ライトノベルに「キャラ/キャラクター」は適用できます、多分

伊藤は「キャラ/キャラクター」は図像に由来するものであるとの見解を取っていることが問題となります。『ユリイカ』2006年1月号(ISBN:4791701429)掲載のトークイベント(2005年10月29日)にて東浩紀がこの点を指摘し,「キャラ/キャラクター」をライトノベルに適用できるのではないかというのは順当な批判でしょう。


博物士-『テヅカ・イズ・デッド』をめぐる逡巡
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060215/p1

例えば口絵や挿絵と小説本文とを有機的に結合させた、漫画に近しい形式として考えるなら、「キャラ」の概念で挿絵と本文を横断させるっていう発想は使えそうだし面白そうだと思います。小説本文の中でのみ「キャラ/キャラクター」を抽出しようとするのはあまり意味がないように思われます。それを抽出するにはまず小説本文の文章の中で生成されてる/読者に読み取られてると思しき階層構造を抽出するのが先決で、まず構造が先行していることを証明した後に「キャラ/キャラクター」を見出すならオッケーと思われます

ハー○イ○ニー観察日記-ライトノベルに「キャラ/キャラクター」は適用できるか
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060227#p1

 ええと、tdaidoujiさんの言われている作業は、恐らく東浩紀さんが「動物化するポストモダン2 <補遺> ゲーム的リアリズムの誕生」で説明しているものと同じです。東浩紀さんが伊藤剛さんにライトノベルの話をしたのには「ライトノベルが『まんが・アニメ的リアリズム』に基づいている」という前提があるのです。で、その箇所を抜き出してこようと思いましたが、すでにそのことを書かれている人がいました。

伊藤は、あるテクストそれ自体に準拠しない、つまり〈作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない〉、そういう「キャラ」としての強度を、『テヅカ・イズ・デッド』のなかでは、あくまでも図像の問題として語っているが、東浩紀は「ゲーム的リアリズムの誕生」(『ファウスト』vol.6 SIDE-A掲載)において、そのおおもとのアイディアを敷衍し、小説などといった、マンガに限定されない、べつの表現にも適用しようとする。その際に、東がキーワードとして重視するのが、大塚英志いうところの「まんが・アニメ的リアリズム」である。

 キャラクターは作品世界のなかでもっともらしさを担い、キャラは作品世界のそとで現前性を担う。そのふたつが組み合わさって、マンガははじめて独特のリアリティを獲得する。伊藤はこのように整理したうえで、手塚が作り上げたものは、「『キャラ』の強度を覆い隠し、その『隠蔽』を抱え込むことによって『人格を持った身体の表象』として描くという制度」なのだと分析した。それは、言いかえれば、作品なしにでも機能するキャラの力(大塚の言う記号性)を、特定の作品世界のなかに流しこみ、キャラクターの魅力(同じく身体性)へと変換するアクロバティックな「制度」である。大塚が、「まんが・アニメ的リアリズム」と呼んだものは、この制度にほかならない。伊藤は「マンガのモダン」という言葉を使っている。

 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」(『ファウスト』vol.6 SIDE-A掲載)

 東によれば、「まんが・アニメ的リアリズム」とは、〈データベースの層に蓄積された記号の力を、シミュラークルの層で展開される小さな物語のなかに流しこむ創作技法〉であり、〈物語の必然性の希薄さを、前物語的な記号の力で補填する創作技法のことにほかならない〉ということになる。ここでいう〈前物語的な記号の力〉というのは、要するに、「キャラ」の強度のことである。また〈シミュラークルの層で展開される小さな物語〉を、二次創作的な作品として言い換えることもできるだろう。

 では、なぜそのような創作技法が可能となるのか。東は〈読者の側がもつマンガやアニメの記憶を指し示して読者の想像力を喚起する。それがまんが・アニメ的リアリズムの本質である。重要なのは読者の側の記憶なのであって、絵そのものではない〉といっている。絵そのものではなくて、読者の側の記憶こそが重要であるために、「まんが・アニメ的リアリズム」は、それこそマンガといった表現にとどまらず、たとえばライトノベルなどの小説群にも宿る、というわけである。



人生という憂鬱のためのアーカイヴズ-サブ・カルチャー的な「私」としての僕たち。 その13-a
http://d.hatena.ne.jp/marita/20060126#p1

 すなわち、「小説本文の文章の中で生成されてる/読者に読み取られてると思しき階層構造」がデータベースの層とシミュラークルの層です。


 では、ライトノベルで「キャラ/キャラクター」は具体的にどのように見られるのか、というのを書いたのが、手前味噌ですが私が先日書いた

キャラ⇔キャラクターの切り替えとリアリティーの操作
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20060205#1139117086

と、それをREVさんがまとめ直してくださった

フルメタル・パニック!」における二つのリアリティー
http://d.hatena.ne.jp/REV/20060205#p5

です。

 オーソドックスなライトノベルでは、まんがと同じくキャラはキャラクターによって隠蔽されています。しかし「フルメタル・パニック!」はシリアスな長編とコミカルな短編でリアリティーのレベルが違うのです。「まんが・アニメ的リアリズム」は「データベースの層に蓄積された記号の力を、シミュラークルの層で展開される小さな物語のなかに流しこむ創作技法」ですから、リアリティーの強度は「記号=キャラの強度」と「小さな物語の強度」で決まるのでしょう。この場合は多分「小さな物語の強度」を操作しているのです。すなわち、

  • 長編では「キャラ:強」+「小さな物語:強」→「リアリティー:強、キャラ→キャラクターの変換が行なわれる」
  • 短編では「キャラ:強」+「小さな物語:弱」→「リアリティー:弱、キャラがキャラのまま出てきてしまう」

のです。そのため作中で同じ登場人物がキャラクターだったりキャラだったりするのです。

 あるいはREVさんの言うように短編が長編の「セルフ二次創作」であると考えても面白いですね。まず長編は「シミュラークルの層で展開される小さな物語」として読者に消費されます。読者は無意識的にシミュラークルの裏にある過去の作品で構成されるデータベースを読み込んでいるのです。データベース層にはキャラが居るのですが、「小さな物語の強度」が強いので読者の前のシミュラークル層ではそれはキャラクターに変換されています。

 一方、短編は「長編のセルフ二次創作」なので「シミュラークルである長編」をデータベースとした「シミュラークルシミュラークル」です。ええと、それでどう解釈したらうまく行くかな?「シミュラークルである長編=データベース」に居るキャラはキャラクターも獲得しているのですが、「長編」は「テヅカ・イズ・デッド」でいうところの「テクスト」なので、そこから遊離できるのは結局「キャラ」だけだと考えるべきかな。で、「短編」は「小さな物語の強度」が弱いのでシミュラークルシミュラークルシミュラークル)でもキャラはキャラのままです。

 一方、短編は「長編のセルフ二次創作」なので、長編と同じ「シミュラークルの層で展開される小さな物語」なのですが、登場人物は「長編」から借りてきています。しかし「長編」は「テヅカ・イズ・デッド」でいうところの「テクスト」なので、そこから遊離できるのは結局「キャラ」だけです。そして短編というシミュラークルは「小さな物語の強度」が弱いのでキャラはキャラクターになれずキャラのままです。

つまり、

  • 長編では「キャラ:強」+「小さな物語:強」→「リアリティー:強、キャラクター」
  • 短編では「長編からキャラだけが遊離」+「小さな物語:弱」→「リアリティー:弱、キャラ」

なのです。多分。

 ちょっとだいぶ疲れて思考が怪しくなってきました。間違っていたら突っ込んでくださいませ。とりあえず今日はもう寝ます。ぐう。

  • 追記

 ここで言う「リアリティー」とか「リアリズム」というのは、あくまで「まんが・アニメ的リアリズム」のことです。世間一般には、「キャラ」とか「小さな物語」の強度に拠らないリアリティーもあります。ライトノベルではない普通の小説はキャラに頼りはしないでしょう。