わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

美について思うこと少々

 九時起床。最高気温は十九度という予報だが、信じられぬくらい空は鈍い表情をしている。花冷えという言葉があるが、今日の天気は散り冷えとでも言おうか。
 午後からカミサンと外出。荻窪のイタリアン「ドラマティコ」でパスタランチを済ませてから、竹橋にある「国立近代美術館」へ。大好きな画家のひとりである藤田嗣治の展覧会を観る。友人に、いっしょに美術館に行ってくれるひとがまったくいないことにいまさら気づいた。みんな、芸術には関心ないのかなあ。美しいものを美しいと感じ取り、素直に感想や意見を述べられる心と感性こそが、現代を豊かな未来に導いてくれるとぼくは信じているのだが。デヴィッド・シルヴィアンが弟のスティーブ・ジャンセンと結成した新ユニットであるnine horsesのアルバム「Snow Borne Sorrow」に収録されている曲の中に、「崩れ落ちるビルの姿もまた美しい」といった内容の詩がある。9.11そのものを歌ったものなのだろうが、これは厳しい批判も受けそうであるが、ある意味正しくもある。あの惨劇で多くの人命が失われた。だが、その悲しみは芸術というコンテクストに載せれば「美しい」という表現に変わる。美しい悲しさは、ベタではあるが必ずひとの心を動かすことができる。心が動けば、ほかの何かも変わるはずだ。

Snow Borne Sorrow

Snow Borne Sorrow

 日本橋へ移動し、三井タワーの千疋屋で休憩。つづいて新宿へ。伊勢丹の「Y's」でカミサンがセットアップを購入。Y's、レディースは新鮮味が感じられなくはあるが、テイストにブレが少なくて好感が持てる。「Y's for men」はストリートカジュアル路線になってしまったのが悲しい。その「Y's for men」にも行ってみるが、いいと思ったシャツ、襟回りのデザインには惚れ込んだのだがシルエットがタイトすぎてぼくの体形には合わず、断念。
 夕食はルミネのお総菜屋で買ったフライなど。
 夜、テレビ東京美の巨人たち」を観る。藤田嗣治「ライオンのいる構図」。まさに今日現物を観たばかり。構図シリーズは善悪の象徴だったとは。宗教観や信仰心が芸術家の創作に与えるエネルギーの大きさを改めて感じた。

生誕120年 藤田嗣治展

 東京国立近代美術館http://www.momat.go.jp/Honkan/honkan.htmlにて。藤田は、秋田の「平野政吉美術館」で観てから夢中になってしまったお気に入りの画家である。日本ではこれまで知名度、評価ともに決して高くはなかったようだが、根強い支持者は多い。
 初めて観る作品も多く、見ごたえありました。以下、今回の出展作品で気に入ったものを。

I. エコール・ド・パリ時代
●「自画像」(1921)。壁の乳白色、自分が東洋人であること、決して豊かではないことを包み隠さず、なんのフィルターも通さず、素直に描いている。しかし、この素直さはあくまでも藤田の素直さ。常人から見たら、どこかおかしい。
●「タピスリーの裸婦」(1923)、「眠れる女」(1931)。藤田と言えば「乳白色の肌」である。裸婦像も好きだが、ぼくが好きなのはその裸婦のそばにちょこんと描かれた猫の存在。裸婦の白い肌は、壁の白さと一体となり、部屋の空気や雰囲気と完全に合一しているような、不思議な調和を見せる。肉体のあでやかさを通り越した美の感覚。そこに、ひょいと描かれる猫。面相筆でチマチマと描かれたその姿は、肌や壁と同じ輝きをもちながらも、絵の中では異物である。だがその質感が、そのしぐさが、その表情が、乳白色のスパイスになる。
●「五人の裸婦」(1923)。裸婦たちに壁との同一感はない。その分、肉体が光と一体化しているような印象がある。肉感というものは存在しない。だが神々しいわけではないから不思議だ。ここにも異和としての猫がいる。犬も。
●「ライオンのいる構図」(1928)。檻に入れられたライオンは争いなき社会の象徴らしい。数多くの裸の男女が描かれている。が、ここにもやはり肉感はないのは、この作品の世界が藤田の思い描く「ユートピア」の世界だからだろうか。

II. 中南米/日本時代
●「町芸人」(1932)、「カーナバルの後」(1932)。どちらも「平野政吉美術館」で感動を覚えた作品。藤田と言えば繊細な乳白色であるが、じつはこの時期の、その乳白色を否定した作品群や、超乳白色ともいうべき感覚の作品のほうが好き。中南米に訪れ、帰国することで、藤田は肉体を肉体として捉えることができたのではないか。パリ時代は生命のエネルギーを鼻で笑うような皮肉がどこかにあるが(それはそれでたまらなくおもしろいのだけれど)、生と性の現実に、もはや逃げ場がなくなり正視せざるを得なくなったような、金箔した感覚がある。
●「狐を売る男」(1933)。これまでの乳白色の技法へ回帰しはじめるが、モデルとなる人物にはもはや同じ表情はない。袋小路にはまりこんだような男の瞳がたまらない。
●「北平の力士」(1935)。うーん、スゴイ。この絵がいちばん好きかもなあ。「平野政吉美術館」では、この絵の前からしばらく動けなかった。
●「自画像」(1936)。藤田の自画像作品はどれもみな好きなのだけれど、これはどこかデカダンな感覚があり、他の自画像とは一線を画している。画材に囲まれた自画像が多い中、この作品はメシやらのれんやらちゃぶ台やらタバコやら、日常的なゴチャゴチャに囲まれているのも珍しい。生活=生きて活動すること、に意識が向かっていたのだろうか。他の自画像よりも、地に足がついた感じ。懐からひょいと顔を出した猫がチャーミング。

●「猫」(1940)。当初は「争闘」というタイトルだったらしい。暴れまくる猫たちの姿はとにかくダイナミック。超高速シャッターで撮影した写真のような、不思議な躍動感がある。これも大好きな作品。

III. ふたたびパリへ/フランス帰化時代
●「私の夢」(1947)、「夢」(1954)。乳白色の復権。眠れる女性を囲む動物、その対比がおもしろい。爆発していた生命のエネルギーを消化したのだろうか、裸婦は以前よりも肉感がある。同じ乳白色ではあるが、確かに「肉体」となっている。
●「カフェにて」(1949-63)。ポスターにもなっている作品。乳白色を完全に日常のモチーフの中に消化し、(何気ないかもしれぬが、たしかに)幸福な一瞬を描き切った傑作。モデルの肌の城戸、着衣の黒の対比。(デッサンは意識的に狂わせているけれど)ここには完全な美があると感じた。

●「小さな主婦」(1965)、「朝の買い物」(1962)。晩期のお子様シリーズ。子どもがみーんな同じ顔。決して無邪気ではない。ひょっとすると、藤田以上にしっかりした、デキのよいニンゲンなのかもなあ、この子どもたちは。別の作品では、子どもたちに大人のすることをいっぱいいっぱいさせている。ちょっとアイロニカルでもある。

日本橋・千疋屋フルーツパーラー

 以前、仕事で取材したことがある。フルーツに関してはハズレがない。紅茶はたいしておいしくなかったけど。フルーツサンドはフルーツの新鮮さと昔ながらといった味わいのちょっと重めの生クリームのバランスがおもしろい。フルーツポンチも懐かしい味。だが、給食で食べたものよりもはるかに高尚。これが素材の差ということか。