社会のゴミ的に生きるってのもオリジナルな生き方だし

しばらく寝かしておかないといけないネタなので、新しいことは言えません。誰が読み取れるんだろうポエムです。

選択することと使命があること、未知であること、生きる価値、肯定感、不条理あたりがどこがどう繋がっているのわからないので、とりあえず書きなぐる。


信じる不合理は、誰が真似しようとも思わない、私だけの人生っつー感じである。

誰もが同意できることはオリジナルであると言えない。

何かを信じること。(私はそこに人の善意とか代入しちゃう)

あえて、価値観にコミットする、とは、宮台先生の弁だったような。

あえてするとき、選択が働いている。

ここでも、選択肢の放棄の強制は働いていないか。

選ばなかった人生に愛惜はあったとして、損を承知で生きるのは、損をしている感が痛みを生み、痛みは意味に、生きる意味に転化する。

でも、君は選ばれた勇者だ、と言われたいのか。

私のかけがえのなさは他人に保証されたいか。

まあ保証なんてもらえないのが大概の人である。

大抵の日本人はそこで神様に頼るような厳しい人生でもないし。

コーリングだっけ、呼びかけが聞こえて、生きても客死する芸術家。

虚空遍歴(上) (新潮文庫)

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使命って、社会のゴミを生きるのもあり、いろんな人間が居るってことが示せただけでも大したもんか。大抵の人間はそう生きられない。

社会の価値観に従ってしまう。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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社会のゴミ的に生きるってことは、社会の価値観の外にあるってことで、超人的じゃね?

あえてする生き方とは別に、人生振り返ってみれば、自分はこう生きるしか無かった、選択肢なんて無かった、的なことも聞いたことはある。

不合理を選ぶ人生ってありだよな、と思う私はやっぱり、根拠なく信じることは祈りとか書いちゃうし、宗教の人と近似値の理想家ですな。

信じるの何がまずいって、この状況を変えようと頭をフル稼働させずに、黙って現状を受け入れそうなのがイヤ〜


30にもなって黒歴史を書きなぐるぐらいには、リアルに窒息しております。人の目を気にして、生きるなんて、この秋津、アホな自分を愛しております。

ちなみにありきたりなことを書いている割に、前書きと整合性が取れないのであるが、添削したら当たり前のことになってしまったのよ、当たり前を消していって、残る自分はないので、これでよし。自己愛もなしにブログが出来るか、だよん

根拠なく信じることが宗教がからない時はあるのか

えーとポエムというか

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

を読んでからのほうがいいんだけど、現実逃避更新だよん。

ちなみにすでに事務所のカギは開いていました。これで残業が年に100時間なわけなかろうだけど。


人が良いことに動機づけられている、悪いことをしたがる、って自分では決めようのないことである。そうとしか言いようのない。

で、思い出したのが、病気になる、みたいな不条理である。

それに何か原因があるのかと言えば、そうとしか言いようのない。

そこに原因を求めてしまうのは秩序を求める人のサガなんだろうけど、あの人が交通事故って私がならないのに、理由なんてない。

たまたまである。

たまたま日本に生まれたこと、私がこういう性格に生まれたことに理由付けを求めるのは無意味だ。

根拠なく信じたがるのはどうよ、と思う。

と断じて、私がこう生まれたことに理由をつけたがる気持ちは理解できる。信じることで不安を取り除きたいのなら。

私は真理を求めたい。

間違えたくないから正しい真実を信じ込みたいのである。

正しいことをして、安心感を得たい。

て、不思議ぽく思ったのだが、信じるということは選択肢を放棄することである。

現状からのフィードバックを拒否する。

私も、人がどう転ぶかわからない時に、信じてあげたく思うのは、根拠なくそうすると決めたからで、結果は気にしない。

結果を気にしない、選択をする。

選択をして動揺するのが嫌なんだろうか、としたときに、考えることの放棄、ともいえる。

選択した結果の不利益を被るので覚悟はあるのか?

考えることの放棄は、はっきり言って橋本治の徒としては非常に嫌なことである。

信じることは不安の放棄、とした場合は。

あえて、信じる、とぷかぷか浮かぶものはあるんだけど、オチがつけれないのであった。

信じることが宗教がからないのはどういうときか?無理?

すべてが合理的であることは現在の価値体系に対し従順であるということで、不合理でいる自由、あえて不利益を被ることで生きる意味ができるとは私の考えであるが。

自ら神になる

質問

クリスチャンは縛られている。人間はもっと自由なのに。

回答

ええ、そうです。クリスチャンは神さまによろこんで縛られています。 その束縛は、愛の束縛です。 人間がもっとも人間らしく生きるために必要な、愛の束縛なのです。 あなたの言う自由だというのは単なる放縦ではないのですか? 自分の思い通りにすることが自由だと思っているのですか? 結局、それは「自分を神にする」教えにすぎないのではないでしょうか。

クリスチャンが聖書の教えに従う(従おうという意志を持っている) という意味では、クリスチャンは「縛られて」いる。 それは
「夫婦なのだから不貞をおかさないようにしよう」とか、
「親なのだから子どもをきちんと養育しよう」とか、
「C言語でプログラミングしているのだからC言語の文法に従おう」とか、
いうのを「縛られている」と表現するのに近い。

正当な権威にしたがうことはよいことなのです。
http://www.hyuki.com/dig/dig2.html

自分を神にする教え、、、

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

グノーシスも否定されるべきなのか。

課題本が増える、、、

いいことをするのに、わざわざ神を持ってこないといけないのか。

何でいいことをしたいのか、よくよく考えたら根拠がなく、神のご意志が働いているからって分からなくはないけれど

カントですかにゃー(高知弁

参考サイトから離れると、良いものだから帰依する。

良し悪しを自分で判断するのなら、結局(今の)自分の考えに従っている。

本当に帰依するのなら、今なら分からないことだけど、教義をすべて飲みこめって、カルトっすけど、外国の宗教徒の知り合いなんておらへんので想像力が働かない。

小室直樹プロテスタントの予定説はっと。