アル・カーイダと西欧 / ジョン・グレイ

イスラム過激派や西欧文明について語られた本の中でもっとも面白い。グレイは「アル・カーイダを中世への先祖返りだとする主張ほど仰天させられるものもない」*1 と言ってみせる。話は逆で、アル・カーイダはまったく近代的なのだ。では近代(モダン)とはなんだろうか。西欧社会に住む人はこう思っている。「近代化が進めば社会はますます似通い、しかもより良い社会になっていく。近代的であるとは、われわれの価値観を理解することであり、その価値観とは――われわれが好んでそう思いたがるように――啓蒙思想の価値観にほからならない。」*2
つまり普遍的な状況が存在し、そこまで進んでいるか遅れているかで文明を順序づける信仰が、近代性なのだ。そして近代的な人間は「遅れた人」を改造できると信じている。「遅れた社会」を廃棄し、「進んだ社会」を設計することで争いのないユートピアが実現すると信じている。この意味で、アル・カーイダはまったく近代的なのだ。たしかに66億人全員がコーランを信じ込めば世界は平和になるだろう。「アル・カーイダが夢見る新しい世界が実現すれば、そこでは権力も闘争も消滅するという。だがそんなものは革命の幻想が生み出す絵空事であり、現実に可能な近代社会の姿などではありえない。だがその点でもアル・カーイダが夢想する世界は、マルクスバクーニンレーニン毛沢東、そしてつい先ごろ歴史の終わりを宣言したネオ・リベラルの福音伝道師たちが抱いた途方もない幻想と少しも違わない。アル・カーイダも、こうした近代西欧の諸運動がたどった運命の後を追い、いつの世にも変わることのない人間の欲求に座礁して果てるだろう。」*3
グレイの批判を受け入れると、もはや私たちにできることなどほとんどないかのように思われる。何かを変えようとか良くしようといった願いは、結局、個人的な信仰を相手に押し付けるだけに終わる。そして出来上がるのは洗脳であり抑圧であり粛清でありテロなのだ。地獄への道は善意で舗装されている
そこでグレイは何も押し付けることなく、互いに異なるもの同士ゆるやかに共存すべきだと説く。近代ではなく、中世のような多元的な世界にこそ学ぶべきだという。私も基本的には賛成なのだが、もっとできることもあるんじゃないかと思う。たとえばエマニュエル・トッド「文明の接近」は、識字率の向上によって文明は似たような変化をとげてきたと統計データから主張する。トッドによれば実際に「近代」は確固としてあるのだ。先進国が途上国に教育のインフラを設計してあげることは、まったくもって「近代的」なことであるが、それでも必要なのではないだろうか。
そしてグレイの科学技術に対する批判はあまりにも悲観的すぎるようにも思う。

科学は人類の手にみずからの運命を握らせるだろう、というのが近代の神話だ。だが「人類」という概念そのものが神話、埃にまみれた信仰の残りかすだ。現実には、増大する科学知識を使い、互いに衝突し合う目標に向かって進む人間がいるだけなのだ。*4

たしかに911も情報技術の進歩によって個人が社会にダメージを与えるのが簡単になったから起こったともいえる。P・W・シンガー「戦争請負会社」によれば民間軍事会社が台頭し、国際社会が不安定化してきたのももともとは軍事技術の進歩が遠因である。グレイの意見は真摯に受け止めなければいけない。それでもなお私は、科学は人類の手にみずからの運命を握らせるだろうと信じている。レイ・カーツワイル「ポスト・ヒューマン誕生」ミチオ・カク「パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ」を読んで、テクノロジーが社会のあり方を根本的に変えうると信じている。そうでも信じないとやってらんないではないか。

*1:本書11p

*2:本書11p

*3:本書14p

*4:本書15p