林家彦六の面白エピソード(ウィキペディアから)

林家彦六(ウィキペ参照)
・理屈っぽい性格から噺家仲間から「菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている」と陰口を叩かれたことがある。実際に日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人によれば「あたしゃ判官贔屓」「共産党は書生っぽいから好きなんですよ」とのことであった。自身が贔屓にしている共産党の金子満広*1衆院議員に、参院議員時代の7代目立川談志*2が侮辱的な野次を飛ばしたことを快く思っておらず、会えばしょっちゅう喧嘩になっていたという。
・30年以上に亘って朝日新聞を愛読したが、紙上で落語評論家が当代の名人について、5代目古今亭志ん生、8代目桂文楽、6代目春風亭柳橋*3、10代目金原亭馬生*4の名を挙げ「ここまでくると次の指が折れない」と書いたことに激怒し、執筆者に宛てて「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と書いたはがきを速達で送りつけ、朝日新聞の購読を停止し、赤旗を取るようになった。
・明治の香りを持った人物だが、オフの時は英国調に洋服も着こなし、意外に現代的な面があった。巡業に出ると必ず昼食はカレーライスで、客が自宅に遊びにくると「どうです。コーシー(コーヒーの下町訛り)でも。」と勧めていた。朝食は必ずジャムを塗ったトーストにコーヒーだった。
・無駄使いを嫌い、新聞の折込みチラシの中で片面印刷のチラシを見つけたら切ってネタ帳の代用にしていたという逸話がある。
・仕事で頻繁に寄席へ通うため「通勤用定期券」で地下鉄を利用していたが、「これは通勤用に割り引いて貰っているから、私用に使うべきでない」として、私用で地下鉄に乗る際には別に通常乗車券を購入していた。
・せっかちな性格で、飛行機を使って東京に帰った時、たまたま羽田空港が満員のため、しばらく上空を旋回したことに「てめえの家の玄関先まできてて入れねえって法があるもんけい。」と腹を立て、爾来、飛行機を使わず鉄道で地方巡業に行くようになった。
・6代目三遊亭圓生とは「天敵」と呼ばれる間柄であり、最後まで徹底してそりが合わなかった。1978年、圓生が中心となって引き起こした落語協会分裂騒動では、師匠圓生に逆らって落語協会残留を決めたために破門にされ、芸名の強制返却の目に遭った3番弟子三遊亭好生を自らの弟子とし春風亭一柳に改名させた。

林家三平(初代)(ウィキペ参照)
 父・7代目正蔵没後6か月後の1950年4月22日、正蔵名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
 5代目柳家小さん名跡をめぐり、兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後に8代目林家正蔵を経て林家彦六)と弟弟子9代目柳家小三治(後の5代目小さん)が争い、馬楽が負けたからである。
 小さんの名跡争いで馬楽が負けた原因は、小三治が8代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていたことと、元々馬楽が三遊派(3代目三遊亭圓楽*5)から柳派に移籍した「外様」であったことが影響している。
 当然、馬楽は不満である。小三治は馬楽に対し小さんより格上(又は同等)の名跡を襲名するように促す。
 馬楽は空席の名跡を探していた時、馬楽が得意とする怪談噺を持ちネタとする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、「後に三平(7代目の息子)に正蔵を次がせたい」という7代目遺族の意向を汲んで、急遽「一代限り」の約束で、8代目林家正蔵を襲名した。
 父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。一方、8代目正蔵側から見れば、7代目正蔵も「8代目正蔵同様、もともとは正蔵ではない」という襲名に至る経緯*6を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(詳しくはウィキペ「7代目林家正蔵」参照)。なお、三平が正蔵を名乗ることは遂に叶わず、8代目正蔵よりも先に死去してしまう。三平没後、8代目正蔵は自ら「正蔵」の名跡を海老名家に返上し、「彦六」に改名した。
 ここまでの経緯は新宿末廣亭元席亭・北村銀太郎の説明によるものであるが、彦六(8代目正蔵)よりも小さんを可愛がった北村の証言だけに、幾分かは割り引いて聞く必要がある。実際、彦六は自伝『正蔵一代』(青蛙房)で、生前三平に正蔵を返上しようとしたところ、三平から「師匠の宜しい(亡くなる)まで(正蔵を)お名乗り下さい」と説得された事を明かしている。彦六は自らの弟子の真打昇進時には、亭号を「林家」から他のもの(林家照蔵→春風亭柳朝、林家勢蔵→橘家文蔵など)に変更させ、林家三平への配慮を見せていた。三平生存中に亭号を変更しなかった弟子に3番弟子林家枝二がいるが、現在は7代目春風亭栄枝を襲名して他の亭号に変更している。なお、4番弟子初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は、三平に気に入られていたことから亭号を変えることはなかった。このため、木久扇は林家こぶ平(7代目林家正蔵の孫、初代林家三平の息子)の9代目正蔵襲名の際にその後見になっている。

■彦六伝(ウィキペ参照)
 初代林家木久蔵(現・林家木久扇)による新作落語の名称。
■構成
 木久蔵が彦六一門への入門*7に至る経緯と師匠の姿を語って聞かせ、高血圧のために常に体が揺れ動く様子を「陽炎が座っている」、体の揺れを伴う独特の声色を「波動のある声」と紹介した上で物真似をやって見せる。これをくすぐりとし、「こういう人が目の前に居てごらんなさい。面白いから。」というオチで締めることで本題への導入とする。
■ネタ
・彦六が「向かいの空き地に囲いができた。へぇー。」という小噺を木久蔵に教えようとした時、「そっくりやるんだ。」と促された木久蔵は彦六の姿そのものも含めて真似をすると勘違いしてしまう。木久蔵は得意の物真似で体の震えや独特の声色をそっくりそのままにやったものの「向かいの空き地に囲いができた。よかったよかった。」としくじってしまい、オチの間違い以上にその奇妙な姿を訝しく思った彦六は再び小噺を演じて「やってみな。」と木久蔵を促す。これに参った木久蔵はまたもや彦六の物真似をするが今度は力を入れすぎて「向かいの空き地に囲いができた。めぇー。」としくじってしまい、これを聞いた彦六は「誰が山羊なんかやれっつった。てめえなんざ破門だ!!」と返した。
・ある日、彦六がテレビでバスケットボールの試合をじっと見ている姿を目にした木久蔵は「明治生まれなのにこうした新しい物事もネタにしようとしているのか」と感心していたが、その矢先に彦六はテレビに向かって「誰かが教えてやりゃあいいじゃねえか。」と口走った。彦六の一言が理解できずに「どうかなさいましたか?」と聞いたところ、彦六は「テレビを見てみろよ。さっきから若えやつがボールを拾っちゃ網の中に入れてるが、底が無えのを知らねえんだ。」と言った。
・孫弟子*8に当たる春風亭小朝が彦六の誕生日に祝いの品を携えて長屋に参じた日のこと。感謝もそこそこに彦六が包みを解いて箱を開けてみるとそこにはチョコレートが入っていたが、どれもがいびつな丸みを帯びた奇妙な形をしていたためにどう食べてよいものか思案に暮れ、とりあえず口中に入れてみた。なるほど確かにチョコレートだとしばらく口中で転がしていたが、程なくしてやけに硬くて歯が立たない何かが現れ、手に吐き出してみると楕円形をした茶色いものが出てきた。実は、高価な贈り物をあまり好まない彦六の性分を知っていた小朝が機転を利かせ、比較的安価でありながら当時はまだ珍しかったアーモンドチョコレートを用意したのだが、そうしたチョコレートをまるで知らなかった彦六は「おい、小朝。このチョコレートには種があるぞ。」と言った。

*1:共産党書記局長、副委員長を歴任

*2:三木内閣の沖縄開発政務次官に就任するが、政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と暴言で返したことから引責辞任に追い込まれる

*3:1930年(昭和5年柳家金語楼とともに日本芸術協会(後の落語芸術協会)を結成し、以降44年間会長職を務めた。

*4:5代目古今亭志ん生の息子、3代目古今亭志ん朝の兄。女優・池波志乃の父としても知られる。

*5:師匠・2代目三遊亭圓楽(後に三遊一朝に改名)の死により三代目柳家小さんの弟子となり、三代目小さん死後は四代目小さんの弟子となった。

*6:後の7代目正蔵1924年に7代目柳家小三治を襲名して真打昇進。しかし師匠・柳家三語楼が東京落語協会(現落語協会)を脱会したため、協会側の4代目柳家小さんから「小三治の名前を返せ」と詰め寄られ、そうこうしている間に遂に8代目小三治が出現。結局6代目遺族から名跡を譲り受け、1930年に7代目正蔵を襲名した。

*7:もともとは初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は3代目桂三木助の弟子だが三木助死後彦六の弟子となる。木久蔵(当時は桂木久男)以外の門弟は皆、柳家小さん三木助の兄貴分)を師匠に選択した。それにもかかわらず彦六一門へ移籍したのは、三木助の病床時に彦六が見舞金を贈ってきたことに対し、「これが一番嬉しい」と三木助夫人が言っていたためだという。当時の木久男はまだ前座になりたてで、落語界の人間関係をよく理解していなかったという(ウィキペ「林家木久扇」参照)。

*8:彦六の弟子・春風亭柳朝の弟子のため。