ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

昨日の続きをもう少し...

昨日のブログでは、途中切れになりましたが、エジプト系アメリカ人の元ムスリムキリスト教伝道者によるいささか古い著作(1983/1991)に言及しました。
念のためお断りいたしますが、アメリカのみならず日本でも、キリスト教関係の各種雑誌や本などを通して、共産圏の事情も含めて、私の学生時代(1980年代)から類似の話をちらほら見かけていたので、その意味では、特に目新しい情報が含まれているわけではありません。重要なのは、アメリカに移住したエジプト系移民が、ムスリムのままでいるか、それともキリスト教に改宗したかによって、出身地のアラブ・イスラーム地域社会をどのように語るか、または語らないか、という「語りの態度」に相違が見られるかどうかではないかと思われます。そして、「語りの内容」について、どちらの言い分が事実をより正確に表明しているかということも、より大切なポイントです。
今朝のグーグル・アラートで届いたニュースによれば、最近では、アラブ諸国イスラエル国内でキリスト教に改宗する人々が増大し、川で集団洗礼を受ける映像まで流れていました。この話も、どこまで本当かは別として、かなり前から見聞していたものです。信教の自由の原則から言えば、「夢の中にイエスが現れたのでキリスト教を信じるようになった」という話そのものも、それがキリスト教のすべてだと即断さえしなければ、その人自身の選択を尊重すべきであろうと思います。また、キリスト教改宗によって、従来持っていた恐怖心や束縛から解放され、その結果、他者に危害を与えず、平和友好的に人生を送れるようになるのであれば、大変結構なことです。
問題は、そういう人々を処罰や憎悪や国外追放の対象にしようとする勢力とどのように向き合うべきなのかです。残念ながら、私自身、当面さしたる回答を持っているわけではありません。
これまでの私の限られた経験で言えば、日本国内の研究者の中には、ムスリムでもないのに代替的意見の提出者としてなのか、ムスリム側の主張に乗っかってムスリムと似たような態度や発言をする人が皆無ではありませんでした。特に、自分がクリスチャンであると名乗りながら、「私はリベラルなので正統派ムスリムとの共存には何ら問題はなく、仲良くやっています。問題は、ブッシュ政権であり、ネオコンであり、ブッシュを支持するエバンジェリカルのクリスチャンにあります」と言わんばかりの態度をとる研究者には、その人の知的および人格的な誠実さを疑う気持ちがわき起こってきました。自分と相手が背景も見解も異なるという事実を認め、安易に妥協しないで自己を保ちながら相互理解を探っていく過程が仕事なのに、どちらかの勢力に加担したり調子を合わせたりすることで、他者を責めるかのようなやり方は、より問題を複雑にし、解決の道を遠ざけるだけで、学術研究者としてはいかがなものかと思います。
さて、昨夕は、Jessica Stern氏に関して、非常に参考になるインタビューの文字起こしをインターネットで見つけました。“Booknotes”(http://www.booknotes.org/Transcript/?ProgramID=1749)で、計18ページにも及ぶ書籍紹介の対談です。この著者への直撃公開インタビューのよいところは、インタビュアが実に細部まで著者の本を読んでいて、鋭く問いかけをしている点です。例えば、私もよくわからなかったエピソードの箇所についても、直球で「これは、どういう意味ですか」と尋ねて、著者に説明させたり、いかにも宣伝めいた文句の箇所には、「そこは、あなたが書いたんじゃないんでしょうね」と確認し、時事的な話題でもあるために、「最後にこの本に手を入れたのは何月でしたか」「そこではあなたは一人じゃなかったでしょう?一緒に行った人の夫は、実はこの本の編集者の一人でしたね」「ここに書かれた名前を発音しますが、それでいいですか」「ここに出てくる人は今は亡くなっていますね」などと、著者の人となりや書かれた内容の事実性を確認するような演出(?)なのです。読んでいて実に爽快でしたし、手法が勉強になりました。
日本の場合、話題作の著者をどこかムード的に持ち上げたり、水面下の打ち合わせで口裏を合わせているのが透けて見えるようなものだったり、あるいは内向きのオルグ集団内でしか通用しないような話になっていたり、異なる主張の人をあげつらってみたり、自分が確かに読んだことを誇示するかのようなどうでもいい箇所をあえて批判してみたり(それは、著者に直接問えばよいことなのに)、読ませたいのか読ませたくないのか、わからなくなるような書評が、時々目立つからです。
そういう話をしたところ、主人が言いました。「アメリカに留学していた時、教科書は日本の本の何倍もの厚さで、本当に丁寧に誰にでもわかるように書かれていたけど、日本の場合、本は薄いものの、‘行間を読め’‘わからないところは自分で考えろ’と言いたげな書き方だったなあ」と。そう言われてみれば、英語やドイツ語のテキストでも、日本の先生が書いたものは、いきなりレベルががぐんと上がるというのか、「やる気のある人だけついてきなさい」という感じで、本国の出版テキストは、当たり前と思うようなこともわざわざ指示が書かれていて易しいな、というイメージだったのを思い出しました。
話を対談に戻しますと、印象的だったのは、やはりStern氏の率直さと平明な語りです。
「(テロリストと会談するフィールド)では、恐ろしさを感じなかったとは言えません」「イスラーム系テロリストがユダヤ人を憎む理由は、珍奇だと思いました。ユダヤ人に会ったこともないのに憎むなんて。アメリカのネオ・ナチのサイトから事例をとっていたんです。ユダヤ人が世界をコントロールしているとは、明らかにあまりにも大袈裟過ぎます。でもそれは珍しくもありません」「ハマスの低下に最もよい方法は、パレスチナ人に広めている神話に焦点を当てることです」「インタビューの後で、イスラーム改宗するよう何度も誘われました」「私は世俗的な家庭で育ちました。宗教的なユダヤ系ではなくとも、典型的なユダヤの価値文化を感じながら育ったので、宗教とは人をよくするものだという偏った見方を持っていたんです。特に、ユダヤ系祖母の親しい友人関係から、子どもの頃、カトリック修道院の修道女と過ごすのがとても心地よかったのです」「いつでも極めて注意深くしていましたが、女性なのでかなり安全でした」「ハーバードでは、サミュエル・ハンチントン教授や神学部教授と共同で、講座を受け持っています」「私にとっては、テロリストとの面談は、とても難しいことでした。最初はとても驚き、疲れました。どうしてこんなに疲れるのか、自分でも当惑しました。2時間の会話で、どうしてかわかりませんが、床に寝なければならないほど、ノックアウトされていたんです」「今後は、9.11後の恐れについて本が書ければと思っています」