移転→はてなダイアリー更新停止のお知らせ

最後の告知上げ。これで気付いて貰えるといいんですが。


実質はてなダイアリーを直リンクしていないと見れないこの日記ですが、せっかく更新するので、何か書いておきましょうか。


最近ちょっと笑った検索ワードです。


ストリートには が一杯だ


残念ながらストリートには彼と同じ検索ワードで検索する奴が一杯だ、とはいかなかったようで。何を探していたのか、ちょっと気になりますね。

移転→はてなダイアリー更新停止のお知らせ


しばらく告知のために上げます。あしからず。


TMGの"Oh JAPAN"はIt's Aliveの"Sing The Blues"に激似

多分リアクションが取れる人の数が物凄く限られるんでしょうが、ものすごいツボに嵌った。確かにそうだ。


...これがラスト更新なのかよ。


あ、そうか。今このページはアンテナじゃ上がるけど、実質見れないのか...。更新しても意味ねえんだな。

移転→はてなダイアリー更新停止のお知らせ


時計仕掛けのグランジの1コンテンツとして、主に音楽言及以外の日記更新用として利用してきた当はてなダイアリーですが、本サイト時計仕掛けのグランジMovable Typeを導入しましたので、本日で更新を停止することになりました。


これまでこちらで書いてきたような文章は、今後全て時計仕掛けのグランジのトップページで音楽レビュウと並存する形で書き続けていきます。


お手数ですが、こちらをブックマークやアンテナに登録されている方は変更していただけると助かります。また、更新チェック用のhttp://969work.com/dust/というURLも今後機能しなくなりますので、同じくアンテナ登録されている方は変更、或いは削除してください。


参考までに、該当はてなアンテナ一覧
はてなダイアリー - A CLOCKWORK GRUNGEを含む公開アンテナ
&
時計仕掛けのグランジを含む公開アンテナ


殆どの方がトップページをアンテナに登録しているから少ないのかと思ったら結構ありますね。公開で合計60アンテナぐらいですか。お手数かけてすみません。


Movable Typeになっても更新内容などは何も変わりません。新しいおもちゃを手に入れて浮かれているのと、全てブラウザ上で調整できるようになって更新が手軽になったので、ある程度更新頻度は上がると思います。今後とも、よろしく。


ところで、僕スタイルシートとか何もわからなくて、Movable Typeの設定も滅茶苦茶適当です。雰囲気で色々はりつけただけ。動作確認もロクにしていないので、「ここおかしいよ」みたいな箇所がありましたら、どんどん指摘してやってください。


まあ、毎度言ってることだけど、直せるとこと直せないとこがあるけどね。直せる技術がありゃ最初からそう作ってるし。

僕たちとは僕を含まない他人である


あの、大体わかると思うんですけど、僕は上述したような状況になると本気でこれっぽっちも信じているわけではありません。


なんかね、CCCD問題も同じなんですが、「僕たちは許容しない」「僕たちは買いません」「俺たち消費者を舐めるな」と言い切ってしまえばそれで良し、みたいな風潮に(批判するつもりは全くないですが)多少違和感を覚えたもので。某悲観論のパロディにしてみました。


修辞法の有名なエピソードに「『我々』とは論者を含まない他人を指す主語である」というのがありまして、音楽みたいなプライベートな問題には特にこれを感じるんですよね。本当にCCCD買わないで我慢できるの?もう買っちゃったんじゃないの?音楽好きだからこそCCCDで出た音源我慢できずに買っちゃうんじゃねえの?って方向で。


僕も最初は「買わねー」とか思ってたけど、結局買っちゃいましたしね。俺やっぱ音楽業界や消費者の未来より自分のCD棚や聴きたい欲求を満たすのが優先だったわー、みたいな。すげえ受身。


まあ、万が一上述したような状況になったら、僕は瓦礫の中から音楽を再発見しますけどね。郊外のレコード店でBOXセット買って、子供のおもちゃやら奥さんの下着といった瓦礫の中から埋もれたレコードを探し出して再発見!


やばいほど素敵に受身すぎる。俺やっぱ自分が何もしなくても黙って聴いてられるから音楽好きなんだなあ。みんなで声を挙げてCCCD輸入権問題に反対しようとか、無理すぎる。だってリスナーだもん、スピーカーじゃねえもん。


以上、活動内容には全面的に賛成していますが、この種の問題に強硬に反発していらっしゃる方に「我々リスナーは」と連呼されるとちょっと無理矢理同化させられたみたいで気持ち悪いなあというお話でした。


やってることは別に批判するつもりないんだよね。でも高遠さんに「日本国民を代表して」とか言われるとやっぱ腹立つ。谷啓に似てるし、今日からお前のあだ名はクレイジーキャッツ。決定。

そして瓦礫の中で、僕たちは音楽を再び発見するだろう


レコード輸入権の問題を取り上げているサイトを良く見るので、一応音楽サイトとして僕も尻馬に乗ってみる。


単純な感想として、現在のCDは安すぎる、と感じている。


これは他国との比較ではなく、個人的な金銭感覚の話だ。だからといって幾ら値上げして貰っても構わないよ、というわけでは勿論ないけれど、国内盤の価格が1枚4000円均一になって、安価な輸入盤が一切国内に流通しなくなっても、僕はおそらく今と同じペースでCDを買うだろう。今まで購入してきた音源にそれだけの価値を感じているからである。


金銭感覚というのはプライベートな問題だから、ここで今回の法案に反対している人や「1600円でも高いよ!」と感じている人に対してコメントするのは避けたい。賛否どちらなんだと言われたら「容認だ」と答える形で、他人に干渉しないイメージ。グランジ世代ですから。


レコード業界の企業努力が云々といった話も、CCCD問題が絡んだりして収拾がつかなくなるので、ひとまず措く。諸外国にもある法律だという言い分には「じゃあそれを諸外国には無い再販制度と併用するのはどうなのよ」という疑問を覚えなくもないけれど、とにかくひとまず措く。


その代わりといってはなんだが、少し思い出話をしたい。


初めて外資系のレコード店が大都市圏に進出してきた頃の話だ。国内盤の概念を超えた安価な輸入盤は、まさに事件だった。全国津々浦々に存在した品揃えの悪い個人商店的レコード店が軒並み姿を消して、「まとめ買い」という概念が一般化して、「渋谷系」に代表されるような、安価で手に入れた膨大な音源で音楽武装した世代が音楽の作り手として登場した。あれは一種のカルチャー革命だったんだろう。


ただ、「安価で良いものが大量に手に入る」とだけ言えば聞こえはいいが、色々問題もあったように思う。


情報量が増えた結果として、必然的に商品のサイクルは短くなる。昔に比べてヒット曲のサイクルは短くなったし、音楽を「持てる者」と「持たない者」の格差が広がって、かつて国民愛唱歌として存在した歌謡曲は、凄まじい周期で入れ替わる流行りモノに敏感な、若者だけのJ-POP文化へと変遷していく。


当たり前の話だが、大人より若者のほうが貧乏である。外資レコード店の登場が全ての原因だとはとても思えないが、音楽市場がその主購買層を若者に定めてしまった時点で、今日の音楽不況は予定されたシナリオだったんじゃないだろうか。景気の動向や企業努力の欠如なんて、ちょっとした変数みたいなものだ。


シーズン毎に少しずつ価格を下げたり色のバリエーションを増やしたりするだけで、ユニクロのフリースが永遠に毎年800万着ずつ売れると信じる人はいないだろう。根っこは同じである。


それでは、仮に日本国内で安価な輸入盤が一切流通しなくなったら、どんな文化的未来が待っているのか、少し極端な想像してみよう。


首都圏の外資レコード店は壊滅的な打撃を受ける、とする。デートの途中でCDをまとめ買い、も難しい。2500円や3000円もするアルバムをまとめて何枚も買う男を見れば「そんな金あるんだったら今日のディナーかホテル代奢れよ」と愚痴のひとつも言いたくなるのが自然な流れだろう。


必然的に、レコード店は郊外へ移動する。流行に敏感な若者よりも金銭面で余裕のある、日曜日の子供連れにBOXセットを売りつける商法へのシフトチェンジ。買い物付き合うからさ、そこでおもちゃ見てていいから、パパちょっとあそこでCD探してくるな。


新しいものが売れる、という図式も、変わってくるかも知れない。レコード店が店頭に有名どころの新譜を積み上げるのは、単純に限られた店舗スペースの中で、いつ売れるかわからない旧譜を200種類揃えるよりも、浜崎あゆみを50枚在庫したほうが売れる確率が高いからだ。いや、高いと信じられてきたからだ。


郊外に移転すると、テナント料の問題などは多少制限が少なくなる。「話題の新譜」や「初動枚数」の金メッキは既に剥がれているし、価格が上って購買層が変われば、品揃えに対する考え方にも変化が生まれるのかも知れない。


音楽に関係なく、今後貧富の格差はますます拡大していくのだろうから、大都市圏の中心部では、逆に音楽が消えていくはずだ。外資レコード店が消え、カラオケが消え、大きなライブハウスが消え、J-POPを流せなくなったファーストフード店からスピーカーが消える。


但し、無音にはならない。垂れ流される受動的な音楽が消えたとき、僕たちはそれを能動的な音楽で補おうとするからだ。


スラム化した都市の、不法滞在外国人の壊れたラジオから聴こえるサンバに、焼肉店から漏れ聴こえるK-POPと中華ロック、そして日本に見切りをつけてタイやマレーシアで成功した日本人ディーバの逆輸入ポップス。そしてサイレンと怒号と銃声のミックス。


そこから生まれてくる音楽がヒップホップなのか、ロックなのか、それともまだ我々が知らない新しいジャンルの音楽なのか。僕には良くわからない。だけど、安価なCDで消費者を飼い慣らしていた世界が崩壊したあと、間違いなく消費者は音楽の生産者として再生する。


そして瓦礫の中で、僕たちは音楽を再び発見するだろう。

インターネットで今誰が対決しているのか


半年ぶりにLINK更新しました。リンク切れになっていたところを削除して、新しいところを幾つか加えたり。もう少し継続的に整理していきます。


僕がLINK更新をさぼっていた6ヶ月間というのはまさにBLOGという形態が日本のインターネット世界に普及した時期であったようで、今回整理した中にもBLOGに移行したサイトや、もっと手軽なはてなダイアリーに更新の主体を移して本家は跡地のみ、みたいなサイトも結構ありました。


元々この『時計仕掛けのグランジ』もBLOGっぽくしたくて始めたサイトです。2002年、まだBLOGが余り一般化してなかった時期に、なんとなく海外のサイトをみていて「あ、こういう気軽に全記事にコメントできるようなサイトいいな」と思ったものの、どうやって作ればいいのかわからなくて、無理矢理掲示スクリプトを組み合わせて作ったのがこのサイトですから。


それじゃあ今ならMovable Typeとかに移行すりゃ良いじゃねえかって話ですよね。時間ができたらやります。今年の課題。


しかし、はてなダイアリーやBLOGがポピュラーになって以来、音楽レビューを書くサイトが本当に増えましたね。はてなダイアリーだとキーワード機能があるので、関連サイトを見付け易いってのもありますけど、昔に比べて自分が興味を持っているアーティストのレビューに辿り着くまでのストレスが非常に軽減されたように思います。


僕がネットをはじめた99年頃なんて、本当に酷かったんだから。アーティスト名で検索すると、「僕のCD棚紹介」みたいなページが沢山ヒットしてね。あれは一体なぜ流行っていたのか良くわからないんですが、そのサイトの管理人が持ってるアルバムのリストががーって出てくんの。で、アルバムタイトルとアーティスト名以外に何の情報も無し。ダイヤルアップで苦労して繋いだ挙句にこれかよ!何の参考にもならねえよ!みたいなケースが良くありました。


でもなんだろう。余り年寄りくさいコメントは避けたいんだけど、情報とツールが充実しはじめた一方で、その後ろにある書き手の個性とか書き手の影響力みたいなものが逆にどんどん薄くなってきているような危惧を持っているのも事実です。


僕が969work.comのトップページに固執して、はてなダイアリーでは絶対に音楽レビューめいたことを書かないのも、ここに理由があります。もうちょっと詳しく説明しますので、少しだけ旧世代の戯言に付き合ってくださいよ。


テキストサイト華やかなりし頃、隆盛を極めた(と僕が自分が属していた狭いネットコミュニティの中で勝手に傾向として感じていた)のが所謂「メンタル系」と評されるようなサイトでした。書き手が日々の葛藤をネガティヴな部分多めで赤裸々に綴っちゃう系のサイト。


この種のサイトは大体が「寂しい!誰か構って!理解して!」という共有願望と「私は特別!誰にも理解できるわけない!だって○○占いでもあなたは変わり者って書いてあるもの!」という孤立願望という矛盾したふたつの感情の狭間で存在していました。


個人的に、こういうサイトにおいて文章は単なる手段としてのみ利用されているという感想を持っていました。要するに、文章は(自分だけでなくネットの向こう側にいる「閲覧者」がBBSに書き込むような文章も含めて)彼・彼女にとってその日を乗り切るためのトランキライザーに過ぎず、自分を理解してくれる存在があれば、それは別に文章でなくても、彼氏や彼女でも構わない。文章は代替の利く手段であったという意味です。


恋愛の初期状態にいる人の閉鎖係数が高い、ってのが特徴、みたいな。恋人ができると急にサイト閉じちゃったり、恋人とのトラブルが原因でサイト閉じちゃったりする。書くのが目的じゃない人たち。


で、ここでは、その行為自体の善悪とか、僕の好みはさておいて、はてなダイアリーに話を戻します。


詳しい原因は良くわかりませんが、はてなダイアリーやら各種BLOGでは、どうやらこの種の躁鬱日記は書きにくいみたいです。逆に増えてきたのが、軽めのレビューを含んだ脅威のサブカルデータベース。


作成ツールを使ってhtmlファイルを転送して...といった煩雑さが無くなって更新が容易になった所為か、一日中テレビを見てなきゃとても書けないような充実したテレビ批評やら、この人は一体一ヶ月に何冊本を読んでるんだ?というようなブックレビュー、そして音源の発売翌日に大量に登場する音楽レビューと、読者としては非常にありがたい、プチレビューが増えた。この1年間で、日本語で書かれる(広義の)「批評」の数は、サイト数のそれを遥かに上回るペースで増加していったように思います。


ただ、こうなってくると、今度は批評そのものが目的から手段へと変化してしまっているように見えるのは僕が穿った物の捉え方をし過ぎているせいでしょうか。生活環境の変化もあって、僕がインターネットに向ける時間や好奇心が減った、というのも勿論個人的な事情としてあるとは思うのですが、「書き手」が印象に残るレビューが少なくなっているように感じます。


レビューは印象に残るし、参考になるんだけど、書き手の印象が薄い。かつて「自分を都合良く理解してくれるコミュニケーション」が目的で、文章を手段としてのみ利用している人たちが「物書きを目指しています」と発言する度に覚えていたのに似た違和感を、最近のレビューに覚えてみたり。


なんていえばいいのか、今度は消費が目的で、レビューが手段みたいになってるんですかね。歯止めの利かない消費生活のトランキライザーとしてレビューがある、みたいな。すみません、今背伸びしてちょっと偉そうなこと書きました。


でも絶対あると思う。「俺レビュー書いてるもん。これは消費じゃなく創造ですよ」っていう言い訳で無意識に自分を正当化してる部分が。一日中テレビ見てて学校にも行ってねえ、フリーター街道まっしぐらだけど、俺レビュー書いてるもん、これクリエイティブだもん、みたいな。


或いは毎日仕事に追われて自分は磨り減る一方で、ストレス発散についガンガンもの買っちゃうんだけど、これは浪費じゃないもん、俺レビュー書いてるもん、とか。


少なくとも僕にはそういう一面があることは否定できないです。


だから歯止めかけるためにはてなダイアリーじゃレビュー書かないの。ここだと気軽に書け過ぎちゃって本当にリミッター外れちゃいますから。「ボリュームのあるレビューをトップページに更新することしかしない!」と自分で制約を作ることで、「ほら、こんな馬鹿みたいに沢山CD買ったって、結局レビューも書けねえだろ」と消費生活にブレーキを掛けるイメージ。


今ここを見てくれてる人たちも、殆どの人はインターネットのスタートページはなんらかの検索エンジンであると思います。検索したい単語を入れると、順番を付けて、機械が勝手に有意義な情報を表示してくれる。


このことが如実に示しているように、インターネットってのは要するに格付けツール、ランキングツールなわけですよね。こんなの手垢の付いた指摘だと思いますけど、最近じゃorkutみたいに、遂に友達という生身の人間にランキングを付けるツールまで出来ちゃいました。


だからレビューってのは本当にインターネットと相性の良い存在なんだと思うんです。自分の知ってる本やら映画やら音楽やらを良いとか悪いとか星3つだとか、自分の基準で格付けするわけで。


そのこと自体はそうしたツールを開発して、馴染んでしまった人間の宿命ということで、批判しても仕方ないなと思うんだけど、でも個人個人がどこかでやっぱ歯止めをかけていかなきゃいけないのかな。少なくとも、僕は今後もゆっくりゆっくりレビューを更新していこうと思います。消費ベースではなく、感情ベースで。


だって、なんか寂しいじゃないですか。昔のメンタル系サイトとか、確かに鬱陶しい部分も多々あったけど、あそこにあったのは作者vs読者の二項対立ですもんね。今の(うちのサイトも含めた)レビュー氾濫の裏にあるのは、消費財vs読者の二項対立ですよ。もっと極論すれば、消費財vs消費願望の二項対立。いや、ここまで来ると何も対立してねえな。寧ろハーモニーじゃん?


「人」が。其処には圧倒的に「人」という存在が希薄じゃないですか。そんな未来は真っ平ごめんだよ。

鬼庭左月って役だった


いかりや長介死去のニュースは事実を知った後、色々なサイトでエピソードやら経歴を読み流してるうちに少し目頭が熱くなりました。僕は77年生まれで、恐らく最後の最後のドリフ世代なんですが(8歳のときに番組終了。でも不思議とリアルタイムで見た記憶が結構ある)、俳優業へと活動の場を移してすぐの頃のいかりや長介が印象に残っています。


最近何かと話題の渡辺謙が主演していたNHK大河ドラマ独眼竜政宗」に、いかりや長介も出演していました。おばあちゃん子だった僕は祖母の横でこの頃の大河ドラマを全部見ていたんですけど、いかりや長介伊達政宗を支える老臣みたいな役でね。なんか途中で政宗を庇って討死するストーリーだった気がする。


幼心に「いかりや長介=ドリフターズ」という図式はしっかり刷り込まれていたらしく、「おいおい、この人は人を笑わせる役じゃねえのかよ、死ぬのかよ」と動揺したのを覚えています。あの頃はドラマの中で敵に切られた挙句にうちの祖母にまで「この人はドラマに出られる顔とちゃうねえ」と切り捨てられていた長さんですが、その後はどんどん味が出てハリウッドで言うところのモーガン・フリーマンみたいな使い方をされる俳優になりました。僕より下の年齢層になると、完全に俳優としての認知なのかも知れません。


それにしても最高視聴率が50%超、13年間の平均視聴率が30%というのは化け物ですよね。この間最終回を迎えた「白い巨塔」が38%でニュースになってましたけど、いくら時代が違うとはいえ、毎週土曜日にそれと同じ数字を軽々叩き出していたわけで。まさに一時代が終わった観があります。


少し話が飛んで、「白い巨塔」といえば山崎豊子ですが、昔聞いた話が本当ならば、うちの母親は一時期この人のアシスタントのようなことをしていたらしいです。母親が学生のときですから、もう遥か昔の話ですが、当時山崎豊子に「アシスタントを取るなら母校から」という希望があって、大学内だか何かに募集が出ていたのに応募した、という話を聞いたことがあります。山崎豊子は無茶苦茶性格が悪くて全くそりが合わず、こき使われた挙句に胃を壊してすぐ辞めたらしいですが。


白い巨塔だかなんだか知らないけど、あの主人公の医者より山崎豊子のほうが嫌な奴だよ」といったふうなことを、普段余り人の悪口を云わない母が何度も僕に云うので、この話は覚えてしまいました。どうもうちの家系は一度嫌いになったものを偏執的なまでに嫌い抜いて他人に広めて回る質があるらしく、母の母である前出の祖母も、終生「アンチ・アメリカ」を貫いて往きました。


彼女の実家は捕鯨が盛んであった和歌山の大島にあって、網元であったのに捕鯨が規制されたのをきっかけに家産が傾いてしまったので、「昔は捕鯨目的で日本に開国を迫ったくせしやがって、捕鯨自粛とはなにごとだ」ということであったようです。まあ、何時代の話だよという感じですけれど。テレビにアメリカ人が映るとパチンとスイッチを切ってしまう徹底ぶり。


しかし、そんな祖母の一番の好物はピーナッツバターでした。輸入物(もちろんアメリカ産)の、あの口の中の水分を全部持って行ってしまうようなピーナッツバターを、毎朝パンにたっぷりと塗りたくっては、「これを考えた人は偉いねえ」と呟く自己矛盾。僕の家族は皆、祖母に「アメリカ人が考えたんだよ」と言う事を我慢することでやさしさを磨きました。或いは、口の中にピーナッツバターが詰まっていて、ツッコミを入れる水分が無かったのかも知れない。


いかりや長介から僕の祖母まで、随分話が飛びましたが、僕が今日いちばん書きたかったのは、つい今しがた気が付いた衝撃の事実として、うちの祖母はいかりや長介に似ていたということです。もう亡くなって5年になりますが、生まれてこのかたずっと誰かに似ている似ていると思ってきました。それがわからなかった。今日、日記書いてて気づいた。長さんだ。そっくりだわ。


これは非常に重大かつ致命的な発見であって、今はまだ大丈夫ですが、多分あと5年くらいすると、僕の中で祖母の顔の記憶が薄らいで、「おばあちゃん」をイメージした瞬間、僕の頭の中にはいかりや長介の顔が浮かぶに違いないわけです。えらいことです。とんだことに気が付いてしまいました。


や、今もダメだ。さっきから長さんの顔しか浮かんでこない。ダメだ、こりゃ。