光文社新書「『当事者』の時代」 佐々木俊尚著・2012・3刊

 面白い本に出会った。

 1970年代に仕事と勉強と遊びに青春時代を過ごした筆者が、自らのこれまでを「自省」させ考えさせてくれた好著書であった。著者、佐々木俊尚氏。 1961年生 年齢50代初め。早稲田に6年在籍しバブルはじける兆しの出はじめた1988年毎日新聞岐阜支局スタートに社会部記者、政治部記者として仕事し、現在はフリーの記者として、メデイアとIT業界をフィールドに書き物をしている。
 著者が数年前自著で取上げ批判し、無罪を予想したあるIT裁判問題、数年後著者の予想どうり当初有罪が逆転無罪判決となった。この「elsuenyoの日記」でも一度著者の本を取上げたことがある。(2008・11・21・「ブログ論壇」)

  読み応えのあった本書は、「メデイアのマイノリテイ憑依」その背景を高度成長に入る60年代まで遡り且つ、日本人の民族的心象風景までをも考察の対象にした内容で、その時代をともにした世代としては、納得する内容の多い著書であった。
 新聞記者は「市民、市民運動」という言葉を嫌っているという。
これはなんとなく判る。ここで「市民」と「庶民」を区別し、マスメデイアが報じる「正義」というものは うるさい市民運動家などの「市民」により代弁させてきた。しかしマスメデイアは自分達の正義が「市民」にあるとは考えず、むしろ黙して語らない多数の「庶民」にあると考えていた。マジョリテイの「庶民」でなく圧倒的に少数(マイノリテイ)の「市民」の意見が優先され語られてきたメデイアの取材行動に言及し、国内に住む中国人等の外国人、在日の人たち,などに「マイノリテイの憑依」し報じてきた。著者はその源を1960年代の「ベ平連」の運動まで遡り考察している。

 著者佐々木氏の表現はこうだ。「メデイアで語られる少数者、弱者は本物の少数者や弱者でなくマイノリテイ憑依により乗っ取られた幻想の少数者、弱者である。日本のメデイアを覆ったという『マイノリテイ憑依』それは、戦後20年が経過し高度成長の始まる時期、それまであった軍部にだまされた国民の『戦争被害者』のみの意識から 小田実により始めて指摘された日本人の『被害者=加害者』だというとらえ方、又更にその後に考え出された『戦死者への鎮魂者』でもあるという二律背反の矛盾の追い詰められた状況から脱出しようとする中で生み出された突破口だったという、それを 第3者の立場で語るという風潮になった。」と述べている(本書)。

 短くまとめるとややこしい。背景説明に小田実伊丹十三の父伊丹万作、高野威(ペンネーム津村喬・高野実の息子)等の当時の考えを紹介している。この辺は さすが元ジャーナリストの問題意識、博学に感服する。さらにその風潮を進めたのが,高度経済成長時の国民の総中流社会意識が「憑依」を支えたという。
 簡単に言う、特殊あるいは部分的なものが全体というメデイアの取上げ方、奇妙・奇天烈な報道に、明日の明るい社会を信じ、中流意識を持ったサラリーマンの家庭が興味本位で向き合わされた報道。何か納得するものがある。事実、弱者に立脚した課題・報道姿勢が著者の入社時代の風潮だったという。
 本書は「マイノリテイ憑依」の背景説明に70年代、80年代以降起きた社会的大事件の その後の経緯、顛末が語られ、現役時代多忙で、失念してきたそれら事件の背景つながりが整理出来、「その後」を確認でき、少々分厚い新書であるが砂に水を注ぐが如く読める本である。特に学生運動の顛末は興味深い。

 もちろん「マイノリテイ憑依」を認めているわけではない。高度成長が終わり、経済の衰退とともに、格差社会に入ることにより、『憑依』も衰退という。メデイアの社会も安定ではなくなっている。一方でネット社会の進展である。マスメデイアの「東日本大震災報道」が心を掴まなかったことに対し、震災の地元地方紙「河北新報」の報道は「当事者」としての立場が貫かれており、それが賞讃されているという。

 著者はインターネットに詳しい文筆家である。本書冒頭 新聞記者時代の表の「記者会見」に対し裏の「夜回り」の人間関係を「夜回り共同体」と呼び、今のリアル社会の反映であるフエイスブックなどのソーシャルメデイアとの類似点が多いことをあげている。筆者には夜回りで囁かれる情報と、ネット上のフエイスブックでの情報のやり取りずいぶんとキワドイ感もするが、時代はそのように進んでいるのだろう。(了)