ブンガクについて

思いついたときに書けばいいのだが。ほとんど忘れてしまった。残骸。


ブンガクというと、大江健三郎を思い出す。
私はある時ふと書店で「キルプの軍団」を手に取り、ちょっと立ち読みしてすぐ買う事にしてしまった。夢中で読んだのだけれど、それは私が小説を読んだ中でも、特に幸せな体験だったように覚えている。
その後、何冊かその頃の大江健三郎のものを読んだ。「キルプの軍団」を読んだときと近い感覚がうすれてきてしまったときに、読むのをやめた。


次に、高橋源一郎を思い出す。
「さようなら、ギャングたち」「ジョン・レノン対火星人」なんていうものを読んだ気がする。
変な文章。と、いう書き方から想像できるより、もっと変。でも、何か面白かった。
最近、昔の「海燕」をなぜかパラパラめくっていたら、高橋源一郎が「キルプの軍団」についてちょこっと書いていた。
この頃、島田雅彦小林恭二もそこそこ読んだ。


それらの前は、筒井康隆だった。
最も良く覚えているのは、「パプリカ」。あとは「虚構船団」とかいう感じの・・・「夢の木坂分岐点」は良かった気がする。「ロッパ谷への降下」というような掌編(?)があったな。あとは「文学部唯野教授」という名前は書いておこう。
などなど・・・最も多く読んだかも知れない。最近はほとんど読まない。大江や高橋もそうだが。


これは、どういう季節だったのか。同じような頃だ。


海外ブンガクではカート・ヴォネガット。ほとんどの作品を買って、半分くらいは読んだと思う。
恥ずかしながらサリンジャーも良く読んだ。
あとは、ジョイスの「ダブリン市民」の、最後の、「ザ・デッド」だったかなあ。
それと、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」、ちょっと最初の部分を読んだだけだけれど、すごく面白そうだった。その後、ちょっと取り出しては見たが、読んでいない・・・。


これも同じ頃か。このあたり、20代、大学卒業少し前から、教員をやっていた時期くらいまでの事か。
その後、印刷会社に勤め、多忙で小説など読まなくなったか。


その後、花田清輝の評論、堀田善衛の、エッセイということにしておこう。そんなものは良く読んだが、小説のようなものはあまり読まなくなった。これらはブンガクという感じではない。近年は思想的なもの、社会的なものなどを良く読む。それは、ブンガクではない。という気がする。
一度、保坂和志の「カンバセイション・ピース」を、知人の評判がいいのとブックデザインが気に入ったので買ったけれど、悪くない気はしたのだけれど、何分の一かまで読んで、そのままになっている。などという事を書くのは、小説というものを読もうという意気込みの挫折という感じであったし、それは私の内側の混乱と対応しているようだった。
あとは深沢七郎と、色川武大なんかを読んだ覚えがあるが・・・。


それらよりずっと以前、内田百間(間は当て字、実際は門の中に月)が好きで、一番たくさん読んだのは筒井康隆ではなく内田百間である気もしてきた。今も好きだ。引っ張り出してこようかな。


最近、古い「海燕」が出てきたので、面白くなくても読んでみよう、という企画でいくつか読んだ。もう忘れた。
笙野頼子の「柘榴の底」、そのつながりで読んだのだけれど、他とはちょっと違って期待して読み始めた。
「キルプの軍団」のときとちょっと似たときめき、ワクワク感。「ときめき」とか「ワクワク」とかいう言葉は、「キルプの軍団」にも、ちょっと似合わないと思う人が多いのだろうが、「柘榴の底」にも似合わない。ひきこもりの妄想という感じでもあり、通常はたぶん気持ちの悪い描写の連続としか思わず、私も最初ちょっとはそうだったけれど、なぜか私は読んでいるうちにむしろ希望を感じた。
これが、私にとってブンガクで、しかもとても良質のものだという感じがする。
しかし、あまりブンガクの事を考えてはいられないし、一冊持っているはずの笙野頼子さんの本もなかなか出てこない。

キルプの軍団 (講談社文庫)

キルプの軍団 (講談社文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

パプリカ (新潮文庫)

パプリカ (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

なにもしてない (講談社文庫)

なにもしてない (講談社文庫)