中国人強制連行について少し調べて書いてみた日記。

中国人強制連行訴訟、二審でも中国人側が敗訴…福岡高裁


http://www.asahi.com/national/update/1020/SEB200810200008.html

第2次大戦中に中国から連行され、長崎県内の炭鉱で強制労働させられたとして、中国人の元労働者ら10人が国と県、採掘していた三菱マテリアル(本社・東京)と三菱重工(同)に損害賠償や謝罪を求めた訴訟の控訴審判決が20日、福岡高裁であった。牧弘二裁判長は、原告側の請求を棄却した一審・長崎地裁判決を支持し、原告側の控訴を棄却した。


訴訟は03年11月、高島、端島、崎戸の3炭鉱に連行された中国人や遺族が1人2千万円の損害賠償などを求めて起こした。07年3月の一審判決は強制連行や強制労働を被告らによる共同不法行為と認定し、三菱マテリアル安全配慮義務違反も認めた。しかし、不法行為から20年間が過ぎれば損害賠償請求の権利が消滅する民法の「除斥(じょせき)期間」を適用するなどして訴えを棄却した。


控訴審では今年2月、牧裁判長が口頭で異例の和解を打診。原告側は、国や企業からの謝罪と総額1千億円規模の補償基金の設立などを柱とする和解案を提案したが、国は応じず、判決を迎えた。


戦時中に強制連行された中国人元労働者らによる同様の訴訟は、各地で提訴されている。裁判所の判断は分かれてきたが、最高裁で昨年4月、「72年の日中共同声明により原告らの裁判上の請求権は失われた」として請求を棄却する判決が確定。ただ、「被告らが救済に向けた努力をすることが期待される」と異例の言及をしていた。


このニュースに関して、2ちゃんねるでは「強制連行?ただの出稼ぎだろ」というような書き込みが見られた*1


戦前、一応は日本帝国臣民とされた朝鮮人の戦時動員に対し「出稼ぎだろ?」というならまだ同意しないまでも分からなくもないが、


戦 争 や っ て る 時 に 相 手 の 国 に 出 稼 ぎ に 行 っ た り は し な い だ ろ j k


そもそも、今回の判決でもその他の中国人強制連行の裁判でも強制連行・強制労働の事実自体は認められているのに、「出稼ぎだろ?」とか言ってる奴らはあたまがわるすぎる。



とは言え、自分も「中国人強制連行」についてはほとんど知らなかったので、少し調べてみた。





先の大戦で、戦争が激化・長期化すると共に、国内の労働者不足はますます深刻になっていった。1938年から始まった朝鮮半島からの「労働力の移入(朝鮮人戦時動員、いわゆる朝鮮人強制連行)」も、その不足を補うことはできなかった。


これを受け、1942年に東条内閣は「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定(「華人」とは中国人のこと)。43年試験的に中国人の「移入」がなされた後、44年から本格的に実施された。こうして移入された中国人は全国135箇所に割り当てられた。その中には「花岡事件」で有名な秋田県花岡鉱山や、田中正造で知られる足尾銅山などもあった。その数は、計38935人。


彼らは捕虜や帰順兵(投降兵)、また警察や日本軍、および皇協軍(日本軍に協力した中国人によって編成された)によって「狩集め」られたり「拉致」された農民など一般人(それでもまだ足りず、囚人すら集められた)。こうして「募集」した中国人はいったん中国の収容所された後日本へ「移入」された。この収容所の環境は最悪で、多くの人がここで健康を害した。先に挙げた38935人の内、564人が日本行きの船内で、248人が上陸してから事業所に移送される間に死亡している。


幸運にも(?)各地にたどり着いた中国人にはさらなる地獄が待っていた。内務省からは「中国人に与える食事は少ないほど良い」「入浴させると増長するので、せいぜい洗面器一杯の水か湯を与えるだけで十分」などという意見書が出され、警察からも「中国人を甘やかすとつけ上がるから厳しく管理しろ」と指導がなされた。そのため、栄養失調や皮膚病、失明などの患者が増えた。その上、そうして働けなくなった者に対する体罰も横行、死亡者も数多く出た。こうして先に挙げた移送途中の死亡者も含めて6830人(全体の約17.5%)が亡くなっている。


これが冒頭の判決文に見られる「強制連行・強制労働」の実態の一端。ちなみになぜここまで詳細な数字が分かっているかというと、終戦直後、外務省の命により実態を詳しく調査する報告書が作成されたから。この文書が存在したこと自体は知られていたものの、既に破棄されたことになっていた。しかし90年代に、その報告書が残っていることがNHK取材班のスクープによって判明、外務省もこの報告書が本物であることを認めた。


なお、終戦の年の10月、捕虜解放のために秋田県花岡に進駐した米軍が、餓死寸前の中国人と大量の人骨を発見。これにより「花岡事件」が発覚した。


また1958年、戦時中収容所を脱走し、終戦を知らずに13年もの間逃亡生活を送っていた劉連仁氏が北海道で発見された。これは当時大きなニュースとなり、国会でもこの件について質問がなされた*2



このように強制連行された中国人の扱いは、まがりなりにも「日本帝国臣民」であった朝鮮人以上に酷かったようだ。それは17.5%という飛び抜けて高い死亡率にも表れている。「幻の外務省報告書 中国人強制連行の記録」のあとがきでプロデューサーの織田柳太郎氏は次のように記している。

私は、その資料を見て、文字どおり、我が目を疑った。赤茶けたワラ半紙に、半世紀前、日本へ連行されてきた中国の人たちについて、名前は無論、出身地、職業、中国を発った日、日本に着いた日、その後の労働現場の様子まで、細かく記されていた。亡くなった人については、すべて死亡診断書が添えられていた。さらに強制連行を行うため、どのように政策が決定され、どのような体制がとられたかについても詳述されていた。

私は、「侵略」、「強制連行」、「虐殺」といった言葉を安易に使うことは好まない。それは、そうすることによって、かえって、そのことの意味する重大な事実を風化させてしまい、一面では、同じようにあの戦争の被害者でもある日本人に対して、説得力を弱めてしまうと考えるからだ。だが、外務省報告書、事業所報告書、そして、調査員の現地報告書は、「中国人強制連行」としか言いようのない、悲惨な事実を具体的に、しかも詳細に記録していた。*3


NHKスペシャル 幻の外務省報告書―中国人強制連行の記録

NHKスペシャル 幻の外務省報告書―中国人強制連行の記録

*1:ミクシィにもいた。またミクシィではこのニュースに触れている人自体がほとんどいなかった。

*2:なお、この2年後の1960年に雑誌「世界」に掲載された中国人強制連行に関する記事に触発されたのが後に「朝鮮人強制連行の記録」を書いた朴慶植氏だった。つまり、世に知られたのは「中国人強制連行」が先だったのである。それについてはこちら

*3:p224