農協・先祖株組合と自然主義経済

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大原幽学(おおはら ゆうがく、1797年(寛政9年) - 1858年4月21日(安政5年3月8日))は、江戸時代後期の農政学者、農民指導者。天保期に下総国香取郡長部(ながべ)村(現千葉県旭市)を拠点に、先祖株組合(1838年)という農業協同組合を世界で初めて創設した。

出自は明らかでないが、武士階級の出身であったことはまちがいないとみられており、尾張藩重臣大道寺直方の次男として生まれたとの説もある。

幽学の語るところによると、18歳のとき故あって勘当され、関西・四国を長く放浪していたという。また知友から占い手法を身に付け占いをしていたこともあった。[1]

1831年天保2年)房総を訪れ、「性学」という、儒学を基礎とする独自の実践道徳を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。その後長部村に招かれ農村再興に努力することになった。

幽学は、先祖株組合の創設のほかに、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止など、農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。1848年(嘉永元年)2月に、長部村の領主清水氏は、長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。1852年、反感を持つ勢力が改心楼へ乱入したことをきっかけに村を越えた農民の行き来を怪しまれ勘定奉行に取り調べられる。1857年に押込百日と改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。5年に及ぶ訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆き、翌年、墓地で切腹して死亡。国指定史跡の旧宅が残っている。著作に「微味幽玄考」がある。



農協なんてものは、もはや自民党の重要な集票組織であり、農政では最も重視される団体であるのだが、この農協・先祖株組合を最初に作った人は、奇異な目で見られ、また権力に弾圧されたのである。

なんでも最初に物事をやる場合、多くの圧倒的多数や権力側は、見たこともない・聞いたこともないものに対して、つぶそうとするのである。

ところが何十年かしてみると、誰もが皆やっているという・・・摩訶不思議だったものが常識へと変わるわけだ。

今、平和党の提唱している自然主義経済を奇異な目で見たり、そんなものは無理であろうと言っている人はたくさんいるだろう。私のこれまでの運動論でいえば、無農薬栽培・有機野菜を作ったときもそうであったし、住民投票制度も情報公開制度もそうであった。今では誰も文句をつける人がいない。これはまさしく大原幽学と同じである。今では時代のスピードが速くなったため、私はまだ生きることができている。

とくに守銭奴政権時代には、こうした質素倹約という志向は無視される。現代も経済優先時代だが、これは心を失う時代である。この時代は貧富の格差拡大から必ず武人政権へと移行し、改められるのが時代のサイクルというものだ。


http://mainichi.jp/area/chiba/archive/news/2008/05/06/20080506ddlk12040143000c.html

田植え:早乙女にふんし、母子らが−−旭 /千葉

 旭市長部地区にある江戸時代後期の農政学者・大原幽学(1797〜1858年)ゆかりの水田で5日、都会人と地元住民との交流田植えが行われた。「旭市都市農漁村交流協議会」(佐伯時夫会長)主催で、東京マイコープ、パルシステム千葉の会員とその家族計約170人、旭市民約70人が参加した。

 この水田は世界で初めて「先祖株組合」を結成した幽学が谷田を10区画(1区画10アール)に整地したもので、国内で唯一、国指定史跡になっている。

 参加者は地元農家の主婦らの指導で2区画の田んぼに入った。中には、同協議会が用意したかすりの着物に赤いたすき姿の“早乙女”にふんした母子らもいて華やいだ田植え風景となった。

 6日に行う市川市の子ども会240人を含めた参加者は今後、7月の草取り、9月の稲刈り、10月の収穫祭の体験などを通じて交流を深める。