隠居の独り言 90

子規庵を訪れた。鶯谷駅徒歩5分。明治の俳人正岡子規が約8年住んだ終焉の地で、明治35年9月に亡くなった子規が臨終を迎えた長屋の一角は台東区根岸の路地裏にあり建物は戦後再建されたものだが子規が住んだ明治の風情は今も残る。子規は死の前日「へちま咲いて痰のつまりし佛かな」を詠んだ。だから子規の忌日を「糸瓜忌」と呼ぶ。長らく東京に住みながら子規庵を訪ねたのは初めてだったが気の毒に子規は肺病から脊髄カリエスという凄絶な病を背負いながら、この場所で過ごす。絶筆の「病牀六尺」には「拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸に過すぎず頗すこぶる不穏に存候間ぞんじそうろうあいだ御見舞申上候達磨儀だるまぎも盆頃より引籠ひきこもり(中略)俳病の夢みるならんほととぎす、拷問などに誰がかけたか・・」つまり、病牀六尺、これが我が世界なり。しかも病牀六尺が広すぎる。僅かに手を伸ばして畳に触れることはあるが布団の外へまで伸ばして体をくつろぐことはできない。子規という無二の俳人をここまで苦しめる世は何と無情なのか。ふみを読むと涙が出る。昔は結核は死の病とされ子規も倒れて、どんなに悔しかったか。ボクも数年前、子供の頃読んだ本や唱歌を訪ねる旅をしている。島崎藤村を訪ねて小諸。室生犀星を訪ねて金沢。石川啄木宮沢賢治を訪ねて盛岡。竹久夢二を訪ねて伊香保森鴎外夏目漱石を訪ねて上野あたりをそぞろ歩くなど・・ボクが育った昭和の小学校の頃は本屋も少なく、あっても買える身分でない。父は読書が好きで小さな本棚もあり少年はそれを読み漁った。子規の「病牀六尺」は小説というより随筆だがこんな難しい文を意味も解せず少年は読んだと今更思う。子規の生きた時代は明治の日清日露の戦争の時代で日清戦争では従軍記者として活躍したが帰国後に脊椎カリエスを発症し、約10年の痛みに耐えた人生を送ったが長く病床にありながらも精力的な創作で日本近代文学に献じたのは頭が下がる。最近は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場する子規の元気なころを何度読んだことか。明治人の典型的な人物とされる子規だが、本来なら文中にある親友・秋山真之のように軍人のスピリットを充分持った人なのに、二人の運命は軍人と俳人という、それぞれが卓越した道を極め運命の神の持つ、はかりしれない真理であり玄妙な理だろう。読書の秋。今日9月19日は「糸瓜忌