郵便やさんがすごい変な小包みを持って来た。海外のなんだか小麦とかタマネギとか入っていそうなでかいビニールのドンゴロス袋にすごく重量の或る小包みがゴロゴロと二つ入って、口が縛って封印されている。怪しさ炸裂の小包みである。島の郵便やさんがびびっていた。「なんか・・・こんな小包みなんですけどねぇ・・・さ、サイン戴けますか?」ってな感じで。爆弾でも入っていると思ったのか?
海の向うからのその小包みの中身は美術本である。ローマで現在行われているアントネッロ・ダ・メッシーナの回顧展のカタログと、ちょっとお洒落な造りの古典美術の全集数冊、そしてなぜか未来派の本がどっちゃり・・・・・。密度が濃すぎて卒倒しそうな本ばかりゴロゴロと出て参りました。いやはや、ここ1ヶ月は愉しめそうな感じ。「葬送」も「フランスアカデミー」もほったらかしてしばらく没頭しようかにょぉ。
・・・というわけで有り難うございます。>ぐりちゃん
そのうち書評をアップしますね。でもイタリア語読めないから絵の感想だけんどね。
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ええと今ホットなぁゃιぃ共謀罪ネタとわたくしのげいじつ話にトラバいただいたんで、応答したいのですが徹夜だったんで(しかも上記の郵便が来たせいで興奮して眠れなくなったじょ・・・・)これからちょっと寝るつもりです。夜にでもお返事させていただきますね。
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結局、寝れなかった・・・・_| ̄|○
なんとなくだらだらとしてしまった。仕事もしないでぼやぁ〜〜〜〜と海見るか、ぐりちゃん本見てた。やっぱ未来派はいい!!!あと全集本のゴチックからクアトロチェントとチンクエチェントをなめるようにして見ていたです。懐かしい画家が沢山。チェリーニさんとか。懐かしいなぁ。日本の画集じゃ載らないような変な絵や彫刻、建築が載ってるのが面白いよ。こんなことしていたもんで、寝れなくなったんだな。もう今日は仕事しないで休暇にする。びじつの勉強の日。ただ、徹夜状態で頭が馬鹿モードで働かない&文章が馬鹿しか書けない状態なのでトラバのお返事は後日いたしますね。
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大量のびじつ本(偏りあり)に混じって変な異端な本があった。
VIA CRUCIS al COLOSSEO con BENEDETTO XVI
ええと。。。。べね16と共に捧げる「十字架の道行き」於コロッセオ?????
ローマの人って十字架の道行きをコロッセオでやるのぉ?なんかすごくないか?それ。
違うのかな?

アカデミズム・昨日の続き

んでだ、技術であった「アルテ」が精神性というか思想として自立するのはやはりルネッサンス人に負うところが大きいですね。プラトンアカデミーの画家や彫刻家達の積極的な位置づけと、数学や光学の実験場としての絵画、彫刻と、工人だった職人がそれらを通じて証明していくさまざまなことっていう流れから、ファインアートというジャンルが自立していくわけです。言語を用いない思想家としての芸術家ということですね。
ここからまぁコムズ世界がはじまったと言えるんですが、「視覚」効果の実験、「美」がまだ固定化されている時代から更に「美」そのものの価値を問うような状況になってくると共通言語としての自明の「美」すらも解体されていくわけで。
現代の芸術はこの世に存在する様々なものを視覚という言語手段を用いて論じている。それは文字世界での社会学とか、現象論とか、記号論とか、そういうものの、文字を用いない視覚世界での論評でもあったりするわけで、まぁそりゃ説明聞かないとわからないような、つまり前提をある程度共有しないと判らないような代物があるのも当然なわけです。ファインアート世界というのはそっち方向にいった。そして現代美術ってのは書店でいえば人文書コーナーに置いてある本みたいなものか。記号論が前提となる知識をある程度は必要とするみたいな、そういう性質みたいな作品もあるし、まぁそのままストレートに判りやすい論もあったりするし。
日本画院展系みたいな絵画はなんだろう?文芸小説か?歴史小説とか。たぶんにエンタティメント性もある。つまり「多くの人が判る」「多くの人が愉しめる」理解されやすい「美」がモチーフにあったりする。優れた日本画は、古典文学にも通じるとかね。
アニメみたいなアートはもう明らかに漫画コーナーですな。・・・・というかそのままだ。
しかし、現代美術がほんとにわかり辛いかというと、文脈さえあれば直感的に理解出来たりするし、「とにかく馬鹿をやるんだ」みたいなのもあるんで、実は判りやすいのもあったりする。つまり馬鹿を馬鹿として愉しめるかと。たびたび名をあげるジェフ・クーンツなんか馬鹿大王。映画でいえばタランティーノみたいな存在かね。
文脈というと、たとえばヨーゼフ・ボイスの作品はなんとなく難解で、ギャラリーワタリなんかでやっている展覧会に出掛けたりして「んじゃこりゃ?わからん。ボイスってイケズ」などと私などは思っていたんですが、ベルリンのピナコテカで見た時にやっと理解したというか、嗚呼、この人ドイツ人なんだなぁ。背負っているものがあるんだなぁ。と東西に分断され壁に囲まれた、あのエキセントリックな空気に満ちた街という文脈の中で始めて直感的になんとなく理解出来たという感じですね。完全に理解したわけではないけど、交感出来たというか。やはり理解するための場というのも実は重要だったりしますね。

理解出来ないものは理解しなくていいんですね。ただ何故?という疑念を持っていれば、いつか理解出来るかもしれないし、永遠に理解出来ないかもしれない。それでもいいんだろうと。
そもそもすべてを理解しなくてはならないという強迫観念から解脱した方がいい。興味深いことは自ずと理解したいと努める。理解したかったらその苦痛すら快感だったりする。
わたくしは、アニメオタの友人がいたりしてガンダムとかアニメ作品のオリジナルは実はいまだ見たことが無いんですが、彼らがそれを楽しむ様ってのは横で観察していて、ガンダムギャグだけはなんとなく知っておりました。後年、安彦良和氏の漫画が出てはじめて「へぇ、ガンダムってこういう話だったのかぁ。彼らの内輪ネタってこういう文脈で語られていたんだ」と理解した次第。コムズな美術作品だってそんなアプローチでもいいんじゃあるまいか?

で、知識がないから愉しめない。それに対して疎外感を感じるとか、えてして美術世界とか、思想の世界でもそうですが、なぜか理解出来ないものの存在否定をする人がいる。例えば上記の場面でわたくしはガンダムネタの知識がないから、ガンダムネタをディープに語られても全然判んないわけですが、「ワケワカメな知識を振りかざしてどっか偉そうだよ。こいつら」などと思う事もないし、そもそもが興味ないからコンプレックスを抱くということもないわけです。でもどこかで引っ掛かりはあったわけでそれで安彦さんの漫画なんか買いましたが。「コンプレックスを抱く」というのは実は激しい興味の裏返しだったりするのかもしれない。興味無かったら疎外感など感じないで、寧ろ放置するでしょうし。

で、この方のお怒りとか、虚脱感とかなんとなく判ります。↓
○参悲虎Tres tristes tigres
http://d.hatena.ne.jp/kasuho/20060502/p1
■[arte]理解出来ぬ作り、理屈抜きで怒り(回文)

「判らないから理解しやすいものにしろファシズム」ってのもあるよね。それは「判らないことは語るな」ということに繋がる。
また「理解する」というのは、実は「理解したつもりである」ということでもあったり。本当の意味で理解など出来ないし、逆に受け止めた側の「理解」とはその受け止めた人のオリジナルな解釈で、既にそこでは自立した別の何かが創造されていたりする。コミュニケーションに於ける創造性というものがあるなどと思う。

教会の美

ユリアヌス先生んトコに文句を書いたが、教会美術は酷い。酷すぎる。かつてはアカデミーの肩代わりをしていた教会は視覚伝達の重要性をそれなりには知っていたわけだが、いまや死滅しつつある。
司祭のコスプレのアレなんか簡素化していて、ストラしか纏わないで出て来る始末であるよ。たとえば派手派手な衣装は清貧でない。とか質素がいいのだなどという人もいる。ちゃんちゃらおかしい。なんせ昔からあったそういう衣装をそう言いながら「捨てて」るもんよ。まだ使えるのに。どこが清貧、質素なんだか。某S教会で子供の聖劇用にそういう衣装が降ろされていた。まだ使用可能なそれは典礼では不要なものとして典礼から除外されたようだ。見た感じ「もったいない」と思える手の込んだつくりであった。酷いことをするなぁとその場で言ったんだが誰も同意してくれなかった。
親が洋裁をやるのでそういう布、あるいは衣料に囲まれてきた私としては、そうしたものを作った人に対する冒涜行為に映ったんだけど、最近は消費社会で自分に合わないものは平気で使えるものでも捨ててしまう。おばぁちゃんに怒られる人もいないんだろうなぁ。。。ましてやそれが美しいものだったら悲しくなるってもんだ。
ユリアヌス先生は音楽がないがしろにされているというが、美術こそ災難だよ。美術とは教会絵画に限らない、教会におけるあらゆる視覚的造形物すべてである。少なくともカトリックぎょーかいの出版社や典礼用品屋がそれに対して敬意を払っているかというと、寧ろまったくといっていいほど省みられていない。ファンシーな本とか、素人の描いた絵とか、今どきそんなデザインかい?という本とか、趣味わる。。なご絵とか、ダサいロザリオとか・・・勘弁してくれ。カトリックぎょーかいには画家やデザイナーも結構いるだろうに。女子パウロ会が書籍デザイン等ではかろうじて頑張ってはいるが、正直、趣味が悪いものも多いな。オカンアートレベル。もっともファンシーのジャンルだけは私が趣味じゃないだけだから。それもまぁ必要なジャンルはあるだろうし。けど、神父が率先してやっていてなんかなぁ。神父の素人臭い絵なんかより、長新太望月通陽に頼めばいいのにって思ったり。そういや長新太さん、去年亡くなられたんだよな。
過去の遺産だけは立派なんで大切にしたり研究する人もいるだろうけど、現代という時代では教会芸術はかなり酷い。西洋はコンテンポラリーなものに目を向けたりしているけど。日本はダメだな。(ただ西洋人の宣教師はかなり意識的なんで、彼らがかろうじて理解してくれるのが救い)
因みに文中のオカンアートとはこれ↓
http://www.geocities.jp/loveokan/okanart/museum/
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まぁ、美術ってのは金がかかる。今更、教会にそれ求めても仕方がない。あらたになにかを造れとか、彫刻や絵画作品を造らせろったって大変である。ユリアヌス先生のところで「画壇やら派閥がどうたらいう問題すら起きない」って書いたけど、総体で見るなら美術の関わり方がどうしても限定される(仕事が派生しない)から、結局仕方がない。
それ以前に、なによりも視覚的な要素そのものが無視されている現状は例えば上記に記した典礼の場における簡素化ってトコからはじまっている。聖公会のハイチャーチや正教会なんかではいまだにビジュアル的にも荘厳に祭儀が行われたりする。視覚的効果の持つ意味というものがないがしろにされていない。転じてカトリック聖公会の人に「カトリックはローチャーチだね」と言われているほど簡素化したわけで。こちらはモノがないから簡素なわけではなく、上記に記したように意図的に排除されて来た。母教会でも脇祭壇を壊してしまったと聞いてがっかりである。
美術家なんか活躍出来なくてもいいから(というかミサ典礼ではそもそも関係ない)、視覚的な効果ってのはもっと大切にして欲しいものです。誰かが起用されないとかそんな個々のレベルの問題じゃないです。典礼から視覚的美の存在そのものが無くなりつつあるわけで。

牧羊犬

牧羊犬というのは仕事をする犬だ。散らばった羊達をまとめる。集める。そういう訓練を代々受けてきた性か、散らばった生き物をとにかく集めたがる本能があるらしい。
島犬カナの兄弟達がカナの実家でちょいと前に生まれて、現在8匹の子犬達がよちよちと歩き回っている。カナを子犬達のところに散歩がてら連れていき、その成長ぶりを愉しんでいる。子犬の成長は早い。はいはい状態だったのが今はなんとなく走ったり、じゃれたりとどんどん活発になっている。島犬カナは子犬達の扱いにはじめ戸惑っていたが、今日はなぜか散らばる子犬達をまとめはじめた。ちょっと外れている子犬がいると真ん中にいくように促している。くるくると走っては散らばる子犬をまとめ、じゃれつく子犬達の相手をしている。
・・・・えええ?
ちょっとまて。島犬カナは雑種でどんな血が入っているか知らなかったんだが、牧羊犬の本能を持っていたとは・・・。2年目にして初めて知ったよ。
で、子犬は母犬の大きさと同じカナのお乳を求める。カナは下腹部をちゅぱちゅぱやられては逃げ回りつつ、まとめていたよ。面白いな。