昭和を生きていると感じる。昭和の人間として死ぬことだろう。

つまり、70歳の人は50年前の1966年を生きている、ということだ。日本では高度成長のさなか、東京オリンピック鉄腕アトムの時代。一方中国では、大躍進政策が失敗したあとで、文化大革命の始まる頃であり、政策の失敗で2000万人とも言われる餓死者を出すような貧しい国だった。

40歳の人は1996年。日本では今とほとんど変わらない。今よりよかったかもしれない。中国では、天安門事件のあとであり、改革開放は始まっていたが、まだまだ貧しかった時代である。

今の20歳は、日中ほとんど変わらない。現在中国は世界第二の経済大国だし、ある面では中国のほうが進んでもいる。

このギャップを考えれば、若者が旧劇に興味を示さないのは当然なように思える。

老人は、若い者は日本をよく知らないなどと言いがちだ。若い中国人に対しても、中国人のくせに中国のことを知らないと考えたり口に出したりすることがあるのではなかろうか。しかし、中国の学生から見れば、私などは「日本人のくせに日本を知らない」と思われているかもしれないのだ、と考えることが大切である。AKBだのジャニーズだの、いま人気のマンガアニメだのをまったく知らないのだから、つまり日本を知らないということになる。お互いさまなのだ。

ともあれ、アニメ・マンガも栄えつつ、旧劇も栄えつづけ、村芝居も失われずにいてほしいと願うのだが、団員に若い人がいなくなっている現状からは、むずかしい将来が予感される。

2016-07-20 遥か欧州を離れて

最近はテレビ朝日サッカー中継が多くて、苦労した。ヨーロッパ選手権も、キリンカップも。キリンカップボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦は見たが、ブルガリア戦は見られなかった。7−2というちょっとありえないスコアだったから、見ていればさぞ楽しかっただろう(日本人には。ブルガリア人には不愉快きわまりないけども)。

ボスニアデンマーク戦BS朝日の中継があったので見られたのだが、あれを見るかぎりでは、特に前半は眠っているようなゆるいプレーだったから、これは勝てると思ったが、ジェコやピヤニッチが来なくても強かった。タフだった。しかし非常にいい試合をしていた。のめりこんで見られた。勝利は無理だが、引き分けはありえた好勝負だった。コンフェデ杯イタリア戦のような。そして結局負ける。そこまで含めて日本らしい。

私のような素人でも、見ていないブルガリア戦もあたかも見てきたかのようにわかる。中盤で余裕をもってボールが回せればすばらしいサッカーをするが、プレッシャーをかけられるとアジアの格下のチームにもあたふたする。カウンターは覚悟の上で攻撃するものの、カウンターをやられるともろい。それが日本だ。

先日、鳥取へ行ってインターナショナルドリームカップの日本‐メキシコ戦とマリ‐ハンガリー戦を見た。メキシコ戦は6−0の圧勝だった。ボール扱いの技術や組織力が卓越しているのに驚いた。ところが、マリとの試合では何もさせてもらえなかったという。その試合は見ていないので何とも言えないけれど、マリ‐ハンガリー戦を見るかぎりでは、マリはたしかに強いが、球あしらいや組織力で日本が劣っていたとは思えない。フィジカルとメンタルで敗れたのだろう。雨天強風のコンディションだったというから、そういう悪条件に対するひよわさもあるのかもしれない。いずれにせよ、A代表と同じ弱点を持っているのだろうと思われる。


先日のヨーロッパ選手権テレビ朝日の中継で、深夜や未明に数試合の中継があり、準々決勝は2試合、準決勝は1試合だけ(それもつまらないほう)だけだから不満もあるが、まあ無料の放送で中継してくれたことを喜ぶべきだけれども、いずれにせよ、うちらのところでは映らないのだからしかたがない。深夜や未明はつらいが、つらさに見合うだけのことはあったろうとは思う。2試合しか見てないけど。

「事実上の決勝戦」が3つあり(イタリアスペインドイツイタリアフランスドイツ)、そのいずれも勝ったほうが次の「事実上の決勝戦」で負けて、最後の「事実としての決勝戦」に勝ったポルトガルが優勝した。全7試合のうち、90分を見れば1勝6分けの成績で。いつぞやのギリシャの優勝並みに、事実のみが決定的に重いという真理を知らしめる大会だったと言える。

見られたのは2試合だが、美しいドイツポゼッションを見て(「足りないのはゴールだけ」。それを病む者、あに日本代表のみならんや。ゴールさえ決まっていればほれぼれするような美しさだった。内容に乏しくても結果だけは手に入れるのがドイツだった時代が長くあったのに、世は転変する)、決勝戦のプレーしないロナウドを見るこができたのはよかった。

ロナウドという選手は、非常にストイックだが、ナルシストエゴイストで、チームメイトと仲良くする必要を感じてないという印象を持っていたが、負傷交代後ピッチの外でチームメイトを鼓舞する姿を見て、こんなにもチームスピリットに溢れていたのかと意外の念に打たれた(チーム愛というより、単にタイトル獲得への執着心のすごさなのかもしれないが)。ポルトガルがきっと負ける、こんなにしても敗れる彼の姿を見ることになるのは残念だなと思っていたから、あの結果になったのはうれしい。負けるフランスはよく見る風景で、ジダンのときの勝つフランス(それはアフリカ選抜だった。今のもそうだが、度合いは減った)が異常だったのだ。


今でもサッカー強豪国は欧州南米にあり、クラブチームにおいてもかつては南米欧州並みに強かったが、今はヨーロッパだけがはるかに高く君臨している状態で、南米は選手供給地域となってしまっている。サッカー覇権欧州にある。学問芸術などのように、サッカーヨーロッパ支配しているわけだ。それをせっせと学習模倣するのが「後進国」の定めである。しかたがない。だが、しかたがないといって、何でも真似していればいいわけではない。ヨーロッパを尺度にしてものを考えるのは根本的にまちがっているという認識は、つねに持っていなければならない。ヨーロッパには学ぶ。進んでいるのだから。だが、学んだ上で、サッカーは「日本化」されなければならない。

「世界の(つまりヨーロッパの)トレンド」と称するものを受け売りしたがる人たちを見ると、本当にいやになる。それは学問や評論の世界でも、ファッションや芸術の世界でも同じで、「欧米の最新」を目ざとくとらえて新語をふりまく連中が「時代の最先端」顔をしている情けない状況が明治以来ずっと続いているわけだ。紹介屋さんたち、自分の頭で考えず、「上の人」に考えてもらっている人たちが跋扈するのが近代日本の精神風景である。そこにサッカーも含まれる。残念極まりない。

たとえば、シーズンを春−秋から秋−春に変えようとしている。愚かしい議論である。それは冬が好天の東京の人間の考えだ。日本海側や北日本の冬がどんなものか知らない連中の。雪については議論があるが、雨も多いのだよ。雪はもちろん、冬の冷たい雨が降る中を観戦に来ると思うのか。コアなファンはそれでも来るとしても、そう熱心でない一般ファンの足を遠ざける行為である。それでなくても冬に天気の悪い地方のチームのファンは少ないのに。子供連れの母親が来るかどうか。それが基準だ(重要な基準である。ヨーロッパではしばしばスタジアムが暴力的な男たちの集会所になっているが、日本はその正反対であって、それは誇るべきことだ。そして子連れの母親はまさしくスタジアムの平和の証拠であり、保証なのだから)。スポーツ観戦には夏の夕方などまことにけっこうだ。夏は高温多湿で、選手には消耗を強いるが、高温多湿の国の多いアジアでの戦いのためには有利だし、日本サッカーにおいて第一に重要なのはアジアでの覇権である。アジアを見ず、ヨーロッパばかり見ようとするのは天狗のふるまいだ。試合は選手のためにするんじゃない。協会のためにするんじゃない。観客のためにするのだ。間違えてはいけない。


興行優先でなく、強化のためヨーロッパに出向いてアウェイで試合しろという意見がある。強化を第一に考えるなら、それは正論である。今や代表選手の大半が向こうでプレーしている。ヨーロッパのチームを招いてホームで試合を組むと、派遣メンバーも落ちるし、観光気分で本気の試合をしないことがままある(南米チームはわりと本気で試合をしてくれるが)。気分の問題もあるけれど、より多くはコンディションの問題だろう。距離と時差が克服しがたいのだ。日本の代表選手たちは、代表の試合のたびに疲れる長旅を強いられ、その悪条件の下で奮闘している。ヨーロッパの選手たちは、日本へ来て彼らの苦労を知るがいい。

距離と時差こそが、ヨーロッパ南米のクラブ世界一を決めるトヨタカップが日本で開かれていた理由である。どちらにとっても同じ条件の中立地なのだから。今のクラブワールドカップなるものは、UAEだのモロッコだのでもやっているが、それは根本的に間違っている。ヨーロッパから距離も時差もほとんどないところでやったら、ただでさえ強いヨーロッパのチームにさらにアドバンテージを与えるだけではないか。いつも距離も時差もほとんどないところでやっている奴らにその苛酷さを教えるいいチャンスなのだから、教えてやらなければいけないのだよ。)

やさしい日本のサポーターは、応援するクラブのスター選手、代表の主力選手をこころよくヨーロッパに送り出している。だから、いつものテレビ画面でなく、目の前でわれらのスター選手を見たい、われらのヒーローがわれらの名誉のために戦っている姿を見たいというそれでなくても当然至極の感情に対しては、よりいっそう顧慮してもらいたい。距離衛星中継で克服できても、時差はいかんともしがたい。ヨーロッパでの試合なんて、深夜か未明か、まともな人間は寝ている時間だよ。招待されて行くならけっこうなことだが、こちらから押しかけてそんな試合を組むのは本末転倒のきらいがある。興行は悪しざまに言われることが多いが、そもそもプロスポーツは興行以外の何物でもない。日本での親善試合を云々するとき、問題なのは興行ではなく、批評である。その試合がどのように評価されるべきかわかっていて、大勝にむやみに浮かれ、惨敗に過度に悲観することがなければいいのだ。

サッカー専門誌はともかく、一般紙やスポーツ紙にはサッカー批評が存在していない(日経新聞を除いて)。試合のあと、民放のアナウンサーが選手にインタビューするとうんざりする。「どんな思いでしたか」「意気込みを聞かせてください」「サポーターに一言」、この三つしか聞かない。要するに彼らはサッカーのことは知らず、ゴールシーン以外は見ていないのだ。野球は見ないので知らないが、野球のヒーローインタビューはもっとましなことを聞くだろうと想像している。日本人における野球の教養とサッカーの教養の違いということなのだろう。


強化ということで言えば、昔、現役ブラジル代表の半分が日本でプレーしていた時代は、Jリーグで戦うことが即強化だった。

今のJリーグは、日本人のスター選手はヨーロッパに出て行って、空洞化している。かつてのように外国から代表クラスの選手が来るわけでもない。リーグが強化にあまり貢献していないのではないかという懸念が強くある。代表のレベルが今より低く、リーグのレベルが今より高かった時期には、Jリーグで試合することが強化につながったが、代表のレベルが上がり、リーグのレベルが下がった今では、そうはいかない。パススピードが遅い、プレッシャーがゆるい、ディフェンスが弱い、シュートチャンスでシュートを打たないでパスをする、やさしい笛を吹く審判、警察発表(審判判定)を復唱するだけのマスコミ等々、Jリーグは問題が多々ある。中でもおそらく最大の問題は、選手のドメスティックな心性である。同じ日本人が相手だから、つい「これくらいでいいだろう」と考えてしまう精神の惰性だ。

Jリーグ弱体化の具体的な例証が、ACLでの近年のお粗末な成績である。危機感を持たなければならない。

インターナショナルであることはサッカーサッカーである理由の根幹部分である。ドメスティックであることが野球の(アメリカスポーツの)根幹であるのと同様に。ドメスティックなありかたがサッカーに見られたら、それは病いであり、おそらくは致命的な癌細胞であるから、すみやかに取り除かねばならない。

スルガ銀行杯は実にけっこうなことだが、あれはJリーグ1チームだけが戦う。国際試合なら何といってもアジアチャンピオンズリーグ(ACL)である。タイトルを賭けた真剣な戦いだ。真剣でないのは日本だけだ。ACLを重視しないのは愚の骨頂である。あれは時に「罰ゲーム」呼ばわりされるが、それはドメスティックの毒素の現われにほかならない。サンフレッチェのように2軍を出すのではなく、リーグ戦以上に、少なくとも同等に、重視してもらいたい。チームやリーグだけでなく、ファンサッカージャーナリズムも重視しなければならない。チームやファンが後ろ向きなら、サッカージャーナリズムが率先して煽ってほしい。煽動は好きではないが、この際やむをえない。

といって、国際試合を重視するあまりリーグがおろそかになっても困るので、2ステージ制はいいことかもしれない。前期を捨てて後期に賭ける、という戦い方ができる。去年ガンバがやったように。

(しかし、チャンピオンシップは2試合でいい。日程を窮屈にしないためにも。単純明快に、前期優勝チームと後期優勝チームが戦うという形にするべきだ。前後期優勝チームが同一なら、前期2位と後期2位のチームが決定戦を行ない、挑戦者を決める。敗者復活戦である。チャンピオンシップはこの場合1試合のみ、両ステージ優勝チームのホーム戦。アウェイはステージ優勝チームが1−0で勝ったと見なす。つまりステージ優勝チームは勝ちでも引き分けでもチャンピオンシップ優勝。90分で0−1で負ければ、延長戦となる。だがPK戦はなく、延長戦ではアウェイゴール・ルールも適用されず、延長引き分けはステージ優勝チームの勝ちになる。このような、敗者復活の挑戦者はアウェイで2点以上取って勝たないかぎり優勝はない、というハンデ戦でどうだろう。)


キリンカップは一応タイトル戦だったので、ボスニアは本気だった。インターナショナルドリームカップのような若年層の国際大会は日本でもよく開かれているのだから、さらに一歩進めて、代表レベルの選手たちによるインターナショナルなタイトル戦を定期的に開催することが望ましい。

中国のクラブは「爆買い」によって世界の一流選手をかき集めているので、ACL以外で中国の強豪クラブチームとタイトル戦をするのもいい。

日韓定期戦もいいのだが、韓国の歪んだ国民感情によって過剰にエモーショナルになるので、避けたほうが賢明かもしれない。どうせどれかの大会で当たるのだから。

提案したいのは、環太平洋選手権である。環太平洋の国々は、アメリカメキシココロンビアペルー、チリ、オーストラリア、あるいは中米諸国など、リアルなライバルばかりだ。同格か、格上でも手の届く相手である。切磋琢磨にちょうどいい。

太平洋は広くて、距離も時差もヨーロッパ並みにあるけれども、こういう枠組みなら招待された国もかなり本気で来てくれるだろう。代表でもU23代表でもクラブチームでもいい。日本からは2チームが参加、あと4ないし6チームを招待して、毎年か最低でも隔年に開催する。たとえば、ヨーロッパ選手権が行なわれる年にフル代表6チームを招いて2週間のカップ戦、それ以外の年は3チームを招いて1週間のU23代表戦、というのはどうか。けっこう真剣な提案である。遠いヨーロッパの尻を追いかけるより、同様にヨーロッパからの距離を病む近隣諸国とともに強くなろうじゃないか。実際のところは近くないけれど、地震が起きれば津波が押し寄せてくるのだから、隣ではあるのだ。

2016-06-20 留学のいろいろ (11)

後記・郷土史の悲しみ

読めばわかるとおり、これは「島根の近代留学」とでも言うべきもので、わが家の本棚と近くの図書館にある本をもとに、島根県出身者とそれに関係のある人々の留学体験を書き並べているのだが、すぐに気がつくのは、この人たちの生まれた場所こそ島根県だったりほかの地方だったりしているが、死んだのはたいてい東京である。熊楠がひとり例外と言えるくらいだ(彼の場合和歌山に生まれて熊野に暮らしていたから、さらに下降している)。つまり、留学(公費留学)するのは優秀な人材であり、さまざまな地方で産していても、彼らが働く場所は中央である。中央への頭脳の吸い上げということだ。

地方には「郷土史」という研究ジャンルがあり、そこでは「郷土の偉人」がよく取り上げられる。だが、特に近代以降は、その「偉人」というのはほとんどがその土地で生まれたというだけの人である。鴎外のように10歳で上京したきり一度も故郷に帰ることがなかったというのは(交通不便な時代なら)決して珍しくない。大官の庇護や旧居の観光地化など、出身地に有形無形の恩恵はあるけれども。中央への貢献の度合いをもって郷土の価値が測られ、「郷土史」はそれに喜々として奉仕する。残念さはぬぐえない。

中央の知的支配はもちろん日本だけの現象ではない。西川一三が指摘しているように、チベットでは「政府はハランバの学位(ラマ最高の学位)を得たラマに対しては、年々多額の年俸を支給して厚遇している。(…) 政府が莫大な国費を以てラマの保護政策をとっている目的は、とりもなおさず学位を得た学力、金力あるラマを地方に帰さず、ラサの寺にひきとめ、一生住まわせようとすることにある。国内国外のラマ教圏内のラマ留学を増し、ラマの留学はラマの親戚知人はもちろん、その地方の巡礼者の足をラサに向かわせ、外貨をラサ、すなわちチベットに落とさせようとするのが終局の目的なのである。この政策チベット政府だけでなく寺においても見られる。寺の各学堂は所属の学堂内に、ハランバ、ツォランバーの最高学位を得たラマや、将来これらの学位を得る見込みのある前途有望なラマがいれば、競って学堂お抱えのラマとしている。立派な部屋を与え、雑僧をつけて、食事から身の回りのすべての面倒をみさせ、何の心配もなく勉強させている。これはひとりでも多くの学問ある高僧を集めておいて、多くの留学生巡礼者の足を自己の学堂にひきつけるためだ。すなわち巡礼者達による不定期法会を催させ、金を落とさせようとしている。ラマとしても向学心ある学僧は学問のある高僧の集まっている寺に、凡僧は布施の多く出る寺に集まろうとするのが、当然だからである」(西川:195f.)。

首都のラサ的様態。つまり、東京はラサだということだ。文化の中心が三都に分散し、そのほかに地方的な小中心も多数あった江戸時代を思えば、日本近代は極端から極端へ走るありかたをしていたことがわかる。

江戸を廃した東京は、近代化の突出した先端であった。日本の諸地方は(ある程度は東アジアも)東京を模すことによって近代化を進めた。留学生にとどまらず、明治以来の日本は青年層に膨大な上京者の群れを生んだ。日本の唱歌のひとつの特徴は、故郷を懐かしむ歌の多いことである。「ふけゆく秋の夜、旅の空の」「夕空晴れて秋風吹き」「兎追いしかの山」−。これらの歌を作ったのは、もちろん出郷者たち、設計者から作業員まで含む近代日本の建設者たちである。留学エリートらもその構図の中にある。そうであればこそ、「郷土の偉人」をトレースして一国の歴史スケッチが書けるわけで、それならまあ悪いことではないかもしれない。


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2016-06-16 留学のいろいろ (10)

留学のような、留学でないような

明治初期には、実質的に東京官立高等教育機関での修学は「留学」であった。つまり、そのころの高等教育は欧米人教師によって外国語(英・仏・独語)でなされていたからである。

柴五郎が通った陸軍幼年学校ではフランス語で教育が行なわれていた。明治6年(1873)入学したその学校では、「教官はすべてフランス人にてプーセ教頭のもとに、モンセ、ヴァンサンヌ、ルシェ、グーピル、ルイ等あり。日本人は助手、通弁のみ。/国語、国史修身習字などいっさいなく、数学の九九までフランス語を用い、地理、歴史など教えるもフランス本国の地理、歴史なり。日本の地理、歴史など教えられたることきわめてまれなりしが、フランスの山河、都市村落、河川、気候など暗記し、問わるればただちに回答す」。「食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」(石光b:10f.)。これ、留学でしょう。場所が東京というだけで。しかし、当然のことながら勉強はたいへんだった。「最初級に編入され、ABCの発声を習いつつ、一年前に入学せる者のうちにまじりて講義を聴く。まったく何が何やら弁え難し。これにてはいかに勉強するも追いつくはずなし。口惜し涙にくれつつ、休憩時間も休日もなく、必死に自習す」(同)。一方で、教えるほうのフランス人教官は、「おそらくは横浜神戸などに在住の者を採用せるもののごとく、後年、余が大尉か少佐のころ、パリに駐在せるとき、教頭プーセが小さきカフェーを営みおる由聞きたれど、遠慮して訪ねたることなし」(同)。

賊軍会津藩士の息子として困窮の中に育ち、蕨の根や犬の肉を食べるなど生存自体に苦労した人なので、十分な教育を受けていないと自覚していた。やっと受けた正規の教育はこのとおりフランス語だった。だから少年時代の回想録を書いたとき、自分の日本文に自信がなく、それを人に見せて校閲を願ったわけだ(そのためこの本は「石光真人編著」となっている)。整わぬ時代だったが、だからこそ個人の活躍の幅が広かったとも言える。

教師について、明治7年(1874)に来日して1年半ほど東京外国語学校で教えたロシアの革命家メーチニコフはこう書いている。「かつてハンブルグ動物園園長までつとめた動物学担当のヒルゲンドルフ教授のすぐ隣の生理学講座では、もうろくしたアメリカ宣教師が教鞭をとるといったことになる。またアメリカの高名な化学者アトキンソンが、逃亡した元砲兵軍曹だとみずから公言して憚らないフランス人(彼は高等数学を講じていた)を同僚にもつ羽目になるのだ」(メーチニコフ:289)。専門知識を必要とせぬ語学教師の調達には困らなかった。「この当時、日本におけるヨーロッパ商業は危機に瀕しており、各開港都市―とりわけ横浜―には、なんの仕事もないおびただしい数のヨーロッパ人、アメリカ人が住んでいたので(・・・)文部省としては東京やすぐ隣の横浜といった、いわば現地でかなり多くの教職希望者を調達することができたからである」(同前:276ff.)。東京外国語学校(および第一高等学校)の前身である明治初年の大学南校など、「商店員、ビール醸造人、薬剤師、百姓、船員、曲馬団の道化師」などがまじり、「無宿人の収容所」と在留外国人に評されていたそうだ(梅渓:242)。前歴を誰も知らない外国語学校の初代ロシア人教師シードルについて伝わる話では、「死ぬほど酒を飲んで、へべれけの姿で教室に現われるや、教壇にどっかと腰をおろしたこのシードル君、そのまま眠りこけてしまい、あとはどうやっても目を覚まさない。かと思うと、ひどくはしたないことばで学生たちを罵りだすしまつ。しまいにはとうとう学生たちととっくみ合いの喧嘩となり、学生たちの手でつまみ出されたという」(メーチニコフ:285)。メーチニコフ自身は、細菌学者でノーベル賞を受けたイリヤ・メーチニコフの兄で、ガリバルディのイタリア統一戦争に加わって戦い、片脚を失ったというような人物であり、二葉亭四迷こと長谷川辰之助(1864−1909)が明治14年(1881)にこの学校の露語科に入ったときの教師ニコライ・グレーも政治的亡命者で、ともに伝説的な教師となった。二葉亭の頃も、日本人の教師はいたけれど、物理や数学などを含めどの科目にもロシア語の教科書が使われ、講義もほとんど全部ロシア語でやっていた。メーチニコフの言、「はじめからヨーロッパの言語や書物の勉強に手をつけた子供や青年は、日本の公文書文学のことにはまったくチンプンカンプンという状態になってしまう。江戸や大坂の洋学校のもっとも優秀な生徒でさえ、時には公用語で書かれた書類が読めず、友人に多少とも体裁のととのった手紙すら書けないほどに、いわば日本人として文盲状態になってしまうこともあるのだ」(同前:208)は一つ話であるとしても、その懸念は強い。

二葉亭四迷の場合は、松江の相長舎をはじめ漢学塾に通っていたので、その心配はなかった。しかし、初対面のとき坪内逍遥が「多分、其頃に於けるロシア文学通の第一人者であろう」と認めるのと同時に、「彼の性格までが、・・・ 著しくロシア文学の感化を受けていた。・・・ 私は彼にぶつかって、全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た」(中村:65)と感じたのには、外国語学校の教育がいかなる影響を彼に及ぼしていたかがうかがえる。そうであればこそ、言文一致体の小説を初めて書くということにもなったのだ。

けれども、時代が必要としたそのような稀な成功例ばかり見ているわけにはいかず、大多数の凡才に必要なこと、日本語で高等教育が受けられるようにすることが要請される。明治政府が身の丈以上の金を費やして欧米各国に留学生を送っていた目的のひとつがこれであった。明治13年(1880)、東京大学総理加藤弘之は「東京大学ニ於テハ、方今専ラ、英語ヲ以テ教授ヲナスト雖モ、此事決シテ、本意トスル所ニアラス(中略)将来教師ト書籍ト倶ニ、漸漸具備スルニ至レハ、遂ニ邦語ヲ以下テ教授スルヲ目的トナス」(天野:50)。そのとおり、明治14年(1881)には東京大学の日本人教授数が初めて外国人を上回った(21人/16人)。明治19年(1886)の帝国大学発足時には42人対13人になっている。そしてその7割は留学帰国者であった。非留学者のほとんどは日本の古代法制や和漢学科の教授であるから、実質ほとんどが留学をした人々によって成っていたわけだ。その教授たちも始めは外国語で、多少日本語を混ぜて講義していたのだが、明治16年(1883)には教授言語を英語から日本語に切り替えることを決定した(同前:52ff.)。明治10年代は日本語で教授する私立の法律学校(のちに専修・明治・中央・法政早稲田大学などになる)が次々に現われた時代で、このころに高等教育の日本語化はほぼ成ったと言える。

だが、それが完遂されるためには、日本語が近代化しなければならない。まず、ヨーロッパの事物概念を表わす新しい語彙が必要になる。そこで活躍したのが漢学教育を受け西洋留学をした人たちで、西周考案の「哲学(希哲学)」や「理性」「技術」などのような漢字の組み合わせによる翻訳語(新漢語)が大量に造られた。終戦までの公式日本語は漢文訓読体であったけれども、それも語彙は古典由来の漢文の素養がなければ理解不能のものから、中等教育で教えられる新漢語を使って大いにわかりやすくなったし、二葉亭らの努力による言文一致体も確実に広がり、公文書以外の書記日本語はその文体になっていた。それらの語彙が中国人留学生によって中国にもたらされたのは見たとおりである。旧植民地高等教育が今なお宗主国の言語によっているのと変わり、教育の自言語化・自立が達成されたわけで、官費留学はそのための一大プロジェクトであったと言える。それが今、英語による高等教育の奨励によって掘り崩されようとしているのは、明治の遺産の放棄、自主的植民地化と言わなければならない。

なお、朝鮮人台湾人にとって、内地の大学はもちろんだが、京城帝国大学台北帝国大学で学ぶのも一種の「留学」であっただろうことも付け加えておく必要がある。彼らの昭和戦前期がわれらの明治初期である。


東京の大学がたしかに「自国の大学」、つまり自言語の大学になったあと、今度は「外地」に日本の学校ができていった。

そのさきがけは上海東亜同文書院で、明治34年(1901)創立だからかなり古い。もとは前年に南京に創立された南京同文書院だったが、義和団事件の混乱で上海に移転した。この学校の最大の特色は、最終学年に数名で隊を組み、3ヶ月から半年の間行なわれる大旅行である。西は四川雲南・甘粛まで、中国全土を踏査した。その成果は「支那経済全書」「支那省別全誌」「新修支那省別全誌」などの基礎になっている。その始まりは、明治38年(1905)、二期生林出賢次郎・波多野養作ら5人が卒業直後に外務省嘱託で西域や外蒙古の調査に出かけたことにある。林出は単身イリ(伊犂)まで行った。日野強少佐の「伊犂紀行」の旅より1年早く、一旦帰国後また渡清し、ウルムチに教官として滞在していたときには大谷探検隊の橘瑞超に出会っている。そのころ学僧たち学徒たちは(特務将校たちも)縦横無尽に大陸を歩き回っていたのだ。

満洲の「阿片王」と言われた里見甫(1896−1965)もこの学校の出身で、大正4年(1915)夏に一行4人で北京から太原、延安、西安、秦嶺、漢口と歩き、「中国をイヽナーと思い、その味をかみしめたものである」(佐野:116)。その旅行記の一節を見れば、「宜川より洛川迄二百十支里三日の行程である、一日は谷間を伝ふて九十里を踏破して龍泉鎮に着いた。月光の美しい処であった。翌日は愈々土匪の巣窟を通ふといふ。始め三十里程は谷を伝ふて徐々に山を登る。山が深いので今迄の禿山と違ひ樹木が茂って居る、野は秋草繚乱として山遊びに行った様な心地。/山を下って谷間に出る。清い流れがある、小樹の林がある、鳩が静かに啼く。草間にすだく虫声に誘われて叢に踏み込めば女郎花が倒れる萩の花がハラ〱と散る(中略)。今日の道中が最土匪の横行する処で頻々と掠奪にあった処である此の旧県では百余の壮丁火縄銃を提げ徹宵警戒して居る、昨夜東門外を襲って掠め去ったといふ本隊は東方廿里の処にありと言って居るが警戒するのみで敢て攻めて行く等は中々しない。/夜更けて夜巡り銅鑼の音寂寞を破る。翌廿五日山間の高原を進む、途上の村々皆守望所を設け耕作を止め戦々競々たる様である。僅か四十支里の道だから訳なく済んで丁度正午頃洛川城裏の人となった」(同前:117f.)。

外務省管轄の日露協会学校は大正9年(1920)ハルビン設立された。満州国建国のあと、昭和8年(1933)文部省所管のハルビン学院となる。6000人のユダヤ人の命を救うビザを発給した在カウナス(リトアニア領事代理、「諸国民の中の正義の人」杉原千畝(1900−86)もこの学校に学んだ。彼は大正8年(1919)に外務省留学生となっており、その頃ソ連には留学できないから、ロシア人の多く住むハルビンに行かされた。そのあとこの学校が創立され、そこに通った。「留学生」が通うなら、まちがいなく「留学」である。のちにここで教えることにもなった。日露協会学校ははじめ3年制、週36時間の授業の半分がロシア語で、みっちり仕込まれる。2学期からは寄宿舎を出て、ロシア人の家に下宿する決まりになっていた。杉原が外務省の試験に合格後「受験と学生」に寄せた体験記は、「哈爾賓は寒いといっても決して恐るるに足らない。厳冬の候でも、室内に於ては、却って日本より暖かで愉快である。来たれ、この謎の国露西亜へ!」(「雪のハルビンより」。渡辺:413)と結ばれている。当時の日本人の認識において、ハルビンロシアなのだ。白系ロシア人配偶者も得ているわけだし(1924年結婚)。だが、この白系露人との結びつきがソ連の忌避するところとなり、ソ連への赴任を拒否された。ロシア人の夫人とは離婚していたにもかかわらず。そのため、ヘルシンキ、カウナス、プラハケーニヒスベルクブカレストと、ロシア周辺の小国小都市を渡り歩くことになる。「ロシアドイツの間」の地域である。その巡りあわせがユダヤ避難民の幸いになったわけだが。ロシア語の達人ながら、モスクワに赴任できたのは、戦後、外務省をやめ商社で働くようになってからである。日本の外交官だからもちろん日本に尽くす立場だけれど、東方においても、「日本とロシアの間」、満州国の外交部に3年勤めていた。そこをやめたのは、夫人によれば「満洲国において日本人が中国人に対してひどい扱いをし、同じ人間と見なしていないことに我慢が出来なかった」(白石:69)からだということである。そのことは、同じ日露協会学校の卒業生岸谷隆一郎が喝破した、「失礼ながら武器をいじくるサラリーマン転勤族、それが軍人というもの。彼らは転勤しないと出世できない。だから、しょせん場当たりのことしかしない。このような軍人たちに抜本策を求めるのはどだい無いものねだりというものだ」という至言と通うところがある。彼は敗戦時満洲熱河省次長の職にあり、「俺は満州国と運命をともにする。満洲国がなくなれば岸谷もない」と言い残して自殺したという(芳地:100f.)。ハルビン学院が幻か、満州国が幻か。少なくともこの両者の崇高な部分を信じ、殉じた人がいたということだ。いかに現実の愚劣によって裏切られようとも、尊い一分まで否定し去ることはできない。

モンゴルについては、善隣協会によってフフホト(厚和・綏遠)に興亜義塾が設立された。昭和14年(1939)の募集広告によると、

「興亜塾給費学生募集

蒙疆及支那西北辺疆一帯ヲ確保シテ赤色ルートヲ壊滅シ、帝国ノ大陸国策ノ遂行ヲ完カラシメンガ為メ、文化事業其ノ他ノ工作ニ従事スル志士的青年ノ養成ヲ使命トスル興亜塾ハ愈々四月ヲ期シテ創立開校セラレントス

体力強健、思想堅実、御奉公ノ信念固ク、先駆者ノ意気ト熱意ヲ以テ第一線ニ立チ、積極的ニ活動セントスル青年ヲ求ム

一、興亜塾所在 蒙古 厚和特別市

二、募集人員 拾五名内外

三、応募資格 中等学校・専門学校・並ニ大学卒業生ニシテ年齢二十八歳以下ノ者

四、修学期間 一年六ケ月

五、修学期間中一切ノ費用ハ協会ニ於テ負担ス(衣食住ノ費用、旅費、小遣等ヲモ含ム)

六、卒業後ハ協会職員又ハ現地政府職員トシテ、支那西北一帯、並ニ蒙疆ニ於ケル第一線ノ任務ニ服スルモノトス」(江本:39)。

この学校は、旅行の同文、下宿のハルビンよりさらに進んで、1年間ひとりでモンゴル人のただ中で生活させられるという点できわめて実践的であり、語学習得の根本に触れている。「興亜義塾では一年間学科(蒙・支・露三カ国語、西域の地理・歴史・政治・経済)、それに軍事訓練を受け、さらに一年間は日本人の住んでいない蒙古高原にひとりで放り出されて蒙古人と生活を共にし、一蒙古人になり切る訓練を身を以て体験した。私は包頭北方百霊廟の四子部落サッチン廟で一年間ラマ僧に混って勉強した」(西川a:21)。

藤枝晃(梅棹らとともに西北研究所にいた)の回想によれば、はた目からはこう見える。「綏遠に、興亜義塾という、中田善水が塾長で、日本の中学出たやつをスカウトして来るのやね。あんまり出来の良くない豪傑、少々の事にこたえんような頑丈なやつばっかり。その第二回か第三回かの卒業生の、木村肥佐生いうの、ラマに化けてチベット行って。それからもう一人、西川一三。僕が行った時は、そういう若いのが二人潜入してるという事を聞いたですがね。その後、インド通って帰って来た。ああいうのが出たんは、興亜義塾というのも、成功したという事なんやろうかな。一人のやつは、向こうに入って、住みついて、いづれ、日本軍が来る時、それを迎えるように言われたて、これ見たら書いたるねん(「協会史」214頁)。例の小野田少尉、ああいう人のまだ見付からんやつが、いっぱいおるのやろな、あちこちに消えたやつが」(藤枝:66f.)。

興亜義塾二期生の木村肥佐生(1922−1989)はダワ・サンボ、三期生西川一三(1918−2008)はロブサン・サンボーの名で、ともにラマ僧に化けて、昭和18年(1943)に前後して西北に潜入した。西川によれば、「西北シナに潜入し、シナ辺境民族の友となり、永住せよ」という総理大臣東条英機の命令書を受けたという(西川a:84)。援蒋ルートである西北公路の探索が目的のひとつだったが、新疆への潜入は果たせず、ともに青海からチベットへ進む。寺本がタール寺からラサ入りした様と重なる。そしてチベットで日本の敗戦を知った。

彼らはまさに民衆のただ中にいた。モンゴル人であって日本人でなかった。木村はラクダに乗り、西川に至ってはモンゴルからチベットインドまで全旅程を歩き通した。特に西川(津和野から四つ目の駅の山口県地福出身)は、冬も裸足で暮らし、乞食もしたし、雨の中にごろりと口を開けて寝ることのできるような人である。だから、彼らを同族だと思っている内モンゴル人が、「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海のなかに叩きだすだろうよ」(木村:153)と言うのも聞くし、「安心しなされ。戦争は終わりましたぞ。盗人どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ」(同前:203)と「祖国の解放」を祝福される。それ以前に中国人モンゴル人に対する日本軍士官や日本の会社員の横暴傲慢な振舞いを見ていればこそ、さらに耳に痛かったろう。

木村はダンザンハイロブとツェレンツォーの夫婦を連れて(あるいは連れられて)潜入した。このツェレンツォーはまったく素朴な女で、木村は彼女の弟として旅しているのに、雇い主に対するような敬語を使うのをやめない。「だって実の弟じゃないでしょうが!」というわけだ。あるときは客のいる前で、「彼女がそばにいる時のこの人をふるまいときたら……今にも鋤をとりだして、穴を掘り始めるんじゃないかと思ったわ」と木村とその土地の娘とのエピソードについて語り出して、ダンザンと木村を唖然とさせた。「「それだけじゃない、この人ったら自分のナイフを研ぐことを考え始めたのよ。それまでずっと突きさそうともせず、鞘におさめてたのにね」。自分の機知にうっとりとなったのか、彼女はいっかな話しやめようとしない。それどころか聞き手が間違いなく話の露骨な部分をくみとれるように、一句一句を強調してみせた。(…) 客はバーブウ・ノインの若い召使二人だったが、すっかり当惑顔になっている。愚かな女がよりによって二つも大きなタブーを破ったからだ。まず彼女は弟の前でセックスの話をし、さらにツァイダム盆地で禁じられている言葉を使った。ダンザンは当惑しきった表情で、ラサから到着したばかりの晩夏のキャラバン隊の話をもちだして、なんとか話題を変えようと試みた」(木村:133)。この旅で彼女は出産し、後産が下りずに死にかけ、せっかく生まれた赤ん坊を亡くす(おそらく寝ながら乳をやって乳房で窒息死させて)などという経験をしている。そうしてたどりついたラサでは宗教的熱狂のうちに五体投地礼をくりかえし、インドへ下ってブッダガヤの聖なる菩提樹と仏塔に参拝して、「つまらないモンゴル人の女である私が、こんなありがたいお釈迦さまの遺跡にお参りできたのもあなたのおかげです。もういつ死んでも思い残すことはありません」(同前:209)と言う。木村と別れたあと、二人はネパールへ行き、仏塔の番人をしていたが、彼女はそこで病死したという。妻を亡くしたダンザンはラダックへ去った。人生は旅というが、まさにそれを一身に表わした生涯である。木村と同行したからラサへもブッダガヤへも行けた。だが、同行せず、内モンゴルに暮らしつづけていればどんな人生だったか。すでにこうであった以上、考えても詮無いことである。われわれはただ、木村の筆によって、こんな人もいてこんな人生もあったのだと知り、心を揺すられるだけである。

西川は一モンゴル人新米ラマ僧としてレボン寺に入って修学した。興亜義塾だけでなく、ここでも「留学」していたわけだ。しかも、特権ゼロ、茶汲み水汲みなど駆け出し僧の仕事をみなこなしている。最高の学位につくだろうと将来を嘱望されている「同郷」のイシラマを師とした。「イシラマにハタクとグンスク代五円を献じ、三跪三拝し、「なにも分らぬ者ですが、なにぶん宜しくお願い致します」と挨拶を述べた。それに対しイシラマは、「ロブサン、それはお前が取っておけ」とただ一言。その言葉は低くそして慈愛に満ちたものだった。熱いものがこみあげてきて、なにも言えず、涙の出るのを我慢し、「よし、この恩は…」と私はかたく心に誓ったのである」(西川b:49)。耳から覚えてチベット語の会話はなんとかできたが、書くのはもちろんさっぱりである。「親代わりの師匠イシラマは、私が経文もなにも知らぬ無筆者とはいっても、まさか、イロハも知らぬ無学者とは思ってもいなかった様子で、「ラマといって、イロハも知らぬ無学者が、このジュチュ僧舎に来たのは、お前が初めてだろう」とあきれてしまった。「この有様では、学問上の先生を選ぶなどとはとんでもない。俺の弟子として、俺の顔がたたないから、せめて経典が読めるようになるまで俺が教えてやる」ということになり、さっそく入門の翌日からイシラマについて、チベット語の勉強が始まったのである」(同前:74f.)。先生の指導にこたえ熱心に努力したおかげで、「こんどイシのところに来た弟子は、来た当時はイロハも知らなかったが、もうジャブロー(礼賛の経典)を全部暗記したそうだ、凄い奴だ」と言われるほどになった。

慧海が書いている問答修行にも参加しなければならなくなった。「入門して間もないある日のこと、イシ先生が、今夜僧舎で討論会があるが、その時、『一年生立て!』と上級ラマが怒鳴ったら、僧舎ではお前が一番の新参者だから、お前が真っ先に立つのだぞ」と突然言われ、何も知らない私は青くなった。しかし、先生は「シィシジン、サンニット、ヨーワルタル、ヨーウイチル」と二回繰り返され「これを暗記しろ!」と命令された」(同前:155)。そしていよいよその日が来て、「星のきらめく中庭の一段と高い石垣の上には、座布団のように、大きな石板が敷かれた答者の席があり、その席を囲んで九年生以上の全上級生が、その下の広場に集まった。(…) 全員が席につくと、

「一年生から立て!」と背後の九年生から声が起こった。兢々としていた私はままよとばかり、黄帽をかぶり、ダゴムを脱ぎ捨て答者の前に立ったが、足がぶるぶる震えて仕方がなかった。しかし私は、昼間先生から教わった一人芝居をどうにかこうにか、失敗することなく演じた。

答者は私の問に対し答えたが、なんのことか解らないだけではなく、その答に対して次になんと問を発したらよいのか、またどうしてよいのか分ろう筈はない。(…)

ところが、上座の上級ラマの間から、突如そして私に代わって答者に問が発せられた。そのすみきった声は実にわが師イシ先生の声だった。私はどれだけほっとしたことだろう。問答は助け船イシラマと答者の間に自然的に繰り返され、私はただ案山子のように立っていればよかった。まもなく、

「つぎ、立て」と九年生の中から声が起こり、その声と共に私はひっこみ、次の者が立った」(同前:156f.)。

二人がインドチベット人町カリンポンで出会ったときの様子はおもしろい。日本語が話せなくなっていたのだ。「我々だけになるや、西川氏は口をひらいたが、舌がもつれて話せない。私には何が起こったのかよくわかった。日本語で話そうとしたのが、言葉が出てこないのだ。ややあって彼は日本語を話すのをあきらめ、モンゴル語に切り替えた。「日本は戦争に負けたのかね?」」(木村:219)。木村のほうも同様で、カルカッタ港で日本船を見つけ、船長に「自分のことを説明しようとしたが、母国語であるはずの日本語がうまくでてこない。もどかしさのあまりペンを取って紙に書いた。「私の名は木村肥佐生。七年間日本語を話したことがありません」。奇妙なことに書くことには何の困難も覚えなかった」(同前:322)。

昭和25年(1950)、帰国すると二人はGHQから呼び出しを受けた。二人ともそれぞれ外務省に報告しようと考えた。彼らは大使館調査室の勤務とされていて、終戦まで両親のもとに毎月外務省から給料が振り込まれていたからだ。だが外務省はそれにまったく興味を見せなかったので、GHQで1年間日当を受けながら報告書を書いた。その後西川はその見聞を大部の本に著したものの、前半生と無縁の仕事(盛岡で美容器材卸業)をして生を終えた。一方、木村はその経験を生かしたが、それはCIAの下部組織で働くという形である(その後亜細亜大学教授)。これらのことは、敗戦後この国を支配しているのが誰であるかを如実に示している。たぶん今に至るまで。

平成元年(1989)、ウルムチへの旅の途上で病に倒れ、日本に運ばれて手術を受けた木村肥佐生の最期の様子は、夫人によるとこうだ。「手術後に麻酔科の先生が「あなたの名前は。」と尋ねられました。主人は暫く天上を見つめておりましたが、しっかりした口調で「名前は言えません。」と申しましたので、驚いた私は咄嗟に「ダワ・サンボです。」と答えてしまいました。すると主人は、きつい目で私を見てから先生に、「逃亡ではありません。潜行です。」と低い力強い声で訴えました。これが最後の言葉となり、十月九日、力尽き、ダワ・サンボとして他界致しました」(木村:369)。

興亜義塾も西北研究所も、存在した期間はごく短かったが、大きな成果をあげたと言える。しかし興亜義塾の場合、それが戦後に生かされたとは言えない。日本でなくアメリカの手に入ってしまった。同じく成功だった西北研究所のほうの成果は、戦後日本にしっかりもたらされたのに。国家べったりの興亜義塾のおのずからの限界である。スパイはしょせん国に仕えるもの、ということでもある。


満州国の成立は、不思議な「外国留学」を成立させた。満洲生まれ、撫順・奉天育ちの李香蘭こと山口淑子(1920−2014)は、父親の義兄弟である中国人有力者から李香蘭、潘淑華の名前をもらっていた。そして北京の潘家に寄寓して、1934年、そこの娘たちと名門ミッションスクール翊教女学校に通うことになった。これも立派な留学であるが、なんとねじれた留学であることか。彼女は潘家の娘潘淑華として、出自を隠し中国人として中国人の学校に通ったのである。政界の大物だから、親戚や妾、使用人や私兵などを含めて百人もが暮らす豪壮な邸宅の中に、たった一人の日本人であった。中国人作法も身につけた。「人様に何か言われると、すぐ笑いかえす癖があるが、なぜ笑うのか。日本人の習慣だとすれば改めなさい。意味もないのに愛想笑いをすることを中国では売笑といって軽蔑されます」「日常のあいさつで、点頭(軽い会釈)するのはよいけれど、日本人のように深々とお辞儀をするのはよしなさい。卑屈に見えます」などと奥様に注意され、それにならうと、実家に帰ったとき母親に、「淑子は、大都会に出てから生意気になって礼儀作法がダメになった」と嘆かれる。「中国人になろうとすれば、日本人らしさを失い、日本人であろうとすれば、中国人から誤解される― この二律背反の悩みは、風俗習慣だけでなく、あらゆる面で終戦時までつきまとうが、もっとも悲しかったのは、祖国・日本と故国・中国との対立が次第に激しくなってくることだった。クラスメートたちの日常会話にも「反日」「排日」「抗日」などの言動がひんぱんに表面化し、地下運動に参加する友人もでてきた。/そうした悩みを誰にも打ち明けられないことこそ、最もつらい悩みである。耐えられなくなると、私はよく太廟に出かけて古木の並木を散歩しながら思いきり泣いたものである」(山口・藤原:75)。あるとき学生の抗議集会に顔を出す羽目になった。「日本軍は偽満州国をでっちあげ、東北地方からこの北京にせまってきている。もし日本軍北京の城壁を越えて侵入してきたら諸君はどうするか」という問いかけに、「国民政府軍に志願する」とか「パルチザンに参加する」という声があがる中で、彼女の順番がまわってきたとき、とっさに「私は、北京の城壁の上に立ちます」と答えた。城壁に登れば、攻める日本軍か迎え撃つ中国軍の銃弾に当たってまっさきに死ぬだろう。それが自分にふさわしい身の処し方だと思った。

そうであればこそ、満映にスカウトされ新京へ行ったときの新京駅でのあざやかな出現が出迎えの日本人スタッフを驚かせたのだ。そのときの関係者は言う。「新京駅のホームではすっかりあわてましたよ。軟席車(一等車)の停車位置で待っていたのだが、李香蘭らしい女性はおりてこない。どうしたのだろうと心配していると、ホームのはずれにポツンと立っている小柄な娘、それがあなただった。オカッパ頭、青い木綿の中国服の質素な身なり。硬席車の窓から身を乗りだす中国人乗客たちに手をふって別れを告げている。日本人が乗る軟席車の特別車に乗ってこなかった、中国の人たちと打ちとけて話している、それだけでみなが感動してしまった」(山口・藤原:100)。

映画スターとして数々の「国策」映画に出演し、迎えた敗戦後、中国人の対日協力者は「漢奸」として裁判にかけられたのだが、彼女は日本人であることが証明できて、日本に引き揚げることができた。大陸で生まれ育ったのだから、「漢奸」でないように「引き揚げ」でもないのだけれど。中国人ではもとよりないのだが、日本人とも言い切れない(初「来日」のとき、特急列車に乗って目まいで気分が悪くなってしまった。特急あじあ号より遅い日本の特急で。「ごみごみした近景がコマおとしのフィルムのように目まぐるしくかわる」からである)。どちらにも真に属することなく、狭間を生きた人である。「華やかな狭間」ということだ。


その満州国崩壊は、シベリア抑留へとつながる。敗戦後、60万もの日本人兵士や満州国関係者がシベリアを始めソ連各地の収容所に連れ去られ、国際法を無視して囚人のような強制労働をさせられた。うち6万人ほどが寒さと厳しい労働と劣悪な環境のために落命したと言われる。10人に1人はいかにもひどい。隠岐西ノ島の出身で東京外国語学校ロシア語科に入り、社会主義運動に関わって退学処分を受けた後満鉄入社、北方調査室で働いていたという経歴ですでに妻子のあった山本幡男(1908−1954)も帰国のかなわなかった一人で、収容所勉強会アムール句会などを主催し、周りの人に慕われ、紙一枚持ち帰れなかった帰国時に、友人たちがその遺書を暗記して遺族に伝えたことで知られる(辺見じゅん収容所から来た遺書」)。

そんな悲劇があるため暗い色調で批判的否定的に語られがちなシベリア抑留であるが、抑留記「極光のかげに」を書いた高杉一郎(1908−2008)の言うとおり、これはひとつの「バビロン捕囚」である。抑留者は辛い記憶や恨みばかりを持ち帰ったのか? もちろんそういう人も多くいただろう。国で待っていた家族にとっては、ただ辛かったというだけかもしれない。だが、ここでは日本人の資質が問われているのだ。もし本当にここからネガティブな要素しか引き出せないのなら、日本人はその程度の人間だということである。待っていた人たちの心情もまた構図を歪めているだろう。留学の場合は、国で待つ家族には待ち甲斐があった。よりよい未来のために一時的に忍ばねばならぬことだった。戦争や捕虜の場合はそれと全然違う。帰ってくる保証は何もなく、帰ってきたとて行く前のレベルに戻ることしか期待されていないのだから、待つことの辛さはよくわかるし、それに一部の(多数の)抑留者のルサンチマンが合同すれば、ただ対ソ悪感情の材料になるだけであろう。だが、それだけなのか? それは貴重な経験に、学びの場にならないのか? 否である。日本人と日本文化にとって幸いなことに、それをもってポジティブな生産に結びつけた人たちはしっかりいた。

長谷川四郎(1909−87)の「シベリヤ物語」は、大岡正平の「俘虜記」と並んで捕虜文学の双璧だと思うが、五木寛之に「のんきな本で、捕虜生活の苦しみが出てないですね」と言われるほど、捕虜という名の囚人の生活の辛さがほとんど述べられていない。それは意図的なことで、その感想に対して長谷川自身は「それは罪ある者として私がよろこんでシベリヤに服役したためかもしれない」と言っている。これは重要なポイントだ。抑留者は要するに囚人で、懲役に付されていた。明治大正期の北海道の監獄の懲役労働について読んでいれば、それより(さすがに)ましだが同類のものだとわかる。自分がその罰を受ける理由があると思う者はそこから反省を引き出し、まったくそんないわれはないと思っていた者(兵卒の大部分はそうであろう)はただ恨みしか感じなかった、ということだ。「シベリヤ物語」に描かれるのは厳しいシベリアの環境の中に生きるたくましいが平凡なロシア人と周辺民族の姿で、日本人捕虜はそこでの生活風景の中の自然な構成物だ。場によくなじんでいる。たとえばマリーヤ・ゾロトゥヒナ。「野菜の積み込みにやってきた「兵隊たち」に対し、捕虜とか日本人とかいう観念を全然持っていなかった。彼女にはただ労働者という観念しかなかったように思われる。彼女は兵隊たちをただ未熟な労働者として取扱った。(・・・) トラックが動きだした。すると彼女はあわてて少年の手をはなして、たちまち笑顔になって、ぼくらに向って愛想よく手を振った。/― 幸福で!と彼女は言った」(「シルカ」)。

たとえばラドシュキン。「どういう用件か知らないが、ラドシュキンはモスクワへ出張したのだった。/こうしてラドシュキンなしの日が何日も続いたが、ある朝、私たちが煉瓦工場に近づいてゆくと、彼がいつものように、道具類を並べているのが見えた。彼は私たちが到着しても、別に長いこと不在だった人間のようではなくて、あたかも昨日別れたのと同じような態度だった。

「何処へ行ってたんです?」と私はきいた。

コルホーズへ、牛乳を飲みに」と彼は答えた」(「ラドシュキン」)。

たとえば「かちかちに凍りついた塵芥の山の麓を少しずつツルハシで取崩しにかかった」とき、通行人たちがからかって投げかける言葉。

「「ヤポン、働け、働け」と太い声が言った。

ヤポン、腹が減ったかい」と別の声が言った。

ヤポン、いつ国へ帰るんだい」とまた別の男の声が言った。

ヤポン、えらいぞ、きれいにやれよ」とまた別の声が聞こえて来た。

ヤポン、お前は民主主義者かね」とえらそうな声が言った。

ヤポン、立派な特殊技能を持ってるね」と皮肉な少年の声。

ヤポン、いい匂いでしょう」と若い女の声。

ヤポン、一ルーブリくれないか」と、これは吐き出した唾と同じ声だった。

ヤポン、お前のノルマはいくらだい」」(「掃除人」)。

「警戒兵不要者」という一種のパスをもらって、ひとりで村を歩けるようになった主人公は、本屋に入る。その看板は「細い斜体活字的に「本」と書いてあった。私はこの「本」の中へ入って行ったのである。恐らくは、ある人々が酒場にでも入ってゆくように。(・・・) 私はそれから毎日、馬から降りては、この「一八一二年のモスクワ」を少しずつ読んでみた。(・・・) 本屋の主婦は中年の独身女で、奥の一間にひとりで住んでいたが、彼女は私に対し上等な親切を示した。彼女は私に対し完全な無関心をよそおったのである。この無関心は冷淡なものではなかった。何故なら、私がある日、この「一八一二年のモスクワ」を開いて、ナポレオンクレムリン書庫でプガチョフ関係の文庫を調べている所を読んでいると、数人の小学生が入って来た。彼らは私を見て何やらひそひそ話していた。「ヤポン」とか「捕虜」とか言っていたようだ。すると店の主婦が彼らをたしなめて、こう言った。「そうです、あの人は日本人ですよ。それがどうしたのです?」/小学生たちは忽ち黙ってしまった。そして私が振り向くと、彼女はもう編物をしながら、窓辺に開かれた大きな厚い書物を読んでいた。彼女は毎日、その本を少しずつ読み、一枚一枚と頁をめくっていたのだった」(「ラドシュキン」)。

これをしも「留学」と言うのは、留学ということばの乱用であろう。しかし、ゴーリキーの「私の大学」のような意味で「人生の大学」ではあったし、朝鮮慶尚北道生まれの民族学者加藤九祚(1922−)のように、そこでロシア語を習得して、昭和25年(1950)に帰国ののち大学で学びなおし、抑留遺産のロシア語を駆使してロシア旧ソ連の学者と交際し、研究・発掘や翻訳に活躍するみごとな人生を送っている人もいる。このような人にとっては、抑留もたしかにひとつの「留学」であったと言えよう。シベリアから持ち帰った有益なものの筆頭は合唱愛好癖かもしれないが、それだけにとどまらない。

みずからの意志によらず、学ぶ意欲のある者にだけ開かれていたこの寒々しい「学びの場」は、漂流記から始まったこの留学談義をしめくくるのにふさわしい。