かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

「新文芸座」と「帆立屋ときわ店」へ(2月7日)


10時10分から池袋の「新文芸座」へ。新文芸座は、いま吉村公三郎監督の日替わり特集をやっている。今日の上映は『千羽鶴』と『その夜は忘れない』。吉村公三郎監督の映画を見たことはあるはずなのに、なぜかこれといったイメージがありません。

吉村公三郎監督『千羽鶴』(1953年大映

今は亡きお茶の師匠そっくりの息子を巡り、愛人だった弟子たちの思いは乱れる。女たちの情念や心理的葛藤を叙情的に描き出す。

(「新文芸座」パンフレットより)


いい映画でした。上記のスタッフ・キャストを見てください。溝口監督の作品でもおかしくありませんですね。しかし、映画を見た印象としてはむしろ成瀬巳喜男作品のようでした。森雅之杉村春子がいいです。この二人がすごく若くて、乙羽信子木暮実千代の娘役。


亡くなった父(清水将夫)は、いまなお残った愛人ふたりに慕われている。愛人のひとりは、木暮実千代。もうひとりは、杉村春子。二人の確執は、父の生前から、いまは息子(森雅之)をあいだに置いて、続いている。


木暮実千代は、愛人だった父の面影をもつ息子の森雅之に愛情を寄せる。一方、杉村春子は、うるさい親戚のように何かと森雅之の世話をやく。この3人の関係を、鎌倉、大磯を舞台に描いた秀作。


鎌倉の円覚寺、日本家屋、着物、庭、茶……人間関係の確執とは別に、古き美しい日本がたっぷり描かれた作品でもあります。庭の花や植物、雨までがとびぬけて美しいとおもったら撮影が宮川一夫ではありませんか(笑)。中世の絵巻物を撮る宮川一夫の幻想的な美しさは知っているつもりでしたが、こんな日常の風物を撮っても並外れていました。画質のわるい白黒映画なのに、それを忘れさせるほど、とにかく1つ1つのシーンが美しい。


日本映画には、こういう優れた作品がまだまだあるんですね。ただそれをぼくはずっと知らなかっただけ……。



吉村公三郎監督『その夜は忘れない』(1962年大映

終戦から17年後の広島に原爆の取材にやって来た記者は、謎めいた雰囲気のバーのマダムと恋に落ちるが……。大映の看板スター、田宮二郎若尾文子の真摯なメロドラマ

(「新文芸座」パンフレットより)


広島に原爆が落ちて17年。原爆のその後を取材にきた記者(田宮二郎)は、町にもう「原爆の傷痕」が存在しないことにおどろく。原爆記念館を訪れる市民はすくなく、被爆した市民の表情もあかるい、ように見える。原爆の悲劇は、すでに過去のものなのか。記者は、この「原爆特集」は企画を中止しようと考える。しかし、訪れたバーのマダム(若尾文子)の美しさに惹かれた記者は、彼女と親しくなるにつれ、彼女を通して、市民が語りたがらない心の傷痕にたどりつく。


そんなあらすじですが、原爆投下から17年後の広島が舞台。当時の視点で描かれる、その復興した光景に目を惹かれました。


表面にみえる復興と心の奥で消えない傷痕のギャップ……背景にはこんな重いテーマがありますが、映画そのものは凡庸なメロドラマです。


日々男の表も裏もしっかり見ているはずのバーのマダムが、初心の若い娘さんのようです。田宮二郎若尾文子の恋愛があんまり型どおりなので、被爆問題までが恋愛の小道具になりさがっております。仰々しい音楽をつかったラスト・シーンもがっかり。『千羽鶴』がよかっただけに、吉村公三郎監督のイメージがわからなくなりました。


おどろくのは、若尾文子の美しさ。若い被爆者を演じて、妖しく幻想的ですらあります。


原爆投下から17年後ですから、当時はまだ若い被爆者もたくさんいたわけですね。いまは、もう被爆者が高齢になり、体験を語れるひとも毎年すくなくなっております。


映画に登場する、原爆記念館の「この過ちを二度と繰返しません」と刻まれた石文を、人類はいつまで守っていけるのだろう? そんなことを考えました。



午後2時、池袋駅北口で立ち飲み屋を探す(笑)


立ち飲み屋 (ちくま文庫)
新文芸座」とは池袋駅の反対側の北口にある、立ち飲みの「献立屋」というのが、安くてメニューも豊富……そう『立ち飲み屋』とい文庫本にあったので、探してみました。


ところが、お店はみつかったのに、24時間営業のはずがやっていない! どうなっているのだろう?


しかたなく散歩がてら立ち飲み屋さがし(笑)。しばらく歩きまわって、「帆立屋〜ときわ店」というお店へはいってみる。客はだれもいない。カウンターにすわると、「工事中ですがよろしいでしょうか」といわれた。なるほど、ドリルで何かを掘るようなけたたましい音がする。少し飲めばなれるだろうと、覚悟をきめる。


全品315円均一となっているが、メニューを見ると、それより高いものもけっこうある。できれば均一でがんばってほしい、と密かにおもう。男性ふたりの店員はすごく感じがいい。


店名になっている「帆立」と「マグロの刺身」、「牛すじの煮込み」、「ねぎまの串(3本)」、「ほっけの開き」などをつまみに、生ビール、酎ハイ、梅酒、電気ブラン芋焼酎のロックと、1つ1つ違うお酒を試してみる。最後の方に飲んだ電気ブラン芋焼酎のロックが効いた(笑)。


飲んでいるうちに二人連れの客が2組きました。電気ドリルの音があまり気にならなくなる……。


新文芸座」へきたらまた寄ってもいいな、とおもいながら、2時間ほどで店を出ました。

「日本映画」ギンレイホールの2本


数日前、ギンレイホールで見た映画ですが、ブログにアップする時間がなかったので、追記しておきます。

西川美和監督『ゆれる』(2006年)

ゆれる

母の一周忌で久しぶりに帰郷した猛は、兄の稔と幼なじみの智恵子と3人で近くの渓谷に出かけたが、吊り橋から智恵子が落下してしまい、そばにいたのは兄の稔ひとり。事故だったのか、事件だったのか……。人間の感情の<揺れ>を描いた秀作!!

(「ギンレイ通信」Vol.95より)


東京でカメラマンとして成功している弟の猛(オダギリジョー)は、プレイボーイでもある。帰郷するや、兄がひそかに慕っている智恵子(真木よう子)と、すぐに男女の関係をむすんでしまう。


一方兄の稔(香川照之)は、いつも笑顔をたやさず周囲に心を配りながら、父のガソリンスタンドを継いで働いている。智恵子はスタンドの従業員だった。


猛と稔は、智恵子と3人で近くの渓谷へ遊びに出かける。智恵子は内心で稔の心を知りながら、気持ちは弟・猛へ傾いている。


渓谷にかけられた吊り橋を智恵子が渡るのがあぶなっかしく、稔は手を添えようとする。しかし、好きでもない稔に智恵子は残酷だった。


「わたしに手を触れないでよ!」


と大声で怒鳴られてハッとする稔。智恵子の明らかな自分への嫌悪を、稔ははじめて知ったのだった。


まもなく智恵子が吊り橋から落下するのを、猛は離れたところから見る。兄の稔が吊り橋から下をのぞきこんでいる。兄が智恵子を吊り橋から落としたのか?


感情をおもてに出さない兄は、猛と智恵子の関係を知っているのか、いないのか。猛は兄の心がつかめないまま、気持ちが揺れ動く。


オダギリジョー香川照之の名演で、奥行きのある作品になっているとおもいました。事件そのものよりも事件があたえる心への動揺を描いています。弟の猛は直接には智恵子の死に手をくわえておりませんが、兄が慕う智恵子と、兄には内緒で関係をもったことで、兄に殺意の動機をあたえたかもしれません。このことが事件に影をさしています。


一部「?」を感じるシーンもありますが、おもしろく見ました。表面は静かな作品です。企画に『誰も知らない』、『花よりもなほ』の是枝裕和が参加しているのをおもしろくおもいました。是枝裕和監督のデビュー作『幻の光』がもっているゆったりした感覚を『ゆれる』にも感じたからでした。



原田昌樹監督『旅の贈りもの 0:00発』(2006年映画)

深夜0時00分に大阪を出発する、3両編成の不思議な列車に何かを求めて、あるいは何かから逃れるために乗り込んだ、訳ありの男女5人……。行き着いたのは、日本の原風景の美しさにあふれた「風町」。住人の身内のような歓迎に悩める心が再生するハートフル・ドラマ!!

(「ギンレイ通信」VOL.95より)


友達のできないひとりぼっちの女子高校生、恋人に裏切られた女性、家族から必要とされないサラリーマン、愛妻を失った夫……などが、行き先不明の列車に乗ってたどりついた「風町」。


美しい自然とやさしい村人の心が、都会で傷ついたひとたちを癒していくという、よくありそうな話でしたが、描写がていねいで、気持ちよく見ることができました。


こんな不思議な列車にのって、どこか遠い日本へ旅したい、という願望はぼくのなかにもあります。センチメンタルな映画ですが、過剰な甘さにはなっていない、とおもいました。つくり手のセンスでしょうか。

栗山富夫監督『ハラスのいた日々』(1989年)

ハラスのいた日々 [DVD]


ビデオで見ました。


中野孝次の本の映画化です。本はすごく感動しましたが、映画も悪くありませんでした。脚本に山田洋次が参加していますから、それほどやすっぽい涙を強要されることはない、とおもいましたが。


柴犬ハラスとの14年間が描かれていきます。加藤剛と十朱幸代の夫妻役もよかったです。原作に忠実でした。ほとんど表情を変えない加藤剛もよかったですし、ハラスが行方不明になって悲しみからやつれてしまう十朱幸代の演技も自然に感じられました。十朱幸代が、たいへんな老け役に挑戦していて、ちょっとおどろきます。


犬を飼うということはたいへんなことなんですね。夫妻は、犬を飼わなければ味わう必要がなかった悲しみを体験します。でも、きっとその何十倍ものよろこびをハラスとわかちあったのだ、とおもいます。


なんだか、小学生の作文みたいになってしまいました(笑)。