2013-04-16
■[本][人間]『考える生き方』を読んだ。
こうやってブログ(じゃないのかダイアリーなのか)を書くのも久しぶりです。
(書き方忘れたのでだらっと行きます。)
大変遅ればせながら、finalventさんの本を拝読しました。
- 作者: finalvent
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/03/11
- メディア: Kindle版
- クリック: 12回
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私がfinalventさんを知ったのは私がまだ全力ではてなを使っていた頃で、私が知るくらいだから多分既に有名人でした。
最初、思想の先生みたいな印象でした。ちょっと仙人っぽい感じ。
わたくしももうすぐ36歳らしいんですが、まだあの頃は20代だったりで、もうちょっと元気でした。
finalventさんのコメント欄やブクマで知った人とかとも仲良くなったりして、その縁はTwitterなんかで緩く繋がっていて、
自分にとってネットの一つのコアのような人です。
コアなんだけど一番よく分からない人(笑)。
私がはてなにもブログにも飽きてしまった後でも、ずっとネットの定点で思索を続けられている方。
- finalventさんのブログ『極東ブログ』
- と日記『finalventの日記』。
finalventさんを通じて知り合った他の方々とは会ったり飲んだりして、お陰様で我々は親睦が深まったっていうのに
finalventさんはご本人はそういう所には出てきてくれそうにないし(そういえばTwitterやりましょうよというのもずいぶん絡んだ気がしますすみませんでした)、
まあそれはそれで萌えるのでまあいいかという感じで。
あ、そう、なんかですねネットアイドルだったんです私というか我々の中でfinalventさんて。萌え中年。
すっごい頭良くて何でも出来て何でも知ってるのに擦れずに優しくて弱くて中二っていう。理想です(何の)。
あと、作られる料理が美味しそう。
こういう旦那さんいたら楽しいだろうなあと思ってました。すごいめんどくさくてすごい楽しいと思う。
奥さんいたら絶対年下だろうなと思ってたんでそこは当たった!
(同年代や年下だったら鬱陶しいけど年上だと萌える性格ってあると思う。異論は認める。)
そんなfinalventさんが自分語りの本を出されたというので、おおやっと実体が!という感じです。
finalventさんを知らない人が読んで面白いかどうかは分からないけど、多分面白いと思う。
どういう人にとって面白いかどうかは後で書きます。
まず『考える生き方』という題名は、らしいなあと思いました。
上で書いたfinalventさんがめんどくさそう、っていうのは、finalventさんは一つ一つの行動に
いちいち理由が要りそうって(褒めてる)ことなんですけど、まさにそれを表しているようで。
その割には読みながら「別に考えてないですよね?」とか何回か突っ込んだ。
別に「先に」考える生き方って書いてないもんな(笑)。
立派な書評はたくさんあるだろうからもはや誰も見ていないだろうここで私は感想を書けばいいよな。
finalventさん、体系の人です。
体系として世界を把握する種族の人。学者さんに多いわけだけれど、全員じゃない。
学者さんのような人には、知に興味を持って知の対象に埋没したり没頭したりするタイプの人と、
自分との距離感で周りに知を張り巡らす人がいると思うのだけれど、後者だと思う。
(たとえば学者として)大成するのは前者の人だと思う。一点突破型だから。
いびつだろうが他がぼろぼろだろうが興味の対象に一直線で不安にならない人。
知を吸収するより知をクリエイトしてしまう性の人。いわば、素材みたいな人。
後の体系に組み込まれるべく、知の側から呼ばれているような人。
その人はそれだけやっていれば、足りないものは周りがどうにかしてくれる人。
後者の人は評論の人。知を整備する人。知に意味を与える人。歴史を丹念に追い、評価し、
現在をそれに照らして、それぞれの知を意味づけてくれる人。アーカイヴの意味を知っている人。
知をクリエイトするにしても、体系の補助線を引くように謙虚に、車輪の再発明にならない最低限のことだけをする人。
finalventさん、本の始まりで自分の人生を「空っぽ」って表現されているけれど、
本を拝読して、体系の人だから「空っぽ」に見えるんだろうと思った。
finalventさんはまだ、自分の世界観や人生観として張り巡らしたい知の体系の半分も埋まってないんだと思う。
埋まったとしても、体系って知の枠組みだから、世間に見える「成果」としては見えない。
自分の中に体系を持つ人と持たない人の違いって外からじゃ分かりづらいし。
で、そういう人、世の中に割といるのではと思った。
意味を一つ一つ、心の中に蓄積し続けているのだけれど、それは他の誰かを説得するためじゃない。
淡々と意味を受容していく人。
どんどん知識が溜まって、感情の揺れや愚かさを理解して、許して、優しくなって、その目線で世界を繋いでいる人。
少し、価値判断する人の孤独を抱えて生きている人。評論する人の、世の中の主体ではないことの孤独というか。
そういうものを持つ人に、とても響く本なのじゃないかと思った。
私もどっちかといえば、知を作る側というよりは体系側だと思う。ひどい劣化版だけれども。
あとfinalventさんの100分の1も物事に興味が持てない上に働かない残念脳なので、
知らない事は知ってる人に聞けばいいやと思っちゃうわけだけれども。
そういう人達は今の世知辛い時代だと何も世の中に働きかけてないように見えるのかもしれない。
保守的な人が多いから経済的に上手く立ち回れている人もそんなにいないだろうと思う。
そもそもこういうタイプの人は昔からお勉強が出来たはずで(知の体系を脳内に作れる人の方がお勉強は出来る)、
お勉強が出来るとはどういうことかというと頑張れば頑張るほどシステムの中で使われやすい人材になるということ。
システムの側じゃないのね。システムの側には「お勉強」だけじゃ辿り着かないから。
あと、学校の先生は全員システムに組み込まれている側の人だから、学校じゃ教われない。
というか先生達はシステムの側を知らない。
加えて親が二人とも公務員だったりサラリーマンだったりとにかく使われる側だと、
大人になるまでシステムの側の事を知らずに育つしね。地方の人なんてだいたいそうじゃないかな。私もそうです。
だから、一生勉強を頑張る。自分がより便利なように。よりよく使われるために。
私は、世の中にこれだけたくさんのビルがあるのに、その所有者の側に自分がなるという可能性は微塵も想像せずに育った。
所有されるために育ったのだろうな。地方ではそれを立身出世と呼びます。
(まあしかし私はそのより良く所有されるラインからも落ちこぼれた。すまん両親。)
あ、もしかしたらfinalventさんは知らないかも知れない。
世の中、わざわざ知を体系づけない人が半分以上です。これは私は結婚して知った。
結婚したら夫が何も考えてなかったて訳じゃなくて、理屈無しに私と同じ結論ってことがものすごく多くて。
どうやってそこに辿り着いたの?って聞いたら直感ですって。夫はそっちのチームだった。
提供出来る知がないからシステムの側にいるんだって。
自分には何もないから何かある人に働いて頂いて生きているんだそう。
彼は彼で空っぽ、だそうです。面白い。
私に世界のもう片方を見せてくれる人はfinalventさんではなくて夫だけれど
私の行く先にいる人はfinalventさんなんだと思う。
だからこの本は私にはとても参考になった。
自分の人生の色んなところで読み返したりするんだろうと思う。
そして、この本が要らない人、この本の意味が分からない人もたくさんいると思う。自分語り乙としか思わない人。
精神的にマッチョな人というのかな。特に体系の側じゃない人は、
知が何故これだけの喜びを人にもたらしたり人を支えたりするか分からないと思う。
そんなことよりも人生がやりたいことや作り出したいもの、消費したいコンテンツで溢れているもの。
要らない知は要らないよね。
(あ、でもねえ、自分の人生に自分が納得していることを記してくれる人って貴重ですよ。
昔、母の知り合いの女性が自費出版で自分の人生を綴ったっていうんで、義理で読んだんですけれど、
どんな自慢話をしてくれるのかと思ったら延々不幸が続いてて。それも避けられない不幸かっていうと自分から行っている感じの。
でも自伝を書くからには最後にどんでん返しが!と思ったら
「私はどこで間違えたのだろうか。」
で筆が置かれていまして。
何故そのタイミングでこの本を切り上げたのかと。
ここまで読んじゃった私はどうすればいいのかと。
怖くてその後一度も会えてませんその人に。
ある意味才能だけど。
今なら言ってやりたい。少しは評論して自分の人生を!!少しくらいうまい理屈で自己肯定して!!)
finalventさん、4人お子さんいるの楽しそうだなあ。
昔feecleっていうミニブログサービスがあって、そっちでfinalventさんに絡んでた時に、
やたら子供が大量に出てくる印象があって、近所でボランティアでもされてるんかいなと思っていたけれど、
ご自身のお子さんだったりしたのですね。
フリーランスのお父さんっていいですよね子育てにきちんと関わってて。もちろん誰もがそうできるわけじゃないけどね。
親の世代の男性の子育て論って、お前孕ませただけであと任せて働いてただけじゃんみたいな人に言われてもみたいな
昭和根性論が多くて聞く価値なかったけど、こういう人が子供はいいっていうのならいいのかもしれないと思った。
難病を抱えていらっしゃったり、同世代で亡くなられた方に思いを馳せたりされてて、
なんだかまとめに入られているところが無きにしもあらずというか、
元々体系の人だから自分の人生も意味づけてまとめちゃおうとしているところが見受けられるけど、
個人的にはあと50年は生きて欲しいです。
finalventさんの使命的にはまだまだこれからなんじゃないとか思うし。勝手に。
50代で物わかりいいのってどうなんでしょう。そういうもの?
たまに実家帰ったついでに小布施の葛飾北斎美術館とか行くんですけれど、
晩年の絵とか心底かっこいいです迫力あって(享年90歳)。
その頃の号なんて「画狂老人卍」とか入ってて、人生を総括する気ゼロですよね。
描きたいものがあったんでしょうね。目の前にずっと。
あと好きな指揮者にアルベルト・ゼッダさんという方がいらっしゃるんですが。
ロッシーニを愛して止まない84歳のイタリア人。汗びっしょりで全身全霊のアツい指揮をするんですが、
オケも場もガラっと変わってしまうくらいみんなが引き込まれる(今年も9月に来日されますが聴きたい)。
この人も多分総括とか頭にない。ずっと目指すものがあるのかなあって思う。
そりゃ、50歳や60歳で静かに亡くなってしまう方も多いだろうけど、
むしろ長生きしてこれくらい鬱陶しいのも素敵だと思うんです。まあ鬱陶しいけど。
(世の中には鬱陶しい可愛いというジャンルがあります大丈夫。)
finalventさんにこれからもどんどん知が蓄積されて、バランス良く世界を眺められて、
納得したり呆れたり笑ったり絶望したり許したりして暮らされるのかもしれないけど、逆に偏っていくのもアリだと思う。
希望も絶望もいいけれど、どうか好きなことを。
それで30年後とかにTwitterで50代相手に脊髄反射で「死ねよクズ」とか言ってても、
きっと我々は画面の向こうで大喝采で愛するでしょうfinalventさんを。
それで死んじゃったらその後半の総括は、何なら我々が適当にしておきますし後で。
(多分)とかたくさん入ってるかもしれないですけど。脳が足りないのでそこはすみません。
なんか読んだままの勢いで書いてすみません。
感想は推敲したら面白くないだろうしとりあえずあげちゃえ(言い訳)。
素敵な本をありがとうございました。
これからもfinalventさんの体系をずっと楽しみにしています。
私ももう少しは勉強して生きていきます。
あと娘さんについて詳しく教えてください。
2012-02-16
■[人生][社会]「普通」の代償
普通に美味しい
などの表現が最上級、とはいかないまでも相当な賛辞を表すようになってわりと経った。
私も使う。
「普通に」つまり、
あなたもそう思うであろうとある程度確信できる程度には美味しいと私は思った、
という、自分の主観に世間の価値判断(と本人が感じているレベル)を取り入れた視点だ。
世間一般的に言ってこれは「おいしい」と判断されうるものでしたよ、あそこの店は
というより短く言えてよい。便利です。
まあ、かくも「普通」はレベルが高い。
だって、ざっと眺めて”美味しくない”って言っている人がいない店でしょ、「普通に美味しい」店って。
欠点がないんですよね。最低限。もちろん飛び抜けて美味しいわけでもないけれども!
平均点は当然クリアっていうね。
似てるようで全く関係ない話ですが、
最近我々世代やもっと若い人達が、「普通」の就職や、「普通」の結婚ができないことについて嘆かれている。
これはもちろん普通のハードルが高いからである。
親世代と暮らしていて勉強になるのは、本当に彼らの時代は、みんなで共通した「普通」のイメージを持っていたということだ。
みんな働き者で、世話好きで、一生懸命で、いい人。
普通に進学するために、苦手な科目も頑張ったね、スポーツも集団行動もこなしたね、青春時代を潰して勉強したね。大学に受かったね。
普通に就職するために、世間において有用である技術を身につけるために大学生活頑張ったね、より良く使われる為に資格も手にしたね、就職出来たね。
普通に結婚するために、恋愛も頑張ったし、お見合いも結構こなしたね。親戚に顔向けできる相手を選べたね。結婚できたね。
普通に子供をもつために、欲情する相手ではないけど、致したね。片方は仕事を辞めて、産んだね。ラッキーなことに五体満足だったね。一姫二太郎作ったね。
普通に生活するために、片方はプライベートもなく身を粉にして働いたね。もう片方は家事と育児と介護を全部やったね。
「普通」をコンプするコースは、だいたいそんな感じみたい。
まったくもって素晴らしいと思うんだけれど、
すごい、プライベートな時間潰してるなー、と正直思う。
「普通」、もしくは「人並み」。
手に入れたものには、ショバ代も、メンテ時間もかかる。そして、そこから派生するしがらみも(人付き合いって一番時間食うよね)。
自分が大好きだからではなく、自分が心底やりたかったからでもなく、ただ「普通」とされているから手に入れたそれらに、膨大な「自分」が侵食されていく。
そんなイメージ。
普通、それは多分、
高度経済成長期に、被雇用者として社会の肥やしとなるための人達に提示されたモデルなのだろうと思う。
つまり我々のほとんど。
しかし今は、未来が見えない今は、
世間の要求する「普通」にどこまで自分を明け渡すことができるのか。
そもそも世間は要求しているのか?上の世代が単に内面化した価値観を下に押し付けているだけではなくて?
彼らが我慢して「普通」に捧げてきた時間を、同じように要求しているだけではなくて?
そうまでして「普通」を獲得した見返りは、我々にはあるのか?
もちろん、「普通」であることのメリットも多い。
マジョリティーは選択肢が一番多いから。
保障も補償も保証も保険もあるね。
ただ、「普通」を手に入れたら、「普通」に自分は喰われていく。
それだけは確か。
そのバランス。どこまで自分にとって魅力的なのか?「普通」は。
このあたりが最近自問すること。
まあ結婚や子供は損得で考えるものじゃないよ(不謹慎だよ)!!
と言われてしまえばそれまでだけどねー。
いいじゃない考えたって。
先日ネットで見かけて、まあそんなもんだろうなとは思ったんだけど、
まあ例えばこの後悔が、「普通」の、代償。
であるとしたら、どう生きる?
どれくらい「普通」に、譲歩できる?
まあ、そうまでして惜しむほどの「自分」なり「自己」なり「人生」なりが無いかな、
と思うのもまた事実。早く肥やしになれよ私、みたいなね。
2011-06-22
■[社会][web&リアル]言わない人たち(意見と誤答2.0)
社会学的にどういう名前が付いているのか知らないのだけれど、
ある組織内の弱者と位置づけられる人たちが、体制側の論理を身につけて、または内面化して、自分を納得させることがある。
ひどい待遇で働いている非雇用者が、経営側から自分を見て、
コストを抑えるためには自分の時給換算の給料がこのへんに抑えられなければならないと納得している、とか
正社員の半分も生活の保証も手当もないバイトの人が、その人の生活を慮りもしないその組織の成果物の品質向上に邁進するとか
金を作り出す手段のない人が、そういう人を安く使って成り上がった成功者を礼賛したりとか。
本当は、「私は大変だ。虐げられている。搾取されている。寄越せ!」
と言っていいような人たちが、言わずに、体制側の理論を自分にインストールしてしまう。
これは一つには、クラスチェンジへの布石として行っているように見える。
資本主義社会において雇われである限り、ストをしようが組合を作ろうが自分の自由には限界がある。
そんなことより体制側の理論を学んでうまく立ち回り、
早くそちら側(つまり、システムの側)にクラスチェンジしよう、としている場合。
しかし、そうでもない場合もある。
単に、クレクレいうのが、恥ずかしいと思っている場合。
体制側にバカにされたくないと思っている場合。
自分がこれ以上を望むことは、身の程知らずであるに違いないと思っている場合。
世の中を知らないと思われたくないと思っている場合。
etc.
意見、というのは自分の視野や知識、及び経験、そして立場に左右される。
そして、一人の人が全ての意見と全ての立場を持つことは出来ない。
故に、誰の意見も少なからずポジショントークであり、偏っている。
そして、基本的に、世の中はそれでいい。
どんなに「観測範囲」を広げても、一人の人間が全ての見識を網羅することは出来ない。一つの分野ですら、一生かかっても不完全だ。
全ての見識を網羅してから、勉強してからなんて言っていたら、
一生かかって一言も発言出来ない。
一人で100識っている人を作れないかわりに、
偏った異なる意見を持つ人が100人集まる。
そしてその議論の妥協点を見つけ、論理的整合性を整理する人がもう100人。
そうやって、議論を重ね、世の中で物事が決まる。
個々人は自分の視野で、自分の立場で、自分の経験で自分の意見を訴える。
反論は他の人が出してくれる。
否定も他の人がしてくれる。
対案も他の人が提案してくれる。
だからこそ安心して、「今の」自分が思う全てを言う。
そして感謝して、反論や否定により意見を修正する。
ウェブによって、そういった仕組みがもっと整理されるはずだった。
と、私は思った。
しかし、今どちらかというと行われているのは、
100人の偏った意見の人達による冷静な議論などではなく、
誰が一番視野が広いか、誰が一番経験をしているか、誰が一番海外の例を知っているか、誰が一番数字を知っているか、誰が一番経済を知っているかetc.競争だ。
意見は議論されない。揉まれない。止揚されない。
最初から思慮深いものであることが求められる。
軽はずみに発言するとバカだと思われる。
自分で浅薄な発言と分かるものについてバカにする。
そしてみんな口をつぐむ。
議論は否定されない。
そのかわり、その人の人格が否定される。属性が否定される。立場が否定される。
お前は所詮視野が狭いからそのようなことが言えるのだ、と。
そう言われるのを恐れる人たちはいつしか、
一番の権力者(バカに出来る側)である、体制側の意見になる。
例えば放射能汚染について。
成人男性・子供を産む気のない成人女性と、将来可能性を考えている女性・妊婦・小さいお子さんを持つ男女だと
恐れる範囲が全く違う。
前者の人たちは社会的視野で余裕を持って眺める事ができるので、
冷静に効率を考えてパニックを引いて眺める。
後者の人たちは自分事であり、かけがえのないわが子の未来のことであるので、社会的にどうかではなく、自分の人生としてどうかと真剣に悩む。
体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。
例えば原発の是非。
主に経済系の人や企業に勤めている人たちは自分の置かれている経済情勢を鑑み、
昨年までの経済活動を継続し、日本から企業を撤退させないためにも、
すぐに停止することは考えられないと思う。
片や主婦であったり学生であったりする人たちは福島第一原発で起きた惨状を見て
ここ何十年かの繁栄の為にその先百年が犠牲になる可能性を恐れ、
まずは停止してどうにか代替案がないか模索していくべきだと思う。
体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。
そんな人達の周りで多くの人が口をつぐむ。
ひたすら情報を貯めこみ、視野を収集し、脳内で計算を続ける。
「何が正しいのか」
それが出るまで。
バカにされない意見が言えるようになるまで。
PLUTO (1) (ビッグコミックス)というマンガの中で、
アトムは一度、起きなくなってしまう。
機能は問題なく、あらゆる情報を持っているのに、目覚めない。
脳が無限のシミュレーション状態になり目覚めなくなってしまったのだ。
目覚めを決めたのは、
ある偏った感情の注入だった。
ウェブによって、人はより、偏っていていい存在になったと思う。
そして、より、好きなことだけしていていい存在になったと思う。
誰かが出来ないことは他の誰かが出来るということが、見える世界が始まった。
だけれどそうである世界は、自分のあり方も変えていかなければならない。
自分が淘汰される存在であること。自分が止揚される存在であること。
ある分野ではその体制の上の方にいたとしても、
他のあらゆる分野ではあらゆる否定を受ける側の人間であること。
それは存在の否定では全くないこと、むしろその分野の糧となっていくこと。
そうやって助け合い、教えあいながら生きて行けること。
私は最近のウェブが好きだ。
罵倒、デマ、不安、感謝。
震災によって、人の素が前より少し見えるようになった。
みんなが自分を少し、出すようになった。
人としての不完全さを恐れなくなった。
その芽を、バカにすることで摘んでしまわないように
存在を肯定し、意見を出すことをリスペクトし、
その上で、お互いに礼儀を持って、
議論を本気で戦わせることができたら、素敵だと思う。
2011-06-19
■[生活]決めない人たち(震災メモ)
最近、何も考えていない。
ここ2年くらい(実用書以外に)ほとんど本読んでないんですけど、
そうすると考える事もなくなるなあということがよくわかりました。
それでも生きていけるので悪くはないけどつまらないね。気をつけましょう。
考えることはないんだけどやることは多いのでそれなりに日々は過ぎていく。
震災について自分が何を考えて、、というか思っていたか、
10年後にブログ見ても何もわからないなあと思ってメモ(と偏ったクリップ)。
長いので読んでくれる人は斜め読みでお願いします。
3月11日の震災はさすがに私にも衝撃だった。
実は震災後1週間くらいは事態がよく分かってなくて、
日本社会の鬱陶しい習慣(定時出社フレックス退社とか)が
交通の麻痺でどんどん崩れていく様子にほっとしたり、
日本社会の思考停止の連鎖(上に相談しないと決断出来ないとか)で
仕事の、特に役所関係の人たちの判断の遅さに苛立ったりと、
非日常感に浮き足立っていた。
少し経って、現実に戻って一気に復興に注力するのかと思いきや
原発が爆発しておりそれどころではなく、
周辺住民の方には、被災者の救助が見捨てられて退避命令が出ていたり、
未曽有の大惨事とはこのことと思った。
妻と子供が行方不明の友人は津波の翌日、避難指示にもかかわらず、自宅に向かった。辺りはがれきの山。あちこちから「助けてー」という声が上がっていたが、一人ではどうすることもできず、そのまま帰るしかなかったという。
「原発事故がなかったら、もっと早く捜索してくれていたら、たくさんの人が助かっていたはず。それだけが本当に悔しい」。由佳さんが、頑固だった父に似て口下手な和司さんの思いを代弁した。放射線被曝(ひばく)への恐怖や風評被害…。「本当に悲しいことばかり。宮城や岩手は復興に向かって動いているようにも見える。でも、福島はどう頑張ればいいのか」
【放射能漏れ】原発間近 両親捜す家族「時間は止まったまま」+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
こういうニュースが辛かった。
「原発は(他の発電方法より)死人が少ない」という言い方をする人がいたけれど、
この避難命令によって救えなかった命は膨大だと思う。
私は帰宅難民になったり、家に物が散乱したくらいで被害がないので、
一番の被害といえば仕事関係で役所の人たちの判断しなさに振り回されたことだったんだけれど、
思えば、その経験がそれからの判断の基準になった。
「役所の人たちは、決められない」
ということだ。個人のせいではなくて、組織の体として。
西郷は、会計の世界で話題になっている「ルールベース」と「プリンシパルベース」を思い浮かべた。言うまでもなく、詳細に定められたルールに従ってさえいれば免責されるのが「ルールベース」だ。
原則に照らし合わせてその是非を判断するのが「プリンシパルベース」だ。この報告は、まさしくルールベースだった。しかも、第三者の監査も行われていない。もし「プリンシパルベース」を貫いていたとしたら、「人命に関わるリスク」について、さまざまな可能性が議論され、報告されたはずだ。だが、その報告書には難解で無機質な数字と「基準以下」との結論が書かれているだけで、最悪の事態の可能性について何も書かれていない。
第24話「難解で無機質な数字が書かれているあの報告書は何だったのか」:日経ビジネスオンライン
これはウェブサイト上の連載小説だけれど、ウェブ連載ならではというか、時事に沿いながら話が展開されている。
この西郷さんという人が、福島第1原子力発電所3号機の耐震安全性に関する報告書というのを読んでの感想。
ルールベースとプリンシパルベース、なるほどそうい言い方があるのかと思った。
要するに、規則に沿うのか原則に沿うのかということだ。
日本の役所の人たちは明らかに前者。
規則に沿って判断して人が死んでもそれは免責される。
しかし、規則や上司の許可なしに判断してもし事が起こったら(そして、たとえそれで人が救えた場合でも)糾弾される。
役所の人はいつも数人で会議にきて、ほとんどその場での決断をせずに帰る。個人で判断しないということが徹底されている。
規則を破ってでも人命に配慮することで彼らが得られるメリットはない。
都や県に訴えると国からの指示がないからという。
徹底して、上からでないと全く動かない。
しかも、上からの指示がわりと、「各自治体で判断しろ、責任は取らない」って感じですごい。
通知によると、1キロ当たり10万ベクレル超の汚泥は、発生した都県内で放射線を遮蔽できる施設内に保管。10万ベクレル以下8000ベクレル超の場合、住宅地などから一定の距離を置いた「管理型処分場」に仮置きできるとした。最終的な処分方法は今後検討する。8000ベクレル以下については、管理型処分場への埋め立てを認めるが防水などの対策を求め、跡地を住宅地とすることは制限する。汚泥の再利用は、原子炉等規制法で定められたコンクリート用の基準「100ベクレル以下」であれば可能。一方、園芸用の土などへの再利用は自粛する。
汚泥の扱いに基準…10万ベクレル超は遮蔽保管 : 福島原発 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
これとか、数値の基準決めただけで、じゃあどこに置くのよとかその費用はとか全く言っておらず「よきにはからえ」スペックが高い。
けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。
だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。
阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること - 中央公論.jp
上は、内田樹先生のご意見。
結局、一番の上の人である「国」も、決められない人たちの集まりなのかも知れない。
まあとにかく、いい悪いというのではなく、役所とはそういう組織なので、
そこに無駄に憤ってもしょうがないなと思った。
もちろん民主主義の手法としてデモ等があるけれども、
先進国ではまっとうな民主的行為として認められているらしいデモ、
日本だとどうも引いてしまう。
全共闘の人たちのイメージがある気がする。
すでに私は知らない世代だけど。
その下にしらけ世代というのがあったと聞く。
その名残の雰囲気というか。
本当はここで引いたら市民として負けなんだろうけどね。
そんなことより議員さんそそのかしたほうが早いみたいな何か。
ということで、一市民に出来るのはできるだけの自己防衛と
直接の助け合いだなと思った。
助け合いは、日本赤十字社等への大きな募金は届くまでに大変時間がかかるので
こういうプロジェクトに送るとかとか⇒「ふんばろう東日本支援プロジェクト」
※他にも、民間でソーシャルウェブネットワークの力を使って奮闘なさっている方々が沢山いる
自己防衛は、まず自分と家族の地震対策と、
内部被曝については、私はどうやら周りから見ると若干神経質らしいんだけれど、
まあ理由はいろいろある。
一つには、妊婦や幼児のお母さんの友達が多く、彼女とちびちゃんずの健康を願っていること。
一つには、これくらいなら大丈夫とか、これくらいならやばいとかいちいち判断するのがめんどくさいので、疑わしきものは食わずで行きたいこと。
癌にかかるリスクはよくタバコと比較されるけど、私はタバコは人生で一本も吸ったことがないのでそこで比較されてもよく分からない。
ジャンクフードは親世代の一生分は食べた気がするのでどのみち大した寿命ではないかもしれないけれど、
ジャンクフードと外食をこれからも心置きなく食べるために、
自炊には気を使いたいと思う。
そもそも低線量被曝にはデータがないそうなので、
我々が今後提出することになろうかとは思う。
学者が知っている知識のレベルを纏めると以下のようになります。
・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に悪影響を与えることを示す臨床データは存在しない。
・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に良い影響を与えることを示す臨床データであれば存在する
。・LNT 仮説はあくまでも仮説である。低線量体外被曝が健康に与える影響については、その影響が良いものか悪いものかですら、よく判っていない。
わからなさの問題(永田) | CSWブログ
で、一応、国の暫定基準値が決まって、お達しが出てると。
食品の放射性物質の暫定基準値はどうやって決まったか - 勝川俊雄 公式サイト
とかを拝見するとほんとお疲れ様ですという感じなんだけど、
一応じゃあ、それに従って出荷制限がされるのねと思う。
で、疑問に思うことは、日本にそんなに測定器あったっけ?ということ。
放射性物質はいろいろなマップを見る限り福島から関東平野までは
確実にいろいろ飛んできているけれど、そこは測れないなあと。
「ほとんどの農作物が検査を受けずに市場に出ている。まるで“底の抜けたザル”です」
原因は圧倒的な検査機器と専門スタッフの不足だ。
厚労省が検査への使用を薦めている「ゲルマニウム半導体核種分析装置」は冷戦時代、核の脅威に備え、当時の科学技術庁が各都道府県に購入を指導したが、とても現在の需要に追いつく台数ではないという。
1台約1500万円と高価にもかかわらず、震災後は平時の5倍以上の購入申し込みがあり、「納期まで少なくとも4カ月待ち」(販売代理店)という状況になっているのだ。
魚介類の放射能検査の中心的存在である「水産総合研究センター」(横浜市)には、事故後、自治体や漁協から検査依頼が殺到している。
担当者によれば、10キロ程度の魚(カツオなら3匹、イワシなら50〜100匹程度)の頭と内臓、骨を除去してミンチ状にし、筒状のタッパーにすき間なく詰めて、測定する。
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同センターは分析装置を6台保有しており、約10人の専門スタッフがフル稼働で検査にあたっているが、前処理を含め、一つの検査に3〜4時間かかるため、1日に4検査が限度だという。しかも、
「魚は足が速いため、検査結果が出る前に、同じ場所でとれた魚は消費市場に流れている」(漁協関係者)
じわじわ広がる土壌・海水汚染 食品安全検査は機材も人も足りずにお手上げ - 雑誌記事:@niftyニュース
あー、大体こんなもんだろうなあと思う。
基準値があったところで、測ってないものをどうやって足し算すれば。
それでも、いろいろなところでできるだけ測ろうと努力してるんだろうなと思う。
思いたいんだけど、役所の人の事が思い浮かぶと、
彼ら、何が嫌いって、極端な人たちからの電話の嵐で仕事にならない状態が嫌い。
県経済産業部は「消費者への連絡など最低限のことはやっている。HPで出すとかえって不安を広げかねない」と説明している。
asahi.com(朝日新聞社):放射性物質検出、静岡県が公表を制止 食品通販業者に - 社会
役所の人たちの「不安やパニックを与えかねない」というのは
不安を広げかねない=また電話が鳴りまくりかねない
ということなので、まあこれからもさっさと数値が発表されたりすることはないだろうなあという感じ。
(私も県庁に半年くらいいた事があるだけだけど、基本こんな感じじゃないだろうかどこも)
それどころか、測定を渋っていたりもする。
放射能を不安視する県内の生産農家などからは、4月上旬には検査を求める声が県に寄せられていた。にもかかわらず、県は「検査依頼は農協中央会を通じて一括して申請してほしい」との説明を繰り返した。
同中央会の正式要請は5月2日。県が検査を依頼する農林水産省の外部機関は各都道府県ごとに検査実施日を決めており、直近で5月10日(前日の9日採取)に決まった。県は対応が後手に回ったことについて、「5月上旬に出荷される認識はなかった」などと説明している。
足柄茶から放射性物質検出:県の対応後手に、4月に検査求める声/神奈川:ローカルニュース : ニュース : カナロコ -- 神奈川新聞社
こういう姿勢はやっと正されたらしい。
荒茶検査 苦渋の方針転換 県が実施へ 風評被害を懸念 : 神奈川 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
苦渋もなにも、なんで検査しない方針だったのか意味がわからないどまあいいや。
普通、測るのが間に合わない場合、
政府なら汚染の可能性がある地域の作物や魚を一律で出荷停止にし、
その分補償を即座に決めるべきだと思う。
だけどそれを生産者の人たちの自己責任にして、
かつ、測ってもいないものを食べないことを「風評被害」と名づけて
食べない消費者を牽制する。
私は、どうせ買うものを被災地域に近いものにすることでいいことした気分になるくらいなら、
それでも出荷制限になってしまった人たちを含め直接義援金を送ったほうがいいと思うけど、
もちろん買うことも自由だと思う。
なんかとにかく、政府が決めないせいで、
気にする派と気にしない派が無駄に争ったりしていてほんと無駄だなあと思う。
気にしない人は食べればいい。
気にすること自体で癌になる人だって世の中にはいるかもしれないんだから、
気にする人は気にする自由がある。
気にする人批判には、例え測ってなくても大した線量じゃないよ、というのはあると思う。
しかし、2ヶ月くらい経って「あの時たくさん飛んでましたー」とかいう発表がされる国なので、
あんまり安心して生きづらい。
あと、子供から一瞬たりとも目が離せない親御さんたちに
きちんといろんな一次文献あさって本当に危険かどうか考えてみましょう、
とかいう余裕はないと思う。
いいじゃん疑わしきは食わずで。
そんな婿の近況
ウチは規模が大きめなので、毎年、播種は4月5日、10日、15日と3回に分けてやっていたのですが、
今年は義母と議論して議論して議論して
作付を自粛することにしました。
理由は3つ
そもそもなぜ作付を議論する余地があるのかというと、4月23日、いわき北部は緊急時避難準備区域から外れ
30km圏内でも作付にGOサインがでました。
当時、作っても大丈夫なのか、土壌調査はしたのかと問い合わせた婿に対する農協や市のコメントは
「土壌調査はしてない(ウチの地域)けど大丈夫です。制限が解除されたので作ってください。」 でした。
(その時点で土壌調査されていたのは、あの広いいわき市でたった4か所)
作って、汚染されていたらどうなるのか、その買い取りに関しては責任を持ってくれるのかという問い合わせに対する返事は
「わかりません。あくまで自己責任で」 でした。
作らなかったら補償はどうなるか?と聞くと、対象になりませんという返事
要するに、
作んなかったら補償ナシな、だけど作っても俺たち知らねえから
でした。
どこの剛田さんとこの息子かと思いました。
農家に婿入りした男のブログZ|農家の婿のブログ
買うのは自由、食べるのも自由です
買う人、食べる人には素直にありがとうございますです。心の底から。
しかしながら
福島の作物を買うのが支援で良いことで
それを否定する人は神経質で良くないこと
そんな風潮、こんな風潮を作りだそうとしている人達
心の底から反吐が出ます。
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一番辛い思いをしているのはもちろん現場の人達だ。
自己負担で線量を測って自粛したりしている。
「決めない上の人達」
にみんな翻弄されている。
自分もだけれど、一個人として、一市民として、周りがどうするかじゃなくて、
自分としてどう判断するんだ、ということが今回一番問われたと思う。
我々の世代が言われつくされた「自己責任」とは若干違うニュアンスとして。
あとは、なんかあったっけ震災関連。
あ、原発の是非か。
放射線の被害についてもそうなんだけど、結構複雑な計算の連続だと思うんで、
何が是なのか私の情報量と頭では判断出来ない。
ただ一つ気になるのは、震災直後に(他の稼動している)原発を止めてという
訴えをしていたのは技術者(実際に作った人も含め)の人が多かった気がすること。
設計書があったとしても、細部は職人の腕次第で仕上げられていく建物だけれど、
「ちゃんと作ってないんだから」と訴えていた技術者の人もいた。
経済系の原発推進派の人たちに言わせると、反対を唱えるのは無職か主婦か老人が多いそうで、
経済に与える打撃について計算出来ない人は不安定な自然エネルギーをすぐ主張する
とのこと。
経済効率を維持するには原発がいるのかなあと思わないでもない。
しかし、推進派の人たちも、活断層の上にあったり、ちゃんと作ってなかったりする原発は
嫌なんじゃないかなあ。何かあった時のコストが経済効率どころじゃないし。
まずは、一基一基、こんどこそ「想定外」のできるだけないように点検すること、
技術を見直し、シミュレーションし、リスクを計算すること。
そしてそれでも万が一のことが起きてしまったときの住民避難の段取りと補償の枠組みを
明文化して予算も見積もること、
んでそれを世界にも示すこと。
とかやった後じゃないと議論にならない気が。
いろいろ勉強していかないといけないすね。生きるには。
自分も多くの場面において「決めない人」だったなと反省している。
2011-02-20
■[生活][ぼやき][社会]とある世代の家事事情
私たちの世代の結婚は、男女雇用機会均等的な理由のみならず単に不況によって
共働きが普通だけれども(職があれば)、
まあ、男女雇用機会均等法と一緒に男女家事機会均等法が施行されなかったせいで
こと家の事に関してはまことにボンクラリティの高い旦那さんというのが
わりといて、そういう旦那さんと結婚した奥さんたちの
愚痴というのを耳にする機会が増えた。
家の中のことくらい、自分と同じように気づいて、自分で動いてほしいのよね。
お互い働いてるんだし、どうせ旦那さんも仕事ならそれが出来てるんだろうし。
何かを、家または社会に教育されなかったコストは基本自分で払うしかないけど、
その必要性を本人が感じる機能すら装備されていない場合もあり、
そういう時は奥さんのコストになる。
このへんは別に新しい問題ではなく、
めんどくさくて結局奥さんが全部やってしまう場合が多かったのが昔だけど、
核家族極まる現代、そうは言っても一人ひとり仕事も家事も両方できないと
どちらかが長い間病気なり怪我なりしたとききつい。
少し前の終身雇用夫+専業主婦の人たちが私たちの世代に残した負債はわりと大きく、
一つ、子供(特に息子)を家のことはなにもしないお父さんと同じようなぼんくらに育てたこと、
二つ、そういうお父さんを残してお母さんが先に死ぬリスクがあることについて無頓着なこと(というか子供たちがそれをフォローするのが当然だと思っている)。
もちろん、この二つを全員が持っているわけでもなく、
まったく心配ない家庭もあれば、
この二つを両方貰ってしまった奥さんもいる。
遺産なんていらないからこの負債を解消して、と思ってる人も多いだろう。
家のことをなにもしないのは、男尊女卑とかじゃなくて、
単に、要請されたことがないので気づかないだけなのが多いのが、
我々の世代のそういう旦那さんの特徴。
何々の作業やって、と明示的に頼まれるとその作業パッケージについては一生懸命やる。いい子。
ただし、その都度言わないといけない。
洗濯物なり、片付けなり、ご飯の準備なり、頭の中で常に段取りが動いていて、
「気づいて」やるのが当然の人からみると
大変にまどろっこしくて歯がゆいのだけど、
気づかないものはしょうがない。
突然奥さんにキレられても、本人だって、言ってよ!とかなる。
このへんは根気よく二人で話し合ったりルール決めたりして
やっていかないとダメなんじゃないかなあ、なんて話するんだけど、
彼女たち、職もあり家事も出来、ひとりでも生きて行けるわけで、
そんな苦労して話しあったり伝わらないのを頑張って伝えなくちゃいけないなら
別に結婚してなくてもいいなあ。
と結構あっさり考えがちであり、おおーーい愛情はどこ行ったーー
と一生懸命止めてみたり、周囲も大変である。
しかも相談される私というのがまた、
うちは夫のほうが家事スペックが高く、私がぼんくらなので、
いやあ私に言われましてもすみません...みたいな...
あ、いや私なら旦那さん側の気持ちがわかると思って相談されるのか...そうか...
うーむ。
ところでニートといえば、仕事させろよというプレッシャーになるのが当然の
昨今ですが、
そういうプレッシャーをかける親御さんも炊事洗濯はしてあげてる、
みたいな場合もあり、
仕事はいいから家事できるようになればそれはそれで大変素敵なのに
そっちにはいかないのかなあ、などと。
どうせ職のない世の中、自給自足スペック上げるのはわるいことじゃない。
職は見つけなきゃないけど、家事は生きてる限り存在するし、尊い仕事です。
経済活動に関わって出てきたもの(=値札がついたもの)だけが価値じゃないってことは、
昔の人のほうがもしかしたら知ってたかも知れませんね。












