1957, 日野ルノー PA型

1937年、東京瓦斯電気工業は石川島造船所と共同出資で東京自動車工業を設立、これが戦後“いすゞ”と“日野”に分離することになる。航空機部門は航研機以降に練習機用のエンジンを生産しただけに終わり、1939年に日立航空機として分離している。

日野自動車となって戦後の復興期はトラックやバスの製造で活躍する。業績が安定すると、1953年にフランスのルノー公団との技術提携で乗用車部門に進出することとなった。


水冷直列4気筒 OHV 748cc 21ps/4000rpm 最高速度87㎞/h

ノックダウン生産をするにあたっては相当な苦労があったようだ。モノコックボディの生産は日本初の試みだったからである。
http://www.hinosamurai.org/Contents/cars/renault_hino_KD/renault_hino_KD.html




日野ルノーはオリジナル(下)とグリルが違っていることに注意。



1946年デビューの Renault 4CV はモノコックボディにリアにエンジンを搭載、4輪独立懸架という大衆車としては進歩的なクルマであった。
その経済性と小回りの効くサイズで東京ではタクシーとして大量に使われていた。その小さなくせにスピードの出ることは当時としては驚異で暴走する「神風タクシー」*1の代名詞ともなった。しかしその頃、酷道と呼ばれた日本の悪路では、その特徴となる4輪独立懸架のスイングアクスルはトラブル続出でミッションケースが割れたり、リアアクスル付根のトラニオンピンの減りがひどく、リアシャフトが折損したりして足廻りが弱いという評判をとってしまった。
日野はこのトラブルを克服するために58年型から足回りを独自に強化することになる。しかし、これにより車重は595㎏から60年の最終型では665㎏に増加し、軽快な運転性能はスポイルされてしまった。



リア・フェンダールノーマークはエンジンへのエアインテーク


中央のキャップは冷却水のもの。




シトロエン2CVと同様に、エンジンはクランク掛けも出来る。


リア・ウィンドウはスライド式。




ナルディ風のステアリングは、どことなく場違いのような気がする。

オリジナルのステアリングはコチラ↓

*1:とにかく歩くよりも遅いスピードでも,走ってさえいればトップに入れてカリカリというノッキングの音を楽しむかのような無謀な運転を平気でやってのける。山だろうが坂だろうが一旦トップに入れたら、どこまでもそのまま走り続けるのだ。その上およそ道路などとはいうべくもない荒地の上を、文字通り神風のように突走るのである。これでは壊れない方がどうかしている。ところがこのような野蛮な使用でクラッチがこわれたり、アクセルが折れたり,ボディがねじれたりすると、即座に厳しいクレームがメーカーにつきつけられる。するとメーカーはただただ低姿勢にこわれた個所をつぎからつぎへと改良し強化するのである。その結果不可避的に車輌重量が重くなり、比例して性能が低下してゆくので、エンジンを拡大強化する。ボディが重くなると足廻りが弱くなり,サスペンションを丈夫にすればバネ下重量が増して乗心地が悪くなる一という風に、どこまでいってもきりのない悪循還を繰返すだけである。こうしてはたして丈夫かどうかわからないが、とにかく重く、性能が悪く、価格の高い日本の乗用車ができ上ったのである。