P.I.L.のフロントマン、ジョン・ライドンの半生/『The Public Image Is Rotten ザ・パブリック・イメージ・イズ・ロットン』

The Public Image Is Rotten ザ・パブリック・イメージ・イズ・ロットン (監督:タバート・フィーラー 2017年アメリカ映画)

セックス・ピストルズ、現パブリック・イメージ・リミテッド(P.I.L.)のヴォーカルでありフロントマンとして活躍するジョン・ライドン。その彼の軌跡に迫るドキュメンタリー映画がこの『The Public Image Is Rotten ザ・パブリック・イメージ・イズ・ロットン』だ。映画はライドンの不幸な出生、ピストルズ時代を経ながら、ロックバンドP.I.L.結成後の活動、メンバー間のゴタゴタ、そして映画公開時2017年までの破天荒な生き様を抉り出してゆく。

かつてパンク/ニューウェーヴの洗礼を受けたものならジョン・ライドンの名は避けて通れないものに違いない。オレも70年代後半、セックス・ピストルズのデビューを目の当たりにして《大いに困惑した》クチだ。そのけたたましい音にパンク?なにこれ?と思う間もなくピストルズはあっけなく空中分解、なんだなんだ?と思っていたら続いてニューウェーヴの時代が到来。ジョン・ライドンP.I.L.を結成、ピストルズ/パンク・ミュージック通過後の新しい音を自ら創造し始めた。そしてそのP.I.L.の音は、ニューウェーヴ・ジャンルの中でも別格だった。

P.I.L.の音は、ジョン・ライドンのアラビア音階を思わせるヴォーカルと、ジャー・ウォブルによるレゲエ譲りのヘヴィー・ベースと、キース・レヴィンによるサイケデリックなギターにより、実験的で先鋭的で、まさに唯一無二のものだった。少なくとも1stから3rdまではニューウェーヴ史に残る名作中の名作だった。

ただまあ、映画でも描かれているように、バンドの中はメンバー間で相当にゴタゴタしていた上に、お金がない!儲からない!と火の車、もともと偏屈でブチキレキャラだったライドンはバンドメンバーを次々に首にしたり(そしてまたよりを戻したり)と「ロックバンドあるある」な展開が続く。

なにしろライドンは元がパンクなので堪え性のない男な上に、ジャー・ウォブルは録音済みテープを勝手に持ち出して自分のアルバム作っちゃうだけでは飽き足らず、売上金かっぱらってクビになるし、キース・レヴィンはいつもヤクでヘロヘロになっていて、そしてやっぱり録音済みテープを勝手に持ち出して「これが俺のやりたかったP.I.L.だああ」とか言ってアルバム出してクビになるし、まあなにしろメチャクチャである。

しかしウォブルとレヴィンという強力な屋台骨を失ったP.I.L.は急速に陳腐化、実はP.I.L.の先鋭性というのはウォブルとレヴィンによって支えられていたという事が露呈してしまう。この二人無き後のライドンには何が残っていたか?それは彼独特の偏屈で皮肉で鼻っ柱だけは強い態度のみであり、音楽的な創造性については皆無だった。P.I.L.はライドンのバックバンドと化すが、それは「どこにでもあるハードロックバンド」レベルのありきたりなものに成り下がってしまった。

こういった形で、もはやP.I.L.には聴くべきところなど何もないのだが、それでも、どこかジョン・ライドンという男のことを、今でも見捨てられずに気にしている自分がいる。なぜなら彼は、オレの10代から20代にかけてどっぷりとハマっていた、ニューウェーヴ界の《神》だったからである。腐っても《神》なのだ。まあ昔みたいに信奉はしていないが。

だいたい、今やライドンも68歳、腹も出てきてゆるゆるの体をしているし、顔なんざ単なるその辺のおっさん、言動は相も変わらず頑固ジジイ、ルックスだけならミュージシャンというよりフーリガンだ。でもいいんだ。もういいんだ。オレは、オレの青春期にブイブイ言ってたアーチストが、もう前期高齢者と言っていい年になってもなんだか元気そうにクダ巻いてる姿を見られるだけでも嬉しいんだ。そもそもオレ自身もう60過ぎのジジイだしな。だからお互いジジイ同士、長生きしような、と思えてしまうんだ。

そしてオレは知っている。ライドンはああ見えて結構恩を忘れない奴だったり家族思いだったりする奴だってことだ。「ロックは死んだ」なんて言いながら、デビュー時世話になったピート・タウンゼントミック・ジャガーのことは決して悪く言わないし、義娘であるスリッツのアリ・アップが亡くなった時は、その3人の子供(義孫)の後見人になったりしている。この映画は2017年公開だから描かれてないが、この後ライドンはアルツハイマーになった嫁さんを介護し、その嫁さんも去年亡くなってしまった。人生いろいろあるんだ。ヤツも、その辺の誰もと変わらず、茫漠として無慈悲な人生と戦い、そして今もまだ生きている。だからなおさら、ジョン・ライドンのことが嫌いになれないんだ。

 

【積みゲー消化】今頃だが『バイオハザード ヴィレッジ』をクリアした

バイオハザード ヴィレッジ (PS4、PS5、Xbox OneXbox Series X/S、Nintendo Switch、PC)

最近チマチマと【積みゲー消化】しているオレである。今回クリアしたのは2021年5月に発売された『バイオハザード ヴィレッジ Z Version』。D/L購入した痕跡があるので、発売日ではなく発売から暫く経った後バーゲンで安くなったものを購入したと思われる。最後のセーブデータが2021年の12月だったのでその頃購入したのだろう。どちらにしろ最後に遊んでから2年以上ほったらかしにしていたのである。

バイオハザード」シリーズはリメイク作を無視した本編シリーズだけでいうなら『バイオハザード 0』からこの『バイオハザード ヴィレッジ(ナンバリングされていないがこの作品は『バイオハザード 8』となる)』まで9作リリースされている。オレは多分のこのほとんどを遊んでいるはずだ。そもそも1996年にPS1で発売された1作目を発売時に購入して遊んだ。とはいえ、『2』は操作法に苛立って冒頭でやめてしまったし、『7』はあまりにも怖すぎてこれも冒頭で投げ出してしまった。

そんな具合に(一応、なんとなく)ほぼ全作遊んではいるオレだが、有名シリーズだからとりあえずやっているだけで、特に思い入れが深いということもない。そもそもシリーズで展開する人間関係を全く把握していない。そして相当ゲームプレイが下手である。だいたいクリア間際は銃弾もアイテムもジリ貧の状態となっており、HPギリギリでなんとかクリアしている記憶がある。だから「バイオハザード」シリーズはクリアしても達成感よりも疲労感の方が強い。厄介な仕事から解放された安堵を感じてクリアしている。……ってかオレ、実はホントは好きじゃないのかこのゲーム!?

ちなみに、特に思い入れがない割にはポール・W・S・アンダーソンが監督・脚本を務めた映画化作品は全部観ている。あれはとてもおバカな映画シリーズだと思う。

若干ネガティヴ発言をしてしまったが、今回クリアした『バイオハザード ヴィレッジ』、実は相当に面白かった。まずPS5という最新ゲーム機用に製作されたという部分で、グラフィックのクオリティが半端なく高かった。いや、PS5のゲームというのはどれも美しいグラフィックを誇っているが、この『ヴィレッジ』はその中でも図抜けて素晴らしかった。これはホラーゲームということで明度と色彩が暗いアンバーに統一されているという部分にあるだろう。併せて、汚らしい瓦礫や廃物がどれもきちんと表現され、リアリティのある映像となっていたのだ。

同時に、一つの村とその周辺という閉鎖された環境を中心に物語が展開してゆくというのがよかった。最初は侵入できない箇所が多いが、進行するにつれ徐々に入ることのできる場所が広がってゆく。基本は同じ場所を行ったり来たりすることになるが、この「ずっとそこにいる感覚」がいいのだ。これは、どこまでも延々と広がる昨今のオープンワールドゲームと真逆のアプローチだが、この「ずっとそこにいる感覚」を体験させるのは、別に世界全部を作らなくても可能なのだ。これは個人的な好みの問題なのだろうが、どうもオレはオープンワールドがあまり好きではないのは、「どこまでもずっと移動し続けなければならない」という煩わしさがあるからのような気がする。

ボスキャラはどれも個性的な「四貴族」の4体となるが、それぞれの存在するフィールドが、「四貴族」それぞれのキャラクターに合った世界となっている部分も変化を感じさせてよかった。その 「四貴族」も攻略方法がそれぞれに異なり、とても楽しめた。難易度によるのかもしれないが、アイテムやセーブ地点も豊富で、最後まで難儀することも詰まることもなかった。いやこれは最高のバランスじゃないか。ひょっとしたらオレの中の「バイオハザード」最高傑作かもしれない。

ただしストーリーには相変わらず興味が湧かなくて、そもそもこの『ヴィレッジ』が『7』の続きという事を最後に知った。いやー『7』クリアしてないんだよなー。やっぱり遊んでみようかなあ。でもPS4バイオハザードRE:2とPS5のバイトハザードRE:4がまだ積んであるんだが……。クリア14時間。

『V.I.P. 修羅の獣たち』『カード・カウンター』『ディナー・イン・アメリカ』など最近ダラ観したDVDやら配信やら

V.I.P. 修羅の獣たち

V.I.P. 修羅の獣たち (監督:パク・フンジョン 2018年韓国映画)

『新しき世界』や『The Witch/魔女』シリーズ、最近では『貴公子』の公開された気鋭の韓国映画監督パク・フンジョンによる2018年公開のノワール作品。韓国で残虐極まりない連続婦女暴行殺害事件が起こり、捜査の途上で北から亡命したエリート高官の息子キム・グァンイルが浮かび上がる。チェ・イド警視はキム逮捕に乗り出すが、キムを亡命させた韓国国家情報局とCIAは強行的にそれを阻もうとしていた。

画面全てが血で染まる陰惨な殺人事件、しかも婦女暴行を題材にしているのでなにしろ胸糞悪い話ではある。その犯人というのが政府組織に守られている上に終始ヘラヘラと笑い減らず口を叩き続けるので胸糞の悪さはさらに倍加する。いやこいつマジ許せなかったぞ。とはいえ、こんな殺人犯を演じたイ・ジョンソク、モデル出身で色白の美形俳優なのだが、こんな不気味なサイコパス役をよくぞこなしたものだと感心した。

暴走しまくる暴力刑事チェ・イド、組織の歯車として忍従する情報局員パク・ジェヒョク、復讐に燃える北朝鮮工作員リ・デボムと、役者も十分揃っている。こんな男たちの燃えたぎる憤怒と冷徹な思惑が交錯し、熱いドラマを生み出しているのだ。反面、キムの身柄を巡りコロコロと拘束と奪還が繰り返されるのは煩雑に感じたし、急展開を持ち込もうとしたばかりにシナリオには無理を感じたのは確か。ただし殺人鬼キムのキモさと正義の為に手段を選ばぬチェ・イドの暴れっぷりがそれを補っていた。

この物語には、決して揺るがない支配的な権威や権力への、強力な怒りと遣り切れなさが込められているように思えた。それは凶悪犯罪者なのにVIP待遇されるキムのごとき存在への怒りだ。それでも立ち向かってゆこうとする人としてのギリギリのプライドもここにはある。生き難くままならないこんな社会にどうにか一矢報いたい、そんな思いがこの物語の背後に存在するのではないかと思えてならなかった。

カード・カウンター (監督:ポール・シュレイダー 2021年アメリカ・イギリス・中国・スウェーデン映画)

ポール・シュレイダー監督・脚本、マーティン・スコセッシ製作総指揮の映画『カードカウンター』を観た。主人公はギャンブラーのウィリアム・テルオスカー・アイザック)。彼はかつて兵士だった頃、上司の命令により捕虜収容所で拷問を行い、その罪で服役していた。ある日ウィリアムは一人の青年からこの上司への復讐を持ちかけられる。この青年の父もウィリアムと同じように罪を着せられていたのだ。

ギャンブラーの物語ではあるが本質はそこではない。シュレイダー&スコセッシといえば当然『タクシードライバー』で、そしてこの映画も『タクシードライバー』の変奏曲としか言いようのない、退役軍人のトラウマとルサンチマンと孤独と虚無と独白とイタチの最後っ屁みたいな暴発を描いたどこまでもダウナーな物語なんだよ。シュレイダー、未だにこんな脚本書いてるのかと思うと、もはや「シュレイダー映画」という一ジャンルとしか言いようがない。

そして『タクシードライバー』に青春期の魂を根こそぎ持っていかれたオレは、この『カードカウンター』にもやはり魂持ってかれるような暗い感銘を受けた。三つ子の魂百までってヤツだな。主演のオスカー・アイザックの虚ろな目つきも最高だった。『タクシードライバー』信者は是非観よう。そしてどんよりしよう。

ディナー・イン・アメリカ (監督:アダム・レーマイヤー 2020年アメリア映画)

”アナ―キック・ラブストーリー”映画『ディナー・イン・アメリカ』を観た。物語はパンクロック好きの女子が、ひょんなことから警察から逃走中のパンクバンドのリーダーを匿ってしまうというもの。しかもそのバンドリーダーは女子の憧れの人だったのだ。とはいえふわふわしたロマンチックさは皆無だ。女子はボッチで超絶的にイケテナイし、バンドリーダーは行動が滅茶苦茶なチンピラ野郎でしかない。この二人のダルくて壊れた現実がひりひりと描かれてゆくのだ。

カスみたいな連中に囲まれクソみたいな目に遭わせられる日々、「幻滅」の二文字が心を削り続ける世界。そして二人はもうこんなのやってられんわ!と意気投合し、うらぶれた街をグダグダと右往左往しながら遁走してゆく。アナーキーと言えばカッコいいが、社会から弾き飛ばされた者同士が、音楽というたった一つだけ信じられるものを武器にして足掻き回る、そんな物語なのだ。アメリカってとても生き難そうな国で、そんな国でなんとか居場所を見つけようと七転八倒する主人公二人の姿がとても愛おしかった。

SFは最高の教養の一つなのか!?/『英国エリート名門校が教える最高の教養』

英国エリート名門校が教える最高の教養 / ジョー・ノーマン (著), 上杉 隼人 (翻訳)

英国エリート名門校が教える最高の教養

英国の名門パブリックスクール(中高一貫校)が伝授する「本物の教養」が学べる一冊! 〈世界の大学ランキング8年連続1位〉のオックスフォード大学やケンブリッジ大学へ、卒業生の多くが進学。 歴代首相を40人近く輩出、全寮制で映画『ハリー・ポッター』のロケ舞台にもなった。 秘密主義のヴェールに包まれエリートのみに伝授されてきた〈教育の奥義〉を、あますことなく公開する。 「本物の教養」を支える〈読み〉〈書き〉〈ストーリーづくり〉とは? 一生ものの教養が身につく究極の学び本。

『英国エリート名門校が教える最高の教養』である。「英国」にも「エリート」にも「名門」にも「最高の教養」にも全く縁のない、むしろ「亡国」や「3K労働者」や「お門違い」や「無知蒙昧」といった言葉の相応しいオレがなにゆえにこのような本を読むことになったのか。実はこの本、基本はブックガイドであり、それも意外とSF小説が多く紹介されていると知り、SF読みのオレとしては、「”最高の教養”の一つとして選ばれるSF本とはいったいどのようなものであろうか」と興味を持ったのだ。

この本では「世界レベルの教養の基礎となる必読書」としてフィクションとノンフィクション、さらにコミック/グラフィックノベルを併せて144冊の本が紹介されている。本文ではそれ以外にも多くの本が引用され、本好きには堪らないブックガイドとして読むことができるだろう。紹介されている本、特にノンフィクションはアリストテレスやらヘーゲルやらと、いかにも《教養》な著作が殆どではあるが、これがフィクションとなると意外にくだけた作品がちらほらと見受けられるのだ。

144冊のうちSF本はウェルズ『タイムマシン』、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、ヴォネガット『猫のゆりかご』、ウィンダム『地衣騒動』、フォースター『機械は止まる』、アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』、グラフィック・ノベルとしてアラン・ムーアウォッチメン』、ホドロフスキーメビウス『アンカル』が挙げられている。厳密にはSFではないがシェリー『フランケンシュタイン』、ル=グウィン影との戦い ゲド戦記Ⅰ』、オーウェル動物農場』のタイトルもあった。さらにタイトルだけ言及されたSF作品としてナオミ・オルダーマン『パワー』、ヴォネガットスローターハウス5』、ハーバード『砂の惑星』、ギブソンニューロマンサー』、アトウッド『侍女の物語』、ジェイムス『トゥモロー・ワールド』があった。

『英国エリート名門校が教える最高の教養』と謳われた本において、このSF小説言及率はちょっとしたものではないか。ひょっとしてSF小説を読んでいるだけでオレは教養が高かったのか!?と誤解してしまいそうになるぐらいだ。非SFも含めるなら144冊のうち20冊程度は読んでいたので、オレの教養度もなかなかのものではないか(いや逆だと思う)。

とはいえ、フィクションジャンルにおける児童書の割合が結構高く、ちょっと敷居低すぎないか?と思って本文をよく読んだら、この「英国エリート本」、実は読者のメインターゲットは英国パブリックスクール中高一貫校)の生徒たちだったんだよね。そりゃ敷居が低い訳だ。その中でピケティの『21世紀の資本』やノア・ハラリの『サピエンス全史』、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』なんて本が挙げられているのは全然敷居は低くないが。確かに「大人が読んでも十分教養の役に立つ」とは書かれてはいたが、基本的にはこれからの時代を担う若い人たち向けだったというわけだ。

それと、144冊挙げられているけど、著者は「いや実は僕、全部読んだわけじゃないけど」とか但し書きがしてあって、おいおい!と突っ込みたくなったのと同時に、この正直さに著者への好感度が高くなった(そうなのか?)。それでも、この「英国エリート本」で紹介された144冊には、読んでみたいなあと思わされる本がかなりの冊数あって、そういった点ではブックガイドとしてよく書かれたものだったと思う。数ある名作・逸作の中にウエルベックの『素粒子』が入っているところは個人的に「やるなこの著者」と思わされた。

実を言うとこの本でブックガイドに割かれているのは全体の半分弱で、その後は「どう読むか」「どうか書くか」「エッセイをどう構成するか」(小論文みたいなものかな?)「ストーリーをどう語るか」といった章が続くことになる。読書によって得た知識をどう演繹するのか、ということなんだろうな。とはいえ、一介の零細ブログ書きの身であるオレとしても、どう書くか?どう語るか?といった指南は十分拝聴に値するものがあった。

【積みゲー消化】今頃だがゲーム『Call of Duty : Modern Warfare II』のキャンペーンをクリアした

Call of Duty : Modern Warfare II ( PS5、PS4Xbox OneXbox Series X/S、PC)

最近チマチマと「積みゲー」を消化している最中なのだが、今回目出度く(?)クリアしたのは2022年10月に発売され購入したミリタリーFPSゲームCall of Duty : Modern Warfare II』のキャンペーン(要するにシングルのストーリーモード)。

昨今のFPSではマルチが基本で、キャンペーンなどオマケ扱いされているか、もはやキャンペーンすら実装されていないFPSゲームもかなり存在する。とはいえ、オレはゲームと言えばFPSばかりやっていた時期さえあるのだけれども、昔っからキャンペーンオンリーでプレイしていて、マルチなんてまるで遊んでないんだよな。

そもそもオレがパソコンというものを買おうと思ったのは90年代末、初期のパソコンゲームDoom』や『Quake』、『Unreal』や『Half-Life』といったFPSを遊びたかったからだった。それらFPSにもマルチは実装されていたかもしれないが (未確認)、やはりシングルプレーが一番だった。3Dでグリグリ動く異世界の、迫真的な没入感が格別だったのだ。当時は次々とグラボを換え、次々とパソコンを換えながら(マザボが古いと動かない)、最新FPSを遊ぶのが最高の愉しみだった。

あの頃どれだけのパソコンFPSを遊んだか、もはや覚えていないのだが、基本的にはSFやホラー系のものが多かったな。その中でじわじわと頭角を現してきたのがミリタリー系FPSで、「バトルフィールド」や「メダル・オブ・オナー」、そしてこの「コール・オブ・デューティ」シリーズがそれに当たる。ミリタリー系FPSは第1次・第2次世界大戦といった現実の戦争を題材としており、史実に沿った、あるいは史実の裏に存在したとされるストーリーで構成される。

そしてその中でも「コール・オブ・デューティ」シリーズはグラフィックとゲーム性が頭抜けてた。特に『Call of Duty 4: Modern Warfare』が凄かった。これまでのミリタリーFPSは史実に則って物語を描いたが、この『CoD4:MW』では架空の近未来戦を描いたのだ。実の所、これまでの史実に則った戦記物は、連合国側の正義を謳ったものでしかないという退屈さがあった。だが『CoD4:MW』は、現実の泥臭い世界情勢に即した、より生々しく非情な物語を紡ぐことに成功したのだ。やはりね、オレがFPSに求めていたのは、こういった物語性だったのだよ。

というわけで「CoD」シリーズはその後もWW2戦記を中心とした「CoD」、近未来戦に特化した「CoD:MW」、そして特殊部隊をメインとした「CoD:ブラックオプス」などのシリーズに枝分かれしながらガンガンとゲームをしリースし、ヒットし続けてきたというわけだ。オレも好きなシリーズなのでリリースされたらとりあえず買って遊んでいるが、なにしろ沢山リリースされているからどれをどこまでやったのか覚えていないほどだ。

この『CoD : MW II』でも多国籍特殊部隊がメキシコ特殊作戦群と連携しながら世界的テロリスト討伐の為に熾烈な戦いを繰り広げるといったものになっていて、近未来架空戦記の面白さを醸し出しているのだよ。キャンペーンもステルスやアイテム収拾しての武器製作など、目先の変わった面白さを導入するのに頑張っていて、これまでの力押しのストーリーから脱却しようとしている部分を感じた。ただ、ちょっとマッチョすぎる登場人物と世界観には少々辟易してきたのも確かで、今後「CoD」をまた遊ぶかどうかは分からないなあ。クリア時間14時間。