「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その7

この時期に平家方は何故屋島を手薄にしてまで、河野通信を討伐しなければならなかったのか。屋島が手薄という義経に取って願っても無い状況が、タイミングよく生まれたのは偶然だったのだろうか。
平家物語は通信がめ召しても来なかったから討伐軍を派遣したと記している。四国の武士達で屋島に行かなかったのは河野氏だけではない。それなのに何故河野氏だけを、しかも平家物語によると、屋島の総兵力の6割もの大軍を動員しているが、何故そこまでして討たねばならなかったのか。これには余程の事情があった筈である。
河野氏史書「水里玄義」や「予陽河野家譜」などに田内勢との合戦が記されているので、それらを参照すると、平家を烏帽子親とする平家の御家人高市氏を通信が攻め、高市氏の鴛小山城(現伊予市)を陥とし、屋島から発向してきた田内勢を比志城(現大洲城)に迎え撃ち、5日間の激戦の末に撃退したと言う。なお、比志城の合戦の前に通信の伯父福良新三郎通豊が途中で田内勢迎え討って戦死している。この記述は通信が高市氏を攻めたので、田内勢が救援に来て、それと通信が戦ったかのように見える。ところが高市氏を攻めたのが1月16日、通豊の討死が22日、比志城の戦いが25日から5日間と記されている。これから勘定すると、田内勢は鴛小山城が攻められる前に既に出発していたことになり、河野氏を討伐を決意させた何かが、これ以前に起きていたはずである。
当時高市氏は国府(今の今治市)の近くの高市郷と伊予市と、所領を二箇所持っていた。これ以降は全くの推測であるが、通信は高市郷を先に攻めたのではなかろうか。高市氏は平家の御家人であるので見捨てるわけに行かず、更に通信に国府一帯を抑えられては芸予諸島も河野水軍に支配される惧れもある。この事態は平家にとっては脅威であり、放置するわけに行かない。そこで脅威の元凶である河野通信の討伐を決意したのではなかろうか。
河野氏側から考えると、高市氏を攻め国府一帯を抑えようとすれば当然平家が通信を討とうとすることは予想できる筈であり、現に田内勢三千が発向して来た。先に述べたように河野氏が単独で平家と戦う力は無いにも拘わらず、このような危険を冒すにはそれなりの狙いと収拾策が無ければならない。それは義経と示し合わせた陽動作戦であり、うまく平家軍が出て来たらその隙に義経屋島を攻めると言う作戦だった可能性が浮かんで来る。
このように考えると屋島が手薄だったのは偶然ではなく、義経が仕組んだ作戦に平家方がまんまと引っ掛かったことになる。そして義経が僅かな兵力で荒れる海を強行渡海したのは、折角うまく運んでいた作戦が、仕上げの段階で嵐により台無しになるのを救うための非常手段であったことになる。

「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その8

平家物語吾妻鏡も伊予における合戦について何も記していないが、田内左衛門尉が屋島への帰還に際し、討ち取った首を先に送り、首実検をしたとの記述があるので、伊予において相当な合戦があったことは事実と見て間違いない。
この記述で疑問に思うのは、首実権が2月19日で、義経の攻撃が始まった日であるが、平家方は義経が迫っているのをまだ気が付いていないのか、田内勢の帰還を急ぐよう指令した形跡が窺えないことである。結局田内勢は合戦に間に合わず、21日に戻りはしたものの屋島は既に陥落した後で、義経の命を受けた伊勢三郎の口車に騙されて降伏してしまった。平家方の状況把握力と情報収集力の弱さをここでも感じる。
このように見て行くと、河野通信は何らかの陽動作戦で平家軍を屋島から引き出し、義経屋島攻撃に際してその平家軍を最後まで屋島から分断しておく役割を果たしたと言える。つまり、義経が勝てる状況を作り出したのは通信であり、義経勝利の陰の演出者が通信であった。戦後河野氏が功績を高く評価され、西国武士の中でただ一人守護に準じる地位を与えられたのは、屋島合戦における貢献によるものではなかったか。

「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その9

以上述べたように河野氏は壇の浦合戦の時寝返ったのではなく、最初から旗色鮮明に反平氏で戦い、源氏の勝利に大きく貢献した。先に紹介した屋島合戦に関する平家物語吾妻鏡の記述に気が付かないのか無視したのか知らないが、天下のNHKが教養番組である「その時歴史は動いた」の中で、史実と全く違うことを平気で語る無神経さに憤りを感じる。その責任は重い。宮尾登美子氏も歴史を見る目を持っていないと断ぜざるを得ない。
吉川英治氏は「新平家物語」の中で、通信から田内勢が出て来たとの連絡を受け、でかしたと誉めそやしたと書いていると聞く。平家物語吾妻鏡の記述から肝腎なポイントにきちんと注目している証拠であり、流石と言うべきである。
述べたいことはまだあるが、屋島合戦に関する私見はここで一先ず終わりとする。