人権擁護法案検討メモ―番外編その8

 ちょいとバタバタしていたのと、考えが煮詰まっていたのとで、しばらくエントリーを更新することが出来ませんでした。
 考えが煮詰まっていたというのは、「“行政委員会が信用できない”と言っているのに、なんで“司法は信用できる”と言えてしまうのか?」という問題に引っかかっていたからです。

<「労働審判法」を手がかりに>

 このことを考えるために、例によって他の制度を見ようとネット上をウロウロしておりますと、「労働審判*1」というのが見つかりましたので、これを手がかりに少し話を進めてみたいと思います。
 従来(といっても2002年以降ですが)個々の労働者と事業主との労働紛争(解雇や配置転換、賃下げなどをめぐる紛争)については、「個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」に基づいて各都道府県労働局の助言指導や紛争調整委員会によるあっせんが行われていたのですが、労働局の助言指導に強制力がなく、また紛争調整委員会のあっせん手続もどちらか一方が応じなければ打ち切りになるため、紛争解決に対して期待されたほどの効果を発揮することが出来なかったようです。
 これを踏まえ、新たな個別労働紛争処理制度を創設するために制定されたのが「労働審判法」です(2004年5月12日公布、施行は2006年)。
 「労働審判制度」は、次のような特徴を有しています。

  1. 労働審判地方裁判所において行われること。(1条)
  2. 審判を主宰する合議体が、裁判官である労働審判官1名、労働関係に関する専門的な知識経験を有する労働審判員2名で組織されていること。(7条〜10条)
  3. 一方当事者からの申立てにより手続が開始され、相手方に応答義務を課していること。(5条、14条、17条、21条、31条、32条
  4. 原則として3回以内の期日で審理を終結すると定められていること。(15条2項)
  5. 労働審判は裁判上の和解と同様の効力をもつとされるとともに、異議申立てを行った場合は地方裁判所に訴えの提起を行ったものとみなされること。(21条、22条)

<“応訴強制”の獲得に向かうADR>

 この法律を見てまず考えたことは、
 「やはり“応訴強制”がなくては、紛争処理機関は充分に機能を果たせないのかなあ」
 ということです。以前のエントリーでも触れましたが*2男女雇用機会均等法が平成9年に改正され、一方当事者の申立てにより調停が開始できるようになったことも考え合わせると、「応じようが拒否しようが構いませんよ」という紛争処理機関というのは、こと権利紛争においては有効に機能しないのではないでしょうか。
 おそらくですが、本法案が成立した後、時を経ずして双方当事者の合意がなくても開始できる紛争処理手続(“人権審判”、みたいな)を創設するような法改正が議論されるでしょう。でも、「それって訴訟じゃないの?別に制度を設ける必要がどこにあるのですか?」と思ってしまうのです。
 そんなわけで、なんでわざわざ人権侵害調停/仲裁のような、実効性も利用頻度も低い(と見積もらざるを得ない)制度を設けようとするのか、やはりよくわかりません。

<“公正さ”と“公正らしさ”>

 さて、次に考えたことというのは、
 「審判者の“公正”とは、何なのか」
 ということです。
 (少なくとも)日本においては、裁判官に対して“公正さ”とともに“公正らしさ”をも求める傾向があるようです。
“公正さ”というのは、「審判者がどちらか一方に偏った手続進行を行わず決められたルール(訴訟法や訴訟規則など)に則った手続進行を行うこと」と、「適時適切に提出された証拠に基づいて合理的に判断を下すこと」によって実現されるものと考えてよいと思います。従って“公正さ”は、審理手続が始まってから問題となるものです。
 これに対し“公正らしさ”というのは、かつて最高裁長官であった石田和外氏*3が在任中に述べたとされる「裁判は公正であるだけでなく、公正に見えなければいけない」という言葉に凝縮されていると思うのですが、要は「審理手続が開始される前に“偏った見解を抱いていないだろう”と推測されること」を指しているものと思われます。
 この“公正らしさ”について、いわゆる「寺西判事補戒告事件」で最高裁

 裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される。司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである。したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならない。そのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである。職務を離れた私人としての行為であっても、裁判官が政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは、当該裁判官に中立・公正な裁判を期待することはできないと国民から見られるのは、避けられないところである。身分を保障され政治的責任を負わない裁判官が政治の方向に影響を与えるような行動に及ぶことは、右のような意味において裁判の存立する基礎を崩し、裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがすばかりでなく、立法権や行政権に対する不当な干渉、侵害にもつながることになるということができる。
 これらのことからすると、裁判所法五二条一号が裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるものと解される。(平成10年(分ク)第1号平成10年12月1日大法廷決定*4より抜粋)

 これを踏まえたうえで、労働審判員の選任についての以下の記述を読んでみます。

 労働審判制度は、新しい制度だけに、課題もいろいろ指摘されています。
 労働審判員は、全国で労働側、使用者側それぞれ五百人ずつ、あわせて千人の選出が見込まれています。
 労働側の推薦する五百人の労働審判員は、労働団体が推薦します。連合枠四百三十四人、全労連枠五十一人、全労協その他十五人の枠で人選がすすんでいます。ふさわしい経験と見識のある人を推薦し、十分な研修がおこなわれる必要があります。(2004年11月28日(日)「しんぶん赤旗http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-11-28/05_01.htmlより抜粋)

 労働審判員は人権擁護法案でいうところの人権調整委員にあたる人々になるわけですが、もう少し広く、人権委員も含めて考えてもよいと思います。
 労働紛争の分野においては、例えば労働委員会が労働者側委員、使用者側委員、公益委員によって構成されているように、利害対立の構図をそのまま合議体の構成に反映させることを当然と考えているふしがあるようです(おそらくドイツの労働裁判所あたりを意識しているものと思われます)。
 でも、このやり方が果たして労働委員会労働審判の合議体の“公正らしさ”を担保するものであると見做してよいのでしょうか。
 労働審判員のうち誰に当たるかは当事者の意思が及ぶところではありません(当事者と具体的利害関係があることが明らかな場合を除く)ので、仮に全労連系と近い立場に立っている当事者(労働者)が連合枠から選出された労働審判員に当たったとしても文句を言うことはできません。文句は言えませんが、労働審判員の“公正らしさ”には疑念を抱くでしょう。
また、労働審判員が当事者(労働者)の選出母体と同じ組織に属していると判れば、やはり相手方当事者(事業主)は労働審判員の“公正らしさ”を疑うかもしれません。

<結論>

 結局のところ、裁判官や調停委員などが中立的第三者であるためには、“局外者”であることが重要なのであって、社会内に存在する利害の縮図を合議体の構成にそのまま反映させようとすることは、そもそも不可能であるだけでなく、制度の“公正らしさ”をも損なうことになるように思われます。
 いわゆる「学識経験者」、とりわけ「人権問題の専門家」というのは、そう呼ばれている時点で何らかのカラーに染まっているのですから、およそ“公正らしさ”とは対極にいるのではないでしょうか。「人権問題の専門家」によって構成されているからといって人権委員会を“公正らしい”とは信じられない、いやむしろ、「人権問題の専門家」ということが特定の利害にコミットしていることを暗示しているがゆえに、私は人権委員や人権調整委員の“公正らしさ”に疑いの眼を向けざるを得ないのです*5
 労使紛争という限定された分野を扱い、雇用者と被用者という二項対立図式に単純化しやすい労働争訟制度ならいざしらず(それでも問題があると私は思っていますが)、幅広い人権侵害事象を扱うだけになおさら、「人権問題の専門家」で構成することによって人権委員会の“公正らしさ”を担保しようとするのは困難であるように思われます。(追記:「学識経験者」の“公正らしさ”を担保する“両議院の同意”制度については後述。)

 なお、審判者には“公正さ”さえ備わっていればよく、“公正らしさ”は必要がないとする意見も当然あるでしょう。しかしその場合は、厳格な手続と詳細な判決理由に表れる論理一貫性によって“公正さ”が担保されていなければなりません*6
 しかし人権擁護法案所定の諸手続は、調査着手から勧告・公表にいたるまでの一連の手続においても、調停/仲裁手続においても、強制力の弱さを理由に緩やかな手続規定を置くにとどめているのですから、制度の“公正さ”を担保できるだけの手続的制約が設定されているとは言えません。
 人権擁護法案は、どのようにして制度の“公正さ”と“公正らしさ”を根拠付けようとしているのでしょうか。

*1:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/hourei/roudousinpan.html

*2:http://d.hatena.ne.jp/an_accused/20050320

*3:「石田長官のどこが“公正らしい”ねん!」というツッコミはさておき。

*4:http://www.nsknet.or.jp/~kanamori/102.htm

*5:人権擁護委員についても同様のことが言えるかも知れません。人権委員や人権調整委員のように準司法機関の担い手として位置づけられているわけではありませんが、一般救済手続の中で紛争当事者の間に立って関係調整を行う場合もある(法案41条1項3号)のですから。

*6:司法の“公正らしさ”が曲がりなりにも信じられているのは、別に裁判官が政治的沈黙を守り続けているからではなく、厳格な手続と判決の論理一貫性によって“公正さ”を守り続けてきたという歴史の「おまけ」みたいなものだと私は思っています。といっても、その「おまけ」を手に入れるために司法府はたゆまぬ努力を続けなければならないのですが。