過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

『法華経』には大きくは二種類。地上の『法華経』と天上の『法華経』

法華経』には大きくは二種類ある。地上の『法華経』と天上の『法華経』。
鳩摩羅什の訳した『法華経』をベースに整理していく。
  ▽
①経典としての『法華経』‥‥地上の『法華経
②経典の中に説かれた『法華経』‥‥天上の『法華経

法華経』という経典には、過去に『法華経』が説かれたということが述べられている。

①は釈迦が説いたことになっている。もちろん釈迦が歴史的事実として説くはずはない。だが、そういう設定になっている。

②釈迦以前に無数の仏菩薩が説いたとされる。そのことが、『法華経』の中で述べられている。
  ▽
過去に『法華経』を説いた「仏菩薩」の例をいくつか挙げる。

「日月燈明仏」
二万仏、皆同じく一字にして日月燈明と号く(中略)日月燈明仏、大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう(序品)

「妙光菩薩」
妙光菩薩、妙法蓮華経を持ち八十小劫を満てて人の為に演説す(序品)

文殊師利菩薩」
文殊師利是れ菩薩の初の法に安住して能く後の世に於て法華経を説くと名く(安楽行品)

「大通智勝仏」
爾の時に彼の仏(大通智勝仏)、沙弥の請を受けて、二万劫を過ぎ已って、乃ち四衆の中に於て是の大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。(化城喩品)

「大通智勝仏の子の十六の菩薩」
是の十六の菩薩は常に楽って是の妙法蓮華経を説く。(化城喩品)
十六の菩薩沙弥、仏の室に入って寂然として禅定したもうを知って、各法座に昇って亦八万四千劫に於て、四部の衆の為に広く妙法華経を説き分別す(化城喩品)是の十六の菩薩は常に楽って是の妙法蓮華経を説く。(化城喩品)

「阿私仙人(提婆達多の前世)」
我大乗を有てり、妙法蓮華経と名けたてまつる、若し我に違わずんば当に為に宣説すべし(提婆達多品)
普く十方の一切衆生の為に妙法を演説する(提婆達多品)

「威音王仏」
威音王仏の先に説きたもう所の法華経二十千万億の偈(常不軽菩薩品)

是の法華経は大に諸の菩薩摩訶薩を饒益して、能く阿耨多羅三藐三菩提に至らしむ(常不軽菩薩品)

是の比丘終らんと欲する時に臨んで、虚空の中に於て、具さに威音王仏の先に説きたもう所の法華経二十千万億の偈を聞いて、悉く能く受持して、即ち上の如き眼根清浄・耳・鼻・舌・身・意根清浄を得たり。是の六根清浄を得已って、更に寿命を増すこと二百万億那由他歳、広く人の為に是の法華経を説く。(不軽菩薩品)

「不軽菩薩」
是の菩薩復千万億の衆を化して、阿耨多羅三藐三菩提に住せしむ。命終の後二千億の仏に値いたてまつることを得、皆日月燈明と号く。其の法の中に於て是の法華経を説く。(常不軽菩薩品)

『法華経』は、たくさんある

法華経』の整理を始めてみた。
いろいろあるが、少しずつまとめていく。
法華経』は、たくさんあるのだ。
サンスクリット語の原典「サッダルマ・プンカダリーカ・スートラ」
 सद्धर्मपुण्डरीक सूत्रSaddharma-puṇḍarīka-sūtra 「正しい・法・白蓮・経」「白蓮華のように最も優れた正しい教え」
鳩摩羅什の訳した「妙法蓮華経」406年
竺法護の訳した「正法華経」286 年
④闍那崛多・達磨笈多共訳「添品妙法蓮華経」601年
  ▽
日本に伝わって、もっと重宝されたのは②の鳩摩羅什の訳した「妙法蓮華経」である。略して『法華経』という』
①の原典と②の漢訳と比べると、いくつか意訳、超訳、曲解が散見されるが、じつに見事に中国語に訳されている。
で、歴史的に基軸となっている鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」をベースにしていく。(続く)

戸田城聖と池田大作は、板曼荼羅をホンモノと信じていたのだろうか

戸田城聖池田大作は、板曼荼羅をホンモノと信じていたのだろうか

Mさんとの対話④

───創価学会としては、裁判はどういうふうに決着をつけたかったんでしょうね。長引けば長引くほど、板曼荼羅がニセモノらしいということがゴシップになっていくのは困るわけで。

「北條さん(池田の次の第4代会長)と秋谷さん(面に次の第5代会長)は、裁判で決着つけずに「和解したらどうか」という意見だったようだ。

ところが、山友(創価の顧問弁護士 山崎正友:謀略部隊を率いる)が、後々のためにしっかりと決着を付けなくてはいけないと、全体の訴訟指導をした。あとで、山友から直接聞いた」

───なるほど、そして、最終的には最高裁で「司法になじまないとして」いわば門前払いとなったわけですね。
まあ、しかし、10年に渡る裁判闘争で、板曼荼羅そのものに対する疑惑はひろくしれわたることになったので、Mさんとしては成功だったといえるかも。
  ▽
───ところで、戸田城聖池田大作氏は、板曼荼羅をホンモノと信じていたんでしょうかね。どう思いますか?

「戸田さんは、本当に信仰があったのかどうか。宗教ビジネスで板本尊をお宝として広めたのだと思う」

───戸田さんは、宗教ビジネスの天才と思います。戸田さんが弘安二年の板曼荼羅を本尊としてお宝にした背景は、どういうことにありますか?

板曼荼羅は、富士大石寺の御影堂(みえいどう)にある御影(御影:祖師の人形)の背後にあった。はじめは板曼荼羅のみ、御影はなかった。あとから御影ができた。

本来の拝み方は、十界曼荼羅の前に『法華経』十巻を置くかたちだった。それが、公開されるになると、板曼荼羅のニセモノだとバレるので、御宝蔵に移した。御宝蔵というものの、いわば倉庫である。

その御宝蔵に戸田城聖がいって、そこに収納されているいくつかの板曼荼羅を見た。その曰く因縁を聞いているうちに、弘安二年に図顕されたということになっている板曼荼羅をみた。〝これはいける〟と踏んで、三大秘法の大御本尊とした布教していくことになる。

このあたりは、戸田のカリスマ的な話術、大確信みたいなもので信者が増えていく。そして、信仰の結果が実証として示されていく。そしてまた、信徒が増える。あれあれという間に、ゼロから75万世帯となった。」

───戸田さんは、当時の戸田はまだ50代ですから、その才覚と組織力たるややすごいことです。いわば香具師(やし)のような才能もあった。信徒はすぐに騙されとしまう。板曼荼羅の類で、〝お肉牙〟(にくげ)というものもあったんですね。

お肉牙とは、戸田城聖の講演録によれば、日蓮が弟子の日興に譲ったとされるお肉牙(にくげ:奥歯)みたいなもの。800年も経ているのに、腐らずに生きている。しかも、脈打っている。肉が次第に盛り上がって、広宣流布の暁には、歯をすべて覆い尽くすと信徒に話している。「末代に言い伝えよ」と話している。まあ、板曼荼羅とは、そうしたお肉牙のレベルなのかもしれませんね。
 ▽
───ところで、池田大作さんは、そもそも板曼荼羅を信じていたんでしょうかね。

池田大作は、最初の頃は、信仰していたかもしれないけれど、〝正本堂〟を建立したときとに、ニセモノと気がついたんだと思う。落慶する際に、板曼荼羅を御法蔵から遷座した。

その際、赤澤朝陽に写真を撮らせたり、朽ちている部分を修復したりした。間近に測定したり観察してみると、〝ああ、これはどうみても後世の偽作だ〟と気がついたのだと思う。

けれども、真実の本尊だと会員に伝えて、355億円もの寄付を募ったわけだから、今更ニセモノだとは言えない」

───はじめは信じていたけれど、あとでニセモノと気がついた。でも、もう会員あいだでは、「板曼荼羅が絶対だ」というふうになっていた。そして、本門の戒壇たる「正本堂」もできた。いまさらニセものであったとは言えないわけですね。(続く)

小笠原慈聞の事件

戒壇の本尊:板曼荼羅」が後世の偽作と

Mさんとの対話④

彼は創価学会相手に、「正本堂」に安置された「戒壇の本尊:板曼荼羅」が後世の偽作であると、訴えたのであった。

───創価学会は「戒壇の本尊:板曼荼羅こそが究極の真理でありこれを拝めば絶対に幸福になる」と訴えて信徒を拡大してきました。その本尊が後世の偽作であることは、かつてから言われてきたことですね。

「そう。たとえば、安永弁哲の『板本尊偽作論』は、なかでもよく知られた本だ。直接、これは安永さんから聞いたことがあるんだが、そもそもは、小笠原慈聞(おがさわらじもん)から聞いたという」

───ほぅ。小笠原慈聞ですか。
小笠原慈聞は、日蓮正宗の僧侶であり、「神本仏迹説」(しんぽんぶっしゃくろく)を唱え軍部に迎合し日蓮宗との合同を図ったといわれていますね。

その説が、創価学会弾圧の起因をつくり初代会長は獄死したと思い込んでいた。だから、「小笠原慈聞をみつけたら、断固一戦を交えよ」と、戸田城聖は青年部に指導していたんですね。

1952年(昭和27年)4月27日、28日に総本山で「立宗七百年祭」が行われた。その時に登山していた小笠原慈聞を創価学会の青年部が集団(約50名)で取り囲んで吊し上げた。「神本仏迹論を、潔く謝罪せよ」と。50名でたった一人の坊さんを吊るし上げるなど、暴行・脅迫事件ですね。

「青年部が数十名とりかこんで、小笠原を肩車をして牧口会長の墓まで連れて行って詫び状を書かせている」

───騎馬の上に小笠原を乗せ、メガホンを口に当てて、大声で叫んだ。「神本仏迹論の張本人、小笠原慈聞!宗門に巣くう師子身中の虫、牧口先生を殺した小笠原慈聞!牧口先生を殺した悪坊主!」と。
多勢に無勢。血気盛んな創価学会の青年部ですから、さぞや恐ろしかったことでしょう。詫び状と言っても脅迫から書かれたものでしょう。

「そう、それで後に小笠原慈聞は、事件の顛末を書いている。そして、創価学会の信奉している板曼荼羅はニセモノだと吹聴したということだ」

───私も国柱会の田中香浦(こうほ)会長を訪ねた時、「創価学会を批判する文書を小笠原慈からもらった」と聞いたことがあります。「こんど、見せてあげる」と言われたのですが、行きそびれているうちに、田中会長は亡くなってしまいましたが。(続く)※画像は当時の「聖教新聞」から

 

 

ブッダのたとえは、なかなかすばらしい

数多(あまた)ある経典の中でも、『ダンマパダ』は最古層のたぐいである。他に、『スッタニパータ』もそうだ。

そこにはみられるブッダのたとえは、なかなかすばらしい。
たとえをとおして、なるほどそういうことかという感じがつかめる。
ダンマパダから、たとえの部分をピックアップしてみた。たとえを「 」でくくった。

新約聖書』もそうだが、教えの見事さ・わかりやすさは、たとえばそのたとえの見事さにある。いくつかあげてみよう。
  ▽
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――「影がそのからだから離れないように。」

7 この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――「弱い樹木が風に倒されるように。」

8 この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。――「岩山が風にゆるがないように。」

25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、「激流もおし流すことのできない島」をつくれ。

46 この身は「泡沫のごとく」であると知り、「かげろうのようなはかない本性のもの」であるとさとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、「(深い)湖は汚れた泥がないように」――そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

121  その報いはわたしには来ないだろうとおもって、悪を軽んずるな。「水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる」のである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。

145  「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め」、慎み深い人々は自己をととのえる。

170  世の中は「泡沫のごとし」と見よ。世の中は「かげろうのごとし」と見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

173  以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――「雲を離れた月のように。」

240  「鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なう」ように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。

241  読誦しなければ聖典が汚れ、「修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ」、なおざりにするならば、つとめ慎む人が汚れる

254  「虚空には足跡が無く」、外面的なことを気にかけるならば、〈道の人〉ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。

283  一つの樹を伐るのではなくて、「(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。」「(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

345、346  鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。」宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、――それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

387  太陽は昼にかがやき、月は夜に照し、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。「深い湖が、澄んで、清らかであるように」、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

413  「曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく」、歓楽の生活の尽きた人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

その他、たくさん。ランダムに上げけていく。
  ▽
54 「花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。」しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。

239  聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、――「鍛冶工が銀の汚れを除くように。」

40 この身体は「水瓶のように脆い」ものだと知って、この心を城郭にように(堅固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。――しかもそれに執著することなく。

47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、「眠っている村を、洪水が押し流して行くように。」

48 「花を摘むのに夢中になっている人」が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。

60 「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。」正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。

たくさんあるので、このあたりで止める。

ふいに訪ねた磐田市の医王寺

「そういえば」と通りかかったお寺。ふいに訪ねた。磐田市の医王寺。
───参拝させてもらっていいですか?
「ああ、どうぞどうぞ」。

気持ちよく迎えてくれた。
そして、仏前でしばし瞑想させてもらう。とってもいい時間を頂いた。
なかなかこうやって、落ち着いて座って拝みたくなるお寺は少ない。
「法事がなければ、瞑想会でもいつでもご利用してください」と言ってくださった。そのうちシタールと瞑想など企画してみようかな。
  ▽
見事な本尊の大日如来だ。
その他、小堀遠州の旅日記。秀吉や家康の朱印状。和算算額(算数の問題を掲げて〝解いてみよ〟と)。貴重な資料が盛り沢山の資料。許可を得て撮影させてもらった。
  ▽
これほどのお寺だから、お寺の維持って大変と思う。草刈りから庭木の剪定、建物の修復。お金がかかる。お寺としてやっていけるのは、檀家は200軒がギリギリとも言われる。

「まあ、うちはそのあたりです。住職というのは、文字通り住まうのが仕事みたいなもので、人のいないお寺は荒れますね。また、お訪ねしてくれた方とのやり取りもできなくなってしまいます」

その他、密教についていろいろ質問したのだが、ケータイ電話がなってあれこれと長話になり、頃合いを見て失礼することにした。
  ▽
ふと寄らせてもらうお寺が、あちこちにあるのは、ありがたいこと。
私は宗派は選ばない。
密教の寺に行けば、真言を唱える。日蓮宗のお寺に行けば、南無妙法蓮華経日本山妙法寺のお寺に行けば、団扇太鼓。浄土宗にお寺に行けば、南無阿弥陀仏天理教の教会に行けば、「天理王のみこと」の歌と手踊り。
  ▽
何しろ過疎の山里にいるので、まちなかに用事がある時には、あっちもこっちも寄るのだ。
昨日は、お寺を訪ねたり、藤の花、溶接の鉄工所(部品・部材をもらう)、元洋裁所(ソファー、壊れた家電、ギター、カカシをもらう)、ブックオフ、漁港、インド人を訪ねたりであった。あかりは、こうしていつも同行だ。

「おとうちゃんは、あちこちで注意ばかりされてるね」とあかり。藤の花を見ようと近道を通ろうとすると「あ、ここは通らないでいでください」。フェレットを抱いている人がいたので、触ろうとすると「伝染するので触らないでください」とか。

 

『スマナサーラ長老が道元禅師を語る』(佼成出版社)の見本が届いた

スマナサーラ長老が道元禅師を語る』(佼成出版社)の見本が届いた。

ようやく本の形になった。佼成出版社の編集の大室さんとは20年ぶりの仕事。

売れると嬉しいけれど、まあ縁があればの世界。
それにしても、編集者のきれいな字、丁寧な手紙よ。

次は、死後の世界についてのスマナサーラ長老の本作り。ビオマガジン社(月刊誌anemoneを出版)から。

一冊のかたちになるには、8割以上棄てている部分がある。ということは、残りの8割を素材にして、また本が作れる。だけれど、出版してくれる出版社がいてこその話。

 

つねに直面する問題がある。育つに連れて問題は移ってゆく。

子どもは育つ。育っていく。そのはやさはすごいよ。
そうしてその時、その時、いろいろな問題がある。
つねに直面する問題がある。育つに連れて問題は移ってゆく。
  ▽
赤ちゃんのときには、お母さんは眠れないとか、いろいろ問題がある。サポートが必要のときだ。未就学児のときもそう。低学年時のときもそうだ。保育所がないとか、学童保育が毎日ないとか、いろいろある。
そして不登校になったら、これまた問題がある。

しかし、当事者、問題を抱えている親は、あれこれと発信する余裕なんてない。悲鳴を発する様子すらない。行政や教育委員会に相談しても、時間がかかるのみで、エネルギーのムダと思ってしまう。なので、声が、心が届かない。
  ▽
事態というものは刻々と変化していく。その時その時の問題をうまく吸い上げ発信し、伝えていくことが、とっても大切。

だって、子どもが将来を担う。子どもを大切にしない国は衰退する。滅びる。
子どもが不幸なら、親は不幸。みんな不幸になる。
子どもが幸せなら親は幸せ。社会は幸せ。
  ▽
きょう「種苗法」のことで電話したHさん。子どもはずっと不登校。そして、来年はもう中学だという。「育つのは、はやいねえ。そして、先のことはわからないねえ」と。

あかりを連れてまちなかにでかけた

あかりを連れてまちなかにでかけた。とてもおしゃれな高級ガラステーブルを頂いて、次に古民家サロン「香爐」を訪ねて庭でお弁当。
そして、布絵作家の竹山美江さんを訪ねて、本作りの最終打ち合わせ。
もう89歳。ひとり暮らし。「はやくつくってくれないと、死んでしまいそうだから」といつも言われる。
「はじめには、この三体の仏さまを入れてね。母ひとり子ども二人で暮らしてきたんだもの。そんなイメージだわ」
5月には完成だ。200点くらいの作品を収めた画集になる。その後は、個展か三人展を主催するつもり。
  ▽
あかりの大好きなドン・キホーテに寄ったり、車検を通すために車のパーツ屋に寄ったり。「書店の谷島屋に寄ってよ」といつもあかりは言う。立ち読みが大好きなのだ。二俣図書館でも谷島屋でも、じっくり読書していた。
ひとりで読書が楽しめる子になった。おとうちゃんとしてはうれしい。どんどんと、ひとりで学んでいける。一生の宝になる。そしてまたその時間、こちらは自由になれる。
  ▽
古民家ギャラリー:マルカワの蔵に寄ればいつもすばらしい作品展示がある。そして出会いがある。写真は麻の布を描いたもの。
ここを主催している本島夫妻の三遠南信のネットワーク作り、聖隷病院や天竜厚生会の歴史沿革の話(ともに結核療養患者の施設。患者の方が農業や養豚をしながら暮らせるように、暮らしの場を山里につくった。それがいまでは、最高の施設、病院になっている)など、語ることは尽きない。
  ▽
あさの洋品店ではいつものように、たのしいおしゃべり。阿波踊りも参加したいといっていた。ぼくのエネルギー源というのは、いろいろな価値観を持った方との語り合いなんだなあと思う。かけあいのときに出てくる自分のおしゃべりを聞いているってこともある。
  ▽
なにしろまちなかまで往復100キロだから、用事があるときには、あれもこれもとプランを立てる。しかし、計画通りには行かない。きめたことはちゃんとやらなくちゃいけない。けれど、どんどん状況は変わる。基本、思いつき、ひらめきで生きているんだ。そのほうがいろいろと広がっていくんだね。

 

 

 

 

 

 

「私」は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっている

「私」という自己を規定しているのは、脳の働きではない。自己と他者を明確に区別しているのは、免疫系である。免疫系の実体は臓器のようなパーツではなく、全身に散らばった免疫細胞のネットワーク。「私」は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっている。(福岡伸一:要旨)
  ▽
「私」とはなにか。「自分」というものの根拠はなにか。「心」というのはどこにあるのか。

デカルトの言う「我おもうゆえに我あり」の我。この場合、肉体と精神を分けて、精神の働き(良識)こそが我と述べている。

しかしだ、その「私」は理性であり、その底には無意識の私がある。これはフロイトが夢判断で分析してみせた。弟子のユングは人間には「集合無意識」があるとした。その「集合無意識」あるいは「原型」によって、人は動かされているのではないかと。
  ▽
「私」というものは、たとえば脳細胞にあるのか、あるいは心臓にあるのか。あるいは、それらをつつみこんだエーテル体みたいなものにあるのか。

脳細胞にあるとする。五感(眼、耳、鼻、舌、身、意)が外部の情報をキャッチ(感受)した時、それに対して認識し、指令を発するのが脳である。これが故障したり壊死したら、心身を統合できなくなったりする。「私」として認知できなくなるかもしれない。とすると、「私」は脳にあるのか。

いやいや、脳細胞は、心あるいは意識がはたらく単なるフィールド、あるいはツールとしてあるのかもしれない。
  ▽
自分という意識、思い、執着があって、それが身体と心をまとめているのかもしれない。そのまとめている本体が「私」であり、仏教がいうところの「我」と。

「我」というコンシャスネス(意識)が、無意識、深層心理、さらにはユングの言うような集合無意識からたちあらわれる。さらには仏教でいうところの「阿頼耶識」(アラーヤ)という根本浄識の拠点とアクセスしているのかもしれない。

死後、転生するとしたら、その本体は、この「我」という思い、執着、アイデンティティなのであろうか。
ともあれ、わからない。

『遺伝子はダメなあなたを愛してる』(福岡伸一著 朝日新聞社出版)を読んだ。なにかヒント、緒(いとぐち)になるようなものがあった。以下、一部引用する。
  ▽
イサム・ノグチの代表的な彫刻作品に「ヴォイド(void)」をテーマにしたものがあります。ヴォイドとは何もないこと、空間、あるいはうがたれた穴、というような意味です。作品は文字通り、大きな重い石をつないで作られた環が、ただただ丸く抜けた空間を示しているだけです。(中略)

花粉症とは「症」と名づけられているものの、これは私たちの身体が本来的に持っている能力の一形態なのです。
その能力とは自己と他者を見分け、他者を排除しようとする防衛能力です。それを行っているのが、免疫系です。

私たちはふつう「私」という自己を規定しているのは、脳の働きだと信じていますが、実は自己と他者を明確に区別しているのは、脳ではなく免疫系なのです。

ですから、もし誰かの脳を私に移植できたとしたら、私の身体はその脳に支配されるのではなく、むしろ私の免疫系が、移植された脳を他者として排除しようと猛攻撃するでしょう。

しかも免疫系の実体は臓器のようなパーツではなく、全身に散らばった免疫細胞のネットワークです。つまり「私」は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっているのです。
(中略)
自分の中にどんなに自分を探してもそれは空疎なものなのです。周囲の存在だけが自己を規定している。イサム・ノグチはこのことを知っていたのでした。

「種苗法」の罰則規定

きくらげを栽培して販売しようかとひらめいた。
菌床ではなくて、原木からだ。

うちの敷地に自然ときくらげが生えていた。それが、乾燥きくらげよりも、とても美味しかった。
ということで、ビニールハウスも2棟あるし、そこで栽培して販売できるじゃないかと。
  ▽
ところが、大きな問題。「種苗法」である。
きくらげは、種苗法登録品種であり、販売目的で自己増殖すると罰せられることがわかった。

販売目的で種や苗を増やした場合、開発者の許可を受けていなければ「種苗法違反」となる。刑事罰は、個人なら10年以下の懲役か1千万円以下の罰金、法人なら3億円以下の罰金が科せられる。また、育成者権者からは損害賠償など、民事上の請求を受ける可能性がある。(2022年12月2日に成立した改正種苗法
  ▽
自家増殖に育成者権の効力が及ぶ植物は、現行「353種類」もある。
著作権」のようにその人が表現したもの保護するならわかる。しかし、生ノコなど自然界で発生・増殖したものに対して、罰則がかかるのはいかがなものか。しかし、すでに法律は制定されてしまったわけだ。
  ▽
開発したものの権利保護と海外流出を防ぐことが目的らしい。
では、「春野きくらげ」として自分で開発すればよいのだろうか。そのための成分分析とか開発許可の申請書類とか権利の維持のための費用とか、大変なことだろうと思う。

まあ、販売ではなくて、原木のオーナー制度で、オーナーを募集してその人が収穫するという逃げ道はあるかと思うが。
  ▽
ひろく見ていくと、このようにあらゆるものに対して規制がかかり、罰則がもうけられ、身動きができなくなる時代が来ていると感じる。

 

「板まんだら事件」裁判の過程

いま創価学会は「本尊にまどっている」状態。その一番最初の攻撃は、この裁判であった思う。

Mさんとの対話の続き②

───Mさんは、創価学会と戦ってきました。それも本部職員(民主音楽協会)に在籍しながら、というのがすごい。よくやりましたね。しかも、「蓮悟空」というペンネームで創価学会批判の出版もしていました。

「ずいぶんといやがらせをうけたよ。後に除名になったけれどね」

───話題になったのは、巨大な宗教団体である創価学会を相手取って裁判をしたこと。時間もお金もかかったでしょう。

「そうだなあ。裁判は10年以上。費用は3億円以上はかかったよ」

───うわあ。それはすごい。その資金はどうやって捻出したんですか?

「自腹でやってきたけれど、お金がない。そこで、北海道から九州まで行脚して寄付金を募ったんだよ。そうだなあ、5,000か寺〜6,000か寺にになると思う。とくに日蓮宗は応援してくれて、いろいろなお寺を紹介してくれたよ。ただ、浄土真宗は関わりたくなかったようだが。他の宗派は応援してくれた。」

───ううむ。5,000か寺〜6,000か寺。これまたすごい。そのとき訪ねたお寺との交流がネットワークとなって、無形の財産となっていますね。
しかし、あんな巨大な宗教団体と戦うなんて、よく身体が無事でしたね。いのちがいくつあっても足りない。

「シロアリを床下にまかれた。猫の遺体が玄関にぶら下がっていた。クルマを壊された。無言電話は毎日。駅のホームから突き落とされたこともあったよ」

───よくぞご無事で。ところで、裁判記録をざっと読みましたよ。一審から控訴審、そして最高裁の判決まで。「板まんだら事件」として、ネットで検索したら出てきます。
裁判の趣旨は「正本堂の御供養金の返還請求」となっています。

正本堂」は、広宣流布のときに本門の戒壇となる建物である。本門の本尊(板曼荼羅)を安置する建物である。御供養は、千載一遇のチャンスである。そうやって創価学会に寄付を募った。4日で350億円あつまった。いまでいうと、5,000億円くらいか。

けれども、じつは本門の本尊(板曼荼羅)はニセモノであった。広宣流布は至っていなかった。よって、創価学会は詐欺行為である。Mさんはだまされた(法的には「要素の錯誤」)。なので、供養したお金(400万円)を返せというものですね。

創価学会は、正本堂を建てるに当たって、あおりに煽ったんだ。
〝御本仏、日蓮大聖人様の御遺命たる本門戒壇建立のため、広宣流布のため、正本堂建立に御供養申し上げ奉る大福運と大功徳は、釈尊在世中よりも、数千万億倍すぐれ、日蓮大聖人御在世中よりも、なお偉大であり、一生一代の名誉ある御供養にさらにいちだんと励んでいこう。(中略)

正本堂建立に御供養申し上げ奉る大福運と大功徳は、釈尊在世中よりも、数千万億倍すぐれ、日蓮大聖人御在世中よりも、なお偉大であり、一生一代の名誉ある御供養にさらにいちだんと励んでいこう(『大白蓮華』昭和40年10月号より)〟と。

ところが、その正本堂に安置される本尊(板曼荼羅)は後世の偽作であることがわかった。当時は、ホンモノは、保田妙本寺にある「万年救護の本尊」だと気がついたんだ。

───創価学会は、こう言ってきました。すべての根源は本尊にある。創価学会が正しいのは、本尊が正しいからだ。富士大石寺にある、三大秘宝の大御本尊(板曼荼羅)こそが唯一絶対の御本尊だ。そのようにして信徒をたくさん増やしてきました。

Mさんは、その本尊は日蓮がつくったものではなくて、後世の偽作であることがわかった。そのことを広く世間に宣揚したかった、運動として世論をまきこみたかったわけでしょうね

「そうなんだ。板曼荼羅がニセモノであると、創価学会に詫び状を書かせたかった。ところが、裁判になるとそれは難しいので、御供養金返還という形の訴訟としたんだ」(以下続く)

高橋源一郎の人生相談から

なかなか深くておもしろい。高橋源一郎の人生相談(二人の人に対しての回答)
わたしの周りでも、何人もの、近しい人たちが、自ら死を選びました。
そのたびに、考えたのです。いったいなぜ、彼らは死を選ばなければならなかったのか。
答えはないのだと思いました。きっかけはあったかもしれない。でも、確固とした理由は、彼らにもわからなかったような気がします。
「死」が、暗く冷たいなにかが、「闇」が彼らを抱きしめた。「闇」に抱きしめられることを無上の安らぎと感じるほどに、彼らは、疲れ、傷ついていたのかもしれません。
そう思うようになって、決めたことがあります。現実の前で、わたしは無力だった。
「闇」から、彼らを引き戻すことができなかった。だから、せめて、少しでもいいから、「生」に、「光」のほうに振り向いてもらえるような「ことば」の作り手になりたい。
お母さん。悲しんではなりません。自分を責めてもいけません。それが生き残った者の責務だからです。彼を奪い去っていった「闇」ではなく、あなたは、「光」の側に立たなければならない。こう思ってください。
「わたしのところに来てくれてありがとう。短い時間だったけれど、幸せだった。今度会うことがあったら、抱きしめさせて」と。
彼を二度死なせてはならない。あなたの記憶の「光」の中で、生き続けさせてください。そして、あなた自身もまた、「光」の中で生きてくださるように。
  ▽
こんな話を聞いたことがあります(実話です)。
Aさんは有名な芸術家(詳しくは書けませんが)でカッコよく、高齢になるまでたいへんモテて、奥さんに知られぬように幾人もの愛人(多くは「クリエーター」だったそうです............)を作りました。
晩年、Aさんは体を悪くし、寝たきりになりましたが、奥さんは、この人の世話はわたしがするからといって、他人の手は借りず、ひとりで世話をしました。
そして、動けなくなったAさんの耳もとで「あんたのやったことは全部知ってたわよ。いい気なもんよね。なあにが、クリエーターよ。なあにが芸術家よ。お互いに理解し合ってるって?気持ちワル!いい気なもんよね。
人をバカにするのもほどがあるわよ。これからずっとあなたがやってきたことを教えてあげるから」と、毎日何時間も、Aさんが死ぬまで、ささやき続けたそうです。
Aさんが気の毒だと思いますか?ぼくは、そこまで追いつめられたAさんの妻のほうが気の毒だと思いますが。
そういうわけで、あなたが、Aさんのような目にあわれても、申し訳ありませんがわたしとしては同情できかねます。っていうか、あなたほんとに悩んでます?
その77歳の方との恋愛の心配をするより、ご自分の晩年の心配をしたほうがいいんじゃないでしょうか。でも、もう遅いかもしれませんけど。
『居場所がないのがつらいです』(高橋源一郎著 毎日新聞出版)から

いちりん楽座「創価二世問題」4月21日(日)14時〜17時

いちりん楽座「創価二世問題」(仮)
4月21日(日)14時〜17時(入室は13時半から雑談)
参加費無料 どなたでも 途中入退室可 顔出しも自由
GoogleMeet 下記をクリックすれば参加できる。
https://meet.google.com/ohk-xxgz-znx

「チンゲン革命」という読み物を連載している、若本大作さん(ペンネーム)がゲスト出演してくれることになった。

若本さんは、創価二世である。親が創価の信仰をしており、本人の意図ではなく、いわば信仰(あるいは洗脳)の道を歩まされてきた。
 ▽
宗教の二世の問題は、子どもの頃から信仰を刷り込まれることにある。「この信仰が正しい」と教え込まれ、信仰や組織を離れると、「不幸になる」「地獄に落ちる」と脅かされる。

自分で選び取って躍動している信仰なら、それでいいのだが、宗教二世問題というのは、根が深い。信仰が強烈・濃密であるほどに、子どもは大きく影響を受ける。それは、エホヴァであれ阿含宗であれ、顕正会であれ、創価であれ、同様だと思う。
 ▽
成長していく過程で、その信仰や教義や組織のありよう、いろいろと疑問が湧いてくる。疑問をもって、躍動のない信仰を強いられるのはとてもつらかろう。
かといって、信仰(日蓮創価の組織、池田大作)を離れらるかというと、それが難しい。親とか親戚とか組織の仲間とかに「退転者」だとか言われる。
だがやがて、納得のいくかたちで信ずることはできなくなってくる。
 ▽
若本さんは、ついには信仰を棄た。自ら疑問に抱いたことを、解決しようと模索する過程を「チンゲン革命」として連載している。

その若本大作さんをゲストに、創価の諸問題、日蓮の教義の矛盾、宗教や信仰そのもののありようについて、自由に語りあおうという企画だ。
 ▽
講義でも講座でもない。若本さんの体験を池谷がインタビューしつつ、参加者が自由に発言できるというかたちをとりたい。

※写真は4/10の聖教新聞に掲載されたもの。
池田大作氏の若き日の写真(日蓮「御義口伝講義」のときのもの)聖教新聞では、AIでカラー化が始まっている。

チンゲン革命
https://note.com/hokkelotus

 

 

ブッダは釈尊だけではない。決して一人の人物を意味していなかった

ブッダ釈尊だけではない。決して一人の人物を意味していなかった。」

これは、仏教学の大御所、中村元先生の論文である(「釈尊を拒む仏教」)。まさに「目から鱗」であった。かいつまんで、要約してみた。

①仏教とは「ブッダとなるための教え」「ブッダの説いた教え」である。
ブッダの説いた〉とは、〈釈尊の説いたもの〉と暗黙のうちに了解されている。ブッダとは、釈尊である。しかし、釈尊だけがブッダであろうか。

②そうではない。当時は、修行を完成した人は、みんな〈ブッダ〉とよばれていた。ブッダとなることを教えた人々は当時、幾人もいた、釈尊ひとりだけではなかった。

③ジャイナの修行者も、ウパニシャッドの哲人も叙事詩に登場する仙人もみな〈ブッダ〉とよばれている。
仏典においても、他の修行者たちもブッダと称していた。最古の仏典(例えば『スッタニパータ』)によると、すぐれた修行者たちもみな〈ブッダ〉とよばれている。

ブッダとなるための教えは、釈尊が説いた教え以外にもあった。ただそれらは、後代のインドに「仏教」としては伝えられなかっただけである。

⑤異端者デーヴァダッタ(提婆達多)はこの視点から再評価さるべきである。

⑥かれはブッダとなることを教えていた。その意味でかれは仏教者である。当時〈ブッダ〉とよばれていた多くの思想家・宗教者の中では、かれが最も釈尊に近い人であった。それなのに、かれは仏典においては極悪人として扱われている。どうしてか?

⑦デーヴァダッタは立派な修行者と認められていたからこそ、多数の信徒を得ていた。けれども、デーヴァダッタは教団に封する忠誠心が無かったために、五逆罪を犯した最大の悪人とされてしまったのだ。仏典においてデーヴァダッタに対して向けられている嫌悪は異常であり、ほとんど病的でさえある。何故このような憎悪が成立したか?

⑧ナンダ王朝からマウリヤ王朝にかけてインド全体が統一されるにつれて仏教教団は大発展をとげた。アショーカ王は教団の分裂を恐れていた。大教団が一つにまとまるためには、シンボルがなければならない。ゆえに、釈尊のすがたは急速に神格化、巨大化される。仏教は〈釈尊教〉とでもよばるべき性格を強くしていった。

⑨〈釈尊教〉の性格が強まるとともに、他のブッダたちは抹殺されるか、地位を低められた。ブッダとは釈尊ただひとりと考えるようになった。釈尊を神格化するとなると、かれに対抗したデーヴァダッタはますます悪人とみなされるようになった。

釈尊を拒む仏教徒、すなわちデーヴァダッタの徒衆は西暦四世紀頃まで存続していた。法顕は5世紀にネパール国境近くでデーヴァダッタ派の教団に遭遇したと『仏国記』に記している。

詳しくは中村先生の論文。
1968年12月25日に『印度學佛教學研究』17巻1号に掲載され、2010年3月9日に公開された。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/17/1/17_1_7/_article/-char/ja/