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2011-06-22

[][]言わない人たち(意見と誤答2.0)

社会学的にどういう名前が付いているのか知らないのだけれど、

ある組織内の弱者と位置づけられる人たちが、体制側の論理を身につけて、または内面化して、自分を納得させることがある。


ひどい待遇で働いている非雇用者が、経営側から自分を見て、

コストを抑えるためには自分の時給換算の給料がこのへんに抑えられなければならないと納得している、とか


正社員の半分も生活の保証も手当もないバイトの人が、その人の生活を慮りもしないその組織の成果物の品質向上に邁進するとか


金を作り出す手段のない人が、そういう人を安く使って成り上がった成功者を礼賛したりとか。


本当は、「私は大変だ。虐げられている。搾取されている。寄越せ!」

と言っていいような人たちが、言わずに、体制側の理論を自分にインストールしてしまう。


これは一つには、クラスチェンジへの布石として行っているように見える。

資本主義社会において雇われである限り、ストをしようが組合を作ろうが自分の自由には限界がある。

そんなことより体制側の理論を学んでうまく立ち回り、

早くそちら側(つまり、システムの側)にクラスチェンジしよう、としている場合。


しかし、そうでもない場合もある。

単に、クレクレいうのが、恥ずかしいと思っている場合。

体制側にバカにされたくないと思っている場合。

自分がこれ以上を望むことは、身の程知らずであるに違いないと思っている場合。

世の中を知らないと思われたくないと思っている場合。

etc.



意見、というのは自分の視野や知識、及び経験、そして立場に左右される。

そして、一人の人が全ての意見と全ての立場を持つことは出来ない。

故に、誰の意見も少なからずポジショントークであり、偏っている。


そして、基本的に、世の中はそれでいい。


どんなに「観測範囲」を広げても、一人の人間が全ての見識を網羅することは出来ない。一つの分野ですら、一生かかっても不完全だ。

全ての見識を網羅してから、勉強してからなんて言っていたら、

一生かかって一言も発言出来ない。


一人で100識っている人を作れないかわりに、

偏った異なる意見を持つ人が100人集まる。

そしてその議論の妥協点を見つけ、論理的整合性を整理する人がもう100人。


そうやって、議論を重ね、世の中で物事が決まる。


個々人は自分の視野で、自分の立場で、自分の経験で自分の意見を訴える。

反論は他の人が出してくれる。

否定も他の人がしてくれる。

対案も他の人が提案してくれる。


だからこそ安心して、「今の」自分が思う全てを言う。

そして感謝して、反論や否定により意見を修正する。



ウェブによって、そういった仕組みがもっと整理されるはずだった。

と、私は思った。


しかし、今どちらかというと行われているのは、

100人の偏った意見の人達による冷静な議論などではなく、

誰が一番視野が広いか、誰が一番経験をしているか、誰が一番海外の例を知っているか、誰が一番数字を知っているか、誰が一番経済を知っているかetc.競争だ。


意見は議論されない。揉まれない。止揚されない。

最初から思慮深いものであることが求められる。

軽はずみに発言するとバカだと思われる。

自分で浅薄な発言と分かるものについてバカにする。


そしてみんな口をつぐむ。

議論は否定されない。

そのかわり、その人の人格が否定される。属性が否定される。立場が否定される。

お前は所詮視野が狭いからそのようなことが言えるのだ、と。

そう言われるのを恐れる人たちはいつしか、

一番の権力者(バカに出来る側)である、体制側の意見になる。


例えば放射能汚染について。

成人男性・子供を産む気のない成人女性と、将来可能性を考えている女性・妊婦・小さいお子さんを持つ男女だと

恐れる範囲が全く違う。

前者の人たちは社会的視野で余裕を持って眺める事ができるので、

冷静に効率を考えてパニックを引いて眺める。

後者の人たちは自分事であり、かけがえのないわが子の未来のことであるので、社会的にどうかではなく、自分の人生としてどうかと真剣に悩む。

体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。



例えば原発の是非。

主に経済系の人や企業に勤めている人たちは自分の置かれている経済情勢を鑑み、

昨年までの経済活動を継続し、日本から企業を撤退させないためにも、

すぐに停止することは考えられないと思う。

片や主婦であったり学生であったりする人たちは福島第一原発で起きた惨状を見て

ここ何十年かの繁栄の為にその先百年が犠牲になる可能性を恐れ、

まずは停止してどうにか代替案がないか模索していくべきだと思う。

体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。



そんな人達の周りで多くの人が口をつぐむ。

ひたすら情報を貯めこみ、視野を収集し、脳内で計算を続ける。

「何が正しいのか」

それが出るまで。

バカにされない意見が言えるようになるまで。


PLUTO (1) (ビッグコミックス)というマンガの中で、

アトムは一度、起きなくなってしまう。

機能は問題なく、あらゆる情報を持っているのに、目覚めない。

脳が無限のシミュレーション状態になり目覚めなくなってしまったのだ。

目覚めを決めたのは、

ある偏った感情の注入だった。


ウェブによって、人はより、偏っていていい存在になったと思う。

そして、より、好きなことだけしていていい存在になったと思う。

誰かが出来ないことは他の誰かが出来るということが、見える世界が始まった。


だけれどそうである世界は、自分のあり方も変えていかなければならない。

自分が淘汰される存在であること。自分が止揚される存在であること。

ある分野ではその体制の上の方にいたとしても、

他のあらゆる分野ではあらゆる否定を受ける側の人間であること。

それは存在の否定では全くないこと、むしろその分野の糧となっていくこと。

そうやって助け合い、教えあいながら生きて行けること。



私は最近のウェブが好きだ。

罵倒、デマ、不安、感謝。

震災によって、人の素が前より少し見えるようになった。

みんなが自分を少し、出すようになった。

人としての不完全さを恐れなくなった。


その芽を、バカにすることで摘んでしまわないように

存在を肯定し、意見を出すことをリスペクトし、

その上で、お互いに礼儀を持って、

議論を本気で戦わせることができたら、素敵だと思う。

2011-06-19

[]決めない人たち(震災メモ)

最近、何も考えていない。

ここ2年くらい(実用書以外に)ほとんど本読んでないんですけど、

そうすると考える事もなくなるなあということがよくわかりました。

それでも生きていけるので悪くはないけどつまらないね。気をつけましょう。


考えることはないんだけどやることは多いのでそれなりに日々は過ぎていく。

震災について自分が何を考えて、、というか思っていたか、

10年後にブログ見ても何もわからないなあと思ってメモ(と偏ったクリップ)。

長いので読んでくれる人は斜め読みでお願いします。


3月11日の震災はさすがに私にも衝撃だった。

実は震災後1週間くらいは事態がよく分かってなくて、

日本社会の鬱陶しい習慣(定時出社フレックス退社とか)が

交通の麻痺でどんどん崩れていく様子にほっとしたり、

日本社会の思考停止の連鎖(上に相談しないと決断出来ないとか)で

仕事の、特に役所関係の人たちの判断の遅さに苛立ったりと、

非日常感に浮き足立っていた。


少し経って、現実に戻って一気に復興に注力するのかと思いきや

原発が爆発しておりそれどころではなく、

周辺住民の方には、被災者の救助が見捨てられて退避命令が出ていたり、

未曽有の大惨事とはこのことと思った。

妻と子供が行方不明の友人は津波の翌日、避難指示にもかかわらず、自宅に向かった。辺りはがれきの山。あちこちから「助けてー」という声が上がっていたが、一人ではどうすることもできず、そのまま帰るしかなかったという。

「原発事故がなかったら、もっと早く捜索してくれていたら、たくさんの人が助かっていたはず。それだけが本当に悔しい」。由佳さんが、頑固だった父に似て口下手な和司さんの思いを代弁した。放射線被曝(ひばく)への恐怖や風評被害…。「本当に悲しいことばかり。宮城や岩手は復興に向かって動いているようにも見える。でも、福島はどう頑張ればいいのか」

【放射能漏れ】原発間近 両親捜す家族「時間は止まったまま」+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

こういうニュースが辛かった。

「原発は(他の発電方法より)死人が少ない」という言い方をする人がいたけれど、

この避難命令によって救えなかった命は膨大だと思う。



私は帰宅難民になったり、家に物が散乱したくらいで被害がないので、

一番の被害といえば仕事関係で役所の人たちの判断しなさに振り回されたことだったんだけれど、

思えば、その経験がそれからの判断の基準になった。


「役所の人たちは、決められない」


ということだ。個人のせいではなくて、組織の体として。

西郷は、会計の世界で話題になっている「ルールベース」と「プリンシパルベース」を思い浮かべた。言うまでもなく、詳細に定められたルールに従ってさえいれば免責されるのが「ルールベース」だ。

 原則に照らし合わせてその是非を判断するのが「プリンシパルベース」だ。この報告は、まさしくルールベースだった。しかも、第三者の監査も行われていない。もし「プリンシパルベース」を貫いていたとしたら、「人命に関わるリスク」について、さまざまな可能性が議論され、報告されたはずだ。だが、その報告書には難解で無機質な数字と「基準以下」との結論が書かれているだけで、最悪の事態の可能性について何も書かれていない。

第24話「難解で無機質な数字が書かれているあの報告書は何だったのか」:日経ビジネスオンライン

これはウェブサイト上の連載小説だけれど、ウェブ連載ならではというか、時事に沿いながら話が展開されている。

この西郷さんという人が、福島第1原子力発電所3号機の耐震安全性に関する報告書というのを読んでの感想。


ルールベースとプリンシパルベース、なるほどそうい言い方があるのかと思った。

要するに、規則に沿うのか原則に沿うのかということだ。

日本の役所の人たちは明らかに前者。

規則に沿って判断して人が死んでもそれは免責される。

しかし、規則や上司の許可なしに判断してもし事が起こったら(そして、たとえそれで人が救えた場合でも)糾弾される。

役所の人はいつも数人で会議にきて、ほとんどその場での決断をせずに帰る。個人で判断しないということが徹底されている。

規則を破ってでも人命に配慮することで彼らが得られるメリットはない。

自治体に頼むと都や県からの通達がないからという。

都や県に訴えると国からの指示がないからという。

徹底して、上からでないと全く動かない。

しかも、上からの指示がわりと、「各自治体で判断しろ、責任は取らない」って感じですごい。

通知によると、1キロ当たり10万ベクレル超の汚泥は、発生した都県内で放射線を遮蔽できる施設内に保管。10万ベクレル以下8000ベクレル超の場合、住宅地などから一定の距離を置いた「管理型処分場」に仮置きできるとした。最終的な処分方法は今後検討する。8000ベクレル以下については、管理型処分場への埋め立てを認めるが防水などの対策を求め、跡地を住宅地とすることは制限する。汚泥の再利用は、原子炉等規制法で定められたコンクリート用の基準「100ベクレル以下」であれば可能。一方、園芸用の土などへの再利用は自粛する。

汚泥の扱いに基準…10万ベクレル超は遮蔽保管 : 福島原発 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

これとか、数値の基準決めただけで、じゃあどこに置くのよとかその費用はとか全く言っておらず「よきにはからえ」スペックが高い。

けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。

 だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。

阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること - 中央公論.jp

上は、内田樹先生のご意見。

結局、一番の上の人である「国」も、決められない人たちの集まりなのかも知れない。


まあとにかく、いい悪いというのではなく、役所とはそういう組織なので、

そこに無駄に憤ってもしょうがないなと思った。


もちろん民主主義の手法としてデモ等があるけれども、

先進国ではまっとうな民主的行為として認められているらしいデモ、

日本だとどうも引いてしまう。

全共闘の人たちのイメージがある気がする。

すでに私は知らない世代だけど。

その下にしらけ世代というのがあったと聞く。

その名残の雰囲気というか。

本当はここで引いたら市民として負けなんだろうけどね。

そんなことより議員さんそそのかしたほうが早いみたいな何か。


ということで、一市民に出来るのはできるだけの自己防衛と

直接の助け合いだなと思った。

助け合いは、日本赤十字社等への大きな募金は届くまでに大変時間がかかるので

こういうプロジェクトに送るとかとか⇒「ふんばろう東日本支援プロジェクト

※他にも、民間でソーシャルウェブネットワークの力を使って奮闘なさっている方々が沢山いる


自己防衛は、まず自分と家族の地震対策と、

あと今は、放射性物質内部被曝

内部被曝については、私はどうやら周りから見ると若干神経質らしいんだけれど、

まあ理由はいろいろある。


一つには、妊婦や幼児のお母さんの友達が多く、彼女とちびちゃんずの健康を願っていること。

一つには、これくらいなら大丈夫とか、これくらいならやばいとかいちいち判断するのがめんどくさいので、疑わしきものは食わずで行きたいこと。

癌にかかるリスクはよくタバコと比較されるけど、私はタバコは人生で一本も吸ったことがないのでそこで比較されてもよく分からない。

ジャンクフードは親世代の一生分は食べた気がするのでどのみち大した寿命ではないかもしれないけれど、

ジャンクフードと外食をこれからも心置きなく食べるために、

自炊には気を使いたいと思う。


そもそも低線量被曝にはデータがないそうなので、

我々が今後提出することになろうかとは思う。

学者が知っている知識のレベルを纏めると以下のようになります。

・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に悪影響を与えることを示す臨床データは存在しない。

・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に良い影響を与えることを示す臨床データであれば存在する

。・LNT 仮説はあくまでも仮説である。低線量体外被曝が健康に与える影響については、その影響が良いものか悪いものかですら、よく判っていない。

わからなさの問題(永田) | CSWブログ

で、一応、国の暫定基準値が決まって、お達しが出てると。

食品の放射性物質の暫定基準値はどうやって決まったか - 勝川俊雄 公式サイト


とかを拝見するとほんとお疲れ様ですという感じなんだけど、

一応じゃあ、それに従って出荷制限がされるのねと思う。


で、疑問に思うことは、日本にそんなに測定器あったっけ?ということ。

放射性物質はいろいろなマップを見る限り福島から関東平野までは

確実にいろいろ飛んできているけれど、そこは測れないなあと。

「ほとんどの農作物が検査を受けずに市場に出ている。まるで“底の抜けたザル”です」

 原因は圧倒的な検査機器と専門スタッフの不足だ。

 厚労省が検査への使用を薦めている「ゲルマニウム半導体核種分析装置」は冷戦時代、核の脅威に備え、当時の科学技術庁が各都道府県に購入を指導したが、とても現在の需要に追いつく台数ではないという。

 1台約1500万円と高価にもかかわらず、震災後は平時の5倍以上の購入申し込みがあり、「納期まで少なくとも4カ月待ち」(販売代理店)という状況になっているのだ。

 魚介類の放射能検査の中心的存在である「水産総合研究センター」(横浜市)には、事故後、自治体や漁協から検査依頼が殺到している。

 担当者によれば、10キロ程度の魚(カツオなら3匹、イワシなら50〜100匹程度)の頭と内臓、骨を除去してミンチ状にし、筒状のタッパーにすき間なく詰めて、測定する。

(page: 2)

 同センターは分析装置を6台保有しており、約10人の専門スタッフがフル稼働で検査にあたっているが、前処理を含め、一つの検査に3〜4時間かかるため、1日に4検査が限度だという。しかも、

「魚は足が速いため、検査結果が出る前に、同じ場所でとれた魚は消費市場に流れている」(漁協関係者)

じわじわ広がる土壌・海水汚染 食品安全検査は機材も人も足りずにお手上げ - 雑誌記事:@niftyニュース

あー、大体こんなもんだろうなあと思う。

基準値があったところで、測ってないものをどうやって足し算すれば。


それでも、いろいろなところでできるだけ測ろうと努力してるんだろうなと思う。

思いたいんだけど、役所の人の事が思い浮かぶと、

彼ら、何が嫌いって、極端な人たちからの電話の嵐で仕事にならない状態が嫌い。

県経済産業部は「消費者への連絡など最低限のことはやっている。HPで出すとかえって不安を広げかねない」と説明している。

asahi.com(朝日新聞社):放射性物質検出、静岡県が公表を制止 食品通販業者に - 社会

役所の人たちの「不安やパニックを与えかねない」というのは

不安を広げかねない=また電話が鳴りまくりかねない

ということなので、まあこれからもさっさと数値が発表されたりすることはないだろうなあという感じ。

(私も県庁に半年くらいいた事があるだけだけど、基本こんな感じじゃないだろうかどこも)


それどころか、測定を渋っていたりもする。

放射能を不安視する県内の生産農家などからは、4月上旬には検査を求める声が県に寄せられていた。にもかかわらず、県は「検査依頼は農協中央会を通じて一括して申請してほしい」との説明を繰り返した。


 同中央会の正式要請は5月2日。県が検査を依頼する農林水産省の外部機関は各都道府県ごとに検査実施日を決めており、直近で5月10日(前日の9日採取)に決まった。県は対応が後手に回ったことについて、「5月上旬に出荷される認識はなかった」などと説明している。

足柄茶から放射性物質検出:県の対応後手に、4月に検査求める声/神奈川:ローカルニュース : ニュース : カナロコ -- 神奈川新聞社

こういう姿勢はやっと正されたらしい。

荒茶検査 苦渋の方針転換 県が実施へ 風評被害を懸念 : 神奈川 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

苦渋もなにも、なんで検査しない方針だったのか意味がわからないどまあいいや。


普通、測るのが間に合わない場合、

政府なら汚染の可能性がある地域の作物や魚を一律で出荷停止にし、

その分補償を即座に決めるべきだと思う。

だけどそれを生産者の人たちの自己責任にして、

かつ、測ってもいないものを食べないことを「風評被害」と名づけて

食べない消費者を牽制する。

私は、どうせ買うものを被災地域に近いものにすることでいいことした気分になるくらいなら、

それでも出荷制限になってしまった人たちを含め直接義援金を送ったほうがいいと思うけど、

もちろん買うことも自由だと思う。

なんかとにかく、政府が決めないせいで、

気にする派と気にしない派が無駄に争ったりしていてほんと無駄だなあと思う。

気にしない人は食べればいい。

気にすること自体で癌になる人だって世の中にはいるかもしれないんだから、

気にする人は気にする自由がある。


気にする人批判には、例え測ってなくても大した線量じゃないよ、というのはあると思う。

しかし、2ヶ月くらい経って「あの時たくさん飛んでましたー」とかいう発表がされる国なので、

あんまり安心して生きづらい。

あと、子供から一瞬たりとも目が離せない親御さんたちに

きちんといろんな一次文献あさって本当に危険かどうか考えてみましょう、

とかいう余裕はないと思う。

いいじゃん疑わしきは食わずで。


そんな婿の近況

ウチは規模が大きめなので、毎年、播種は4月5日、10日、15日と3回に分けてやっていたのですが、

今年は義母と議論して議論して議論して

作付を自粛することにしました。


理由は3つ


そもそもなぜ作付を議論する余地があるのかというと、4月23日、いわき北部は緊急時避難準備区域から外れ

30km圏内でも作付にGOサインがでました。


当時、作っても大丈夫なのか、土壌調査はしたのかと問い合わせた婿に対する農協や市のコメントは

「土壌調査はしてない(ウチの地域)けど大丈夫です。制限が解除されたので作ってください。」 でした。

(その時点で土壌調査されていたのは、あの広いいわき市でたった4か所)


作って、汚染されていたらどうなるのか、その買い取りに関しては責任を持ってくれるのかという問い合わせに対する返事は

「わかりません。あくまで自己責任で」 でした。

作らなかったら補償はどうなるか?と聞くと、対象になりませんという返事




要するに、

作んなかったら補償ナシな、だけど作っても俺たち知らねえから

でした。

どこの剛田さんとこの息子かと思いました。

農家に婿入りした男のブログZ|農家の婿のブログ

買うのは自由、食べるのも自由です

買う人、食べる人には素直にありがとうございますです。心の底から。


しかしながら


福島の作物を買うのが支援で良いことで

それを否定する人は神経質で良くないこと


そんな風潮、こんな風潮を作りだそうとしている人達


心の底から反吐が出ます。

農家に婿入りした男のブログZ|農家の婿のブログ

一番辛い思いをしているのはもちろん現場の人達だ。

自己負担で線量を測って自粛したりしている。


「決めない上の人達」


にみんな翻弄されている。

自分もだけれど、一個人として、一市民として、周りがどうするかじゃなくて、

自分としてどう判断するんだ、ということが今回一番問われたと思う。

我々の世代が言われつくされた「自己責任」とは若干違うニュアンスとして。



あとは、なんかあったっけ震災関連。

あ、原発の是非か。

放射線の被害についてもそうなんだけど、結構複雑な計算の連続だと思うんで、

何が是なのか私の情報量と頭では判断出来ない。


ただ一つ気になるのは、震災直後に(他の稼動している)原発を止めてという

訴えをしていたのは技術者(実際に作った人も含め)の人が多かった気がすること。

設計書があったとしても、細部は職人の腕次第で仕上げられていく建物だけれど、

「ちゃんと作ってないんだから」と訴えていた技術者の人もいた。


経済系の原発推進派の人たちに言わせると、反対を唱えるのは無職か主婦か老人が多いそうで、

経済に与える打撃について計算出来ない人は不安定な自然エネルギーをすぐ主張する

とのこと。

経済効率を維持するには原発がいるのかなあと思わないでもない。


しかし、推進派の人たちも、活断層の上にあったり、ちゃんと作ってなかったりする原発は

嫌なんじゃないかなあ。何かあった時のコストが経済効率どころじゃないし。


まずは、一基一基、こんどこそ「想定外」のできるだけないように点検すること、

技術を見直し、シミュレーションし、リスクを計算すること。

そしてそれでも万が一のことが起きてしまったときの住民避難の段取りと補償の枠組みを

明文化して予算も見積もること、

んでそれを世界にも示すこと。


とかやった後じゃないと議論にならない気が。


いろいろ勉強していかないといけないすね。生きるには。

自分も多くの場面において「決めない人」だったなと反省している。

2011-02-20

[][][]とある世代の家事事情

私たちの世代の結婚は、男女雇用機会均等的な理由のみならず単に不況によって

共働きが普通だけれども(職があれば)、

まあ、男女雇用機会均等法と一緒に男女家事機会均等法が施行されなかったせいで

こと家の事に関してはまことにボンクラリティの高い旦那さんというのが

わりといて、そういう旦那さんと結婚した奥さんたちの

愚痴というのを耳にする機会が増えた。

家の中のことくらい、自分と同じように気づいて、自分で動いてほしいのよね。

お互い働いてるんだし、どうせ旦那さんも仕事ならそれが出来てるんだろうし。


何かを、家または社会に教育されなかったコストは基本自分で払うしかないけど、

その必要性を本人が感じる機能すら装備されていない場合もあり、

そういう時は奥さんのコストになる。

このへんは別に新しい問題ではなく、

めんどくさくて結局奥さんが全部やってしまう場合が多かったのが昔だけど、

核家族極まる現代、そうは言っても一人ひとり仕事も家事も両方できないと

どちらかが長い間病気なり怪我なりしたとききつい。


少し前の終身雇用夫+専業主婦の人たちが私たちの世代に残した負債はわりと大きく、

一つ、子供(特に息子)を家のことはなにもしないお父さんと同じようなぼんくらに育てたこと、

二つ、そういうお父さんを残してお母さんが先に死ぬリスクがあることについて無頓着なこと(というか子供たちがそれをフォローするのが当然だと思っている)。


もちろん、この二つを全員が持っているわけでもなく、

まったく心配ない家庭もあれば、

この二つを両方貰ってしまった奥さんもいる。

遺産なんていらないからこの負債を解消して、と思ってる人も多いだろう。


家のことをなにもしないのは、男尊女卑とかじゃなくて、

単に、要請されたことがないので気づかないだけなのが多いのが、

我々の世代のそういう旦那さんの特徴。

何々の作業やって、と明示的に頼まれるとその作業パッケージについては一生懸命やる。いい子。

ただし、その都度言わないといけない。

洗濯物なり、片付けなり、ご飯の準備なり、頭の中で常に段取りが動いていて、

「気づいて」やるのが当然の人からみると

大変にまどろっこしくて歯がゆいのだけど、

気づかないものはしょうがない。

突然奥さんにキレられても、本人だって、言ってよ!とかなる。


このへんは根気よく二人で話し合ったりルール決めたりして

やっていかないとダメなんじゃないかなあ、なんて話するんだけど、

彼女たち、職もあり家事も出来、ひとりでも生きて行けるわけで、

そんな苦労して話しあったり伝わらないのを頑張って伝えなくちゃいけないなら

別に結婚してなくてもいいなあ。

と結構あっさり考えがちであり、おおーーい愛情はどこ行ったーー

と一生懸命止めてみたり、周囲も大変である。


しかも相談される私というのがまた、

うちは夫のほうが家事スペックが高く、私がぼんくらなので、

いやあ私に言われましてもすみません...みたいな...

あ、いや私なら旦那さん側の気持ちがわかると思って相談されるのか...そうか...


うーむ。


ところでニートといえば、仕事させろよというプレッシャーになるのが当然の

昨今ですが、

そういうプレッシャーをかける親御さんも炊事洗濯はしてあげてる、

みたいな場合もあり、

仕事はいいから家事できるようになればそれはそれで大変素敵なのに

そっちにはいかないのかなあ、などと。

どうせ職のない世の中、自給自足スペック上げるのはわるいことじゃない。


職は見つけなきゃないけど、家事は生きてる限り存在するし、尊い仕事です。

経済活動に関わって出てきたもの(=値札がついたもの)だけが価値じゃないってことは、

昔の人のほうがもしかしたら知ってたかも知れませんね。

2010-12-30

[]年賀状クエスト2011

毎年末に段取りを忘れるのでメモ。


年賀状ソフトは便利

私は年賀状作成には年賀状ソフトを使用しています。

理由は年賀状作りに最適化されているから。

郵便番号入力しただけで一瞬で番地前までの住所が補完されるのは他の住所録ソフトでもやれるけど、

連名や旧姓などの細かいオプションに対応した年賀状レイアウト、

自分から見た宛先の名前の順番、年賀状や暑中見舞い、寒中見舞い、喪中欠礼葉書の

年度ごとの出受チェック、

など日本のめんどくさい風習に完全準拠してるのは、さすがに日本の年賀状ソフトでございます。

あ、もちろん表面も作成しやすい。どうせ私はデータ買って貼り付けるだけか外注するけど。。

とりあえず私が使ってるのは『筆まめ』。いつのバージョンだっけ。

筆まめVer.21 通常版 DVD-ROM

筆まめの萌えるところは、高速スキャナのScanSnapと連動して頂いた年賀状表面画像データを紐付けられるっていうところ。

心置きなくモノは処分できて素敵ですね。

と思ったら最新バージョンではその機能ないらしいぞ!えー。それのみが差別化のあれだったんじゃないの。えー。



住所録ソフトは別だったんだけど・・

住所録自体は、もともとは『Outlook』を使用していました。

Microsoft Office Outlook 2010

理由はいろんなデバイスと同期が取れるから(老舗なのでだいたいデバイス側が対応しているのだね)。

ガラケーの時はガラケーと同期してたし、今はiPhoneと同期してる。

iPhoneの連絡先データバックアップ先にも使っている。


年賀状ソフトは筆まめ、住所録はOutlook、これ、

Outlookから筆まめへのインポートは出来るのだけど(最近は逆もできます?よくわからず)、

まあ当然、彼らが瞬時に同期する気はさらさらない。

なので、誰かの住所変わると両方入力しなければいけない。

面倒になって、Outlookには住所入れなくなりました。どうせiPhoneからもメールか電話するだけだし。

ところでOutlookさんってクラウド方面にきちんと行かれるんでしょうか今後。



おつきあい帳へとグレードアップ

で、結婚したら、色々と家族としてお付き合いするということが増え、

しかし最近高性能の私の頭の中の消しゴムが半年もすればもらったこととか全部消去する為、

これはお付き合いを記録することが必要だ!ということになりました。冠婚葬祭あげたもらった、ね。

で、折よくDMが届いたもんだから、

『筆まめおつきあい帳』というのを買いました。

筆まめおつきあい帳2

記念日やらお付き合い記録やらを記録できるのですよ。

これも外資の付き合いソフトじゃ知るかそんなことみたいな日本独自のどろっとした風習に対応している感じで。

あと、ついでに『筆まめ』の機能が統合されてるということで、

んじゃこれだけあればいいじゃん、ということで買いました。んでそれまでの筆まめデータインポートした。


筆まめのほうが便利なときがある

で、筆まめおつきあい帳、たしかにいいんですけど、筆まめの全機能を搭載してるわけじゃないのね。

住所録の中で今回の年賀状の宛名を印刷する人を過去の出受一覧を見ながらチェックしていく画面がなかったり(過去の出受一覧自体はある)、

印刷と同時に2011年年賀状の「出」にチェック入れるオプションがなかったり、

こちらではScanSnapとの連動機能がなかったり。

だめじゃん。


ということで、今年はまず『筆まめお付き合い帳』のほうで過去の出受け一覧等を見ながら

2011年の年賀状の「出」にチェック、

それからその住所録データをエクスポートして『筆まめ』にインポート、

そっちでその2011年の「出」のチェックを参考にしながら「印刷する」にチェック、

んでそのまま筆まめで印刷しました。なんだかなあ。



印刷で問題が!

あ、そうそう、印刷もめんどくさかったんだ。

今年、写真年賀状をネットで注文したんだけど、思ったより紙が厚く、

うちの前面給紙のプリンタ(つまりくるっと回ってまた前面に排紙されるタイプ)が

詰まっちゃって宛名印刷できない。

夫曰く宛名シールはださすぎて論外、ここで手書きしたらいろんな意味で負け、

困った時は金で解決、夜の9時にプリンタ買いに行きました。


そしたら最近の家庭用プリンタがごつくて驚いた。

何をそんなに盛り上がって印刷したいんだみんな。

そしてほとんど前面給紙!

電機屋の店員さんに聞いたら、今のプリンタはわりと厚紙対応してるけど、

ある一定以上はそうは言っても非推奨なので、背面給紙のほうが安全でしょうとのこと。

ですよねー。


最新機種を買ってもいいのだろうけれど今の家の安い複合機で何の問題もないので、

年賀状の宛名ごときで今のプリンタをお蔵入りにするのもなあと思っていたら、

よいのがありました、CanonのiP2700。その店では4,400円くらいだった。

Canon インクジェットプリンタ PIXUS IP2700 文字がキレイ 顔料ブラック+3色染料の4色インク エントリーモデル

インクが高いのこれ。CMYKとかごとのカートリッジじゃなくて、

「カラー」と「ブラック」しかない。あとヘッダ一体型なのかな。

そんなこんなでインク2種類買うとプリンタ本体より高い謎のプリンタ。

あ、もちろん最初はついてきますけれども。

まあ私はカラーなんぞどうでもいいのでこれにしました。

おうちに帰ってUSBで繋いで(家のもともとのほうは無線LAN)、

厚紙をものともせず快適に印刷できた。

もういいじゃん背面給紙でプリンタ。なんなんだ最近のあれは。



総括

今回わかったことは、

年賀状作成ソフトはスキャン派や住所録どこでも同期(含クラウド)マニアのことなど気にしていないし、

年賀状の外注を利用するのは宛名を手書きする層、ということでした。

私のターゲット外っぷりといったらない。

まあでも、好きなんだこういうの!事務職だからな!

2日くらい楽しめたのでよしとしよう。

2010-11-10

[][]自分探しと刺し違える

Twitterでリンクが流れてきて踏んで、ちょっと違和感持った。

なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。

理由は簡単である。

それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。

「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。

「私には知らないこと、できないことがあります」

「教えてください」

「お願いします」

これだけ。

これが「学び」のマジックワードである。

これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。

けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。

「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。

階層化する社会について (内田樹の研究室)

自分探ししてる人って、学ばないかねぇ?

積極的に知識を吸収し、体験を増やしていくもんだと思っていた。そうでもないか?


私は最近の、自分探しブームが一段落したのか大人になったのかわからないけど、

自分探しを否定してまず体験に身を投げよっていう感じの言説があんまり好きではない。

何事も中途半端だから良くないのであって、とことん探せば見つかると思う。現時点の想像力で思う形ではないと思うけれど。

とことん探すっていうのは、人は生きている限り自分の所業のフィードバックを受け続けていくわけだから、

それを分析して解釈して咀嚼して仮説を立てて実験してまた検証してを無限に繰り返すこと。

死ぬまで。

寝てようが働いてようが嫌な仕事で雇われていようが自己実現していようが病気しようが健康だろうが子育てしようが介護しようが

ずっとついてまわるでしょ自分探し。

しないのかなみんな。

思考停止して、なかった事にして、そんなもんだと思って過ごすのかな。


自分探しを哂うっていうと、

私の貧困な想像力だと、全共闘だなんだが終わったらサクっと就職していったらしい団塊の世代の人たちというイメージなんだけど、

まあ、バブルで、自分探しの必要なく、自己分析もエントリーシートも必要なく社会人デビューした人たちというイメージでもいいや、なんだけど

(すみませんその世代の方ただの偏見です)

そうやって自分探しに長い間蓋をして、そのまま死ねればいいけど、

表層を謳歌したまま60になって突然アイデンティティクライシスとか多分すごい辛いぞ。


確かに、止まってたら自分探しのしようがないので学ぶなり試すなりいろいろするしかないし、

止まってぐるぐるしてるだけの中途半端な自分探しは(これもある程度は必要だと私なんかは思ってしまうけど)時間の無駄だと思うので、

そういう意味で内田先生がおっしゃるならそれはそうかもしれない。


でも本気で探してたら人生のどの瞬間であろうが学びになるわけだし、

人はそうやって長い人生をかけて自分探しと刺し違えてるんだと思う。

明日その生が終わってしまうかもしれないけれど、それでも。


*1

*1:私を知りたいんじゃなくて世界を知りたい、という場合も、
だいたい「私」を通してしか世界を認識しようがないんだから、
絶対知(があるとして)に至るには自分が止揚され続けるしかない。
止揚される自分とその後の自分の自己同一性を必死で確認しながら観察し続けるしかない。
と20歳頃に『精神現象学』を読んで青臭く思ったことを思い出した。解釈があれだろうけれども。。また読まないとなあ。。