未だ下剋上である!

宮下英樹センゴク天正記」の有名なシーン。上杉の参戦で再び窮地に立った織田信長が、未だ建築中の安土城の前で臣下から人夫、民までを集めて演説するのだが、その内容が非常に「わかりやすい」。どういう意味で「わかりやすい」かといいますと、世のホシュだネトウヨだロンパロンパだ言ってる人たちがどんな物語に酔っぱらっているか、という点で。
全文を挙げよう。

此度、わが政策の失敗につき、件の如く、不識庵(注:上杉謙信のこと)の謀反。天下静謐の道は再び遠きものとなり、むしろ、我らが国の存亡すら危うき事態。完成しつつあった天守がいままさに崩れんとしておる。汝らに問う。瓦解を恐れひたすらこれにしがみつく者、或いはなにもせず瓦解を見送る者、そやつらの進むべき道は、後ろ。咎めはせぬ。ここを去れ。瓦解を恐れるより先に未知なる夢を欲し、度重なる失敗に心折れかけてもそれでも猶挽回を期す者、共に進まん。越賀一和かく語る。上下なく富を分かち民を安んぜるが「義」と。これぞ偽りの義。互いに寄りかからせ傷を舐め合わせ、自ら立つことを忘れし民を支配することは「偽」に他ならぬ。我ここに掲げん。未だ下剋上である。下士百姓は将士土豪にとってかわるべし。将士土豪はこの信長の座をも狙うが良い。我らのあくなき生への闘争こそが未知なる天守を完成させよう。これより戦う敵は多し。雑賀、毛利、本願寺。だがいずれと争うとてゆめゆめ忘る勿れ。真の敵は偽の仁不識庵。その武威は我らを遥かに陵駕しよう。だが、我らはいずれ敵に追いつきそして追い越す。なぜならそれこそが下剋上の本質であるからだ。前進せし者だけが成し得ぬことを成し得るからだ。誅すべし偽の仁、誅すべし上杉

説明するまでもなかろう。この「民を安んじる/互いに寄りかからせ傷を舐め合わせ」の様をサヨク的と断じ、安倍らのやっていることを「前に進む」ことだと錯覚している人たちが少なからずいる。
念のためあらかじめ書いておくが、私はこの漫画が大好きである。話が進み、あれほどの人間味を放っていた秀吉がおかしくなって行ったり、いよいよ仙石が九州で大敗するのが近づくのを思うとつづきを読むのが辛くなるくらいの思い入れがある。つーか、この種の物語を「好き」と言うだけで離れて行く「リベラル?」な層がいるのを知っているが、そんなこと知ったこっちゃないくらい好きだ。だけに、ネトウヨ周辺の「わかりやすい」自己投影には常々苦々しく思っている。ああいう手合いをお花畑から連れ戻すにはどういう言葉をかければいいのか。
ひとことで言えば「おまえ(ら)が言うな」だよね。生きて明日を迎えるってことさえ大変なところからのし上がったわけでもない。明治大正の頃から続く財閥の流れにひたすらしがみついて来たカネモチ連中や、二世三世のネトウヨ政治家どもに「あくなき生への闘争」とか言われてもさっぱりだ。それに「生きて、前進している」人ってのはあたりまえのように知ってるもんだよ。周囲との繋がり、他者への尊重があって初めてこちらが活かされることを。今自分の持っている「力」「ものの見方」「立場」のどれだけが有象無象の他者からもらったものなのか。なにもかも自力なんて人はどこにもいないってことを知っているもんだよ。
あと、「この信長の座をも狙うがよい」と言える人っておらんね。「この人みたいになりたい」と思われる人間であろうとする人が上流におらんのよ。竹中平蔵の「足を引っ張るな」とか大層な自意識過剰で、あんたらみたいになりたいなんて屁とも思っちゃいない。むしろああなっちゃおしまいだと思っている。どうも「てめえがどれほどのもんか」というところで完全に勘違いしてしまっている人が溢れている。
「生きて」「前に進みたい」なら、まずテメエを知れよと言いたい。そこを間違うから、見るもの聞くものなにもかもがボタンの掛け違いのようにズレて行く。