理系に進学した理由
高校の時は文系だったにも関わらず一念発起して理系、それも物理系に進学した理由は、
「やっぱり世の中のことが知りたい!」という思いが捨て切れなかったからだった。
世の中は、どういう風に動いていくのか?
どこに向かっているのか?
現代に生きる上でそういう疑問に答えるためには、科学技術という思想体系を齧ることが、不可欠だと感じたのだ。
そしてせっかく齧るのならば、「やりたいこと」に繋げた方がいいんじゃないかと思った。
「やりたいこと」とはすなわち、多少なりとも「人類の営みをよくすること」であった。あまりにも漠然とした夢であり、具体的なプランは何もなかったが。
「人類の営みをよくすること」は、2つの傾向に分けることが出来ると思っている。
それは、社会制度による変革と、学智に基づいた技術による変革だ。
当時の自分にとって、学智に基づいた技術による人類全体規模の変革の方が夢に満ちあふれている気がしていた。
それは、人類の足跡を鑑みても、巨大な変革とは学智を拠り所とした天才的な所業によってもたらされていることから明らかなように思われた(夢の価値と、その夢がどれだけの影響力を持っているかという2点に相関は存在しない。だが、夢に影響力を求めることは、重要な要素であると思う。クラーク博士の弁を引くまでもなく、大志こそが変革のモチベーションとなる)。
そして、その様な変革の一助となるために、学智の上に成り立ったエンジニアリングを修める必要があると感じたのである。
そこで、僕は文系から理学部の、それもできれば物理系へ進むというとても風変わりな選択をした。
物理の難しさ(特に量子力学w)と自分の実力不足に気持ちがくじける時もあったし、これからもあるだろう。
だが、私には“世の中のことをもっと知りたい”という好奇心が残されている。そう思うと、強くなれる気がする。
結局
私は枚挙にいとまが無い疑念と、
世の中への少しばかりの期待を持って、
毎日を過ごしていきたいのだ。
『世の中に真摯であるべし。曇りなき眼で、見定めよ。』
世の中に真摯である、ということは、
『社会を通して、私たちは皆、繋がっている』という強い思いを持つということだ。
その思いは、
“単純な価値観には囚われない好奇心”と“次の行動への指針”を与えてくれる。
この思いに忠実であること。
私の人生を通して常にそう有りたいと、切に願う。
もうちょっと楽に考えられればいいけれど、
多分私は、ややこしいことを、ややこしく考えて、一生を生きていくのだと思う。
それもまた良しってことで。
ひとり日和
- 作者: 青山七恵
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2010/03/05
- メディア: 文庫
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今更ながら、五年前の芥川賞受賞作となった青山七恵さんの『ひとり日和』を読んだ。
実家を離れ、東京に住むことになった「わたし」は、
遠縁のお婆さんと、二人だけの生活をはじめる。
それ以前、「わたし」とお婆さんには面識が無く、
二人の生活は微妙な距離感でスタートする。
日常の場面を切り取り訥訥と進行するストーリーは、
読んでいて、せつない。
それは「わたし」に、若者が持つと思われる情熱がないからだし、
端的に言えば「わたし」の生活がスローだからだ。
「わたし」たちの住む家の、目と鼻の先には駅のホームがある。
その駅や走り行く電車は、時たま、
“社会=外の世界”を具現するものとして登場する。
家にいると、電車の音やアナウンスの声が絶え間なく聞こえてくる。
快速や特急が通るたびにガラス戸ががたがた揺れるが、もう慣れた。
フリーターと老人の家にはこれくらい喧騒があったほうがいい。
上の引用はまさしく、そんなような場面である。
「わたし」は社会の振動を感じ取ろうとしない。
それが目の前に存在するにも拘らず。
外界に対して耳を傾けることに、もはや何の価値も見出せなくなっている。
それどころか、それらは耳障りな喧騒でしかない。
そういうのって、スローだな、と思う。
この「遅さ」は、なんだかすごく哀しい。
書評ではないのだけれど
- 作者: 堀紘一
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2004/10
- メディア: 単行本
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本書は、成功するビジネスパーソンには、どのような資質が必要とされているかを明示した本である。コンサルタントとして一世を風靡した堀紘一。彼の経験に裏付けされた、魅力的なビジネスパーソンの条件には十二分の説得感がある。
さて、本書でとりあげられていた話題のうち、興味をそそられた点を二つ
1.日本の民主主義には「血」が足りない
歴史をさかのぼれば、民主主義とはまさに「血の革命」だったといえる。たとえば、フランス革命はマリーアントワネットがギロチンにかけられたことで有名だが、彼女の死をもって市民が民主主義を獲得したわけではなく、十年以上にわたって、それこそ何万人という庶民が官憲の手で犬畜生のごとく殺されているし、革命派のなかでも血で血を洗う抗争が絶えなかったのである。
(中略)日本のために死んでいった英霊や戦争に巻き込まれて死んだ無辜の民には申し訳ないが、民主主義を勝ち取るために死んだ人間は一人としていない。日本にとっての民主主義とは、戦争に負けたことにより、やってきたアメリカ占領軍によって、強制的に押し付けられたもにの過ぎないのだ。(中略)つまり日本人は、民主主義について真剣に考えたこともなく、その価値もさほどわかっていないのである。
ちょっとばかしナイーブな主張だが、含蓄もある。
すなわち、「日本人の民主主義に対する意識は低い」という問題に対して、その原因を現在の政治構造やメディアに求めるのではなく、日本人という系譜に求める点である。
ただ、個人的には戦争で三百万人の人達が無くなってこのような形の民主主義ができあがったのは事実なわけで、その血があって現在のシステムがあるのだということにリアリティを感じているかどうか、が肝要だと思うが。
このように、現在の日本が抱える問題の根本原因を、系譜や歴史に求める考え方は、司馬遼太郎の「この国のかたち」などにもみられるが、こういった考え方は、真偽を科学的に確かめ難いと言える。
だが、何故か”しっくり”きてしまうから不思議だ。
ちなみに、この話題は、本書のテーマとまったく関係がなさそうではある。だが本書では、日本の民主主義には血が通っていないから、双対する資本主義も健全でなく、「戦後サラリーマン社会」という特異な環境を作り出してしまった。というような文脈が続いている。
日系企業には、仕事に受動的な人=サラリーマンと、仕事に能動的な人=ビジネスパーソンがいるという話。ここまではよく聞く話で、本書もこの話に深入りしているわけではない。
僕の考えをつけたすならば、もう一種類の人がいると思う。
それを便宜的にエリート、と呼ぶとしよう。ビジネスパーソンとは、仕事に対して能動的であり、日々の自分の仕事を効率的にこなしていくことに注力する人間である。では、エリートとはどんな人間なのか?
おそらく、仕事に対する注力という意味ではビジネスパーソンとエリートでたいして差はない。
だが、ビジネスパーソンが仕事に注力する目的が「自分の商品価値を最大化すること」であるのに対し、エリートが仕事に注力する目的は、「自分の所属する組織の価値を最大化すること」である。
この考え方を用いるならば、本書の題名にもあるような「一億円playrになってやる!」というマインドセットは、ビジネスパーソンのものである。それに対してエリートは、”誰にも言われていない”のに、”直接自分の利益にならない”のに、それなのに「組織の価値を最大化」しようとするのだ。
さて、ここからは完全に本書を離れ、話を漂流させてしまいたい。
エリートの性質である「強制されないのに、自分の所属組織に対して当事者意識を持つこと」は、そのまま現在の日本人に足りないもの、と言い換えることがでないだろうか。足りないという表現が、ヴィヴィッドすぎるならば、日本人が求めるべき資質である、と言い直しても良いかもしれない。
海外の選挙ニュースや、innovativeな発明の話を聞くにつけ、彼らの社会に対する当事者意識、すなわち、「自分自身が、自分の手で、社会の存在価値を向上させるのだ」という強い当事者意識を感じる。
もちろん日本人にも、エリートはいる。だが、知の先取りによる差分が利潤の源泉となる、このポスト産業資本主義の時代において、エリートという存在がより多く必要とされるのは、疑う余地がない。
「血を知らない民主主義」の国、日本。
僕ら若輩者は、この国に当事者意識を持たなきゃならない。
「明治」という国家
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 1989/09/30
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ちょっと申し上げておかなければなりませんが、私がこれからお話しすることは、明治の風俗ではなく、明治の政治の細かいことではなく、明治の文学でもなく、つまりそういう専門的な、あるいは各論といったようなことではないんです。
「明治国家」のシンというべきものです。作家の話とは、どうも具体的です。以下、色んな具体例を挙げますが、それに決していちいち即したような、それにひきずられるようなことはなさいませんように。
それら断片のむれから、ひとつひとつ明治国家のシンはなにかということを想像して下されば幸いなのです。
私が明治という時代に興味を覚えたのは、なんといっても『坊ちゃん』の時代を読んでからだった。この漫画は、とてつもなく、”明治時代の人間”を描いていて、その結果として、とてつもなく”明治”を描いている漫画である。
そして、司馬遼太郎も、まったく同じ方法で、私たちに”明治”を語ろうとしている。
彼が明治という時代を”時代”ではなく”国家”として語ったのは妙に納得だった。
戦争を体験し、国というものを大切にしない愚かな高官たちに幻滅した彼がある種の夢を描いた時代。
つまりは、”人間”と”国家”とが同じベクトルを向いていた時代を描いているのだ。
その”人間”と”国家”との関係性は、私たちが普段使うような”国民”と”国家”との関係性とは、おそらく全く違うものだろう。
まだ”国”の血液として”人間”が流れ、”国”が傷つけば”人間”が失われるような時代である。
国家のことなんかどうでもよい国民と、国民のことなんかどうでもよい国家と。
そんなような関係になってしまった今とは全く違うのだ。
別にそうなってしまったのが悪いという訳ではない。
ただ単に、明治がそういう時代だったのだし、現在がこういう時代であるのだ。
もっと簡単に言うならば、日本という国がベンチャーだった頃の話だということだ。
いつ潰れるかわからないけど、夢に満ち溢れていたのだと思う。
もちろん、現実にはそんなロマンチックな話なわけではなくて、たくさんの犠牲の上に成り立った”夢”だったろうが。
雷の季節の終わりに
- 作者: 恒川光太郎
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
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圧倒的な世界観。
初めて読んだ時、手にとってから一気に読み終えてしまったのを覚えている。
私たちの住む世界とは異なる世界「穏」に暮らす少年。
雷の季節、彼は唯一の肉親である姉を失う。
それと同時に、彼には得体の知れない何かが憑依していた。
異界「穏」にひそむ秘密を知るにつれ、
彼は運命の波によって、彼の在るべき世界へといざなわれてゆく。
読み始めた直後には、恒川光太郎の語感や表現に物足りなさを感じていたのだが(これは恒川氏独自の文体に慣れていなかったということだ)、
物語が展開するにつれ、そういった些細なことはどうでもよくなってしまった。
というよりは、彼が作り上げる少し暗くて幻想的な世界には、
彼の透明な文体が適しすぎていて気にすることに意識が向かないのだ。
まるでブラックホールに吸い込まれたかのように、私は見知らぬ世界「穏」へと吸い込まれていたのだ。
異界を描いたファンタジーは多く存在するが、「雷の季節の終わりに」が描く世界観は、あの「指輪物語」や「ハリーポッター」の世界観にさえ、負けない魅力を持っていると思う。
「雷の季節の終わりに」に続く第3作「秋の牢獄」では、守り人シリーズで有名な上橋菜穂子をして、「これは現代の遠野物語かもしれない」と言わしめた。
その感覚はこの作品でも感じることができるだろう。
作中では「穏」という世界の美しさと残酷さが語られるが、その世界観が、逆に「私たち自身が暮らしている世界」への考察を与えてくれる。明示的には描かれてはいないが、筆者による「私たち自身の世界(実世界)」への批判や疑問を強く感じた。
唯一歯がゆい点は「穏」と「私たちの世界」との比較が、作中の登場人物たちによってなされない点であろう。その比較は読者自身の手にゆだねられている。
どちらの世界にも属しきれず、よりどころがないことに思い悩む主人公の葛藤には考えさせられるかもしれない。
静かな夜にひっそりと、水墨画のような恒川光太郎の世界に浸ってみることをおすすめしたい。
『坊ちゃん』の時代
- 作者: 関川夏央,谷口ジロー
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2002/11/12
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夏目漱石を取り巻く人々を描いた群像「漫画」。
そう。漫画である。
夏目漱石が生きた明治時代というと、日本史の中でも指折りの「男のロマン」時代ではなかったかと思う。
漫画からは、和魂洋才を本気で成し遂げようとしていた明治という若人の持つ熱気がムンムンと伝わってくる。
三島由紀夫は戦時中、自分は国のために死ぬと本気で信じていたそうだ。そして玉音放送を聴いた夏の日から、自分にはもはや「英雄的」な死はないと悟り、その事実こそが彼にとっては真に不幸であると考えていた。そして、あの割腹自殺。
村上龍は「希望の国のエクソダス」のなかで、ある中学生をして「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。ただ、希望だけがない。」と言わしめている。
僕には、漫画の中に描かれているムンムンは、彼らのいう「英雄」や「希望」とつながっている気がする。それは時代が要求するもので、今のご時勢には決して無いものなんだと…。
そんなムンムンが闊歩していた時代の只中で、夏目漱石は必死で考える。どう生きるのが一番得心の行く生き方なのか?そう一生懸命に考えているのだ。
この漫画は悩む漱石の描写がオモシロい。とにかく優柔不断。国の行き先を案じた次の瞬間には、今月の生活費のやりくりを苦心する。血気溢れる若者を家にあげてるのに、そいつの話をろくに聞いちゃいない。
そう、解説で高橋源一郎がいうように、漱石はまさしくこの漫画の中で生きているのだ。悩みに悩んで平凡たる一人間としての確かな生を送っているのだ。
彼の生き様は明治という時代の持つムンムンの中で異彩を放っている。誰もが前も後ろも分からないまま兎にも角にも突っ走っている、そんなムンムンの中で、国の行く末から自分の進路までをも立ち止まって等身大に悩んでしまう夏目漱石。その姿に、現代人のジレンマ、つまり今を生きる人間たちがもつジレンマが見え隠れしている。
三島や、村上龍の言葉を簡単に言い換えてしまえば、今という時代はみんなが何も考えずに走り出すことが出来るほどムンムンしていない、ということだと思う。多くの人は、走り出す前に立ち止まって考えることを求められる。考えすぎたり、考えることから逃げちゃって、走り出すチャンスを逃しちゃう人がニートと呼ばれる人なのかな、と最近思う。
確かにこの時代にはムンムンさが足りないし、逆に閉塞感で溢れている。でも、だからといって時代を理由にしてしまっては、なんのために生まれてきたのか分からなくなってしまうだろう。
結局、僕も漱石も全国のニートも、将来について悩み、時代について悩んでしまうみたいだ。自分の時代に英雄がいようとも、希望が満ちていようとも、悩む人は悩む。そう信じたって、良い気がする。僕も漱石もニートも紙一重ってことで。
VCについて少し調べて気になったこと
パスワード忘れてログインできないまま放置してましたwww
お久しぶりです。VCに関連した本を読んだりネットで調べて面白かったことがあったのでシェアを。
一番印象に残ったのは、「VCとの契約成立はベンチャーにとって大変なコストである」というものだ。VCから投資を受けようとすると、20回以上の面談・CEOorCFOによる事業プレゼンが5回以上、加えて、膨大な資料づくりが必要になるとのことだった。それも、「1社」のVCにつき、それだけの労力がかかると。
通常、ベンチャーが増資を検討する場合、複数のVCに提案を持ちかけるのが一般的なので、コスト的に「マジでヤバい」だろうことは、容易に想像できる。アーリーステージのベンチャーにとって、この負荷はとても手に負えるものではなく、本業に支障をきたすこともあるそうだ。
従ってベンチャーからすると、VCから投資を受けることは、諸手を挙げて歓迎するような事ではなく(!!!)、相当な覚悟が必要な事らしい…。今まで、VCとベンチャーの関わりを、ベンチャー側のコストという観点から考えたことがまったく無かったので、この意見は純粋に新鮮な驚きだった。VC側の人間は、ベンチャー側のコストを軽減する配慮をしなてくはいけないと感じた。
また、日本のVCに関してこのような意見も。今もまだそうなのかな?
1.欧米のVC投資のexitには、IPOとM&Aという2種類が存在するが、日本の場合は、ほぼIPOのみ。
2.したがって、VCがベンチャーに投資するかどうかという判断は、「その会社がIPOできるかどうか?」に集約され、非常に難しい判断が求められる。(欧米よりも日本の方が難しい、という訳ではないだろうが。。。)
3.そのような判断ができる人間は日本には10人ほどしかいない
マジか…
4.結果、10社程度のVCのみが、本当の意味で「VCとしての判断」をしており、あとのVCは、そういった10社に追随するという構図が成り立っている。
だそう。
VC業務はここまで難しいのかと認識させられた…