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2014-06-24

[][]いかにして失恋から立ち直るかについて雹の日にトラバ

(元に合わせて改題)ほとぼりが覚めたころに突然のトラバ。


いかにして失恋から立ち直るかについて雨の日に考えてみた: 極東ブログ


――その節は失礼いたしました(いろんな箇所ですごい笑ったw


tweet探すの大変だったけど、これはまあそうだなあと思います今でも。

Twitter / chanm: 男の失恋ってやっぱり女とは違うのだろうな。自分にも手痛い失恋 ...


私ごときが恋愛について語れることがあるわけがないんですが、よく言われててわりとみんなが納得してる「女は上書き保存で男は別名保存」だとか、

あとは、受精するときの膜融合?に精子一匹がたどり着いた途端他の精子が全部ブロックされるとか、そういうことから判断するに、基本的には一人の人にぱああって好きになるようなホルモンになってるんじゃないかと……知りませんけど。


でも多分だいたいホルモンのせい。

ホルモンが先か感情や思考が先かというと、多分にホルモンに左右されつつも、相互作用だとは思いますが。


女も別に長く失恋は引きずるけれども、次に本気で好きな人に出会っちゃったらもう過去の失恋はどうでもいいだろうなー。まあ自分が一般化できるとは思っていませんが(ねにもってない)なんかそう思う。



かたや、男性の失恋はなぜ残ってしまうのかというと、まあもちろんもともと同時に複数を愛せる性なのかもしれませんけれどそれはさておいて、

最終的には『自尊心』な気がします。


「この俺が振られるなんて!」とかじゃなくて。本当に、自分という存在に対する疑問。

己が信じ、己が信じた相手に信じられていると信じていた自分という存在が、最終的に受け取られなかったという帰結への「なぜ」。


魂を返却されたような気分になるのではないかなあ。

あなたは、わたしの、運命ではなかった、と。


もちろん女も同じ思いをするわけですが、どうもそのような自尊心というか理性というかを瞬間最大風速で追い越すホルモンの竜巻が発生するとその辺はどうでもよくなることがあるといいますか……


今更finalventさんの結論に反論するわけではないのですが、、男の人にとっての解決法は多分、

過去の失恋の対象をなつかしのラーメン屋化すること

いかにして失恋から立ち直るかについて雨の日に考えてみた: 極東ブログ

ではない気がします。

というか、出来ない気がするw

だってさ100人いたら100人にモテたいと思うのが男じゃん(そうでもない??)。

女みたいに興味ある人1人に好かれれば他はどうでもいいやっていうんじゃないから、たとえ興味がない相手でも1度でもリジェクトされたら、たとえその後100回モテてもその1回の記憶って消えはしないと思う。

ましてや一度魂を預けた人に返却された記憶っていうのは。たとえその後にもっと大きく受け止めてもらえても。



かといって自分に結論があるわけではないんですが、多分この話をしてたころより後に見た映画(何だっけ!!)で誰かがうまいこと言ってました。



運命の人は二人いるそうです。一人目は愛することと別れる辛さを教えてくれる人。

二人目は、永遠の愛を教えてくれる人。




――ひとが失う経験をしなければいけない理由ってなんなのかなあって思うけど、悲しみはないほうがもちろんいいけど、でも、失う経験にすら、出会えない生もたくさんあるんですよね。



魂を返却されることによって生きながらに死んだような気分になれるのが失恋の醍醐味ですが、そこまでになると、さすがに失う前には見えなかった世界や自分に出会うのは確かであって。

そりゃあもういちど死んで生まれ変わったのではないか自分、というくらいに。



だからってこういう理屈が立ち直る……よすがにはならないけれど、

失うことのあったひとの生は少なくとも、失うを得ることを許された、生きながらに自らがいちど死ぬという課題を越えられるとみなされた魂の運命を持っていたのでは、と。

2014-04-12

[][]小林秀雄対話集 直観を磨くもの  読書メモ

最近自分でもバカだなーと感心することが増えた(ここ一年で本気で悔しかったのがスマホのゲームのボス戦であと一歩だったことだったりだとか)ので、なにかこう、頭のいい人のエキス(?)をもらえたらと思って読んでみました。

小林秀雄さん、もちろんお名前や教養人だったり評論家だったりって属性知ってますけれども、本当に一作も読んだことがなくてですね。対談集から読むのはどうなのと思ったけど、この自己啓発的なタイトルに釣られて読むことにしました。

なんか面白かったです。

で済ますと一つも覚えていないだろうと思うので、もう一度読みがてら感想を残そうかと。

多分こういう本、意識高い人しか読まないと思うんですよ。

底辺が読むとこうなる、みたいな感想だってあってもいいじゃない。要らないよね知ってる。まあ自分のメモです。

このエントリに、しばらく一対話ずつのんびり書き足していきたいです。


三木清「実験的精神」(1941年8月『文藝』掲載)

哲学者の方だそうです(存じ上げずごめんなさい)。

怒られるかなあ、戦時中に対談とかするんだ!しかもパスカルの話とか!っていうのにまず驚いた。すみません。

うーんイメージ出来ない。第二次世界大戦というものをもっと実感を持って知りたいなあとまず思ってしまった。

実感以前に表面的な歴史も知らないんであれですが。


パスカルには物事を原始的に考える実験的精神があって、というような話から、本を読むことが学問であるとするかのような教養主義の批判へ。

その対象に向かっているのは自分であると。そして自分の境遇は、立場は。その特殊性は。

そして誰かの本を下地に論ずるのではなく自分が事実にきちんと向き合うべきだ、というような話。

じゃあ実際どうやるの?と聞いてみたい気もするけど言いたいことが分かるには分かる。

でもさ、自分より頭がいい人がどうせ過去に一生懸命考えてるじゃない、と思うと本読んだほうが早いというか、それでいいじゃんみたいになるんだよね。

もしくは1,000冊読んでから自分の考えを考えようみたいな。車輪の再発明は要らないわけですし。

……なんてことをやっているうちに寿命が来ちゃうんでしょうねえとしみじみしてしまった。


でも、そうね、自分の個性で学問をやるっていうのはいいかもしれないね(特に文系)。

結局後の人は、その人の解釈なりものの見方を、時代や文化を含めたその人自身との対比で見るわけですよね。

「この人にはこう見えた」と。

それでいいんだなあとちょっと思った。

何かを論ずるにしてもつい「多くの人の支持」や「普遍」とか「共通見解」になるのを求めるものだけれども、

そんな、八方美人な、もしくは網羅的な解釈がどれほどの価値があるかというと。

そんなものは思想ではなくて人間まとめサイトなのかもしれない。

偏ろうがバカだろうがとにかく俺は、俺のスペックと俺の価値観で今物事が、こう、見えてる、という個人的体系が一本筋通って出来てるほうが、後々に寄与しそう。

人には見えてるものしか見えないけれども、どういうものしか見えない人であったのかという個性さえはっきりしてれば、後の人はその偏りを補正して解析できるものね。


あとは、「これ一つ書いて了えば死んでもいい」と思うような気持ちでものを書かないと、という話とか、ディアレクティック(弁証法)批判とか。

対話だけあって論点がいくつか平行してて、断片はみんな面白いんだけど突き詰めているわけでもないのでむずがゆい(笑)。

ヘーゲルを逆(作り上げられた体系)から読んで理解するのは違うんじゃないのみたいなことを小林さんが言ったり。おおお同意である。

こういう意見があってこういう意見に否定されて最終的にこういう見解になりました、とか、そんな死んだ説明は思想じゃねえよみたいな(そこまでは言ってない)。


これ一つ書いて了えば……は、三木さんはこの対談の四年後に投獄され獄死されたそうなので、こんなに清らかに大きく穏やかにものを見ていた知性が、戦争の中で弾圧されて死んでいくというのがリアルに実感されて、すごく悲しくなった。

(2014/04/12)

2014-03-27

[][]「好き」の劣等生

子供のころからやる気であるとか、精神力であるとか、エネルギーとかと無縁で

思い出すとあだ名が「平和」あげく「省エネ」だったことすらある私ですが、

ついにここ数年ですかね、起きると全てがリセットされていて、シャワー浴びながら

「自分はなんで生きてるんだっけ?」と問いかけるところから一日が始まるようになりました。


別に鬱ではなくてですね(極端に盛り上がらない代わりに盛り下がりもしない情緒の幅よ)、

寝てたら幸せだったのに私なんでいま起きてるんだっけ?みたいな。

まあシャワーを浴び終わると解決してるんですけどね。

答えを思い出したとかじゃなく、シャワーで体温が上がって身体が起動するので、起動するまえに感じていた「なんで」とか忘れる。


で、毎朝自分に問いかけるのもどうなのとやっと最近、違う人種だと思っていたエネルギーのある人たち、を観察するに、

やっと気付いたんですが世の中、自分が好きなことをやっている人だけがエネルギーがあるのね。

ああー。ですよねーーーーー。と膝を打った。


子供とかでたまにいるじゃないですか、この服絶対着ない、とか、今日はこっちがいい!!とか、

すごく幼いのにもう自分の好き嫌いがすごくはっきりしてる子。

自分が初めて目にしたときは何かの洗脳かと呆然としたのですが違うのね、気質として備わっているのねあれ。

好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。


呆然としたということは、自分はその対岸にいるような子供でした。

服も自転車もみんなお下がり、でも何の疑問も希望もなかった。

特別好きなものも嫌いなものもなかったなあ。選択をしようとしたことがなかった。


食べ物の好き嫌いとか、何々君が好きとか、どのバンドが好き、とかの好きはもちろん私にもありますよ。

そうじゃなくて自分に関わる好き嫌い。こだわり?

自分がそれを選んで気分がいいか、悪いかを敏感に察知する能力。

ないなー自分の中でそんなもの微塵も育ってないなー、と思った。


おしゃれでも何でもいいんですが、あれは「選ぶ」ことの繰り返しなのね。

本当に些細なことから、自分にとって何が心地いいのかを「選ぶ」

その積み重ねであったり、その重なりであったりが「好き」。


私にはそういう蓄積がない。

だいたいなんでもよかったから。

だいたい、極端に「ないわー」ってもの以外は同じに見えてたから。

ゆえに本当の「好き」もないんだなと。


あ、自分の好き嫌いを把握することとそれを表に表すことは別ですよもちろん。

把握したからっていつでもそれを優先しようとしたらただのだだっ子だけど、

それを優先できなくても把握だけはしている状態というのがあると思う。

私は、「この場で自分の好きを優先出来なくても把握だけはしている」という状態もなかった。

優先出来ない場合は最初から選んですらいないことが多い。どうせ優先できないなら気にしない(省エネ)。



とまあ、その辺にこのエネルギーのなさの原因があるんじゃないかと思って、

じゃあもっと自分の「好き」に耳を傾けましょう、という実験を始めました。

が、難しい。

というのもなんせ今まで大抵のものを「どうでもいい」か「気にしない」で過ごしてきてしまったので、容易にセンサーが働かない。

あと、たとえば2歳から既に明確な好き嫌いがあった人と比べて、30年以上分の「好き」の蓄積差があるわけです。

その人達は、蓄積があるから結構抽象的なこともすぐ選べるんですよ。その事前まで選んであるから。

でもそういう蓄積がゼロの私は、何十手も前の、もうすごくプリミティブなところから自分に問いかけないといけない。

どっちが好きなの?って。

「いやあ……どっちでも……あ、いけない!!!こ、こっ……ち?(夫に俺に聞くなという目で見られながら)」

のような辛い感じに。


でもまあぎこちないながら、面白いです。選ぶって面白いことだったんですね。

一歩一歩、自分を獲得していく気になるね。

逆にいうと、選ばなかった方を自分では「ない」と棄てていくことなんだね。

好きというのは対象との相互作用なんですなあ。

完全な自己があってそれが物言わぬ対象を選びとるのではなくて、より自分が「見える」方の対象に自分が吸い寄せられていく。

自分の習慣から自分が見えてくるように、自分が好きだと選択したものから自分というものが現れ出てくるのでしょう。知らんけど。


あとね、選ぶということは、自分を尊重するということなのだね。

これもなかなか難しい。

どうせ自分が何着ても一緒なんじゃないかと、服を買いに行くたびにどんよりするのをやめて、

自分にはこれだ、と自分に対して選んであげることだからね。大変なことだ。


まだ実験は始まったばかりで、どうも考察まで辿り着くのに20年くらいかかりそうな気がするけれど、

もし20年後に私がすごくやる気になってたら、それなりに効果あったということで。

(誰にも求められていない)

2013-10-06

[][]自己啓発書蜘蛛の糸

自己啓発書というのは、私の世代だと、100社受けても採用されないのは自己責任と言われた就職氷河期の子達が

藁をも掴む思いで読み漁ったもの、というイメージだった(自分が悪いなら自分を変えなければいけないので)。

私も(単に趣味だったこともあり)色々読んだけれども、大体数人のアメリカ人が源流で後はバリエーションなので、一通り読むと落ち着く。

感想としては、それを他人への批判に使わないのであれば、大変に有用だと思った。

効率のいい思考方法というのはある。思想とは別に。無駄な怒りや落胆を持たないとかも含め。


で、もう若くもないのですっかりその辺のことは忘れて過ごしていたところ、

何年か前から「意識高い系(笑)」というネットスラングを目にするようになった。


「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書)

数年前からネットスラングにもなった、この「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈自慢、ソー活、自己啓発など、自分磨きに精を出し、やたらと前のめりに人生を送っている若者たちのことを指す。


だそうです。何となくは分かる。見てて痛々しい感じなのだろう。

自己啓発書にかぶれちゃった感じなのだろう。


彼らと同じ世代だったらそれなりのどん引きはしたと思うが、既に一回り離れちゃった自分としては、

そんなに笑えないことに気付く。

なんだろうね、その裏の必死さというか。それを支えている、自分には何もないという恐怖。


あとさ、意識高い系(笑)でも自己啓発(笑)でもいいんだけど、そうやってバカに出来るのは、

それらを必要としない環境に育つことが出来た人達なんだよな。


新卒の子達の年代までにね、彼らがしてきた「経験」というのは、ほぼ周りから与えられたものなのですよ。

いや、物心ついた後は本人のやる気だろ、と思われるかもしれないけど、やる気すら環境で作られる。

知らないものに対して、存在を教えられていないものに対して「やる気」なんて持ちようがないから。

生まれた地域、親戚の格、親の学歴や意識、通った学校etc.

そういった全てが、その子がどうやって世の中を見、どういう経験を主体的に選択していくかを作る。

(あと、親の愛という全ての基底なるものがあるけれどそれはちょっと別件)


極端な例だけれども、

東京の、マスからサブカルまで文化が容易に手に入る場所に育ちかつ親も社会的にそこそこの地位と向上心があり経験を増やすことを是とするような家庭と、

田舎の、テレビがメディアの主体で周りに向上心のある人間が存在しないコミュニティで育ち親も外の世界に興味が無く循環する時間をただ消費する家庭と、

どっちに生まれるかで子供の経験は全く違う。

情報の格差が必然的にあるので、前者は後者の存在を知っているけれど、後者は前者の存在を知らない(というか興味が無い)。


どっちがいい悪いというのではなく、お互いに親と同じ環境やコミュニティで生きていく分には親からの価値観や諸々を受け継げばいいだけなので何の問題もないのだけれど、

問題は、後者の環境に生まれた子が何かのタイミングで「外部」を知ってしまった場合。

無視して自分のコミュニティに帰れる子はいいが、そうじゃない場合。


自分には「何かが圧倒的に足りなかったのだ」ということに気付く。

(気付くというよりは、違う文化に軸足を移したことで、その文化から見た「不足」がその人の意識の中に生み出される)


そうすると焦る。何かしないとと。

自分がいままで居た場所の、周りの環境からは全く情報は得られない。

むしろ向上心を削ぐようなコミュニティや人しかいない。伝手なんて当然あるわけもない。

自分で自分を「救い出す」しかない。


で、助けてくれるのは何かといったら、万人に容易に手に入り、分かり易い言葉で説かれた自己啓発書だったりするんだよな。

(他にも謎宗教とかマルチの勧誘とか色々あるんだけれども、それらに幸いにして引っかからなかった場合)


自己啓発書はさ、アメリカ人特有の明るさというか、生まれた階層は関係ないよ、という励ましが根底にあるしね。

何もなくても、今から頑張れば何でもあった人と肩を並べられる気がするんだよ。


ちなみに、クラシックな宗教や思想や文学はそういう子を救ってはくれない。

それらが教えてくれることは自分の認知を変えることで足るを知ることであって、

自分の認知を変えずに足るを求める彼らにとって、それは負けなので。




まあ、意識高い系と揶揄される学生達がみんなそういう育ち方なわけじゃもちろんないだろうけど、

たとえばその子達が他の「意識低い」子達をバカにするのであれば、それは(過去の)自分への嫌悪の表れたったりするんじゃないかなあ。


まとまらんけど、そんなこんなで、自己啓発書の先に救いがあるわけじゃないけれど、一度はかぶれてみることを、私は否定出来ない。

とことんかぶれればいつか飽きるし、とことんかぶれる中で得るものも絶対あるだろうし。



それはきっと知識ではなく、自分がどういう人間なのか、ということに対しての理解じゃないかな。

全てを恵まれて育った人は向き合う機会を持たないであろう、それなりに貴重な何か。

2013-10-05

[][]一日を二度使う/仕える

自分の仕事の定時は10時−18時で、昼も入れてだけど8時間。

自分が寝るのが大体午前2時なので、そこから帰宅やら夕飯やら家事やらが18時−2時で8時間。

残りは睡眠とか朝の準備とか諸々。


仕事が終わったーさあ帰ろう、というところから自分としては既に一日のロスタイム消化の気分になっているというか、

なんとなく流す方向の気分になっているんだけれど、

本当は仕事してるだけと同じ時間はある。


2回ある8時間を、どう使うか、誰のために使うか、はその人の社会や家庭での役割による。

第2の人生、とかって、たとえば定年前と定年後に人生を分けなくても、

平日と週末に、仕事とプライベートを分けなくても、

1日、となんとなく呼んでいるものは2回なにかを出来るだけの長さがある。


そう思うと私は「2回目の1日」の方を上手く使えてないなー、としみじみ思います。

まあ生産性が高くある必要はないのだろうけどさ。特に仕事じゃなきゃ。


ところで、どんなに自営で仕事を楽しんでいても、会社がブラックで家に帰れなくても、

8時間労働を終わった後に、もう8時間同じことをするのは嫌だと思う。たまにならともかく、毎日は。

効率もすごく落ちるだろうし。


そんなことを考えてたら、先日ホッテントリ経由で下記の記事を拝読した。


主人が帰ってきても、振り向きもせず、抱っこしながら、泣きながら、

ひたすら眠ってくれるように揺れていた自分がいました。


このあたりの日々は、毎日夜が来るのが怖くて、主人が早く帰ってきてくれるよう祈ってました。

育児ノイローゼになりかけて、自治体に電話した話 - yuki's blog...

ああ、一人でやっているお母さんは、8時間労働の後に、同じ8時間を繰り返しているのだなあと思った。

旦那さんが帰ってきて、旦那さんは1日の仕事を終えていて、その後にまだ。

(寝られてないから、2ターン以上かな。)


私は子供がいないので想像出来ないけれど、

どんなにその仕事が好きでも、1日の仕事が終わった後に同じ1日を連続でやる毎日は嫌だなあ。

イライラするわ。しかも何一つ自分の思い通りにならない案件相手に。


一人でいつまでも耐えられることではないですわね。


じゃあ旦那さん、って訳でもなくて、Twitter


育児に行き詰ったとき旦那に頼ってはダメだ、心身ともに夫婦共倒れになる、と今日三児の母が言ってた。


と教えてもらいました。深い。

いやあ旦那さんも最初の8時間(以上)を終えてからの、だからなあ。

疲れ度は一緒。


外部サービスだいじ。



ところで関係ないけど、赤ちゃんが寝ないと困る、というのは完全大人の都合な訳ですが、

(そもそもフリーダムに生きている物体を社会時間で動くニンゲン、にするのが育児でしょうけれど)

別に寝なくてもいいや好きにしろや、ということだとどういうサイクルなんだろうと聞いたところ、友人のところは


経験からすると寝ても4時間以内には必ず起きる。なので、夜中は必ず2回ぐらい起きておっぱいタイムがあるね、うちの場合。逆に昼でも4時間以上起き続けてることもない(外部刺激にもよるが)。なので、昼寝タイムは必ずある感じ。


だそうで、なにその理性的な生活。私がしたいわ。

朝型か夜型かなんてそんな低レベルな話じゃなかった。

時間を決めずに食う寝る遊ぶ型。


生産性とか言ってるうちはまだまだなんだなあと思い知らされます。

結局、大人になるにつれ失われた自由を自らの意志で取り戻す戦いが人生というものなのかしら。

生まれた頃のように、24時間をフリーダムにまた生きられるようになったら、上がりですかね。

(ずいぶんと話が逸れた)