非常に危険な誤解


独裁/民主制/指導者

確かに明確な意思決定機構があれば集団は動きやすい。それが集団の民主制よりもエリートによる寡頭政、さらに一人による独裁制と、意思決定にかかる時間(手間)が短ければ効率化されるのは間違いないだろう。
しかし、このような特定集団における事例をそのまま「国」レベルの議論にするのは非常に危険だろう。

任意団体、法人(各種企業だとかNPOだとかを含む)、地方自治体と国を峻別する差は「ヒトを殺す事」ができるかどうかであるように思える。
彼の持ち出している宮台の発言は「サイゾー」に掲載されたものだと思うのだが、それでもこの「ヒトを殺す事」に対する眼差しが欠けているように思える。

…というか、なんとなくこの国では「誰もヒトを殺しなどしない」という嘘によって国という形が成り立っているような気がする。

エリートは、「ヒトを殺す」に値する対向価値を国民に知らしめないまま、それを隠蔽しようとする。そして、隠蔽されたまま何等かの物事が決定されていく。


社会主義

なんとなくだけどね。朝日もNHKも、安倍、中川の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」もそして「VAWW−NETジャパン」にも同じような嫌らしさを感じるんだよね。

それは何かというと「この社会はコントローラブルなものである」と思い「わたしがこの社会を変えなければならない」というようなひん曲がった使命感と言うか、エリート意識と言うか、選民思想と言うか。

たまたま今日の昼食時にマンガ雑誌「モーニング」を読んでいたんだけど、そこに「ブラックジャックによろしく」というマンガが連載されているよね。テレビドラマ化されたり、国会でも取り上げられてて、なかなかいい作品なんだと思うけど。今は「精神科編」をやっているわけだ。結局社会の偏見が精神の病に蝕まれたヒトを排除し、その病を深刻化させるのではないかって話しになってきている。ここで、例によって熱血主人公は「そんなことでいいのか!」と憤るわけだ。それに対して指導医は「社会対して自分が何ができるのか」と独白する。彼は淡々と患者を治療し社会に返すようにしていくしかないと。そして患者と健常者(こういう文脈でこの言葉は使いたくない)が共存できるか否かは社会の問題ではないかと問い掛けるわけだ。

ヒトは誰しも自ずと限界がある。歴史というものをつぶさに見ていくと常々、ヒトが歴史を作るのか、歴史がヒトを要請するのか判らなくなる時が有る。カエサルが居なくてもローマ帝国はあの時期には拡大していったのではないかと思えるときもあるし、明治維新には山ほど英雄が出てきたんだけど、それぞれのヒトが居なかったところで別のヒトが似たような活躍をしたのではないかと思える事も有る。

社会というのは冷酷で冷徹な物ではないかという気がしてならない。
それは時計のように冷静に進んでいく。

そんなものに向かって一人の人間の行動が如何ほどの物だろうか。
逆に、こういうヒトもいる。「一人の人間の行動が、やがて他のヒトを動かし、やがて社会をも動かす」思い上がりもほどほどにして欲しい。こういった「物語」には根底に「そのヒトが後に成功する」という事例がつけられることが多い。しかしこんなのは「この売り場から年末ジャンボ宝くじ1等が出ました!」というポスターと同じだ。やがて社会を動かしたようなヒトと同じような行動を起こしたヒトは多分何百人、何千人といたのだろうと思う。その中でたまたま社会の要請に合致したヒトがやがて「成功」を手中に収めただけだろう。そりゃあ確かに宝くじは買わなければ当たらない。かといって過去に当たったヒトと同じ売り場で買ったからといって当たるというものではない。

人間にできることはせいぜいが身の回りのことでしかないだろう。そしてできるならば身の回りの己の権限が届く範囲を少しずつでも広げて、そこに居るヒトぐらいは泣かせずに済むように努める。これぐらいしかないだろう。

ところが何等かの「メディア」を持ってしまうとこの「身の丈」を読み誤る人々がでてくる。周囲から「先生」とか呼ばれるともうお終いだ。肥大化した自我の増大は止められなくなる。

この「メディア」は文字通り「媒体」であることもあるだろうし、「組織」であるかもしれない。つまりは「自分の言葉に耳を傾けて貰える機会」を持つと自己肥大は始まる。(さしずめこういった blog なんてものは簡易自己肥大装置、その増産タイプって感じかもしれない)

その昔ある技術的問題が発生した。その原因を探っていくと朝日新聞の記事にあることが判った。図書館で件の記事を読んで腰が抜けた。そこには技術的に問題があるばかりでなく、法律的にも誤った記述があったわけだ。記事自体がある法律にキッチリとひっかかっている。早速朝日新聞に電話でその旨を伝えた。出てきた担当者はまるで村役場の窓口だった。「天下の朝日新聞の記事に法的な問題があろう筈が無かろう」てな態度だった。それから数年して例の「珊瑚事件」が起きて朝日は電話対応を変えたが、今でも本質的には変わっていないように思える。朝日新聞の無謬性はなんともイタイ。

NHKの記者は凄い。とてつもなく勉強しているように思える。有り余る時間を自分の専門分野に割けるのだろう。しかし気にかかる事がある。発言の端々に記者であることを超えて、「この社会を何とかしなければならない」という使命感のようなものが感じられる。君の意思はいいから、様々な角度からの風景を伝える努力をしてくれよ。そう思ったが何も言えなかった。「民放ヤラセ事件」というのがあった。テレビの放送に「演出」はあって当たり前と思っていたから当時の報道も行き過ぎでは無いかと思っていたが、その現場での「演出」が最も凄いのがNHKだろうと思っていた。何せ時間と金と人員の掛け方が民放とは違う。
やがて森前総理の「指南書問題」が起きる。ムベナルかなと思った。

安倍、中川などの「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」とかいうのも言わずもがなだ。そういえば、昨日もNHKで「憲法9条をどうの」という番組をやっていた。自主憲法制定?
わたしには今の政治家が立派とはどうしても思えない。安倍晋三安倍晋太郎中川一郎中川昭一。粒が小さすぎはしないか。というか、酒の飲みすぎ、遊びすぎ。
経済問題を語ろうとすると勉強しなければならないが、防衛問題は勉強の必要が無い。更にそれが空念仏じみた憲法論議なら「理念、理念」とお題目のように唱えればいいんだろう。
一つ提案がある。
国債」というのは一つの国の中での世代間の金の貸し借りなんだろうと思う。現代の我々は後の世の国民から莫大な借金をしている。我々の子や孫は、我々がこさえたこの借金を返していかなければならない。(我々はこの借金で様々なものをでっち上げた、四国と本州にかかる3つ(!)の橋、東京湾に浮かぶ人気のない島などだ)
借金を重ねた(それも大酒飲みの)放蕩親父が「家訓」を決めるって図はいささか恥ずかしくないか?借金が返せるまで、またはせめてプライマリー・バランスが取れるまでは改正は止めて欲しい。それでなくても今の世代、我々はバブルとその崩壊という歴史的な恥をかいているんだ、これ以上恥の上塗りをしなくてもいいだろう。(というか、そういう反省ができるぐらいなら恥もかかないんだろうけど)
議論はどんどんやればいい。確かに「憲法」に問題はあるだろう。この時代に合わないのかもしれない。しかし、時代にあって、問題の無い「憲法」なんぞできるのだろうか。現実は様々に複雑で多種多様である。それを有限の条文で語り尽くせるものだろうか。常にそこには見落としがある、偏りが起きる。今、「憲法を語りましょう」というのは、単にこの問題をフレームアップさせて見せているに過ぎない。そういう意味でこのタイミングでNHKがこういった番組を作るというのはなんとも面映い思いがする。

さてさて、それで「VAWW−NETジャパン」だ。
彼等、彼女等は何がやりたいんだろうか。「従軍慰安婦」の補償をしたいのだろうか。
『別冊宝島』での故松井やよりさんへの誹謗中傷記事に抗議します

に対する
「抗議」と称する悪質な脅迫に抗議いたします 中宮崇

という文章がある。中宮崇の文章など読むに耐えない酷いものだが、
「VAWW−NETジャパン」の

私たちは、貴社の松井さんに対する悪意に満ちた文、死者の名誉を毀損する記事に厳重に抗議し、即時撤回を求めます。

という記述に対する中宮

最後に、死者である天皇やもと兵士を法に拠らず「犯罪者」と冒涜し、他者に対しては「死者の名誉を毀損する記事に厳重に抗議し」などと臆面もなくまくしたてられる(後ろは転載するに耐えないので略)

という批判は当たっているだろう。
天皇制だの天皇政治責任を、それも死んじゃってから、あれこれほじりだして弄ったところでどのような政治的目標が達成されるんだろうか。
理念に踊らされているだけなら、それは政治活動でもなく単なる宗教じゃないのか。

社会主義(「VAWW−NETジャパン」が社会主義だといっているわけではない)も国家社会主義(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が国家社会主義だといっているわけではない)も共に「社会主義」であろう。そこではエリートの思い上がりと腐敗が生まれる。そして理想に燃えた(萌えた)社会建設の掛け声の下、国民がないがしろにされるんだ。それが組織というものの一面であり、歴史が教える教訓だ。