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2018-06-03 アイヌ学入門

アイヌ学入門

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アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

 kindleで読了。

 縄文文化からアイヌ文化までつながっているものだったり、アイヌ文化にみられる異文化の影響のことなどが書かれている。『しかし日本文化朝鮮半島中国の影響を大きく受けてきたように、そもそも文化とは交流の中で形成され、変容するものであり、文化的なオリジナリティとは、その混淆と変容の仕方のなかにも見出されるべきものなのです。』(N358)

 ○縄文日本列島の民と言語。

 アイヌ縄文人の関係。2012年に国立遺伝学研究所などの研究チームの大規模な遺伝子解析の結果によれば『縄文時代にはアイヌと同じ特徴をもつ「人種の孤島」ともいうべき人びとが日本列島を覆っており、そこへ弥生時代になると寒冷地適応した北方モンゴロイド集団が入り込み、縄文人と混血して本州・四国・九州へ拡散する中で、現代の本土日本人につながる遺伝子的な特徴が形成された、ということのようです。』(N386)

 そして『アイヌ縄文語の伝統をアイヌ語として受け継いできたとみられます。』(N399)

 『一方、琉球列島については、近年の考古学の成果によれば、九〜一一世紀前半ごろ奄美大島に隣接する喜界島へ古代日本文化をになった集団が本土から渡来し、城久遺跡群とよばれる大規模な集落を形成しました。その後一一世紀後半〜一二世紀には喜界島から琉球列島へ集団移住が展開し、南島人はこの移民の影響を強く受けたと考えられています(安里二〇一三)。

 琉球語は日本語と同系関係にある言語とされているので、琉球列島の縄文人の末裔にはアイヌに比べて和人の影響がより強く及んだようです。』(N404)

 『近年の考古学の成果によれば、縄文時代琉球列島に中国台湾の影響はおよんでおらず、また九州の縄文文化朝鮮半島の影響、北海道縄文文化サハリンカムチャッカの影響はほとんどおよんでいないことがあきらかになっています。この事実は縄文文化の孤立的な性格を示しています。

 このことを証するように、縄文人遺伝子配列のハブログループ(これについてはあとでのべます)はいちじるしく多様性が少なく、比較的長期にわたって周辺集団から孤立していた可能性が指摘されています(篠田ほか二〇一〇)。』(N404)こういう話を読むと、縄文人が何でそんなに外との交流少なかったのか気になってくる。

 ○縄文以後

 続縄文時代北海道縄文人の末裔たちはサハリン南部や北千島に進出するが、4世紀以後サハリンのオホーツク文化人が北海道へ南下してきて、アイヌ北海道の南半で暮らすようになる。

 そして気候の寒冷化で稲作が困難になって人口希薄地になった東北北部に進出。古墳社会の人びとと混住し、交易する。その後古墳社会の人々の北上するのにともなって交易拠点も北上する。『七世紀後葉になると、アイヌと交易していた東北北部太平洋沿岸の人びとが北海道の南半へ移住し、札幌市江別市恵庭市千歳市など石狩低地帯を中心に集落をかまえます。(中略)この本州からの移民は農耕民であり、アイヌはその農耕文化を取りいれ、活発に農耕をおこなうようになります。移民はまた古代日本語を話し、古代日本の祭祀の文化をもつ人びとであり、アイヌの宗教と儀礼に影響をおよぼした。ちなみにこの移民たちは、東北北部では「エミシ」とよばれていた人びとでした。』(N521)

 この7世紀後半から9世紀にかけて北海道に移住してきた人々は王権側からはエミシとよばれていたが実際は古代日本語を話し、古代日本の宗教を持つ人々であり農耕民だった。その移民の文化を受容して古代アイヌの文化「擦文文化」が成立する。移民は9世紀以降途絶えてやがてアイヌと同化した。

 9世紀後半以降、それまで北海道南半に暮らしていたアイヌは全道に進出する。『アイヌの「民族移動」の動きはこれにとどまることなく、一一世紀前後にはサハリン南部西岸、一一世紀末以降は釧路市など道東太平洋沿岸と南千島へ進出します。さらに一五世紀にはウルップ以北の北千島カムチャッカ南端へと次々進出していきました。』(N560)日本との交易が活発化して、その需要のある産物を手に入れるための拡大。

 10世紀以降本州との交易品となる毛皮や干鮭、高価な矢羽として珍重されたオオワシの尾羽根などの生産に特化するようになった。『その結果、集落は特定の地域に集中し、周囲には広大な無住の地が広がりました。しかしそれ以前には、サケが遡上しない川筋などのいたるところに集落が設けられていました。』(N254)

 ○アイヌのクマ祭り(イオマンテ)と縄文のイノシシ祭り

 アイヌのクマ祭り(イオマンテ)は、子グマを生け捕りにして集落で一年から数年飼養したのちに神の国へ送り返す祭り。

 縄文時代にはイオマンテと同じモティーフをもつ祭りであるイノシシ祭りがあった。

 『北海道では、縄文時代を通じて全道の遺跡でイノシシの骨が出土します。(中略)このイノシシは歯や骨の分析から北海道で一定期間飼養されていたこと、殺したイノシシの骨は火にかけるなどの祭儀に使われていたこと、またDNA分析から東北北部産のイノシシであることが明らかになっています。』(N911)わざわざ祭りののためにイノシシを本州から移入していた。

 『北海道縄文人は本州からイノシシを移入し、本州で行われていたのと同じ祭りをおこなっていた、したがってイノシシ祭りとは、日本列島縄文人が生態系の差異を越えて共有すべき、いわば縄文アイデンティティといえるものであったのです。

 北海道と同じくイノシシが生息しない伊豆諸島でも、わざわざ本土から生きた子イノシシを手に入れて、同じ祭りをおこなっていました。縄文社会におけるイノシシ祭りは、私たちが想像する以上に大きな意味と普遍性をもつものだったようなのです。』(N922)弥生時代になると本州ではイノシシ祭りは絶えたが、北海道では主役をイノシシからクマに変えてイオマンテになったではないか。

 ○イレズミ

 考古学者設楽博己氏は刺青を表現したとされる古墳時代埴輪の顔の装飾と縄文時代土偶の顔の装飾を分析した。『その結果、各時代の顔の装飾表現は連続しながら変化しており、最終的に埴輪の顔に描かれたイレズミ表現にたどりつくことが明らかになりました。つまり、縄文時代にイレズミのおこなわれていたことが考古学に立証されたのです。

 設楽によれば、縄文時代には男女ともにイレズミをしていました。しかし弥生時代には、魔除けとして男だけがするものになります。さらに古墳時代には非農民や非支配層の男だけがするものへと変化しました(設楽二〇〇八)

 北海道でも、縄文時代には男女ともイレズミをおこなっていたとみられます。しかしその後、基本的には女だけがするものへと変化しながら、近世まで受け継がれてきたようです。』(N1017)

 ○アイヌの呪術にみえる日本の陰陽道修験道の影響

 『アイヌの呪術に、日本の陰陽道修験道の影響、あるいはそれに起源をもつ日本の民間信仰の影響がうかがえる(中略)過去の研究でこのような事実が指摘されたことは恐らく一度もありません。しかし私は、これらの呪術が強いケガレの観念と結びついており、そのようなケガレ観自体、アイヌが日本から受容した思想ではないかと考えています。』(N1741)

 例えばアイヌがケガレ祓い・悪魔祓いに行っていた行進呪術と陰陽術の行進呪術である反閇には類似性がある。

 『九世紀後葉になると、東北北部には多数の陰陽師修験者が入り込みました。(中略)一〇世紀以降、北海道でも修験道に関連する遺物が出土していることから、東北北部に入りこんだ修験道者が北海道へ渡った可能性を指摘しています。

 この九世紀後葉以降、北海道と東北北部の交易は活発化します。交易のため東北北部へ訪れる多数のアイヌが、これら陰陽師修験道者の行っていた呪術を目にしたことも考えられそうです。』(N1966)

2018-05-28 ログ・ホライズン 11

ログ・ホライズン 11

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 久しぶりの新刊。

 ネタバレあり。

 特殊なバッドステータスを喰らったクラスティは中国サーバーにある狼君山の上にある白桃廟という場所に滞在していた。彼は魂冥呪という特殊なバッドステータスによってHPの回復やサーバーを越境しての移動が不可能になり、記憶の一部を失っていた。

 一方でカナミ一行はというとより安全に移動するために大地人から情報収集をしていたり、カナミがトラブルなど色んなことに関わっていたこともあってスローペースな旅となっている。

 エリアスは強くなりたいと思っているので、相手のHPを25パーセント以下に減らせないという自分に備わっている制限を呪わしく思う。そんな時に葉蓮仙女がエリアスを訪ねてくる。彼女は魔人(クラスティ)が白桃廟を制圧し、その魔人が周辺の町や村を脅かしていると誣告して魔人征伐を頼んでくる。

 そしてエリアスたちはその場所へ行くことになる。しかし白桃廟のある山につくと山頂の白桃廟へ行くためのダンジョンには一定の範囲内のレベルのパーティーでないと入れないという制限があって、100レベルのエリアスはレベルが高すぎて入れなかった。そのためエリアスを除くメンバーでダンジョンに入ることになる。

 一人で留守居役を任されることになったエリアスは葉蓮仙女に言われて、ダンジョンを通らずにそのまま登山するという方法で頂上を目指す。

 一方クラスティは記憶の欠損に対処するために一度人里に下りようとするが、ダンジョンに入る正攻法では下りれないのでそのまま山肌を下って山を下りることで街に行こうとしていた。その途中で彼は従者の花貂をからかっていたら、その姿を見てエリアスがクラスティを魔人だと思って襲いかかって来て戦闘になる。クラスティはエリアスが襲いかかってきたことを何かの誤解だろうと気づきつつも、それも面白いとそのまま彼と戦闘を続ける。しかし、その戦いに地盤が耐えきれず二人ともダンジョンの中にばらばらに落下。そこでクラスティはカナミと遭遇する。両人にとって中国サーバーで邂逅するなんてすごい偶然のはずなのに互いにあまり驚いた様子がないのはこの二人らしい。

 しかし鴻池晴秋(クラスティ)の家庭事情を見ていくと彼とレイネシアやエリアスには案外共通点があるなと気づく。互いに良い生まれだが同時に制限された立場という意味で共通している点があるということに気づく。その三人の違いなんかも面白い。

 葉蓮仙女と彼女に精神を混濁させられたエリアスと鵺を相手にカナミやクラスティらは戦うことになる。レオナルドはエリアスとタイマンをはる。そこでレオナルドが彼の知る英雄エリアスのことを話して、その言葉を受けてエリアスはそれまで抱いていた苛立ちから解放された。

 そしてクラスティは記憶を捧げてMPを回復しや技の再使用規制時間を短縮するという秘儀を活用し、自身にかかっていたバッドステータス<魂冥呪>の記述を一部加筆して奪われていた記憶を取り戻す。そして典災である葉蓮仙女を打ち倒す。

 その後、カナミ一行やクラスティが合流して放送局(電視台)でシロエと会話。クラスティには、まだ『サーバー境界を越えることを禁じる呪いがあるせいだけではなく、楽しい課題(てき)が見つかった今、それを片付けずにアキバへ帰ることなどもったいないというのも事実だ。

 記憶は取り戻したが西王母(ブカフィ)にはこの呪いを押し付けられたという貸しもある。折角招待状をもらったのだ、パーティーに参加させてもらわなければ嘘だろう。(中略)迎えが来るのが早いか、それともクラスティが<封禅の儀>の謎を解いて西王母のもとへ殴りこむのが早いか、競争ということになるだろう。(中略)ゆっくりと骨休めしたせいか、ずいぶんと騒がしく楽しい時間がめぐってきたようだ。』(P322-3)ということはカナミ一行には加わらないのか。それは少し残念。しかしクラスティは呪いはいまだに解けてはいないけど、その呪いを押し付けた敵を倒すという目標ができて楽しそうだ。

2018-05-21 室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

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室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

 この本は歴代将軍について書かれているほかに『将軍の兄弟のうち、将軍に就任する可能性のあった者、または将軍(室町幕府)を補佐する立場にあった者をコラムとして取り上げ』(P3)ている。

 ○太平記幕府

 『近年、『太平記』は、その成立に室町幕府が大きく関与していたことが指摘され、いわば室町幕府の準正史、「室町幕府創世記」としての性格をもつことが明らかにされている。』(P11)南朝びいきという話を目にしたことがあったのでとても意外だった。

 「太平記」での尊氏に関する記述には『作者の情報収集力の限界という問題もあるものの、おおむね室町幕府創業者としての尊氏を美化しようとする姿勢が明らかであり、やはりこの書物の誕生の背景に、種々の政治的な力が働いていたことを十分に想像させる。』(P22)そのため若年から尊氏と行動を共にし、後に敵対した弟の足利直義尊氏の事績のマイナス面を背負うことになった。

 ○足利義詮 結果的に執政する将軍となった二代将軍

 将軍権力の二元性。源頼朝以来将軍は御家人に対する私的・個別的な「主従的支配権」と、支配地に対する公的・領域的な統治権的支配権をあわせもつ。そして初期室町幕府では足利尊氏が主従的支配権を、弟の足利直義統治権的支配権を持っていた。

 2代将軍の足利義詮は「執政する将軍」だったが、『実のところ、「執政する将軍」は当時いまだ異例で自明のことではなかった。将軍の不執政は百年以上も慣習化しており、足利新政権の施政方針として建武三年(一三三六)に制定された『建武式目』でも、「近くは(北条)義時・泰時父子の行状を持って、近代の師匠となす」とうたわれたように、頼朝のような将軍独裁への回帰は想定されていなかった。』(P45)初期室町幕府は後期鎌倉幕府をモデルに制度を整えた。『つまり、不執政の伝統を約百年ぶりに打ち破った義詮の将軍親裁は、室町幕府にとって、当初の路線から逸脱する想定外の出来事であり、将軍の「中身」を大きく変える転換点となった。』(P45)当時から見れば、足利尊氏・直義兄弟の役割分担も特別変わったものではなかった。そして二代将軍足利義詮が執政する将軍となったことのほうが想定外のこと。

 義詮の親政について、今までは二元性の統合過程、将軍権力の確立を説く傾向があった。しかし実際は『義詮は「二元性」統合のために自発的に親裁権を拡大させたわけではなく、戦乱の激化で引付方が機能麻痺に陥ったことにともない、やむなく裁判の陣頭指揮をとらざるをえなくなったのだ。

 同様の事は、直義の管轄下にあったほかの機関にもあてはまる。』(P60-1)初期室町幕府機構の崩壊に緊急対応した結果として将軍が執政することになった。それが『結果として次の義満期につながる前提となり、室町時代の基本構造を準備することになったのである。』(P72)

 ○足利義満 室町幕府の権力確立のための朝廷寺社復興朝廷復興寺社復興のための公家寺社支配

 3代将軍足利義満儀礼をこなすのに必要な公家社会のしきたりや所作を関白二条良基から教えられた。二条良基は朝儀の復興に情熱を注いでおり、義満を朝廷に取り込むことで朝儀の復興を果たそうとした。

 従来の見方では、義満の公家社会参入は野心から朝廷を牛耳ろうとしたという風に見られる。しかし『義満の行動には、「公事には原則に基づき厳正に執行すべきである」という基準が一貫してうかがえるのだ。』(P92)真面目な公家であった足利義満

 義満の行動は朝儀を真面目に行うことで、北朝天皇家(後光厳流)と朝廷の権威を回復させることを狙ったもの。『「正平一統」を経て幕府が強引に擁立した後光厳天皇は、三種の神器践祚を認める上皇も不在という異例の状況下で即位した。南朝との対抗上、正当性に疑問符がつく天皇を支えるために、朝廷は通常以上に「朝廷らしく」あることが求められた。』(P93)そのため北朝幕府が支えるという関係は変わっていない。『義満の特徴は、それまでの間接的な関与のあり方から、自ら公家社会に参入し、天皇家朝廷に直接関与する方針へ転換したところにある。』(P95-6)

 寺社勢力の強訴は『その訴えがたとえ理不尽な内容で、また武力を伴ったとしても、これに反撃したり門前払いをするなど以ての外である、むしろ可能な限り「宥める」(受け入れる)のが中世社会の「常識」だった』(P81-2)。義満が政務を開始する前に、幕府を主導した細川頼之は強訴拒否したことで窮地に陥った。

 しかし義満の時代に強訴が止む。『しかも、それは一時的現象ではなく、数百年にわたって繰り返された神輿・神木の入洛自体がここで終止符を打ったのである。』(P97)

 義満は徹底的に強訴を禁じながら、寺社勢力の反発を受けなかった。そんなことが可能になった要因に3つの方針がある。1つ目は幕府寺社との間の直接交渉ルートの確立。それまでは強訴は実質的には幕府への要求でも朝廷への要求という体でなされていたがそれを改めて、そのルートを通さなければ処罰の対象とした。2つ目は内部拠点の構築。幕府は有力な衆徒を補任して、その権利を保障することで寺社内の有力者を取り込んだ。3つ目は仏神事の復興。主要な神事・仏事が資金不足や内紛で満足にできなかったのを、再興を命じたり自ら参加することで興行を図った。

 『このように、義満の寺社勢力への対応についても、それまでの間接的関与から直接的関与への転換という特徴が見て取れる。その内実は、義満の寺社「支配」にほかならないが、それはあくまで手段である。(中略)<総体としての寺社復興>にその目的があった。これは、義満の公家社会参入が<総体としての朝廷復興>を目的としたことに通じるといえよう。』(P99)

 寺社朝廷復興させることで室町幕府の権力も確立した。それと同時に武家棟梁公家寺社を支配する立場を兼ねる「室町殿」と呼ばれる政治的地位が成立し継承されていくことになる。

 『彼の行動が結果的に生み出した「室町殿」という権力のカタチは、機能不全に陥っていた朝廷寺社を再編しつつ丸抱えしたものであり、その意味で義満は中世社会の枠組みを「延命」させた人物ともいえる。そこに皇位への「野心」なるものが入り込む余地はなく、むしろ安定した皇位継承こそ彼が求めていたものであった。』(P103)

 ○足利義尚 将軍のあり方を変化させることで権威を再建しようとした

 9代将軍足利義尚。彼が任右近衛大将拝賀という右近衛大将に就任したことを周知する儀式をしたときのことが書かれているが、当時の将軍家の金詰まりでその儀式をするのにも困っていたり、守護大名たちが言うことを聞かなくなっている様子がうかがえる。そのため先例通りの十分な儀式にすることはできなかった。

 室町幕府は守護が在京すること前提の政治体制だったが、応仁の乱を契機に守護たちは領国に下向した。応仁の乱まで守護たちが在京したのは『将軍権威によって在地への影響力を確保する必要があったからである。多くが鎌倉時代には東国に拠点を置いていた畿内近国の守護たちは、在地での実質的支配力が十分でな』(P254)かった。その必要性によって所領も軍事も突出していない足利将軍家武家棟梁として君臨していた。しかし守護たちが所領支配を深化させていったことで、その権威の必要性が薄れる。そして応仁の乱後の足利義尚が任右近衛大将拝賀を行おうとした時代は、もはや将軍の儀礼守護大名たちが協力しない時代となっていた。

 『義満から義政までの将軍は、軍勢を率いることではなく、儀礼を繰り返すことによって将軍としての地位を確認し、守護大名たちもそれに協力することで体制が維持された。しかし、義尚が生きた現実はもはや将軍の儀礼守護大名たちが協力しない時代となっていた。儀礼を繰り返すことで武家の長たる地位が確認されるメカニズムは、もはや過去の産物となっていた。

 そこで、義尚が立ち返ろうとしたのが、実際に戦場に赴いていた時代の将軍、尊氏であった。室町期的な将軍像の破綻を目の当たりにした義尚が、南北朝期的な将軍像を復活させることで将軍権威を再建しようとした、それが近江出陣の本質だったのではないだろうか。』(P257)

2018-05-19 ゴブリンスレイヤー 7

ゴブリンスレイヤー 7

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 ネタバレあり。

 今回ゴブリンスレイヤー達は、妖精弓手姉の結婚式があるということでパーティーのメンバー、そして牛飼娘と受付嬢といつものメンバーがそろってでエルフの森に行くことになる。

 ゴブリンスレイヤーたちがエルフが暮らす森へ行くために筏で渓谷に流れる川を上っていた時にゴブリンの襲撃を受ける。崖上と高所から攻撃を受ける。不利な状況ではあったが敵の頭数を着実に減らしていき、敵は逃げかえらせた。しかしゴブリンが崖の上にいたので追撃することはできなかった。

 妖精弓手が語る姉婿となる従兄弟の話で、『ねえ様に贈り物をするからと引っ張り回され、鹿を仕留めようとして失敗したこと。』(P116)とあるけど、エルフって肉食べないのに鹿を仕留めて何に使うのかちょっと気になる。

 一行はエルフの街に行く前に森で一晩を明かす。そして翌日の早朝に件の姉婿、輝ける兜の森人が一行のもとにきた。彼は前日にゴブリンスレイヤー達が撃退したゴブリン達を退治した後に、ゴブリンに刺さった鏃を緩めた妖精弓手の矢を見て、妖精弓手はこんなことをしないから彼女の身に何かあったのではと思って、一行を問い詰めにくる。彼のその心配は杞憂ではあったのだが、一人で問い詰めにくるくらい妖精弓手のことを心配していたことが伝わってきていいね。

 故郷に戻って来た妖精弓手精霊の力で作られたエルフの街を前に感嘆する一行に、妖精弓手は故郷のことを誇らしげに、そして嬉しそうにしながら、満面の笑顔で仲間たちに『ようこそ、私の故郷へ!』(P133)と歓迎の言葉を述べているのいいね。

 エルフの街は樹の洞が居住スペースになり、蔦や枝が空中通路になり、街の外周には螺旋状の回廊がある。そして簾のように垂れた蔦の扉に、毛足の長い苔の絨毯がある。

 エルフは肉は食べないが、虫は食べる。そのことに鉱人道士がぶつぶついいながら食べているのが面白い。そういう食文化の違いの描写も楽しい。

 ゴブリンスレイヤーオルグボルグ)の名前がエルフたちにも知られていて、イメージ違うといわれるのを見て、そういえば彼の話を噂に聞いて、妖精弓手や蜥蜴僧侶や鉱人道士ゴブリンスレイヤーのもとにきたのがこのパーティーができたきっかけだったということを思いだす。

 ゴブリンの誘導もあって川を堰き止めるものがエルフの集落に襲来。ゴブリンスレイヤー達は川を堰き止めるものは殺せないという縛りがかかった中で対処することになる。

 エルフたちは寿命が長い分だけ悠長で、どう対処しようかと長々と議論をしているなか、ゴブリンスレイヤーはゴブリンの巣を見つけて排除するために動き出す。牛飼娘と受付嬢の非戦闘要員はエルフの街に置いて、いつものパーティーメンバーでゴブリンスレイヤーたちはゴブリンの巣を探しにいく。餞別として秘薬の賦活剤(エリクシル)をくれる輝ける兜の森人。

 エルフの里から船で川を上っていくと立派な遺跡がゴブリンたちの巣になっていることを発見する。広い遺跡を遭遇したゴブリンを倒しながら進む。今回はゴブリンが巣くうダンジョンが広く、ゴブリンスレイヤー達は敵に気づかれないようにしつつ遭遇したゴブリン達を討ち取りながら進んでいく。そんな敵地で休息をとったり、崩れた階段を蜥蜴僧侶が壁を掴んで乗り越えたりとダンジョンを攻略している冒険感が面白い。

 敵の首魁たるゴブリンシャーマンのいる場所には大勢のゴブリンがいる。数の差もあって厳しい戦いを強いられたゴブリンスレイヤーたちは一度離脱して、ゴブリンスレイヤーらしい方法(鉱人道士隧道の魔法で堤防要塞に穴をうがち、水でダンジョンを一掃)で敵集団を打ち倒す。

 そして最後は再び森人の里に帰ってきた一行の会話が書かれて終わる。

 あとがきによると、次回は王国の都に行き、最も深き迷宮に現れたゴブリン退治をする話となるようだ。

2018-05-05 図説 金枝篇 下

図説 金枝篇 下

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 上巻を読んでから、下巻を読むまでかなり間を空けてしまった。各部の最初に、その部で書かれることの概略が書かれているのがいいね。

 ○神々の結婚と死と再生の神話とそれを模倣した儀式

 『人々は、季節の変化、特に植物が毎年生育し枯れ死することを、神の生涯に起こる挿話的な出来事としてとらえ、その悲しい死と喜ばしい復活を、悲劇と歓喜で表す聖劇の形の儀式にして祝っていた。しかし、その祝祭は、聖劇の形をとっていたとしても、本質には呪術であった。つまり、その呪祭の意図は、冬の訪れで危険に晒されたかにみえる植物が春に再生し、動物が繁殖するのを、共感呪術によって確かなものにすることにあったのだ。』(P53)

 『ヘブライの王たちの歴史をみると、歴代の王が神の、それもこの国の神であるアドニスの役割を演じてきた痕跡あるいは名残と解釈できるいくつかの特徴がみられる。』(P29)

 古代地中海沿岸地域の人々が崇拝した神アドニスは植物とくに穀物の神だった。そして『西アジアギリシアの各地で行われていたアドニス祭では、毎年、主に女たちがアドニスの死を激しく嘆き悲しんだ。死装束のアドニスを、埋葬地に向かうときのように担ぎ、海または泉に運んで投げ込んだ。さらに翌日、アドニスの復活を祝う地方もあった。』(P38-9)

 そのように『女たちが毎年、嘆き悲しんだアドニスの死は、自然の生命をふたたび活気づけるために王を死に至らせるという慣習の反映であることもあきらかになったのではないだろうか。』(P38)アドニスと森の王は、『自然再生産力を保持するために死ななければならなかったという点』(P16)が共通する。

 ○災厄転化の儀式

 多くの国で見られる『災厄をおおやけの儀式によって追い払う慣習をざっとみてきたが、全般に共通する点がいくつかみられる。』(P142)

 その共通する点の中の一つの『神格をもつ人間か動物を身代わりにする点がとりわけ注目に値する。(中略)人々の罪と悲しみをその身に引き受けて運び去るために、なぜ死にゆく神が選ばれなければならないのか。それは、神を身代わりに用いる慣習がかつてはまったく別個の独立した二つの慣習の合わさったものだからである。これまで見てきたように、一方には、神の命が老いて弱っていくのを救うために人間神や動物神を殺す慣習があった。また他方では、やはりすでに見てきたように、毎年一度、災厄と罪の総祓いをする慣習もあった。』(P145)本来は二つの慣習は別で、『死にゆく神が殺されたのは、本来は罪を取り除くためではなく、老いて衰えていく神の命を救うためであった。ところが、とにかく殺される運命にある死にゆく神なのだからと、自分たちの苦しみや罪を背負ってもらうのに、この機会を逃す手はないと人々が考えたとしても無理はない。』(P145)そして災厄の排除と豊穣祈願の2つの意味を持つ儀式となる。

 ○身分の低いものが王や主人に扮する祭りと、短期間の仮の王のいけにえ

 ローマのサトゥルナリア祭では、祭りの間は奴隷が主人を罵ることが許され、そして『主人と奴隷の地位が逆転して、主人が食卓で奴隷の給仕までする。』(P169)

 聖ダシウスの殉教物語に残っている伝説によると、ローマ兵は下モエシアのドゥロストルムで毎年サトゥルナリア祭の三十日前にくじで仲間から一人を選びサトゥルヌス王の扮装をさせた。王の役の男は三十日の期間中好きなことすることができたが、祭りの日がくると『男は自ら扮する神の祭壇に立ち、わが喉をかき切って果てた』(P170)。バビロニアのサカイア祭では祭りの期間中だけ一人の罪人が専制君主を演じ、本物の王の愛妾たちを自由にし酒色にふけったが、最後には縛り首もしくは磔にされた。

 『もともと、王としての任期は一年限りだったようで、任期が終わると殺されることになっていた。しかし、やがて王は力ずくあるいは策略によって、その統治期間を延ばそうとはかり、ときには代理に王をたてて、短期間だけ名目上の王座をゆずったあと、その代理の者を自分の身代わりに殺させたのである。最初は神格をもつ王の代理を務めるのは、やはり神格をもつその息子だったと思われるが、後にこの掟は守られなくなり、さらに時代が過ぎると、慈悲の心が生まれ、犠牲にするのは罪人にすべきということになった。(中略)神格の堕落はとどまるところを知らず、犯罪者でさえ縛り首や火あぶりにされる神の化身としてはもったいないと考えられるようになり、しまいにはいささかグロテスクな人形をつくり、それを哀れな代理に仕立てて、神として縛り首や火あぶり、その他の形で破壊するしかなくなる。』(P197)

 ○森の王の後任者が金枝を折る意味

 なぜネミの祭司(森の王)は、後任者が前任者を殺す前に聖樹(オーク)の金枝を手折らなければならなかったのか。

 『ヤドリギにはオークの生命が宿っているとみなされていたので、そのヤドリギが無事でいるかぎり、オークを殺すのはもちろん、傷つけることすらできなかったのだ。』(P269)霊魂を体の外の安全な場所にしまうという考えは多くの民族に見られるものであり、冬にオークの葉が落ちた後もヤドリギが青々としていることからそのような考え方が生まれたのだろう。そしてヤドリギが金枝と呼ばれた理由は『たぶん、切りとったヤドリギの枝を数カ月おいておくと、見事な金色がかった黄色になるからだろう。その鮮やかな黄金色は葉だけではなく茎にまで及び、枝全体がまぎれもなく「金枝」にみえるようになるのだ。』(P291-2)

 オークの樹木の化身であった森の王の後任者が金枝を手折らなければならなかったのは『オークの樹霊である「森の王」の命または死はヤドリギに宿っていたのであり、そのヤドリギが無事であるかぎり、「森の王」も、バルデルの場合と同じように、死なずにすむのである。だからこそ、「森の王」を殺すには、やはりバルデルの場合と同じように、その枝を投げつけなければならなかったのだろう。』(P289)

2018-04-28 コリーニ事件

コリーニ事件

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 シーラッハ初の長編小説。長編でも短編と変わらず、簡潔なのに無味乾燥にならない文章でいいね。

 犯人が被害者を殺した理由については早々に予想できるけど、最後の展開がいいね。

 駆け出しの弁護士カスパー・ライネンはそうとは知らずに、友人の祖父で自身も子供の頃から付き合いの人ハンス・マイヤーを殺した男コリーニの弁護を引き受ける。本名がジャン=ブパティスト・マイヤーで通称とは違うのでハンス・マイヤーの孫、亡くなった友人の姉で初恋の人であるヨハナ・マイヤーに指摘されるまでそのことに気づかなかった。

 被害者側についた弁護士は有能で理性的な大物弁護士マッティンガー。

 加害者側についた弁護士と被害者側についた弁護士がバチバチという感じではなくて、とても普通に会話しているのがリアルでいいね。ライネンが被害者と知り合いということがわかって弁護士を辞任しようと思っていることをこぼす。するとマッティンガーは気持ちはわかるが裁判で任を説かれるのは依頼人との信頼関係が揺らいだときだけと法に定められているから受理されないだろうし、『きみはある男の弁護を引き受けた。いいだろう、それは過ちであって、依頼人の過誤ではない。きみは依頼人に責任がある。収監された男にとって、きみがすべてなのだ。きみは死んだ被害者との関係を依頼人に話し、それでも弁護を望むかどうかたずねなければいけない。依頼人がそれを望むのであれば、きみは依頼人のために働き、全力でしっかり弁護すべきだ。』(P55)と言う。その言葉を聞いて考え直す。

 コリーニは弁護士であるライネンに対しても犯行を行った理由を一切話さない。そうしたこともあって彼の弁護士を続けるかどうか迷っていたが、近所のパン屋との会話でコリーニを弁護すること、彼に真実を語らせることを決心する。

 手口から復讐だということはわかるが、警察も検察も犯人と被害者の接点を見つけられなかった。そしてコリーニは逮捕されて数カ月たっても弁護士であるライネンにも動機を明かさない。

 ライネンはヨハナとともに子供時代に休みを過ごした被害者ハンス・マイヤーの屋敷に行き、何か今回の事件につながるようなものがないか探してみたものの成果を得られなかった。

 そして動機不明のまま裁判がはじまった。その裁判の途中で不意にもしかしてと思い当たることに気づき、そのことを調べて、そこで情報を得る。その情報をもとにコリーニと話すと、ようやく彼の口が開いた。

 裁判も終わりに近づいた時に犯人の動機と過去の出来事が語られる。その事実を聞いて法廷の雰囲気は一変する。そして最終盤に法廷で語られる、その過去の出来事における法律の解釈や適用などついて話が刺激的で面白い。この小説をきっかけに、この小説で問題となった条文は改正されたようだ。